怒りは、恐れからくる。
ちっちゃなイライラも、ぶっ殺す!と言う爆発するような怒りも、
言葉が違うから違うように感じるだけで、みな同じ。
恐る何かがあって、その恐れを払拭させるために攻撃という怒りを持つ。
恐る理由は言葉。
これはいけません。
という法則(言葉)があり、
その法則にのっとって、正しい間違っているを定め、
「これはいけないことをしているのだわ!」と判断し、
その間違ったことをしている人を怒るのだ。
それは人はもちろん自分にも当てはまる。
これはいけませんを自分に当てはめ、自分は間違ったことをしている!と判断し、
「いけないわ。いけないわ。私、ああなんてことを。。。ぶっ殺す!」となる。(これ、私のパターン)
例えば、家トイレ、立つか座るか問題。
旦那が家で便座トイレでおしっこするとき、立ってするのか、
座ってるべきかという重要な問題である。
なぜなら立ってすると、尿が便器および床に飛び散るからである。
女性は常に座るので、尿が床に飛び散ることはおろか便器の縁に飛び散ることもない。
だからトイレ掃除に理不尽さを感じるのは女性ではなかろうか。
「私が汚くしてるんじゃないのよ!」と。
この小さなイライラは、旦那がそれに対して知らんぷりしてきた時点で、「ぶっ殺す!」となる。
さてこの怒りは、恐れから来るのか?
はい。
もしトイレが汚いことがいけないことだと教わっていなかったら、
汚いことが気になりません。
そもそも汚いという言葉さえも浮かびません。
そしてそこにバイ菌くんという恐ろしいキャラクターが登場。
バイ菌くんは繁殖する。バイ菌くんは病気を連れてくる。
イメージしただけで、恐れ震え上がります。
そんなことをヘーキでしでかす旦那に怒りを覚えます。
「ぶっ殺す!」
このように、恐れは言葉/思考/法則からくる。
こうなってはいけない。こうであるべき。
だからそうならないように、ああしてこうして。。
その法則が実は私たちをがんじがらめに縛る。
これが互いに攻撃を仕掛けるきっかけになっている。
だがこの世界にお互いが納得のいく形はない。
どこかで妥協しながら、心がチクリとしながら、だましだまし生きているのだ。
そんな生活に疲れが出てきたなら、
その法則は絶対的なものなのかと疑ってみる。
本当にバイ菌がない方がいいのか?
そもそもそれは本当にバイ菌なのか?
人の体から出た瞬間、汚いものというその法律はどこから来たのか。
つばもしかり。
そのほんの数秒前は、自分の体の中にあったのに。
ひょっとしたら、それを「知った」から怖くなってるとしたら?
私はバイ菌がなんであるかを知っている!
と思うから、恐れがやってきて怒りに変わるのでは。
形の世界は、自我が作り上げた信念によって見えている。
恐れを見出すために。
お互いがずっと分裂していようとするために。
戦い合わせるために。
その恐れのベクトルを真逆に向ける。
自分が知っていると思っている世界のあらゆることについて、
知っていると思っていることをやめていくのだ。
自分がなんなのか、何をしているのか、どこへいくのか、
世界をどう見たらいいのか、さっぱりわかりません。
というのは、
この世界に救済を求めることをやめること。
ここは救済などしてはくれない。むしろ恐れを助長するだけだった。
そうやってがんじがらめの法則から少しづつ後ろに下がっていくと、
だんだんと自分が犠牲者じゃないとわかってくる。
恐れが緩み始める。
この世界が動かしがたい重いものではなくなっていく。
怒りが、消えていく。
バイ菌とまではいかないけど、私の石鹸なし生活。
いまだに続いているからもう13年かあ。
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