2017年10月29日日曜日

あなたはなにもまちがっていない


3日前の夜、小学生だったころの私を思いだしていた。
2、3年生ころの私。

記憶の中の「私」は、母が作ってくれた黄色いワンピースを着て、家の門の前でしゃがんでいた。
その顔は哀しげだ。母に怒られてどうしていいかわからず、家を飛び出したはいいがどこにも行けず、門の前で泣いていた。

動かない写真での顔の記憶はあったが、その姿が動き始めた瞬間、その存在が苦しくなるほど愛おしくなった。

私はそばに寄って、しゃがんでいる幼い私を抱きしめた。

ビックリした顔が見上げた。その顔を覆うようにして、私はグッと抱きしめる。
「だいじょうぶだよ。。。だいじょうぶ。。」
言葉が出て来くる。
「今は辛いかもしれない。けど大人になったあなたはこんなに才能ある存在になったよ。心配しないで。あなたは何も悪くない。あなたは何もまちがっていない。。。」

布団の上で座る私のほおを涙がつたった。

そのとき、幼い頃ふいにやって来る安堵、やさしい雰囲気、温かい愛情のようなものの気配があったのをおもいだした。

それは今、私がこうやって彼女を抱きしめているからではないのか?50年のときを隔てて訪れた、未来の私からのおもいだったのか?

そんな絵物語のような事を考えた。



それから、思いだしては、彼女を抱きしめている。
私を見つけると、向こうからしがみついてくる。見上げてくる心細そうな顔。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ。あなたはなにもまちがっていない」

彼女の体温と私の体温が一緒になる。
いつのまにか彼女は消えている。
ただ、そこにふんわりと漂う空気がある。

過去の彼女を癒す。
過去の自分の哀しみが消えると、
今の自分は変化するのだろうか。

いやいや。そんなことは考えないでおこう。

今はただ、彼女と一緒にいる時間を味わおう。


絵:「COOPけんぽ」表紙イラスト
この作品を作ったときはニューヨークにいた。日本の原風景が恋しくて恋しくてたまらなかったころだ。幼いころの記憶とおもいが合体した作品。

2017年10月25日水曜日

緑色にあえた


洋紙、ファンシーペーパーを使って、絵を制作していた頃、どうしても行き詰まった色があった。

緑色だ。

どの緑色の紙を見ても、山にあるあの緑色じゃない、植物がもつ、あの緑色じゃない。。。と、いつも「うっ。。。。」と、妥協しながら緑の紙を置いていた。

それが和紙を使うようになって、やっと緑色にあえている気がしている。
私が日頃見ているあの、緑色だ。


植物が放つ色は、緑といっても、きっと光とともにある色だ。
生きている色だ。
自らが放つ色だ。
それを紙で再現するのは難しいのかもしれない。しかし和紙を何枚も重ねて、複雑な風合いにしていくうちに、かれらの色に近づいているのを感じる。
奥深い色合いになる喜びを感じる。洋紙はべたっとした色だった。それ以上でもそれ以下でもない色。


そうだ。おもいだした。
もともと美大の授業で、べた塗りがへたくそで、それがコンプレックスになって、塗るのが嫌いになってたんだ。
「あ、最初っからべた塗りされたいいヤツがあるじゃないかこれだー!」
といって、嬉々としてべた塗り洋紙を使ったんじゃなかったかい、おい。

それがいつのまにか、べた塗りキラーイの、最初に戻っただけじゃんw
何だ。もともと「べた塗りへたくそ」でよかったんじゃね?

いんやいんや。
その時代があってこその今なのだ。
嵯峨美のせんせー、ありがとー。(いやみか?)

でも最初の違和感があってこそ、「緑」にこだわった。
緑色とはなんぞや???という、奥深いところにまで意識がおよんだ。

色を塗る。
その上に薄い和紙をかける。
もう一枚別の色かける。
そうやってやるうちに、複雑な色合いになる。ホンモノの色に近づく。
そういう醍醐味が和紙にはある。

今、ちょうど山の緑は別の色に変化しようとしている。
その途中経過が、なんともいえず美しい。
雨にぬれるかれらの世界をただただながめ、目に焼き付ける。

上の絵:「アケボノソウ」/和紙、水彩、色鉛筆
友だちが撮ったアケボノソウの写真がとてもきれいで感化されて作った作品。小さな世界に宇宙があった。

下の絵:「むかご」/和紙、水彩、オイルパステル
庭の桜の木に絡み付いた山芋のつる。

2017年10月18日水曜日

黒い大地に触れて


畑で佇む。

2mの高さになったオクラを引き抜く。
大地を踏みしめる。
クモをそっとフェンスの向こうに追いやる。
大地をほぐす。
黒い土と戯れる。

わたしは、動物を擬人化した絵本が好きではない。
わたしは、植物を擬人化した絵本も好きではない。

わたしは、動物も植物も、人間とはまったく違う世界を生きているとおもう。
心があるのは人間だけだとおもう。
心がない世界は冷たいものか?
いや、むしろ逆だと思う。

かれらは個別の意識を持っていないようにおもえる。
むしろひとつの意識の中でいるようにさえおもえる。
人間の意識を越えた、とてつもない世界にかれらはいるように思える。

畑にひとりいると、そういう感覚の中に入る。
ことばにできないなにかで、満ち足りてくる。

擬人化された動物や植物たちの物語を聞いて、
幼い子供たちが、かれらを人間とおなじだとおもうことに、
どこかしのびなさを感じる。
人間の自我のレベルにおとしめられるような、窮屈さを感じる。

そんなところに、かれらはいない。


絵:「ねこじゃらし」/和紙、水彩、オイルパステル


2017年10月14日土曜日

カラダに乗る


自分の感覚だけに集中するという実験をやった。

自分が今もっているもの、それに触れている感触、触っている温度、ふわふわ、ざらざら、の、手の指に感じている触覚、立っている感じ。
そして胸の内側に何かしらある緊張感、今そこに聞こえている音、、、、、などなどに徹底的に集中してみる。

すると、心の中の「言葉」が消えていた。

いつもは、自分を罵倒する言葉があたまの中でぐるぐると繰り返し鳴り響いていたり、言葉にならない否定的な感覚や衝動が起こり続けていたのに、それがまったく消えていたんだ。

また、その感覚の中にいるとき、人と話しができづらくなった。
感覚と言葉は、違う所にある。そう感じた。

感覚は、今感じている。今にしか感じられないものだ。
しかし言葉は、今にいない。過去とつながっている。時間とつながっている。

自分の心の中で、自己嫌悪や罪悪感や自己否定が渦巻いているとき、それは言葉の渦だった。言葉にならない衝動でさえも、その根底には言葉があった。
そのとき私は今にいない。
今この言葉を書いている今も、今にいない。言葉は今にいさせてはくれない。過去を振り返りながら話しを書く。
だがそれが悪いわけではない。ただそういうもんだと知る。

感覚の中にいたとき、静けさがあった。存在だけがあった。動いている手やカラダは、ただ動き、私はそれに「乗る」。
動きはどんどん速やかになっていった。

心に「痛み」を感じたとき、そこに言葉があった。いつもの否定的な言葉だった。
知らないあいだに、言葉に乗っていたのだ。

「あ、感覚、感覚っと」
また感覚の中に入る。
言葉は消えていった。




最近、カラダに乗る事を覚えた。
私たちは、ほとんど考え事と一緒に動いている。ほんの先のことに向かって、歩いている。ドアのノブひとつ触るにも、そこに意識はない。そのドアの先にあるものに意識がむく。先へ先へと心が向かっている。
つまりほとんど心は今やっていることにないのだ。あれやったら、つぎこれ、みたいな。

わたしはちいさいとき、「のろま」といわれたので、やることなすことが遅いというレッテルを自分に張っている。だからどこか焦って行動をしている。
なので、今、動いているその先をめざさないと、とんでもなく遅くなるという怖れがあった。

しかし今はその考えを変えた。
ドアのノブを回すときは、ドアのノブを回すことに、乗る。
畑に向かうときも、心は畑に行こうとするが、歩くことに乗る。
洗濯物を畳むときは、ただ洗濯物を畳むことに乗る。

畳んだら、あれやって、これやって、、、と考えの中にいたときより、ずっと穏やかになった。
畳むことに注意を払って、畳んだあとは、その次のことが浮かぶ。
そのとき浮かんだことをする。

考えの中にいたときは、どこか苦しかった。ああ、あれもやらなくちゃ、これもまだやってない。。。ああ、やりたくない。。。というおもいで、カラダが重くなった。

ただ今やっていることに乗ると、心もカラダもシンプルになった。
きのうやった実験もその延長線上にあった。

今朝目が覚めたとき、言葉が動き始めた。
「あ、今過去にいるんだな。。」
そう気がついたとき、言葉が消えていった。



絵:絵本「The Drums of Noto Hanto」より

2017年10月12日木曜日

草のおかげ


 サンチェのわきからあっちゃこっちゃ出てくるジャガイモの葉。
ここは春にジャガイモを入れた所。
確か全部掘り起こしたはずなのに、
何で出て来るかなあ〜。

秋になって涼しくなると、猛烈に草刈りをはじめるやまんば。
いや猛烈にしたいわけじゃないけど、夏のあいだに猛烈に生い茂った植物たちをばっさばっさと切っていると、格闘してるみたくなってくるw

しぶといヤブカラシ、トゲがぴちぴち引っかかるカナムグラ、10mぐらい伸びたぶっとい葛たちが、下から生えて来たイネ科の植物やら、名前がわからないやたら種がくっつきまくる、でかい植物たちをおおいつくす。

下から刈り、上に絡まったツルたちをひっぺがし、ばったばったとなぎたおし、おおきな草の塊を作っては、フェンス向こうにぽいぽいほおり投げる。


草を刈ったあと、アブラナ科の種をバラバラとほおり投げた所。
フユナ、水菜、ルッコラ、などが芽を出し始めた。

黒足袋で草を刈ったあとの土を踏む。
足がぐーっと沈み込むほどのやわらかさ。ゴム靴では味わえない感触だ。そしてその足袋の裏を通して、土の豊かさを感じる。
山際の畑は、フェンスの端からどんどん自然に還ろうとする。
日本の自然は、放っておいたらただただ豊かになる一方だ。


人間さまの都合でああなってほしくない、こうなってほしい、という都合でいろんなものを入れるが、それがかえって自然にアンバランスを作っているように思える。そのアンバランスのおかげで、また別のものをくわえなくてはならなくなる。

一方何もしない畑は、勝手に豊かになっていく。
一見、荒れ果てた土地に見える草ぼうぼうの畑だけど、毎年土が豊かになっていくのが足の裏でわかる。草のおかげで、豊かになっていくのだ。


「土作り」とは人間が、「やった気」になれる発想だ。
ほんとは自然が勝手に土を作り、調節している。
いや、「作る」なんてこともしていないのかもしれない。
ただひょうひょうと事が動いているだけ。

そこにちょこざいな考えのやまんばがやって来て、好き勝手に種を入れる。それを自然は、
「ふん。ま、ええか。ほっといてやるか」
ってなぐあいで、あたたかく見てくれているのかもしれぬ。

かれこれ9年目の秋の畑。
だんだん豊かに育ってくれる野菜たちを、たのもしくながめる。





2017年10月11日水曜日

ニラのお礼に赤い箱


「先日のニラのお礼って、お届けもの預かってますよ」
近所のタバコ屋さんから、留守電が入っていた。

「先日のニラのお礼。。。?ニラ。。?はて。。」

やまんばはジーーーーッと考える。
ニラ誰かにあげたっけ?

やっと思いだした。
1年ほど前、タバコ屋さんに宅急便を出しに行ったら、ニラが手に入る所がないか、聞いているご夫婦がいた。

「えー。ここら辺に店は一軒しかないし、しかも今日は休みだし。。ニラ買うなら、駅の南側のスーパーに行くしかないねえ。。。」
「そーだねえ。店って言えば、そのくらいしかないしなあ。。。」と私。

「。。。。あ。。ニラだったら、ウチの畑にあるよ」
と、勝手に生えているニラを思いだす私。
スーパーから買う発想から、畑からもらう発想に転換。

「。。。いる?」
「えっ!いいんですか!?」
「勝手に生えてるだけだけど。。。。」
「ほしいです!」

何でも都心から高尾の山ん中にキャンプに来たんだが、キムチ鍋を作ろうとして、肝心のニラがないのを思いだし、焦ってここまでやって来たのだと言う。
ニラないと、キムチ鍋はできないでしょう!(ほんまかいな)

とゆーことで、2台のクルマで畑まで行く。
運の悪い事に、Uターンできるゆいいつの場所に、なぜかでっかいバイクがどかんと止めてあり、運転下手な私は思わずニラのご主人に狭い場所でのUターンを頼むなさけなさだった。でも、なんとかニラと秋の葉ものをいくらか渡せた。

まさか1年後に、そのお礼をいただくとは思いもしなかった。
律儀なお方やー。

タバコ屋さんも本当にご親切。あのニラの一件を覚えていてくれて、私とそのご夫婦のあいだをちゃんと取り持ってくれる。おまけにわざわざとどけてくれたのだ。



箱を開けると、美味しそうな焼き菓子が入っていた。
今日のおやつに頂きます。

きっと今ごろ、高尾のどこかであのご夫婦はキムチ鍋して楽しんでいるんだろうなあ。

お互い、名前の住んでいる所も知らないあいだがら。でもほんの一瞬心が通い合う。
なんか心がホクホクするね。

ありがとう。




2017年10月9日月曜日

おもひでの「カレーせん」


5時で〜す。
麦汁プッシューッ!

今日は100円ショップで買ってきた、カレーせんがおつまみ。

思いだすなあ。ちっちゃいころ。
風邪で熱だしてたらおかーちゃんが、
「なんか食べたいもんある?」
ってきくから、
「ウン。。。坂の下の駄菓子屋さんのカレー味のおせんべ、たべたい。。。」
「よっしゃ、わかった!」

かーちゃんは、カレー味のお煎餅を買ってきてくれたんだが、
なんと当たりくじを引いて、いつもの倍以上のカレーせんを紙袋いっぱいにして、もって帰って来てくれた。
「おいし〜い。。。」
熱でうなされながら食べたことを思いだす。

あれが忘れられなくて、毎朝「熱でんかな。。。」と、楽しみにするも、
いっこうに風邪も引かず、今にいたる。


2017年10月7日土曜日

期待しないぞ!と、期待するw


期待しないことを学ばされたのは、畑だとおもう。

思うように育たない、育ったかと思えば、野生動物に全部食べられる。
そういう繰り返しの中、はっとさせられることもしばしば。
あれっ、、いつのまにかこんな所でこんなに大きくなって。。いやん♥みたいな。

期待してフンフン鼻ならして頑張って育てても、ちっともおもい通りにならない野菜たち。
なのに期待もしない所で「なんじゃあこりゃあ!」と、雄叫びを上げたくなるよなよろこびをもたらす野菜たち。

この二つを見比べていると、、、、
「そーか。。なるほど。こりゃ、期待しなけりゃいいんだ。そーかそーか。わかったぞ!」
と、畑の真ん中で仁王立ちし、天下を取ったよーな気分になる。

期待する=失敗
期待しない=成功

期待すれば失敗するのだから、期待しなけりゃ成功すると思い込む。
だから、「期待しないぞ。期待しないぞ。野菜にじぇったいに期待しないぞ!」と。

でもこれ、フリ。ほんとはおもいっきり期待してるw

そーゆー心のふらちさは、この世は丸っとお見とーしなのだ。
だからチーットも育たない。

じつはこれは取引。
こうやるから、こうなれという商人的手法。お駄賃上げるから、これやっときなさいみたいな。それは相手をコントロール下におこうとする行為でもある。

そんなちょこざいな人間の行為には、自然界は「ふんっ」と、顔を背ける。

じゃあ、期待しないことをどうやってやればいーのよ!と、ぶち切れるやまんば。

「期待しない」は、「しない」ことをすることじゃない。
「しない」は、する行為をやめることじゃない。
それはただ「落ちる」もんだとおもう。
「手放し」もそうだとおもう。
手放しをするんではなく、かってに手が開いてしまうもんだとおもうんだ。

「手を開いたぞ。どうだ?どうくる?」
と言って、開いたことで、結果を待つことじゃない。


ただ落ちることに取引はない。その先の結果などかんがえもしない。見届けることもない。

そういう心の状態は、意図してできないことでもある。
それはただふいにやってくる。

けれども、それを意識することは出来るように思う。
自分の心の中に、これをすれば、ああなってほしいという取引がないかみる。すこしでもあれば、それをとりのぞくことなく、ただそれに気づく。
それのくりかえし。

畑もそうだけど、日常でも同じ。
日々の自分の行為に取引がないかみる。あっても、ただそれに気づく。おしまい。

何かの結果をつかもうとすると、何かをコントロールしようとする衝動が起こる。
つかんだものを、どうにか気に入るようにしたいと言う衝動。
それに気づく。

そして現象に任せる。
ことは勝手にやってくれる。
勝手に淡々と進んでいく。



私たちのあたまの中だけが、それに抵抗して苦しみを生んでいる。



絵:「コスモス」/coopけんぽ表紙イラスト


2017年10月5日木曜日

畑にコスモスが咲いた


畑にコスモスが咲いた。
イーカゲンな育て方なので、ナスと、キュウリと、コスモスが共存。

右下に見える黄色い花がキュウリの花。



地這いキュウリは、葉っぱの陰に隠れて、よく見ないと見落とす。あっというまに巨大なキュウリになっちゃうので、それは種取り用に黄色くなるまで放置。



ほらね。共存しちゃうと、こんな風にキュウリさんがナスの茎と支柱のあいだに挟まっちゃったまま、無理矢理育つことになる。

植物はよく見てると、だいたい南東の方向に進む。
キュウリの種を降ろした南東の方角にナスがあった。
やっぱりそっちに向かっちゃった。


畑2年目のナス。
種取り用に育つままにしておいたナスが巨大になった。茶色くなるまで置いておいたのを、種取りする。
水の中で白い実から種をほぐし出す。
なんとなーく美味しそうに見えたので、綿のようなナスの実を食べてみた。
う。。。うまい!
りんごのよーな、イチジクのよーな、フルーティで甘い味がした。


無肥料無農薬でナスを育てる関野さんの言葉をおもいだした。
「ナスは無肥料で育てると、りんごの味がします」
まさに!

このナスの種も関野さんところの種。
だんだんウチの無肥料の畑でも育ちはじめてくれている。

植物の縦横無尽さに、また感服いたしました。




2017年10月4日水曜日

さびしさもいいもんだね



秋。

夏の慌ただしさが過ぎ去って、金木犀のかおりが町を満たすころ、私の心は冬へと準備を始める。
心にすこしひんやりと、寂しさの風が吹き抜ける。大好きな金木犀と、寂しさの風。相反する感情が互いにバランスを取りながら、微妙な心を保っている。

寂しさは、心をぎゅーっとさせる。
そのぎゅーっとなる感覚が、心細くさせる。カラダもすこーし寒くなる。心はその不安定な状態からのがれようと、安心を求めて何かしようとする。
カラダをあっためようと、お茶を入れるかもしれないし、暖かい服を羽織るかもしれない。何か楽しい予定を思いだそうとして、心を暖かくさせようとするのかもしれない。

そして今朝、その寂しさの風がグッと吹き寄せた。
なにもしなかった。
心のぎゅーを感じながら、

ああ、寂しさもいいもんだな。。。
はじめてそう思えた。

ずっといやな感情を排除しようとして来た。
それがじょじょに排除ではなくなって来ている。

心の中をのぞくことは怖いことのようにおもえる。だけどじつは怖いことではないことを知る。むしろ興味深い。
この状況のとき、こういう反応と、感情と、無数の言葉を呼び起こすのだなと、自分の中でパターンを見始めるのは、自分の新たな発見だと思わないか?

寂しさもまたいいもんだね。
雨が降って来た。


絵:「山辺の道」