2022年5月28日土曜日

あなたは救世主



ある日、やまんばは怒りに狂った。


おお!ひさしぶりにきたーっ。


私は恐れているんだな。

自分のアイデンティティが崩されて、亡き者にされる。。という恐れがある。


その恐れを作ってくれた張本人へ

「ちょっとちょっと!アンタ、私を亡き者にしようっての?そうはさせないわよ!!」

と、勝手に攻撃されたと思い、猛反撃をし始める。


こうなると、思考は暴走する。

これがああなって、こうなって、そーするとああなってこうなって。。。

いやいや、そーはさせないわよ。云々カンヌン。。。。


ああ、もう仕事になんないや。


やってたことの手を止めて、

じっと心の中を見る。

もう~言葉だらけ。


私は何を恐れている?





最近、こういうことがとても大事だと思うようになった。

それは自分に徹底的に正直になること。


何を恐れて、何を嘆いて、何を怒っているのか。

それを心の中で聖霊に渡す。


「聖霊さん。

私はこう怒っています!

こう感じて恐れています!

こうなったらどうしようと恐れています!」


何を感じて、どう嘆いているのか、

そしてどんだけ恐れているのかを洗いざらい話す。


闇の中にしまっておいた自分の暗い思いを、聖霊に持ってくる。

ザンゲ室で、すべてぶちまけるみたいに。


「私はこれを聖霊さんと一緒に見たい。

聖霊さん、あなたはこれをどう見ますか?

あなたの見方を教えてください!」


はっきりとその思いを伝える。


心の中に変化が起こる。


ある時は、はっきりと潮が引くように消えていき、

ある時は、気がついたら「なんだったっけ?」と、

さっきまで爆走してたことがなんだったか忘れてしまっている。


この変化に驚く。

一体何が起こっているのだ?

私は指ひとつ動かしていない。。。





問題を見つけると、問題を外にあると思い、

その問題を外に向けて解決/行動しようとする。

それが普通だ。


でもその問題が人に向けてのものだったら、

これはそう簡単に解決できるものではない。

なぜなら人は人を変えられないからだ。


人を変えようとするのは、コントロールしようとすることになる。

それは攻撃。


攻撃とは人を敵だと思うこと。

私とあなたは違う生き物だと宣言すること。

これ分離以外の何物でもない。


分離が原因になった考えは、分離という結果しか生まない。


でもひとつだと思うこと自分とその人は同じだと思うこともできる。

ひとつであるという考えが原因であるならば、結果もまたひとつ。


実際分離とは幻想。本当は離れてなんかいない。


分離を信じる心が、分離を夢見ているのだ。




ひとつであることの象徴が聖霊。


分離の思いを聖霊のもとにさらけ出すのは、

闇を光の下にさらけ出すことである。


光の目で、その闇を見てもらう。


闇は一瞬で光に消える。



自我とともにいる心は、自分の闇をひた隠しにしようとする。


聖霊は私が隠しておきたいものを無理やり引っ張り出してくることはしない。

私がその闇を手放す意志を持つことをじっと待つ。

どれだけ優しいことか。


そうして私がひた隠しにしている闇を光の下に晒す準備ができた時、

目の前の兄弟は悪役を買って出てくれる。


そのおかげで、私は一つ軽くなっていく。


兄弟がいてくれるおかげで、私は解放されていく。


やっぱあなたは救世主だ。





絵/MF新書表紙イラスト





2022年5月24日火曜日

こんな形じゃヤダ!


形が変わってくれれば、私は安心。


どれだけその「形」にこだわってきたか。

この形じゃないといやだ!あの形になってくれないと困る!


仕事の絵、クライアントの返事、友達の反応、出費、入金、自分の体の形(ぷ)、出来事、出来事の結果、、、。


ぜんぶ形だ。


この形さえ、ああなってくれれば、ホッとする。

でそそのホッとするのもつかの間、また別の「この形じゃいやだ!」が始まる。


そうやってずっとこの世界の形を変えることにいそしんできた。

いそしんできたのよ、あたし。(いそしむ。好きだなこの響き)


実はそこじゃない。そこ目標じゃないし。そこ目指すところじゃねえし。



私は罪を探していたんだ。

罪を探して、それを解決させることばかりを。

罪を形に求めて、その形さえ変えれば、罪は消えると。


問題は全くそこじゃなかった。

その罪を感じている自分を見る。

罪を欲している自分に気がつく。


そこにこそ、問題があったのだ。




私たちはすぐ自分を否定する。

あそこもどこもかしこもダメだと。


もしくは、すぐに人を否定する。

あいつのあそこもダメだと。

(エッチな意味じゃないよ)


そうやって自分や他人を否定して裁く自分を発見する。


その時快楽を感じている自分を発見することができたらラッキーだ。

え!まじ?あたし、いい気分になってるじゃん!


人を否定する時、ちょっと勝ち誇った気分になるのはわかる。

しかし自分を否定する時、まさか自分が勝ち誇ってるとは気がつかなかった(!)



自分を罪人として見ることが、自分がここにいていいのだと思わせてくれていた。


「ああ、私はけなげな罪びとなの💙


だから問題という形を探す。

その形が解決されると、つまり罰を受けると、罪が軽減されると信じて疑わない。


それが形をひたすら変えようとする衝動。形が変わって安心する。


罪があると思っているから、こういうことを延々と続ける。

しかしもし罪というものなど、まったくなかったとしたら?


これ、ものすごいことじゃね?


檻の中で

「開けてぐでえ~~~~!ここから出してぐでえ~~~~!」

って61年間泣き叫んでいたら、


「鍵、かかってねえし。そこ、とっくに開いてるよ。


そもそも檻なんかねえし。よく見てみな」


って言われてるのだ。



ちーん。




絵/MF新書表紙イラスト











2022年5月22日日曜日

物語が展開しない


部屋から、目の前の木を見る。

以前は少し心がうずいた。ああ、庭掃除をしなきゃ。。。

部屋の中のものを見る。

以前は心がうずいた。部屋を綺麗にしなきゃ。。。


今は木を見る。部屋のものを見る。終わり。


形を見て、そこから展開される物語が動かないのだ。

なのに喜びが溢れてくる。


昨日役員会があった。会長が突然の辞任で緊急会議。

シリアスな状況なのに、昨日のことを思い出しても嬉しくなってくる。

町会のオヤジ一人一人が愛おしい。


何が起こってるんだ?


先日のラーメン屋事件(そこまでのことか?w)からなんか変だ。

心がカラになると、目の前のことが希薄になっていく。


形を見る。

私はこれまで形を見ると、形の中に罪を見ていた。


部屋。ああ埃が溜まっている。掃除しなきゃ。人が来る。みっともない。。。。

そうやって次々に連想ゲームのように心が動き始める。


がぜんその形は意味を持ち、物語が展開し始め、

この世界が重厚で動かしがたいものになっていった。




これが私たちがこの世界をリアルに感じている理由だ。

形に自分の罪を見ることで。


この世界は私たちの罪悪感でできているとコースはいう。

神の子である私たちは、神から離れたと信じたことで(信じただけだけど)

起こった巨大な罪の意識がこの世界を作り上げ、その中に逃げ込んだという。



心に浮かびもしないほど深く沈めた神からの分離という罪の意識。

その無意識にまで沈めたものを、少しづつ浮かび上がらせる。


一切を包み隠さない。

何をどう感じているのか、自分の内側を見てあからさまにしていく。

そういう作業が、無意識に沈み込ませた罪悪感を浮上させていく。

すべてを光のもとにさらしていくのだ。


そのたびに少しづつ心の中の罪の意識が消え始める。

そうすると心の中の声が少しづつ消え始める。



散歩してても何かが違う。

散歩しているいつもの感じじゃない。

全てに関わりがなくなっている。


これがこの名前の花で、いい香りがして。。。

といういつもの感覚が希薄になっている。

目だけが宙に浮いて移動している。


自分が変な感じになっているのに気がつく。

「私、ここにいない。。。?」


私がいないということではなく、

私はこの世界に属していないことに気がつく。


この世界は私が見たくて作り上げたものだった。

罪を見たくて。罪を外に見て、自分に罪はない!と言い張るために。


それは本当に存在するのか?

違う。目的があって作ったものだった。

罪を形になすりつけるために。罪を忘れるために。


でもそもそも罪などなかったのだ。

単なる思い込みが、この世界を宇宙まで作った。


はあ~。さすが神の子。

腐っても鯛、にはとんでもない力があるもんだ。

だけどそれはエンドレスの地獄。

お釈迦様が輪廻から離れろといったのはそういう意味だった。


木を見て、心が動かなくなったのは、

私の中の罪の意識が消え始めているからなのだろう。

その代わりに、風景とは関係なく喜びが込み上げてくる。


私は世界をある、ある、あるといって、縛り付けていた。


世界を解放しよう!



絵:MF新書表紙イラスト






2022年5月20日金曜日

おばさんよ大志を抱け

 


「とある神秘家との結婚」を読んでて思う。


自分を導いてくれる聖霊が直接語りかけてくれるっていいなあ~。

なんでも聞けるじゃん。

なんでも答えてくれるじゃん。

なんでもクリアになっちゃうじゃん。

なんでもわかっちゃうじゃん。

って思ってた。


でもこの本の著者、カースティン・バクストンさんは、

近くに生身の聖霊がいて、ジャーナリングでなんでも答えてくれる聖霊もいる。

なのになんでもわかっちゃわないじゃん!


これはどゆこと?


よく考えてみれば、「神の使者」の著者、ゲイリー・レナードも

アーテンとパーサに導いてもらってても、

自分の道は自分で切り開かなければいけなかったし、

何よりも、この彼らの本の元になっている

「奇跡のコース」の著者であるヘレン・シャックマンでさえ、

最後までこの本の声に抵抗したのだから。。。!


だから聖霊の声が聞こえてラッキー、

もうすぐ眼が醒めるわよってなことにはならないのだ!

(知らんかったの?あんた。ハイ。)


あくまでも自分なのだ。

自分が何を考え、何を信じているか、なんでこの世界を信じているのか、

どうやってそれを手放していけるか。それを自身に問われている。

その意志があるのか。その意欲があるのか。

徹底的にそれを実践していけるのかと。


だから横に虎の巻がいても、
それに聞く耳を持って実践して体験していかない限り宝の持ち腐れ。


知識で知ってても
それを実践して体験していかないかぎり

わかったことにならないってことだよねえ。



それってさあ。

私と同じ立場にいるってことだよねえ。


わたしゃ、聖霊の声は具体的に聞こえない。

だけど聖霊の声を代弁してくれる奇跡のコースの本があるし、

その関連の本も読める。

そしてそれを生きている人々の動画やブログも見られる。

それこそ、それが聖霊の声なんじゃないか?


一つの心が、この世界に現れた聖霊の表現を聞き、

殻を脱ぎ捨てながら、自由に向かって進んでいる。


おばさんよ。
大志を抱け。





絵/MF新書表紙イラスト



2022年5月18日水曜日

とある神秘家との結婚

 

最近出た新刊「とある神秘家との結婚」という本を読んでいる。


ディヴィッド・ホフマイスター という、

コースをそのまま生きているような人と結婚した奥さんが書いた。

本には彼女の中にどんな葛藤が生まれていくのか、正直に書かれている。


神秘家と結婚なんて、めっちゃラッキーや!

と思いきや、

ぎゃくに自分の内面がはっきりと映し出される鏡と一緒に生活しているような感じになっていく。


ひえ~~、強烈や~~~。


私も自分の内面がクリアに見えれば見えるほど、

どんどん葛藤し始めるので、彼女の苦悩がめちゃリアルに感じる。




ディヴィッドは彼女の聖霊みたいなもんだ。

その生身の聖霊に、正直に彼女が感じている彼への攻撃、嫌悪、全てを打ち明ける。

彼はそれを無邪気な子供のように受け止め、彼女はその場その場で癒されていく。


しかし癒されては、また憎しみや怒りが生まれる。


人が持った信念は相当ある。

その時その時見つける不快感は、それを手放すために少しづつ起こっている。


それを今度は聖霊に打ち明ける。

ジャーナリングという方法で筆記しながら聖霊と話すのだ。


聖霊はいう。

「あなたの闇を私に渡してください。」


彼女が自分の心を正直にみて、その怒りの中にどんな信念があるのかを言葉にしていく。

一つの怒りの中に、たくさんの信念があった。

ああであってはいけない。こうでなければいけない。そうあってほしい。。。。etc。



自分が兄弟と分離しているなどと思ってもいなかったことが、

実は分離が前提となって怒りや恐れが起こっていることに気づかされる。


一見複雑に絡み合っているような要因が、

分離という概念を信じていることが原因でそう見えているだけなのだ。


そしてそれは自分が作っていることに気づかされる。。!


罪を兄弟に渡して、兄弟に罪を見て、自分は無垢だと証明したい。

それはいわば私が演出家。


旦那にはこんな罪深い役をやらせて、

親にはこのような罪深い役を当てはめ、

友達にもこんな風な嫌な性格の役割をやらせ、

社会にはとんでもない罪を被せ、

そして私はか弱い、かわいそうで無垢なヒロインになる。


という子供の遊びをマジになってやっているのが私。

マジになってやっていることさえ忘れてしまった。


その前提になっているのは「私は有罪だ」という頑なな信念。


いやまいったまいった。

私もやってるやってる(笑)



恐れは、神から離れたという罪悪感から来ていることは知識では知っているが、

一足飛びにそこにはたどり着けない。


その大元の原因の手前にある、身近な恐れについての解体が

プロセスとして必要なんじゃないかと思って、

自分の中の信念を見ていく作業をしていた。


恐れは、言葉によって起こされている


同じようなことをしている人を見てホッとした。


まだ本は三分の一ほど。

これからどうなっていくのか楽しみだ。




言葉という具象は、解体されて形なき抽象になっていく。


正直に聖霊に打ち明けているその時々に、

何もない抽象の世界を垣間見る。

その透明感は、本当に心地よい。


これもまた私のプロセスとして進み、

やがてまた変わっていくのだろう。




絵:ホタルブクロとどくだみ/和紙