ある日、やまんばは怒りに狂った。
おお!ひさしぶりにきたーっ。
私は恐れているんだな。
自分のアイデンティティが崩されて、亡き者にされる。。という恐れがある。
その恐れを作ってくれた張本人へ
「ちょっとちょっと!アンタ、私を亡き者にしようっての?そうはさせないわよ!!」
と、勝手に攻撃されたと思い、猛反撃をし始める。
こうなると、思考は暴走する。
これがああなって、こうなって、そーするとああなってこうなって。。。
いやいや、そーはさせないわよ。云々カンヌン。。。。
ああ、もう仕事になんないや。
やってたことの手を止めて、
じっと心の中を見る。
もう~言葉だらけ。
私は何を恐れている?
最近、こういうことがとても大事だと思うようになった。
それは自分に徹底的に正直になること。
何を恐れて、何を嘆いて、何を怒っているのか。
それを心の中で聖霊に渡す。
「聖霊さん。
私はこう怒っています!
こう感じて恐れています!
こうなったらどうしようと恐れています!」
何を感じて、どう嘆いているのか、
そしてどんだけ恐れているのかを洗いざらい話す。
闇の中にしまっておいた自分の暗い思いを、聖霊に持ってくる。
ザンゲ室で、すべてぶちまけるみたいに。
「私はこれを聖霊さんと一緒に見たい。
聖霊さん、あなたはこれをどう見ますか?
あなたの見方を教えてください!」
はっきりとその思いを伝える。
心の中に変化が起こる。
ある時は、はっきりと潮が引くように消えていき、
ある時は、気がついたら「なんだったっけ?」と、
さっきまで爆走してたことがなんだったか忘れてしまっている。
この変化に驚く。
一体何が起こっているのだ?
私は指ひとつ動かしていない。。。
問題を見つけると、問題を外にあると思い、
その問題を外に向けて解決/行動しようとする。
それが普通だ。
でもその問題が人に向けてのものだったら、
これはそう簡単に解決できるものではない。
なぜなら人は人を変えられないからだ。
人を変えようとするのは、コントロールしようとすることになる。
それは攻撃。
攻撃とは人を敵だと思うこと。
私とあなたは違う生き物だと宣言すること。
これ分離以外の何物でもない。
分離が原因になった考えは、分離という結果しか生まない。
でもひとつだと思うこと自分とその人は同じだと思うこともできる。
ひとつであるという考えが原因であるならば、結果もまたひとつ。
実際分離とは幻想。本当は離れてなんかいない。
分離を信じる心が、分離を夢見ているのだ。
ひとつであることの象徴が聖霊。
分離の思いを聖霊のもとにさらけ出すのは、
闇を光の下にさらけ出すことである。
光の目で、その闇を見てもらう。
闇は一瞬で光に消える。
自我とともにいる心は、自分の闇をひた隠しにしようとする。
聖霊は私が隠しておきたいものを無理やり引っ張り出してくることはしない。
私がその闇を手放す意志を持つことをじっと待つ。
どれだけ優しいことか。
そうして私がひた隠しにしている闇を光の下に晒す準備ができた時、
目の前の兄弟は悪役を買って出てくれる。
そのおかげで、私は一つ軽くなっていく。
兄弟がいてくれるおかげで、私は解放されていく。
やっぱあなたは救世主だ。