「あいつはぜったいゆるせない」
彼女の怒りは頂点にたっする。
話しはその怒りをきっかけに、女性のエゴについて、男社会について、この社会の不条理についてと、どんどん発展していく。
彼女は正義感が強い。正しいことと、まちがっていることがはっきりと別れている。その割に仕事に失敗が多い。それはあまりに正しいまちがっていると言うことに固執するからなのだろうか。
つい最近まで、私はつねに自分がまちがっているかもしれないということにこだわってきた。
まちがいを犯す自分を恐れていた。
その恐怖におびえて50年以上過ごして来たのだが、それが自我の誘導であったのを知る。
私の中に住む自我は、私に「まちがい」を吹き込んでいたのだ。
それは私がこの世界に怖れおののくための手段だった。
恐れが、この世界を維持している。
自我の目的は、この世界を問題あるものとして維持することにあった。なぜなら自我は恐れと一体だからだ。自我は恐れがないとその存在を維持できない。
だから私たちの心にその恐れを吹き込む。
私には「お前はまちがっている。。。」と、ささやく。
そのささやきを聞いた私は、
「あっ!やばい!またなにかやってしまった!」
と、あわてて問題を見つけ、それを解決するのに躍起になる。
「あっ!やばい!またなにかやってしまった!」
と、あわてて問題を見つけ、それを解決するのに躍起になる。
じつはそれがこの世界を維持させる武器だったのだ。
私はそのささやきを信じ、その「まちがい」を見つけることに魅了された。
いつのまにか、私はその自分のまちがいを「見たがっていた」のだ。。。!
つねに探し続ける自分のまちがい。あそこにもここにもある。探せば探すだけある。それは無限なまでに。その魅力にとりつかれていた。
「あれ。。?あほちゃう?わたし。。。。」
もう、見たくないとおもった。
もう金輪際、こんな馬鹿げたゲーム、やりたくない!とおもった。
もう金輪際、こんな馬鹿げたゲーム、やりたくない!とおもった。
だから聖霊に捧げた。
もういりません。この考え。あなたに捧げます。取り消してください!
それからそのクセは徐々に消えはじめた。消えれば消えるほど、軽くなった。
それでも段階があるのだろう、ちょっと楽になっては、またもとに戻る。相変わらず自分のまちがいを探す自分に気づく。
50年間ついてまわった癖は、そう簡単には取れないようだ。
深いわだちがある道路から、平らな道路にタイヤを移行させる、または右利きを左利きに変えるぐらいの難儀さがある。
それでももうこれは必要ない。この魅力はもう魅力じゃない。
気がついてはそれをやめ、気がついてはそれをほおっておく。
冒頭の彼女は、怒りを抱えている。怒りは恐れから来る防衛。彼女もまた恐れの中にいる。自分の中に恐れがあると、人はそれに耐えられない。その恐れはどうにかしてなくさないといけない。
その恐れに対抗するには、怒りという防衛手段をとった。
彼女は怒りを外に向けることによって、恐れを防衛している。
私は恐れを自分のまちがいを正すことによって回避できるとおもって来た。
彼女は自分の中にある恐れを、他人を責めて攻撃することによって回避できるとおもっている。
彼女もまた、彼女の中に住む自我のささやきを聞いている。
「ほら。またまちがいを犯すヤツがいるぜ。攻撃しろ」と。
そうやって延々と消えるはずのない戦いを挑んでいる。
その姿を見るということは、その意識は私にもあるのかもしれない。
だから彼女を見ているのだろう。
だから彼女を見ているのだろう。
きっと自我の私はそれが見たいのだ。
自我の誘惑がちょろちょろと頭をもたげる。
「この世界は残酷だぜ。。。」と。
だがそれには乗らない。
心は、ただその場をゆるしていくことだけに捧げた。