みなさん、かふんにちは。(おこんにちはの春バージョン)
きのうのつづき。
気を取られることによって、エネルギーはそこにばっかり使われて、へとへとになる。
ではそこへエネルギーを使わないようにするにゃどうすればいいのか。
北野タケシが
「頭痛をなおすにゃ、目をつけばイイ。目の痛さで頭痛を忘れる」
と言ってたが、言い得て妙である(っちゅーか、できんだろ)。ようは意識を別の所にやるということだ。
花粉は物質である。
花粉さんを細かく分解していくと、原子になる。原子は原子核とそれを回る電子でできている。彼らの間の距離は、例えて言うなら、原子核がパチンコ玉の大きさまでひきのばすと、電子は東京ドームの端を回っているらしい。という事は、原子はほとんど空間でできている。なのになぜ物質が存在するようにみえるか。電子さんがぶんぶん回っているから、ちょうど扇風機が回っていると丸い存在があるように見えるけど、実際は3枚の羽根があるだけ、というのと同じ原理のようだ。目ん玉も同じように原子で出来ている。その目ん玉さんの電子も同じようにぶんぶん回転しているから物質として存在しているように見えるのである。
という事は、物質として存在しているようにみえる花粉さんと、目ん玉さんが接触すると、かゆさが起こる、という現象が起こっている。
ところがじっさいは、花粉さんも目ん玉さんも99%が何もないもので出来ているのだ。空間と空間がぶつかり合っているだけなのだ。
つまり私らニンゲンは、たった1%でしかない物質の世界だけに注目しているのだ。
そのちっこい狭い世界の中だけで生きて、これが最重要事項だ!と大騒ぎしている。
ニンゲンの脳はかのアインシュタインでさえも10%前後しか使っていなかったというではないか。じゃあ、わしら凡人は一体どんだけ使っているのじゃ?(おそろしくてかんがえたくない)
残りの90%の脳は、一体何のためにあるのか?お飾りか?
ふとどきもものやまんばは、この原子の空間は、残りの脳の使用方法と何かしらリンクしているのではないかと考える。
1%の世界にだけ注目して、必死であーでもない、こーでもないと四苦八苦するのは、えーかげん疲れたのじゃ。
この世はまだ前人未到の残りの99%という巨大な世界が目の前に広がっているではないか!物質の世界の向こうにある、何かわけの分らん世界に注目してもいいころではないか!
では、その残り99%の空間に着目する。
どーやって?
その空間を見るのじゃ。
人の目はつねに何かにピントを合わせている。はたからみたらぼーっとしているようでも、その目はテレビに合わせていたり、テーブルの端っこに合わせていたり、ソファに落ちた食べかすを見ていたりする。部屋の中はモノだらけである。あらゆるものに視点を合わせて、目をうろうろさせているのが現代人なのだ。
目がかゆいとき、つねに何かを見ている。
ところが、視点がモノに合っていないと、かゆさが薄れるのだ!!そしてピントを外し続けると、かゆみは消えていくのだ!
心の内側に着目してみよう。
ピンぼけにしてると、心が静かじゃないか?
モノにピントを合わせると、とたんに心が騒がないか?
それは我々がつねにピントを合わせるものに対して判断を下しているという、無意識の心の動きがあるからじゃないだろうか。たとえばソファにおちている食べかすを見て、なんとも思わない主婦はいるだろうか。意識にのぼらないとしても、こころのかたすみに「これはいけない」と思っていないだろうか。
そういう心の動きが、心をザワザワさせている。
だとすれば、ピントを外すことは、そのザワザワから解放されることだ。だって、モノ見てないんだもん!
ピントを外すという事は、物質界を見ていないことになる。今その時、物質界に着目していないという事になる。するとわしらは残りの99%の世界にいることになるんじゃないか!?99%といわなくても、すくなくとも物質界1%の世界以外のところに意識を持っていっているという事になる。
目がかゆいとき、かゆさを忘れるために目を突っついて、痛さでかゆみを忘れるよりも(これはタケシ流)、視点を空間にもっていく。モノからピントを外すと自ずと心が静まり、かゆさも消える。
すると物質界から意識が外れて、別の次元を垣間みていることになり、脳みその使っていない部分を刺激し始めるんではなかろうか。
これはやまんばだけの現象であろうか。仕事中「うっ。。。うまいこと描けない。。」と、ちょっとストレスを感じたとたん、目がかゆくなるのだ。
誰かとしゃべってていきなりくしゃみがはじまるとき、なんとなくその場の会話に飽きてきたりしてないだろうか。
そういう現象と、自分の心の動きを調べてみるのもおもしろいじゃないか。
空間はその意識と連動してるんじゃないだろうか。
それは結局物質界に影響をもたらす。
では、残りの空間にその根本原因がひそんでいるとしたら、それに着目しないわしら現代人はいつまでたってもアホなままなんじゃないか?
インディアンは知っていたのかもしれない。
かれらの視線が、いつもワイドアングルビジョンであったように。
いや、日本人だってその昔は知っていハズだ。
宮本武蔵の「見を弱く、観を強く」という言葉のように。
石けんなし生活は、物質界の限界を教えてくれているように思える。やまんばは、この花粉症はもはや、何の特効薬、何の食事療法をつかっても完全に「直せる」ものではないようにおもう。それは物質にとらわれているからこそ起こる現象なのかもしれないとおもいはじめている。
物質界以外と言うと、かならず霊やオカルトが出てくるが、まあそれも一部だろう。
99%の中には、私たちがまだ知らない、いや、意識下に置いてもいないが、いつもすぐそこにある大きな何かが、私たちが見つけてくれるのを今か今かと待ってくれているような気がする。