2016年7月29日金曜日

ただ草を刈るだけのバカ


私の畑の作業。
ひたすら草を刈る。
ひたすら草を刈る。
ひたすら草を刈る。
それだけ(笑)。

後は、勝手に野菜が育つ。
後は、勝手にタヌキが食う。
勝手に荒らしまくる。

実験用に残しておいた野良ジャガも全部食われたし、
ちょっと早めに蒔いたコリアンダーも荒らされた。
秋蒔きの野菜はどーなるんだろ?
いいさ、いいさ、先のことは先のこと。

そしてひたすら草を刈る。
土の感触がうれしい。
どんどんやさしくなってくる土。

うまいことタヌキに荒らされなかったキュウリやトマトやピーマンは、勝手に育ってくれる。
ひたすら草を刈るだけで、勝手に育つ野菜たち。

こんなバカもいてはいーではないか。

ただ草を刈るだけのバカ。

2016年7月27日水曜日

「すごい挑戦ですね」



「だいぶなれましたね」
早朝、お客さんにいきなりそういわれた。
「え?あ、はい。おかげさまで。。」

なれないバイトを始めたのが1年前。初めの頃から、ずっと見てくれていたのだ。
それまでスムーズに動いていた手が、急にぎこちなくなる。

「そういわれると、なんだかきこちなくなっちゃいます。。」
苦笑いしていると、

「すごい挑戦ですね」
歳の頃は50代後半、出勤前のきちんとした身なりの彼女は、私にむかってにっこりと笑った。

挑戦。。。。
彼女の言葉が耳に残った。

そういえば、私はずっと挑戦を続けてきたなあ。
美大時代に、親にナイショでもうひとつ音楽の学校に行ってたこと。
デザイン事務所を転々とし、早いうちからフリーのイラストレーターになったこと。
ニューヨークでイラストレーターとして挑戦したこと。
アーティストグリーンカード取得に挑戦したこと。
グリーンカードも手に入り、いいレップに入り、仕事もがんがんに忙しかった。
しかし悠々自適なニューヨーク生活にピリオドを打ち、
日本での田舎生活を始めたこと。
200坪の畑で、無肥料栽培に挑戦していること。

そして、今、バイトをしていること。。。。
これは、挑戦なのだろうか。。。。

きっかけは1年前の個展。11年ぶりの東京での個展は大盛況だった。
作品の中に、あたらしい道が開けた実感があった。
そしてその時を境に、イラストレーターの仕事がぴったりと止まったのだ。。。

生活のためにバイトをしている今の現状。
これのどこが挑戦なのだ?
挑戦というよりは、苦しみだ。屈辱だ。
まるで「きみの才能は地に落ちた」と言わんばかりの仕打ちではないか。。!



今までは、はっきりとした「目標」があった。
だが、これは「私」が意図しないところの、運命の「目標」であり、ひょっとしたらそれを今、挑戦中なのかもしれない。。。。

先程の彼女は、単に私が60過ぎに見えて、
「こんなご老人がこんな所でバイト。大変だろうな。。」
と言う思いだったのかも知れぬ。

確かにこのバイトは、今の社会の人々の生活を垣間みる。イラストレーターであったら、決してのぞけない世界。その社会の断片を見ながら、私は日々、洞察をもらい続けている。今まで気づけなかったことが、どんどん気づきはじめて来る。

ここから先は、何が起るのか全くわからない。
何を目標としているのかもわからない。
ただ、私は「何か」に挑戦しているようだ。。。。



絵:「くもまつまきてふ」
9月の個展に向けての作品。素材/洋紙、和紙、水彩、クレヨン


2016年7月23日土曜日

共感の時代だよね



共感の時代だよね。

みんなとおなじ事を考えて、同じ感想を言い合う。
それってほっこりするよね。

でも人はそう単純じゃない。
みんなと同じ考えもあるけど、また違う感覚も持ってる。

でもなかなかそれは言えない。その場の空気が変わるからね。
けど、それを言う勇気いるなっておもう。

だって、こう言う情報の渦って、ひとつの意見に対して
「そうだそうだ!」
って、共感しあっているうちに、
どんどん巨大な流れになって行ってしまうから。

それはときには危険な流れさえも作ってしまうんじゃないかな。

だから自分はこう思う。という勇気、ほしいんだな~~。
(、、って、言ってねえのか。おい!)



2016年7月21日木曜日

それ、問題?



「これは問題である」と思わなければ、どこに問題がある?
これは「”それ”は在る」という本に出て来るラメッシの言葉だ。


人に会うと、それぞれが抱えている問題を垣間みるときがある。
そうだよなー、あれは問題だよなーって、ついおもう。

だけど「それって問題?」って自分に問いかけてみると、
「はて?」とおもう。

人の問題は人の問題であって、自分の問題じゃない。
彼彼女の問題を、自分の問題として取り込むことじゃないし、彼らが抱えている問題を「ああ、それは問題だ」と、思ってさし上げる必要もないではないか。


彼らの「問題」を「それ、問題?」
っていちいち自分に問いかけているうちに、
「いや。これ別に問題じゃないなあー」っておもいはじめる。

人のことだから、妙に引けて見ているのかも知れないし、単に薄情なだけかもしれんw

でも彼らの問題を、ここにいるわたし一人が、
「それ、問題に一票!」って、投票して差し上げるよりは、
「無投票。」
にしておいたほうが、彼らにとってもちょっとは問題の荷物が軽くなるよーな気がする。妙な理屈じゃが。w



そーやって考えていくと、自分に向けている「問題意識」も、ひとつひとつ吟味してみると、そこまで重要じゃないかんじになってくる。

ふとなにかをやろうとする自分に、そのきっかけになっている観念があることに気がつく。「こうでなければ問題だ」という観念。

そこですかさず問うてみる。
「それ、問題?」
「そりゃ、やらないとだめだろう!」
「ほんとに?」
「え。。。?」

いきなり、それ問題かい?って聞かれると、とまどうのはなんだろね。
そうやって、聞いていくと、だんだん、そのことが重要ではなくなってきて、何だかどっちでもいいよーな感じになって、それまで抱えていた荷が軽くなるのは、なんだろうね。
ぎゅーっと凝縮していた身体のこわばりが、それに対する疑問を持つことによって、じょじょに、ほどけていくかんじがするのは、なんだろうね。

問題を意識すればするほど、それは固形化していき、はっきりとそこに存在しはじめる。だけどそれを重要視しなくなればなるほど、それはゆるゆるとほどけていき、問題の対象物が希薄になっていくのだ。

そうやって、自分の問題も他人の問題も、何だか希薄になってゆるゆるとほどけていくと、この世はだんだん軽くなって見えて来る。


それ、モーマンタイ。


絵:ラブロマンス表紙の絵

2016年7月16日土曜日

ゴッホより〜、ふつーに〜、草が生えている方がっ、すっきーーーっ!




庭がジャングル状態である。
「おお!よくもまあ、ここまで大きく育ったものよ!」
ひとり植物の偉大さにほくそえむ。

と、おとなりを見れば、草ひとつないお家。白亜の豪邸。
やまんばの胸がちくりとする。

これはいわば、胸毛も脇毛もはえ放題の原始人と、脇毛も足毛もきちんとお手入れ済みの文明人が隣り合って座っているよーなもんだ。
よく見るとツル科の植物が、我が家の木をよすがにとなりの広々とした空間に進出しようと企んでおる。
「おっと、やばいやばい」

やまんばはフルヘルメットに軍手をはめて、重装備でジャングルに潜入した。

今朝までの雨でじっとり濡れている草の根元をぐっと刈る。ミミズがグニュ~~っと出てきた。何層にも重なった腐葉土で土がふっかふかになっている。

篠竹、クサノオウ、オニシバ、三つ葉、ツユクサ、ドクダミ、フジ、ミズヒキソウ、をガシガシ刈っていると、大葉やグラジオラスが顔を出した。
「お!」
まだつぼみのグラジオラスは、花瓶に生けとくと花が咲くはずだ。3本ゲット。でっかい大葉は、今晩の薬味に添えよう。


となりへ進出するツル科の植物(おそらく長いも)をひっぺがして、ものの10分でジェングル潜入終了~。

草を生やすのはよくない。
そういう観念がわたしの中にある。
しかしその観念よりも、草が生えている方が好き!という観念の方が勝っている。

そーはいってもよそ様の目が気になる。
草はやしたい。
でもはやしちゃいけない。
でもはやしたい。
でもはやしちゃいけない。。。
と、ぐるぐるするw

でもさ。
起こってしまったわけだ。
草はやかすほうを選ぶ、という行為が。

こりゃーもー、どーしよーもねえでしょ。

自我が訴える「ダメでしょ」攻撃を、ただ何もしないで、受け取るだけである。

常識より〜、ふつーに〜、非常識がすっきーっ!


さて。
今年9月にまた個展を開きます。
舞台は大阪です。
またおって、お知らせいたします。

今日の一枚はそのDMに使われる予定の作品です。
タイトルは『ヤマユリ』
ファンシーペーパーと、和紙と、水彩の合体作品です。
道ばたに咲いていた、大きなすすきの葉と、それをつたうツル科の植物と、ヤマユリの美しさにほれました。

ほらね。草ってうつくしーのよ。おほほ。






2016年7月14日木曜日

絵本作家さんのインタビュー記事を読んでおもうこと


ある絵本作家さんのインタビューを読んでいた。

絵本が出来上がるまでの過程の話しを読みながら、
「これって、大人が大人を説得しながら作っているなあ~」
とおもった。そこに子供の視点はないかんじがする。

大人は、「子供の世界はまだまだ小さい。だからこの世の素晴らしさを教えてあげるんだ」という前提に立っている。

はて。
子供はこの世の素晴らしさをまだ知らないんだろうか。
大人が考えるこの世と、子供が考えるこの世は、はたして同じ路線にあるんだろうか。

大人がいうこの世とは、たんにこの世で生きるルールを知っている、ということではないか。
そのルールを教えることは、これからこの世で大きく育っていく子供にとってもちろん重要なことや。そんなんあたり前田のクラッカー。

なーんかわたしは思うのだ。
えらそーなことは言えないけどよ。

子供が生まれてすでに持っている広大な感覚を、絵本を通して『大人が知っている』狭い世界を教え、「これがこの世なんだよ」といいながら、無意識に彼らを小さくしていくように見えてしまうのだ。
子供はそんなバカじゃないよ、、、といいたくなる。

それをえんえんとやってきて、今のこの、しょーじきいって、世知辛い世があるんじゃね?そこんとこ、どーなのよ。
この世で生きはじめる始まりのころに教わるものって、スッゲーだいじな気がするんだな。


じゃあ、そうでない絵本とはなんなんだ?
う。。。わかんないよお〜〜。え〜〜ん。。。
このジレンマを、どう解釈して言葉にしていいのかわからない。
だけど、なんかちがうううう~~~。

それはわたしがまだどこかで子供の頃の感覚を覚えているからかもしれないし、
単にわたしの頭がおかしいのかもしれない。

でもさ。
大人が印刷して出版する絵本なんだから、まず大人を説得しなきゃなんないわけさ。
そこで「あ~~~~、ムリかなあ。。」と、頭を抱えてしまうw

ま、起こるときゃ起こる。
起こらんときゃ、何も起こらん。


お日さん、西西。
注:土佐人のくちぐせ。何があっても(台風で家が飛んでも)ことは粛々と過ぎていく、の意


2016年7月12日火曜日

道にダイコンが落ちていた



近所の八百屋さんで、ダイコンを買おうかどーしよーか迷った。
買わずにウチに帰る途中、道ばたにダイコンが落ちていた。

動揺するやまんば。
「こっ、、、これは、わたしに拾え、とゆーことか?」
持ち上げてみると、確かにダイコンだ。

誰がこんな所に落としていったのだ?
それとも天の計らいで、
「つくしよ。。。これはお前のダイコンか?」
と、天女が道の下からあらわれて、わたしを試しているのか?

「いえいえ。天女さま。それはわたしのダイコンではございません」
「では、これか?」
といって、銀色のダイコンを差し出して来る。
「いえいえ、メッソーもございません。そのようなダイコンではございませぬ」

「では、これか?」
といって、金色のダイコンを差し出す。

おもわず、
「はい。私のダイコンはまさにそれでございます。。。」
というやいなや、
天女さまはいきなり巨大な大魔王に変身し、
「お前は、ダイコンなど買ってないであろう~~~~っ!」
と、やまんばの上に馬乗りになり、息が出来なくなり、気を失いかける。。。

と、一瞬の妄想が。。。。

やまんばは、首を振りふり、
「いやいや。だれかが落としていったのであろう。そのうち取りにもどるはずだ。。」
そー言って、あと髪オモイックソ引かれながら、その場を立ち去る。

後日、ダイコンを買って、その道を通った。
ダイコンは跡形もなく消えていた。
ダイコンがあった場所には、こぎたない軍手が一個落ちていた。
「はて?ひょっとしたら、この軍手がダイコンに見えたのか。。?」
軍手がダイコン?

7月の、ある夏の暑い日のできごと。
やまんばはタヌキにでもバカされたのであろうか。

ちゃんちゃん


2016年7月3日日曜日

じっとする。


八王子のホームで、突然怖くなる。

ーーさっき画材屋さんで選んだ額は、あれでよかったのだろうか。
もっといい額があったんじゃないだろうか。
もうひとつの額の方でやった方が、よかったんじゃないだろうか。。。。

心はどんどん動揺しはじめる。心臓がばくばくして、思考が爆走する。

ーーいやいや、あれでよかったんだ。
どうしてかって?
なぜならあの額を選んだのは、これこれこーゆーワケがあって。。。。

ーーえ?ほんとにそう?
選ばなかった額の方がもっといいものができたんじゃないの?

ーーえ~~~~っ。今ごろ言わないでよ!
じゃあ、今からまた戻って、あっちにする!?


あ。。。。
やってる。。。

あたまの中で行ったり来たりを繰り返しているわたしに気がつく。
自分が選んだ額に、一人がジャッジし、もう片一方が、言い訳をし、それに反論を繰り返している。


自分の中を見始めると、心は、今ここにないものに奪われ続けているのに気がつく。

わたしは今、八王子駅のホームに立って、中央線を待っている。ただそれだけなのに。

心は何か問題をみつけだして来る。
今ここに何も問題がないと、どこかからわざわざ探し出して来る。
高尾行きの電車はもう間もなく来る。そこに何も問題はない。心は、額を選んだことに問題点を見つけてきたのだ。

わたしは、この心の中で、えんえんと会話する二人に、何の解決策もないことを見出す。


思考観察をしていると、思考が何の解決法も見出せないことを知りはじめた。思考が思いつく解決法は、たいてい消極的で、自分を小さくまとめる、つまらない解決策だ。ああなったら困るから、こうしておこう的な、どこかで聞いたことのある解決策。


電車がホームに入ってきた。
おじさん二人にはさまれて座る。

わたしの中で聞こえる会話に乗っからず、ただじっと感情の中に座る。
まちがった額を選んでしまったかも知れないと、怖がっている感情の中に。

恐怖をかき消そうとせず、
恐怖に抵抗せず、
その恐怖の中に、
ただじっとしている。

高尾のホームを歩きながら、さっきまでの恐怖が消えているのに気がついた。



私たちは、感情的ななにかを見つけたり、肉体的ななにかの変化を見つけると、
直ぐさま反応をし、「なにかをしよう」とする。
いわば混乱した状態で、なにかをしようとしているのだ。それは混乱をより大きくするだけなのだ。

何もしないというのは、逆に怖いことなのだろう。
それはなにかをすることによって、何かしらの解決が待っているから大丈夫だ、という安心があるように見えるから。


でも。

じっとしていることは、自分を強くする。
ぐちゃぐちゃになる自分の心をシンプルにする。
フクザツに絡まり合った心の紐をほどいていく。