2010年9月25日土曜日

理想はおねだり





自分を否定するということは、今の自分がイヤだということだ(あたりまえだろ)。だがそれを否定するということは、今の自分がイヤだをイヤだすることで、要するに今の自分でいい、ということだ。(ややこしーのー)
そーやって一つづつ否定を否定していった。

まず最初に感ついたことは、どんだけ自分をいじめていたかということだ。あれもダメ、これもダメ、あれしちゃいけないこれしちゃいけない。細胞の隅々までチェック機能がほどこされ、完璧に作動。足を一歩踏み出すごとに「あ、それダメ」「ああ、それもダメ」とチェックおばさんがいう。そうやってやること成すことをいちいちさまたげられ、だんだんストレスがたまって来る。そしてあげくの果てに爆発し、いきなりぶっ飛んだことしてしまうのだ。それを繰り返していた自分に気がつく。

人は自分や他人に理想の姿を描いて、それに向かって人間を改造していく。それはそれで人に迷惑かけない生き方を教えてはくれる。しかしそれも行き過ぎると自分はダメなんだ、人間としてサイテーなんだと、ふさぎ込む方向にももっていってくれる。「理想による改革」は、諸刃の剣でもある。「理想」と言うと美しく聞こえるが、よく考えたら、今置かれた状況がイヤだから、こーあるべきだといいつつ、実はおねだりしていることだ。
理想は国家の改革から、自分のダンナの改革まで、ピンからキリまで使われる。
だけどその心理の根底に流れるものは、「こんなのいやよ」と不満を持っていることなのだ。
つまり今ある状況が気に入らないのだ。自分も他人も世間も政府も。じゃあなんで気に入らないかと言うと、「こうあるべき」という理想があるからだ。はて、そのこうあるべきは、どっからきたのだ?
最初に親にもらい、せんせーにもらい、マンガでもらい、本でもらい、テレビでもらい、きんじょのおばさんにもらう。そのおばさんは、その親にもらい、その親はそのまた親にもらう。
そんなに長いこともらい続けていたら、さぞかしニンゲンにとってすばらしー理想なんだろう。しかしそんなに長いこと受け継いで来ている理想があるのに、しあわせそーな人々はあまりみあたらない。なんでや?
そこにどっかに無理があるんとちがうんか?

そこで「こうあるべき理想」をポイって、ほっぽってみることにする。今ある自分をそのまんま受け取ることをしてみるのだ。アホな自分、失敗こく自分、怒られる自分、だらしない自分、みっともない自分、KYな自分、才能ねえなあ〜と感じる自分、へたくそな絵やなあ〜と思う自分を、みんな笑って受け入れてしまうのだ。

そうすると、何一つ自分にジャッジしていないのに気がついた。
朝起きた瞬間に喋っていた心、例えば、
「いかん!寝すぎた!やばい!」
という思考が、いつのまにか消えている。寝坊は、単に寝坊しただけのことだ。今まではそれに対して「まずい!」というジャッジが入り込んでいた。しかし、否定を否定し始めたら、「あ、寝坊した」と思うだけなのだ。そこには、まずい!怒られる!仕事にさしさわる!おまんま食い上げだ!という思考はない。
いままでだと、たったひとつ、「まずい!」と思うだけで、「おまんま食い上げだ!」というネガティブな結論にまで達する。
しかし、ジャッジがないと、「あ、起きよ〜」とおもうだけなのだ。
この違いはすごいのだ!

アホなことしてダンナにぷりっと怒られたとする。
すると瞬時に「なによ!あんただって!」とおもう。その心の裏には悪いことした、という後悔の念が混ざり込んでいる。つまり、そこに自分に対するジャッジが入り込むのだ。ところが罪悪感が起こると、同時に自己防衛に入る。それは自己正当化という方法をとって。
「あんただってあんときこうやったじゃないの、それならあたしだって悪かあないわよ!」
そんなものもろの思考を、私は瞬時に自動的にやっているのだ。

だが、ぷりっと怒られても、その瞬時の自動的な反応に自分自身が気がつくと、「あ、またやっちゃった?ごめん」と素直にいえちゃうのだ。

これはやっちゃった自分を真正面から見ている。
前の状態だと、やっちゃった自分を真正面から見ようとはしなかった。なぜなら、罪悪感が先に立つからだ。その罪悪感に押しつぶされそうになって、その苦しさから逃れるために自分を正当化する。その正当化に忙しくて、自分のやったことをみようとしなくなる。そしてまた同じことを繰り返していく。

人は、まず自分自身を肯定することから始まるんじゃないだろうか。なんでもいい、それでいい、とオッケーすることではなく、まず自分にジャッジしないことだ。いいとか、悪いとか考えないことだ。真実をそのまんまみるという行為。ただみるという行為。

しかしたぶん、この世の人々のほとんどが、瞬時にジャッジしている。そのジャッジは裏を返せば自己防衛によるものだ。
人をジャッジすると、自分を高みに置くことが出来る。それは自分と他人をちがう存在なのだと線を引いてしまうことにもなる。
また、自分をジャッジすることは、本来の自分と理想の自分に線を引いてしまうことになる。

ホントは理想の自分なんていないんじゃないか?その今ある自分そのものがホントの自分なんじゃないか?ただ人はそのホントの自分を見るのが怖い。理想というフェルターを通して自分の姿を見てしまうから、ちらっと自分の姿を見ては「ああイヤだ」と思ってしまうのだ。

だが理想なんて勝手に作られたものだ。それがホントに自分に当てはまるなんて思える?世の中に、理想どおりの人間がもしいたら、なんて個性のない面白みのない人間だとおもわない?外にある型の中にはまったって、苦しいばっかりだ。そりゃ、型にはまっておきさえすれば、人に後ろ指さされないもん。それだって自己防衛だ。

わしゃ、自分を否定するのが趣味だったことに気がついた。これは自分をいたぶって、生きている実感を得ると言うちょっとマゾヒスティックで、あほらしー趣味だった。まったく自分自身を生きていない行為だったのだ。これから自分を生きるために、この趣味から脱却することを宣言する!

絵:コージーミステリー表紙のためのイラスト

2010年9月19日日曜日

自己否定の否定





鳥が鳴いている。たぶん外来種のガビチョウだ。近所のおじさんにはうるさがられるが、声高らかに歌うその存在は実に楽しそうだ。川の音がする。虫の声がする。遠くで犬の声もする。山の麓はにぎやかだ。だがこれももう1ヶ月の間だけだろう。冬にはいると自然の音は、ふっと突然静かになる。厳しい冬のあいだ、自然はじっと押し黙って次の春に向けてひそかに準備をするのだ。

私は選定もしない伸び放題の草と木でジャングルと化した庭を眺めながら座る。高尾のお山とまったく区別がつかない。ウチの庭は高尾山だ。野鳥たちはウチの庭も高尾山だと思ってやってくるにちがいない。
先日知人からいただいたあんぱんをオーブンで温めて、お茶と一緒に至福の時間をもらう。焼きたての風味が戻ったあんぱんに、パン屋のオヤジさんの顔がかさなる。きっとあのオヤジさんは、いつも焼きたてのパンをうれしげにながめているのだろうな。


自分の思考を観察し始めてしばらくたつ。
そしてあきれるほどに自己嫌悪の中にひたっている自分を発見する。

つくし海という感情の海の中から一個、自己嫌悪をつりあげたかとおもったら、次の瞬間また別のバージョンの自己嫌悪をつりあげる。自分でつった魚をながめていると、海から他の自己嫌悪魚が呼んでいる。
「おーい、ここにもいるぞー」
んで、またつり上げるとまた別の魚が。んで、またつり上げるとまた別の魚が。。。。
気がつくとつくし海は、ほとんど自己嫌悪で出来ていたのだ。
あまりの莫大な量にあぜんとする。私の生きる動機はほとんど自己嫌悪なのだ。ガソリンは自己嫌悪だった!

頭をかくという動作ひとつにも自己嫌悪がさっと走る。
「みっともない?」「におう?」「髪のカタチおかしくない?」
庭に眼がいくと
「どうしよう。草刈っていない。みっともない。近所の人になんとおもわれるか。」「竹林になっちゃったらどーするの。あんたのずぼらなせいでしょ」「へびがいたらどーするの。あんたのずぼらのせいでしょ」
言葉にもならないほどの瞬時に心がそういっている。一歩足を踏み出すたびに自己嫌悪する。

つまり、自己嫌悪する材料を探しているのだ。なぜか。それが今まで生きて来た方法だからだ。
「あたしのこんなとこいやだわ」というおもいが、
「だからこうしなくちゃ」という行動を起こさせる動機になっていたのだ。
題して『あたしのこんなとこイヤだわ』モチベーション。

別になにをモチベーションにしてもいーではないか。今までそれで生きて来たのだから。
しかしそこには恐怖がある。
こうなったらどーしよー、もしそうなっちゃったら、ぜんぶあたしのせいよ。つくしちゃん、それであんた、ぜんぶ責任とれるの?
とれないとれない。
じゃあさっさといまからやりはじめなさい。
はいはい、やりますやります。
という、いつも恐怖に後押しされて生きるこのやりかたでいーのだろうか?
そんな心の状態ですべてを見渡したり、理解したりできるだろうか。いつも自分の恐怖に震えてびくびくしていて、冷静に判断できるのだろうか。

あたしのこんなとこイヤだわは、自分のありのままを否定している。自己嫌悪は自己否定なのだ。その自己否定の中で49年間生きて来ている。そんな生き方でいいのか?そこまで自己否定を徹底するのなら、そのパターンさえも否定してしまおうではないか!

んで、自己否定を否定し始めたのだ。


絵:アジアを旅するガイドブック表紙/スリランカ

2010年9月15日水曜日

裏高尾カラカラ砂漠




近所の畑の入り口に、おじさんがひとり座り込んでいた。
「ダイジョブですか?」と声をかけると、
「そろそろブロッコリーの苗を植えないとともって来たんだが、この暑さで身体がまいっちゃって、これからやろうかどうしようかと迷っているんだ。」
おじさんは、畑の入り口に生えている雑草の影に身を小さくしてうんこすわりしている。
「この畑にはどこにも日影がないから、ここですわっているしかない」

先日もそのおじさんを見かけた。一輪車に大きなポリタンクに水を入れて運んで来た。畑の入り口で一輪車の取っ手にすがりついたまま肩を落とし、ぜーぜー言っているのに気がついた。
「だ。。。だいじょぶですか。。。?」
おじさんは、
「もう。。もう。。。。こんなの。。。。買って食った方がましだあー!」
と、雄叫びをあげた。

空前の雨なし現象のおかげで、近所のどこの畑もカラカラ。一面赤い砂漠のようになっている。この「カラカラ砂漠」にいくら潅水してもあっという間に蒸発。野菜を育てるにはしばらくは延々と潅水し続けないといけない。
「とにかく芽出しだ。まず芽を出させないとはなしにならないんだ!」
近所の別の畑のおばちゃんが言うには、大根の新芽はこの暑さで芽がでてもあっという間に枯れていくそうだ。だがおじさんのいう通り、芽がでないことには大根はできん。

今年の夏は本当にきつかった。私はやり始めて2年目だから比べようもないんだが、みんな相当ばてている。知り合いの有機農法のおじさんは、ついに心筋梗塞で倒れてしまった。幸いにも一命を取り留めた。あーほっとした。しかししばらく畑には戻れない様子。きれいに整理してある畑が今は草ぼうぼうだそうだ。

その草ぼうぼうが、今年は生きて来る。
おじさんにはいえないが、じつはウチの畑は大根も葉ものも順調に育ってくれている。土の表面は草が影を作り、土の中は草の根っこが保湿する。この日照りにもかかわらず、水を含み、新芽は枯れることがない。

心筋梗塞を患ったおじさんも、その草ぼうぼうのまま畑をやればいいのに、なんて思う。だが、まちがってもそうはならないだろう。あくまで草は野菜の栄養を取ってしまうと信じているから。私はといえば、草がその土を自然な状態に変えてくれていると信じている。本当のことは誰にも分らない。人間には分りきれるものではないのかもしれない。ただ、みんなそれぞれが信じる方法で進んでいくだけなのだ。


おじさんを残して私も畑にいく。さっぱり育たなかったモロッコインゲンの支柱を外し、まわりの草も刈って、その畝の上に置いた。これから冬野菜を育ててくれるまでのしばしのお休み。どうして育たなかったのかなあ〜?外しながら、やっぱり理由は分らなかった。なにはともあれ、インゲンさんお疲れさま。

帰り道、おじさんにまたあった。
「あれ?ウチに帰らなかったんですか。」
「ああ、あれから結局全部苗を植えたよ」
ホッとした顔のおじさんがいた。


絵:アジアを旅行するガイドブック/香港

2010年9月13日月曜日

いらんことする人間




ニンゲンは、心を空っぽにすることをおそれているんじゃないだろうか。
延々と思考が動きまくっているのは、何か考えてないと死んじゃう!と、サメみたいなところがあるんじゃないだろーか。

何も考えないことを5秒でもやってみたことある?なんだか自分が漠然とし、誰でもなくなり、自分が消えてしまうような心細さって感じたことない?足下に大地がなくて宙ぶらりんな感じ。一瞬でもそれを味わったら、次の瞬間あわてて頭の中に言葉がでてくる。すると何かに捕まっている実感が得られるのだ。「私」という実感。それでまた思考がはじまる。
「おっと危ない。今のみた?私じゃなくなっちゃう感じ。ああいやだ。おもわず自分を忘れるところだった。くわばらくわばら」
思考は「私」と言うこの個人を意識させてくれる。

ところが、その無心の状態が少しつづくと、自分でなくなることがどうでもいいことになって来る。モノと自分との境界線がなくなり、自分は木でもあり山でもあり、そして空でもある。世界がただひとつの存在のように感じ、日常の生活がたいしたことではなくなる。その時のなんとも言いようのない感覚は私たちがまだ知らない、いや、忘れてしまっているなにかをかいま見せてくれるのだ。
だが突然思考がはじまり、一瞬のうちに「自分」に日常にかえってくる。


私はそのなにかを知りたいのだ。
きっとこの私たちがみている世界はほんの一部だけのことで、そのまわりにはとてつもない世界が広がっている。それを思い出すには、この厄介な思考が何かヒントを握っている気がするのだ。それは滝に打たれて修行することでも、瞑想することでも、世界に人々を救いに走ることでもない。ただここに今いる自分自身の中にその入り口がある。


やまんばは実験するのが好きになった。
石けんなし生活で自分の身体を使って実験した。そしたら身体は、それひとつで完成されたものであることを知った。畑も今、実験を繰り返している。

だから自分のこの考えも実験するのはおもしろいじゃないか。自分がなにを考え、なにに反応しているのか観察するのだ。この世のすべての不幸はこの心というか頭の中からはじまるのだ。人が死ぬことはいけないこと、病気になるのはいけないこと、会社をクビになるのはいけないこと、お金がないことはいけないこと。と言う基準は外からもらったものだ。その基準を元にして人々は、自分で幸不幸を作り上げている。その基準は遥か昔からもって来たことかもしれない。おじいちゃんのそのまたおじいちゃんから。それが人間本来のものなのか。どうして昔から延々と不幸なのか。歴史はどうしてこうも悲惨なのか。人間生活自身が不幸そのものなのか。

地球を見渡しても、地球の環境を邪魔しているのは人間しかない。人間以外はみんな見事に巡回して調和を保っている。地球にいわせたら、人間そのものがガンだ。
そんな煩わしい種族は、くしゃみでもしてのけちゃえばいいのに、地球さんは黙って我慢してくれている。きっとそこにもヒントがある。

いらんことするのが人間以外いないのだ。そのいらんことは、思考からはじまる。だからその思考から実験を始めるのだ。


絵:ペーパーバックミステリー扉イラスト

2010年9月11日土曜日

不安がないと不安?




やまんばは暇なもんだから、自分の心の動きを観察した。
すると、、、でてくるでてくるネガティブなアイディア。。。まるで何か考えていないと不安になるかのように。そしてその不安の材料を見つけては、また不安になる。おかしーではないか。不安を解消するために、不安の材料を探す心。

「どっかにない?ネガティブな材料。。?どっかに。。。あっ、あったーっ!そうそう、あたしのこれからの人生のことよ。いったいどーなっちゃうの?」
と、ほら、すぐまた不安になる。マゾか。

わしゃ、この心というか頭の(?)からくりを見つけちゃったのだ。
どうも脳みそか心か知らんが、それはこのように常に動き回って、考えるものをさがしているようなのだ。そしてそれはほとんどネガティブなもの。暇な人はやってみてください。自分が次々に頭に生み出してくる考え。そのほとんどがポジティブなものじゃなくって、ネガティブなものじゃない?
そしてその思考はほっておいたらどこまでも突き進んでいく。日常的に具体的にやることがないと、そのドツボにはまりやすい。仕事があれば、「あ、仕事」と、意識は別のところに飛ぶ。しかし仕事も慣れてしまって決まった動きのものなら、頭は暇になるので、また勝手に頭がネガティブなことを考え始める。ほとんど自動的に。
「仕事早く終わらねえかなあ〜」
「つまんねえ仕事だなあ」
「きょうはぶちょーがきげんわるいぞお〜。」
ここに「楽しいなあ、仕事!」と考えている人がどのくらいいる?
ネガティブな考えはいつまでも持続して考えることが出来るが、楽しいなあ〜人生!と考える時間は一瞬だけなのだ。なんで?やっぱり人はネガティブなものに引っ張られる?

ひょっとしてその原因は、日本人の気質のようなものもかかわっている?
ちっちゃい時から、のんびりかまえていてはいけない。常になにかしていないといけないとせかされて育って来たではないか。そういう教えが心底身に付いて意識もされない。そのありがた~い教えにのっとって、常になにか考えていないといけないと思い込んでしまっているのが現代人なんじゃなかろうか。

そう思うと、どんなにお金があってもどんなに健康でも、どんなに地位が高かろうと、心は常に不安を探して考え続けていることになる。ということは、人はいっこうにしあわせになれないじゃないのよー!

しかもその考え方はしあわせになれないどころか、心を不安定にし、自分自身にも他人に対してもこの世に対しても不信感がつのり不調和を生み、人間関係がぎくしゃくし、身体が変調を来たす。


みんなが不幸なのは、この右往左往動きまくる頭の動きに気がついてないからなんじゃないか?電車に乗ってもネガティブなシーンに気がとられ、道を歩いてもネガティブなものに心を奪われる。すると決まってこういうのだ。「ああ、だからこの世はきついのよ」そういって首を横に振り、眉間にしわを寄せてこれからの仕事の打ち合わせを考え、今晩の晩ご飯のことでうんざりする。
そのパターンに気がつくことじゃないだろうか。頭は常にそのように動いてしまう性質を持っているということを。


絵:コージーミステリー扉イラスト

2010年9月10日金曜日

しあわせ感




人が一番求めるもんは、つまるところしあわせなんではないだろうか。お金がどんだけあっても、どんだけ健康であっても、どんだけ権力握れようと、どんだけ子だくさんであっても、どんだけ仕事がいっぱいあっても、どんだけ畑で野菜がとれようとも、つまるところは、その人が感じる「しあわせ感」なんじゃないだろうか。

んで、そのしあわせ感は、どこにもころがっていないし、どんな高い山の上にもないし、銀行の中にもないし、デパートでも売ってないし、つまるところ(しつこいなあ)、自分のこの、ちっこい胸(貧乳の意味じゃない)の中だけにあるもんではないだろうか。

人は何かと「もっとお金があったら、、、」「もっと健康になったら、、、」「ダンナがもっと家のことしてくれたら、、、」「もっと友だちが出来たら、、、」「あいつさえいなけりゃ、、、」。。。
「なんだかしらないが、そーなってくれると、あたしは幸せになれるんだよお、このばかやろー!」っておもってる。しあわせになれる方法は、外の何かが変化をしてくれたら、あたしは幸せになれるんだと思っているふしがある。

でも世の中には、腐るほどお金を持っている人もいれば、天まで届くくらい地位の高い人もいる。死ぬほど子だくさんの人もいるのに、それほどしあわせそーなひとはこの世に見当たらないのはなぜ?


たとえば、お金が一銭もないとき、ここに100円があったら、コロッケ買えるのになあ~とおもう。んで目の前に100円が落っこちてたとする。すかざずコロッケを買う。(交番に届けるあんたはえらい)コロッケ食ってしまうと、パン食いたいなあ。とおもう。パンが落ちてたとする(食うなよ~)。すかざず食う(食っちまうんかい!)。パン食っちまうと、コーラが飲みたいなあ~とおもう。コーラが落ちている。(落ちてるわけないだろ)コーラも飲む(飲んじまうんかい!)。

と、このように人はあったらいいながどんどんひろがっちまうわけだ(え?やまんばだけか?)。その心理は、これでない、あれ。
つまりいつも心は満足しないのだ。いつも不安を抱えている。100万円あったらいいなと思っていた人は、その100万円をもった瞬間、そのしあわせはどっかにふっとんでしまい、次の不安が始まる。もしこれがなくなったら、、、と。

人って不安の材料をつねに探してないか?
ひとつの心配事がおさまると、別の心配事を探している。その心理はここでないどこかであり、これじゃないなにか。未来のことを案じて今何か策を練らなければとんでもないことになると、心の深いところでその恐怖におびえている。だからとりあえず、100万円手に入ったら、「さ、次の心配どこ?今のうちに手を打っておかないととんでもないことになるからね~」と心が言う。すると、テレビで「今の保険で大丈夫ですか~?今ならこれだけの金額で一生涯保険!」と聞こえて来る。万が一のために、何かあった時のために、とさそわれる。んで、その不安を解消するためにその100万円をほいっと渡してしまうのだ。CMはそういうニンゲンの心理をうまく利用することを知っている。私たちはその不安をネタにおどらされている。

さて安心が買えた100万円がなくなってしまうと、心はまた
「100万円あったらいいなあ~」とはじまるのだ。

しあわせ求めてネバーエンディングストーリーだ。


絵:アジアを旅するガイドブック/台湾

2010年9月9日木曜日

みんな正しい




人はみんなそれぞれに正しいんじゃないだろうか。
それぞれの立場でそれぞれの理由によって行動する。しかしそれははたの人から見たら、
「ありえね〜」とか「しんじらんない〜」と解釈される。かくしてその行動した人は影で
「あいつばかじゃねえの?」と揶揄される事になる。
そういう事がこの日常の中でいくつも繰り返されている事じゃないだろうか。

先日も母が知り合いのとった行動がおかしい、ばかばかしいと怒ったり嘆いたりした。
長年日本画の生徒であった人が、先生クラスの画家しかやれない画廊で大掛かりに展覧会を開くと言う。母に言わせれば、彼女はまだ展覧会を開けるようなレべルの絵ではない。しかも申し込んだ画廊から、「生徒さんが申し込むようなところじゃないわよ」と言われたらしい。それでも彼女はがんばった。最近同じ教室の生徒さんが東京で個展を開いた。(それは子供が東京にいるからという事でもあるが)それを聞いて、がぜん闘争心が湧いたようだ。大々的に宣伝をして、わざわざ図録まで印刷する。相当お金が飛ぶ。それでもやりたい。しかし彼女ひとりの絵では空間がもたないらしく、同じ日本画教室の仲間を呼んでの展覧会になる。ところが母はそこに呼ばれなかった。彼女いわく、
「あなたは絵が私よりうまいから出さないでくれる?」

ここまであっけらかんと言われると気持ちがいい。私は笑ってしまった。
しかし
「アタシもそっちの方が楽ぞね。なんちゃあ手伝わんでえいし」
という母の言葉に怒りがあった。そりゃ常識からしたら、見えはりの勝手な人である。母の美意識からしたら、もってのほか。ニンゲンの風上にも置けないひどいやつ。

でもそうなのかなあ。
彼女にとったら、それが「正しい行為」なのだ。見えはるのも、彼女の存在理由を求めるためなのだ。私はここにいていいのだと、外から確かめたいのだ。それは彼女の小さい時の生い立ちも影響しているにちがいない。彼女のひとつひとつの行動がそういう今まで生きて来た間に身につけて来た考えなのだ。

人は自分の中に基準というものを作る。それがいわゆる「常識」というやつだ。ウチのダンナがいつも「フツーこうだろ!」と怒る、その「フツー」とは彼の中にある常識なのだ。それは誰とも同じではない。みんなそれぞれの立場、生い立ち、経験その他、無数の出来事によってその場その場で対応して出来上がって来た考えであり、行為なのだ。
母も同じように彼女の生い立ち、おばあちゃんの考えをもらって基準を作り、その基準でもって行為している。私にはそれは美しい行為にみえる。(時々おバカだけど)しかしそれも私が母の基準をみて育ったからなのだ。

だから先方のおばちゃんの行為はその母からの基準でみれば醜く映る。が、それは一視点から見ただけの事だ。他の視点から見れば、自分の欲望をそのまま表現する素直な人、となる。

「かわいいじゃあないか〜、そのおばちゃん」
とダンナは言う。
「そこまで素直に言えないぜ。あんたの方がうまいから出すななんて」
つまりそれは母の絵を認めている事でもある。

いわれた当事者はそんな事言われたら頭にくる。でもそこでジャッジしてばかりいると、その人がもつ基準の中だけでいる事になる。それでは人はいつまでたっても相交わらない。そんな出来事があったという事は、そこで何かを考えろと言われている。
「あなたの基準だけで生きていてもくるしくなるわよ」と。
人は自分の基準でもって、人や世の中をはかっている。いや外ばかりではない。自分自身の事だって「こうあるべき姿」を基準にして自分を常にジャッジしているのだ。そのおばちゃんだって、「あたしはこうあるべき!」という強迫観念的な基準でもって、自分を今押し進めているのだ。

じゃあ、そんな基準捨ててしまえばいいのか?
いんや。基準は自分ももっているし、人ももっているという事にまず気がつく事なんじゃないかな。そしてその基準でもってみんな行為をしている。そしてその行為はちゃんとそれぞれの心の中で正当化されている。そこを理解すると、ジャッジは必要だろうか。
ほんとうは、みんな正しいのだ。それぞれの立場でものを考えると言うではないか。それはとてつもなく大事な事なんではないだろうか。それは認めあう事でもある。そうなってくると、批判もジャッジもなくなる。自分自身へのジャッジもだんだん意識化するうちに消えはじめる。すると楽になっていく自分に気がつくのだ。

みんな正しい。みんなえらいのだ。


絵:アジアを旅行するガイドブック表紙/ベトナム

2010年9月3日金曜日

汗は天然の化粧水?




汗びっしょりになって畑からかえってくる。
べっとりぬれたTシャツは着替えるけど、シャワーは浴びない。なんでかしらんけど、汗をかいたまま汗を皮膚の上で乾かすと、なんだかお肌にいいような気がするのだ。この大事な汗をシャワーで落としちゃったら、もったいない気がするのだ。その汗が乾くと、今度はさらさらのすべすべな肌感覚になるから不思議なのだ。

きのう、いつも行くコンビニでビールを買った。畑帰りのこの一杯がたまらんのだ〜。コンビニのレジのおばちゃんにほめられる。
「農作業やってるわりに、腕にもシミひとつないわねえ」
「え?腕にシミなんかできるの?」
と、おばちゃんの腕を見たら、おばちゃんは恥ずかしそうに後ろにかくれた。
「まだ、若いからないのよねえ〜。私と違って」
「そーそー、わたしゃ、まだ18だもん」(うそつけ。そこに30足すんだろ)
などとアホな事言ってその場をもりあげる。

シミが出来んのは、腕にシミができるとは、考えた事がなかったからか?それとも石けん使わんからか?わからん。
顔洗うのも最近は石けんひとつ使わない。お湯かお水でじゃばじゃば。おわり。これやりだしてから、なぜか日にあたってもこげない。シミはあるけど、それ以上ふえる様子もない。右ほおにでっかいシミがあるが、これはNYで出来た。あの頃は石けん使っていた。

やまんばは、身体から出てくる液体(おしっこもか?)はステキなものにおもえる。だから汗は天然の化粧水なのだ。その天然の化粧水をシャワーで落としてしまってはもったいないとおもうのだ。潤いっちゅうもんが失われる。失われるとフォローしないと行けないので、化粧水をつける。でもそれが人工のものだから、いろいろ問題がでてくるっちゅうわけかもしれん。

そーゆーことで、腕にもシミが出来んのかもしれん。わからん。
ドシロートは大胆なのだ。なんという事を仮定するかわからんど。



ところで今、家の前の川でイノシシちゃんが沢ガニを食べている音がする。まだ明るいのに大胆だ。二階のベランダからのぞく。いた。母ちゃんイノシシとウリボウ5匹!なんだかかわいい。今日も暑かったからなあ。涼しく夕食を食っているわけだ。
高尾はまだまだ野生の王国じゃの〜。



絵:アジアを旅するガイドブック/タイ

2010年9月2日木曜日

玄米の炊き方




私が玄米を本格的に食べ始めたのは、ニューヨークで近所に住む日本人の絵描きさんから教えてもらったことからだった。それまで玄米と言えば、圧力釜でぷしゅぷしゅ言わせながら炊き上げる、ちょっとメンドーなやり方しか知らなかった。しかも玄米と言えば、かんでかんでかみまくって食べないと消化に悪いというふれこみも、身体にいいとは知りながら何となく敬遠させていた。
しかしニューヨークの乾燥した空気の悪い、しかもジャンクなフードにかこまれた食生活は、わしら夫婦の身体をじょじょに蝕んでいた。そんな矢先にお気軽にできる玄米の炊き方を教わったのだ。

なんのことはない。炊飯器で炊くのだ。こつは水の量の調節だけなのだ。炊飯器によってくせがあるので、それはやりながら調節してもらう事になる。でもだいたい普通の白米の水の量の1、5倍〜1、7倍くらいだろうか。そこらあたりまで水を張ってフツーに炊く。2時間ぐらいそのまま水に浸しておくと、なおいいかもしれん。私はそうやって7年間アメリカの玄米を食べ続けた。

今は日本に戻って玄米も炊ける炊飯器にたよっているが、それでもお釜にある水の量よりも多めに入れる。2合炊くのに、水の量の目盛の8ミリから1センチ上まで入れるのだ。最近は古代米といわれる黒米を大さじ一杯入れる。炊くとお赤飯より少し濃い色の紫飯ができる。これが玄米をより柔らかくしてくれるようだ。もちもちとした触感がとっても味わい深いし、やわらかい。この紫色は肝臓に非常によろしいようだ。目にもいい。こんだけコンピューターにかじりついているけど目が痛くならないのはこれのおかげかもしれない。もっとも老眼までは治してくれぬが。。。

その玄米を白米食べるのと同じように食べる。玄米はよくかんで。。。というのをスッカリコン忘れている。しかし最近読んだ本に、かめばかむほど胃腸が弱くなるという説もあった(笑)。口でかみすぎて小さくなるので、胃が働かなくなるという。だからあまりかまずに飲み込んだ方が胃ががんばるから強くなる!とも。
モノはいいようだ。好きなように解釈してくれ。わしゃ、わしのやり方で食べる。

玄米食べると野菜中心の食事、肉は御法度、魚は時に食べても良い。。。てのが鉄則らしい。しかしあのきついニューヨーク生活の中で、好きなもん食えんかったら死んでしまう!ってなことで、鉄則無視してがんがん食べた。で、イノチに別状はない今に至る。あのとき玄米がなかったら、あそこで元気ではいられなかった。玄米さまさまなのだ。

あのかむほどに味わいが広がる玄米独特の味わいに、スッカリコンほれてしまったやまんばであった。


絵:アジアを旅行するガイドブック表紙/中国

2010年9月1日水曜日

やまんばの食事




私は基本いやしーので、あまり食べ物に規制はつけたくない。
だけどこのやまんばにも歴史があって、昔っから自分は身体は弱い(とおもいこんでいた)ので、色々食事療法をやった。いつも身体がだるく、その原因も分らず、ひたすら「なにかしなきゃ」とおもって、漢方薬にも手を染めた(なんだか恐ろしーもんでも触るような言い方だな)。糖分を控えたり、塩分を控えたり、添加物をとらないようにしたり、マクロビオテックもちょっとかじったし、丸元淑生さんの本にもスッカリコンのめり込んだ。あげくに小食を知り、ほとんど食べない方向にまで行ったこともある。

数々の食事療法大作戦を繰り広げて、その結果こういう考えに至る。
何でも食べてやろ。

酒も飲むし、肉も食べるし、お菓子もジャンクフードも食べるし、カップヌードルもインスタントラーメンも食う。タバコは好きじゃないから吸わないけど。身体にいいことしているとしたら、玄米ぐらいか?けど、玄米食べる人は基本的に肉は食べてはいけないといわれている。だからそこで肉食べたらマイナスに転じて、なお身体に悪い事している事になる。しかし肉と一緒に玄米食べ始めてかれこれ15年ほどになるが、別に大病するわけでもなく、風邪もほとんどひかない。なので、玄米と肉の関係は、かんけーないのかもしれない。やまんばとダンナの身体だけがおかしーのかもしれんが。

ネットを見ると、いやというほど、身体に悪いものを教えてくれる。アステルパームやフッ素や添加物や電磁波やワクチンや。。。あれは食べてはいけないコレも食べてはいけないと畳み掛ける。そしてコレから飢餓がやって来るから自分でじこじこ食料を備蓄しましょうなんて。
なんだかねえ。テレビ見ても嫌気がさすほど脅されるけど、ネット見てももっと脅される。

こーゆーのはうんざりするのだ。
ヒステリーになって野菜ばかり食いたくないのだ。ヒステリーになって備蓄したくないのだ。備蓄する人はいざというとき、他人にその備蓄を分け与えられるのかい?わしゃできん。絶対自分の分だけ黙って確保しちゃうもん。こんな精神のわしだったら、備蓄しないがましだ。そんな自分を見るのはイヤだもん。

人は食べないでも生きていけるという説がある。水もいらないという説も。こういうのを聞くとホントかどうか知らないが、なんだか心のどこかがうきうきする。食べなきゃいけない、飲まなきゃいけないと、イケナイコトづくしに縛り付けられない開放感がある。この世に完全食なんてモノがいまだにないのは、ニンゲンが考える範疇でニンゲンは生きていないという事ではないかな。全く未知のもので生きているのかもしれない。


最先端の科学の説の中に、物質というものはないという説がある。それをもとに考えるなら、食べている食べ物も本来は存在しない事になる。おなかの中にたまった気になっているだけなのかもしれないし、それが栄養になって身体を作っている、という気になっているだけなのかもしれないではないか。どっかのウチュー人の話の本に、食べ物は単なる愉しみだから、からだの中に入ると食べ物は消えていくというのがあった。そんな考えがあるとしたら、砂糖をとったら太る、という気になって地球人は太るのかもしれないし、お肉を食べたら血液がドロドロになる、と思っているからどろどろになるのかもしれないではないか。そもそもその私たちの身体という物質はなかったらどーなる?私はこの物質的身体と思い込んでいるものも単に思い込みだけだったら?

お化けが見えるという人がいるけど、あれはラジオのようなものにチューナーの周波数をお化けが見える周波数に合わせているからみえるのだと言われる。だったら、ニンゲンの身体が見えるのも、その見えるという周波数に合わせて見ているだけなのかも。じゅーじゅー焼けるステーキがある、とみえるのは単に立体的なテレビの周波数に合わせてみていて、そこには匂いも味もあるから、そんな気になっているだけで、そのチューナーを変えればいきなりなにもなくなったりするかもしれないわけだ。
そのくらい曖昧なものだとしたら、食事をどうしたら健康になるなんて、どっかのテレビ番組を見ているのと同じレベルなのかもしれない。

なあんて考えると面白くなって、そんなら何食ってもいいや、という考えに至ったのであーる。そう思えるようになったのも、石けんなし生活が見る見るうちに私を元気にさせてくれているからかもしれない。そしてほんの少し野草などの自然のままの植物を口にする。これも大自然のエネルギーを受け取る大事な感覚じゃないかと思ったりする。
あれこれ心配しながら食べたり除菌するより、何でも食って「おーしあわせ〜」といいながら夜空を見上げ、布団に潜り、すっかり寝ちまうのが一番の健康法じゃないか?などと単純なやまんばは思うのであった。


絵:メディアファクトリー新書表紙