2020年11月20日金曜日

愛の交流

 


先日、マクドナルドに行った。


大きなガラス越しに、ママチャリに乗っけられた赤ちゃんと目があった。

ダンナが手を振ると、それに答えた。

私も手を振ったら、私にも答えてくれた。


「あっ!」と思った。


これだ!

と、心が震えた。




最近よく遊びに行く近所の神社。

そこに行くと、私は自分のアイデンティティが失われる。

誰でもなくなってしまうのだ。


その時、自分がいかにイラストレーターであることにすがっていたのかを知る。


人は肩書きにすがる。

自分は何者であるかという自負と共に生きる。いわばそれを拠り所にして威厳を保つのだ。


それがこの場所に来ると、それが味わえない。

その肩書きを重要視してもらえないのだ。威厳は保てない。

むしろなんでもないものになる(笑)。


それはそこの神主さんや宮司さんが元教師であるからなのかもしれない。

誰も特別視しない。

みんな平等に扱うという、先生としての正しい仕事を全うされてきた人たちだからなのだろう。


誰でもなくなった私は、そこに行く意味があるのだろうか?という疑問がありつつも、

「これは私に何を教えてくれようとしているのか?

いったい私が何者でもなくなったら、何が起こるのだろう?」

という密かな実験でもあった。





ある時、いつものようにご神事が終わり、直会の準備を粛々としていると、

「はい!つくしちゃん、お餅!」

と、いきなり声をかけられた。


目の前には、ご神事で奉納された鏡餅を切り分けホットプレートで焼いた磯辺餅。


その時の私は、まるで小学生のような喜びに満ちた。

だが大好きなお餅が手渡されたことの喜びではなかった。


誰でもなくなった私が、ついに見つけられたような、

真っ暗な中で、ついに光に照らされたような、

そんな喜びだったのだ。


その無上の喜びに、自分でもいったい何が起こったのかわからなかった。





それが赤ちゃんとのあの交流で一気に解けた。


お互いがお互いを見つけあって、確認しあって、

「あっ、いるね!」

「うん!君もいるね!ああうれしい!」

「ああうれしい!」

と、喜び合っていた瞬間だった。


彼女に見つけてもらった私は、彼女と互いの存在を確認しあっていた。


そこには何の肩書もない。

互いが互いの存在をただ喜び合って、それを分かち合う。



その出来事は、今は遠くに引っ越していった、耳の聞こえない少年との、

あの出会いの時間をも思い起こさせてくれた。


まさにあの時もただお互いの存在を確かめ合って、

ただそこにいることに喜び合っていた。

そこには何の言葉もいらなかった。



神の子が、神と出会う。

互いが互いを喜び合う。


その喜びは拡張して無限に広がっていく。


これを愛と呼ばずして、何と呼ぶのだろう。





2020年11月19日木曜日

光で見る その2

 

自然を光で見る実験をしたのち、今度は人を光で見てみる。


目の前のダンナを見てみる。。。くっ、、、できない。。。

力尽くで見てみる。。。。

うー。。全然できない。。。



そうなのだ。

胸のあたりに光をイメージして。。。とやるが、

目の前のダンナの顔に意識が向けられて、光で見るどころの騒ぎではない。


しょうがないから目をつぶってイメージしてみる。

目の前にいないと、ちょっとだけ光でイメージできたw



それにしても、木や山を光で見るのと、どうしてこうも違うのだろう。。。?


抵抗している。

心のどっかで「お前なんか、光で見てやるもんか」

という、ダンナへの大きな抵抗に気づく。


光で見るとは神聖なことなのかもしれない。

日頃いろんな思いがあるダンナを、そんな綺麗なもんの中にいれてやりたくねえ!

という思いがあったのだ。


その証拠に、遠くで道を歩いている関係ない人には光で見ることができる。

でも目の前に来ると、「うっ。。」と、微妙に抵抗している。


私の中にある自然への思いと、人間への思いの違いを自覚させてもらった。






その日もコタツを挟んで、ダンナを目の前に光実験に悪戦苦闘していた時、

不意に彼の胸のあたりにぽっかり穴が空いて、その向こうから光が差しているというビジョンを見た。

すると彼の後ろから後光が見えた。


え?

この映像どっかでみたことが。。。


背中に光を背負った観音様の仏像。

法隆寺で見た、ひょろっとスレンダーな、私の大好きな百済観音を思い出した。


そうだ。

仏教彫刻の背中に後光を背負ったあのお姿は、こういうことだったのか。


私たちは、目の前の人の形を捉えている。

でもそれは肉眼で捉えているからのこと。

本当は私たちは光そのものなのではないか。

それを霊視した人たちがいて、それを彫刻したのだとしたら。。。



光を見るという実験をすると、だんだんもう一つの世界がわかってくる。

目の前に見えている世界だけが世界じゃないということを。


これは仮の世界だ。仮想現実だ。

私が私という肉体を持った気になって、

その肉眼で、私と似たような形の生き物を見ているのだ。



目の前の母親がハリボテに見えていた、小さい頃の光景を思い出した。

それは事実を見ていたのかもしれない。

本当は母の後ろに光があるのだが、それを遮るように、私がハリボテの母親像を作った。

それは自我としてのわたしの恐れが作り上げた影だった。

その影は今もこの世界に投影されている。


だが光をどんどん思い出していくうちに、

それは自分が作り上げた煙幕だということに気づき始める。



ダンナに光を、お山に光を見る。


それは延長されて私も光に包まれ、

互いの境界線は消え去り、


全く一つの眩いばかりの光になった。










2020年11月17日火曜日

光で見る

 


最近実験をしている。

目の前に広がっている風景を全部光で見るのだ。



目の前のパソコンやライト、自分の手。

ぜーんぶ光としてみる。

そうはいっても肉眼で実物を見ているから、単なるイメージでしかない。


それでも一瞬だけパッと見える。

面白いので散歩の度に目の前のものを光で見る。




光り輝く道、光る杉の木、キラキラする雑草たち。。。

よく見てみると、光の粒子がうごめいている。


かすかな淡い色の違う丸い粒子が混ざりあって、樹々と葉っぱの間に境がない。

お互いがお互いの粒子を絡ませながら、ゆらゆらとゆっくりと空に上がっていく。



ハッと我に帰る。


いつもの風景。


肉眼では、杉の木は杉の木として、葉っぱは葉っぱとして、互いに独立して見えている。



あらためて光で見ると、木々どころか、道も山も草もみんな光で一つになっていく。。。



「ああ、そうか。もともと彼らは光なんだ、、」

と気づく。


光であったものに、私は肉眼で、そこに木や山を見ているのだ。





そうすると肉眼というものが怪しくなってくる。

木や山があるから、それを肉眼で捉えた、と思っているが、

この肉眼だから、それを木や山という風に見ているのではないかと。



笑えてきた。

物理学がひっくり返される。

物質がある大前提で考えられているものが、

「この肉眼が見ているからそこにあるように見える」だけだとしたら、、、?





今度は人を光で見てみる。

自分を光で見ようとした時、じゃあ、この体も光だとすれば、この肉眼さえも光だということになる。。。


物質界がますます怪しくなってくるw




私たちはこの空間という物質界に、

一人の人間の形をした生き物として生まれてきたと思っているが、

そもそもこの物質界という空間さえ捏造されたもので、


そこに一人の人間として生まれたということさえ、

捏造されたものだったとしたら。。。



私たちは大きな勘違いの考えを与えられ、

洗脳させられて、


生まれては死んでいくという錯覚を見ているだけなのかもしれない。




絵/余韻