おばあちゃんのすごいところは、結果を気にしてないところだ。植える。ただそれだけ。
片や私は、結果に執着している。
草ぼうぼうで育った野菜は育つのか?育たないのか?ホント言うと、ババーンとおっきくなって、みんなに「ほーらすごいだろー」って自慢したいのだ。それが執着となって、結果ばかりに心が奪われる。
でもさ、人は行動するとき必ず結果を求めるもんじゃない?やさしくしたら、お礼を言われたいし、がんばっちゃったら、成功したい。いかんせん、この世はそうならないのがこれまたつらいところなのだ。でもよく考えると逆にするとなんだか不純になる。やさしくしたのは、お礼を言われたいからなのか?それじゃ偽善者になっちまう。そりゃ成功したいからがんばるんだろうけど、成功するとは、個人的な欲望なのではないのか?やっぱりどっちも後ろに欲が見え隠れする。
ほんとは、やさしくするのもがんばるのも、結果を出すのが目的ではなくて、人間的に成長することが一番の目的なんじゃなかろうか。そう考えると、私のキュウリに対する結果は、単なる個人的欲望だ。
畑のなかできゅうりのおおきさを見るんじゃなくて、それよかおばあちゃんの有り様を見て、自分の姿をかえりみることのほうがもっと重大事項なのだ。
じつはおばあちゃんは最近畑にこられない。草をむしったり、耕したりしてついに疲れがピークに来てしまっていたのだ。あの世代の方々は草と虫は敵とされるので、やはり草と言うとむしらなければいけないし、土は耕さなければいけないという美意識にのっとっている。ちょっと無理がたたったようだった。同じ執着でもいろいろある。私は結果に執着し、おばあちゃんは美意識に執着する。
人はそれぞれにそれぞれの形で執着するものである。
2009年7月31日金曜日
キュウリの暴走
納得のいかないことがあった。
畑をいっしょにやっているおばあちゃんが植えたキュウリの苗が、フェンスのそとにあった。そこは草がぼうぼう、かっちかっちの地面で、柔らかくほぐしもしていないところ。おばあちゃんは余った種を自分ちのポットで育て、あっちゃこっちゃに植えまくったのだ。まわりは葛や他の強烈な山の草がはえ茂っている。にもかかわらずその中でおばあちゃんのキュウリはどんどん葉っぱを大きくし、そこらの地面を凌駕していった。その苗は今、巨大なキュウリを次々にならせはじめた。
「草といっしょに生えると栄養が取っていかれちゃうよ」
と、近所で畑をやっているおばちゃんから言われたが、このキュウリの栄養はどこから取っているのだ?
大きな葉っぱをかき分けかき分け覗くと、草におおわれてお日様もささないようなところに、でかいキュウリがどっかんどっかんといる。それを見つけた時のコーフンったら。「うげ〜」「ひや〜」「すっげえ〜」の感嘆詞しか出ない。このキュウリのきめの細かく濃厚で、そして甘いこと!昔の人はキュウリをおやつにしていたというが、これはおやつに違いない。
かたや私の実験室。ここはそのキュウリが植えられているところとたいして変わらない場所。むしろおばあちゃんのキュウリよりも日が当たる場所。その草ぼうぼう実験室は、植えたはずのキュウリの苗がまわりの草に押されてどこかに消えてしまっている。草をかき分け探すと、ひょろひょろのもやしみたいな苗がかろうじて草の中に存在していた。ほんのちょっぴし実を結んだキュウリも、日影と湿度で溶けていた.....。
...何なんだこのちがいは!
同じ草ぼうぼうでもなぜこんなに差が出るんだ!?
そこでおばあちゃんと私の行動の違いを考えてみる。
おばあちゃんは植えたら、必要な芽カキはちゃんとやるが、あとはしらん顔している。一方私は、ひたすら苗に目をかける。「どれどれ、おっきくなったかなあ〜?」「この草はとるべきか取らないべきか...。」「あんまり草ぼうぼうだと日影になっちゃうから、やっぱ草刈らないとなあ」「でも刈ると虫がくるからなあ....」と、いちいち気にしている。
場所も条件も同じ。違うのは私は種から植えて、おばあちゃんは苗から。おばあちゃんの苗が植えられた頃には、私が種から植えた時と同じ大きさだった。どっちかというと、私の種の方がその地に根付いているから強いはずだ。
やはり思いに違いがあるのか...?
私が気をかけ過ぎるのは、つまりどこかで「ちゃんと育ってくれるだろうか?」という疑いがあるのではないだろうか。その疑いがキュウリの生長を妨げている.....?
おばあちゃんは、植えたら疑わない。「あ、そのうちなるでしょ」ってなぐらい。そうすると、自然の摂理はうまく作用する。まわりと折り合いをつけながら、すくすくと育つ。一方私は、大丈夫だろうか、ホントに育つんだろうか、もし育たなかったらどうしよう...?と、どっかでその苗の成長を疑っているのだ。
これは子供の育て方にも似ていない?
「あの子、大丈夫かしら?へんな子にならないかしら。私がちゃんと監視していないと何しでかすかわからないじゃないの」と親に始終疑われて(心配されて)いたら、子供はそれに気がつくってもんだ。「あたしのこと信用していないのね...!」と。
で、「なら、信用してないようなことしてやる!」とあらぬ行動に出ちゃったりする(?)。
でも「あの子は大丈夫」と親が全然心配してなかったら、子も何となくそれがわかる。親に信頼されている安心感から悪いこたあできない。私もそんなふうに親にほっぽっとかれて、悪いコトできなかった(笑)。
『庭師が種を植えるとき、彼らは芽を出させようと努力をしないし、種が植物へと育っていくことについて疑いもしない。ひとつひとつの種の中に植物を創造する必要なものすべてが入っているという確信が揺らぐことはない。そして庭師は結果に固執することなく、結果はそこにあることを知っている...。』「あなたが『宇宙のパワー』を手に入れる瞬間」より抜粋。
なるほど。いらん世話やくから、キュウリがうまいこと育たんのやな。おばあちゃんは、過去のいろんな経験で「キュウリは勝手に育つ」ということを知っているのだ。まかせきっているのだ。(はた目には無責任に見えるのかもしれないが、これが極意かもしれん。これが宇宙を信じるってことか?)キュウリさん、疑ってごめんなさい。
これはいろんなことに言える気がする。仕事のことだってそうだ。先日久しぶりに営業にいった。犬が出迎えてくれる感じのいい小さな出版社だった。私はそこにそっと種をまいたのだ。それが育ってくれるか実を結んでくれるかは、また別の話だ。それを「どうだろうか、大丈夫だろうか、気に入ってくれるだろうか」と気をもんでその種の成長を妨げてはいけないのだ。結果に固執してはいけない。どんな結果になろうとも、すべては大いなる善に向かって前進しているのだ。それはまったく予期しない方向に進むかもしれない。でもまず、種はまかないと生まれないのだ。
いや〜、畑って人生のせんせーだなあ。
絵:けんぽ表紙『花火とスイカ』
2009年7月27日月曜日
エゴロジーなのだ
マイ箸とかエコバックとか、エコロジーがはやっているが、わたしゃけっこうエコロジーなのだ。「勝手に石けんなし生活」は、地球にやさしいのであった。別にこれ見よがしに地球にやさしくしようとおもったわけでなく、どっちかちゅうと、自分にやさしくしようとしたら、勝手に地球にやさしくなったわけだ。ま、はやいはなしが、エコロジーじゃなくて、エゴロジーなわけだな。
石けんなし生活は4ヶ月を越えた。高尾のお山には川がたくさん流れている。どうしても生活排水も流される。ここの地域は、最近になって下水道がやっと全域に完備されたってくらいまだまだ田舎なのだ。そうはいってもやっぱり生活排水は処理されつくすものではない。結局、真水にはなりきれず海に流れていってしまうのであった。
そういう意味ではとりあえず、我が家からは合成洗剤は流れていかない。まあちょこっとは、洗濯したりお皿洗ったりするから米ぬか石けんは流れているが、そこんところは許してくれる?
そういうわけで、勝手に石けんなし生活は地球にやさしいかもしれん。でも自分にはもっとやさしいのである。このくそ暑いのに石けん使わんでどーする!っちゅうはなしやが、これがまたいいねん。
前は喉が痛くなったら、あわてていろいろやっていたが、今は「あ、喉痛いのね。そのうち治るわ」と思っていると、勝手に治っている。畑でさんざん紫外線に当てられても、スッピンお肌は焦げなくなった。汗をかいても前のようなべたべたした感じにはならない。体臭もしない。心なしかシミもシワもじょじょに消えてきている。自分で言うのもはずかしいが、お肌がきめ細かくなった。まあそんなこた、どーでもいいのだ(なにをはずかしがっている)。それよりもなにより体調がグンとよくなったのだ。皮膚は内臓の内壁を同じだと聞いた事がある。皮膚がヨワイと、内臓の壁もヨワイという。だから乾布摩擦やたわしでゴシゴシ肌を鍛えて、免疫をつけるというやり方があるのだろう。しかし石けんで皮膚の上にいる種々多様な働きをする微生物を殺しておいて砂漠にし、その上にたわしでゴシゴシやるということは、皮膚にとって相当のスパルタだな。そういう意味では鍛えられていいのかもしれん(笑)。でもわたしゃ、石けん使わない方にする。だって楽なんだもん。勝手に微生物さんに働いてもらっている方が、鼻くそほじって寝て暮らせるし。
ちなみにシャンプーなしだが、これにはちと忍耐がいる。私もここに来てやっとさらさらになりかけているという感じ。やはり半年はかかりそうだ。どうしてもブラシをすると、ブラシに白いフケのようなものがつく。それをとるのがちと面倒なのだ。だがそれも徐々に少なくなってくると同時に、髪もさらさらになりつつある。抜け毛もほとんどない。枝毛も消えた。まあたまにはシャンプーしてもいいもかもしれんが、ここまで来て実験はやめたくない。ニンゲンどこまで自由でいられるか試してみたいのだ。
自由?
そうつまり、わしら人類は文明という名の下に、今までいろんなものを、作って来た。恩恵にあずかるとうれしくなっちゃってあれもこれもって作っちゃった。コンピューターだってあれば楽になると思ってせっせと開発した。なのにちっとも楽にならない。かえって忙しくなっちゃった。
それを打破するために、あれはいいかな、これがいいかな?とくっつけはっ付けしてきたんじゃないのかなあ。で、そのくっつけまくった「常識」にがんじがらめになっちゃった。あげくに「どうしていいのかわからない」ところにいるんではないかと。文明で自由になるはずが、なんだか不自由になってるんではないかと。
今は徹底的に物質よりになった時代だからこそ、引き算をするといいのかもしれん。
シャンプーリンスは聞くところによると、女の人の子宮に入っていくらしい。赤ちゃんの羊水はシャンプーリンスのにおいでドロドロしていると助産婦さんがいっていたと友人が言っていた。しかも合成洗剤はからだに悪いと聞くではないか。川に流しちゃ行けないとかいわれるし。そんなものからだに溜め込んでいていいのだろうか?
でも、まあ、シャンプーなしは忍耐がいるこたあ、まちがいないな。あのシャンプーのさらさら感を期待するなら。
石けんなしはからだを手でさささ〜ッとさすっているだけだし、髪もシャワーを流しながら手でゴシゴシやるだけだし、とにかくあっという間に洗えちゃうから、わしのような極道モンにはぴったし。
しかも何かにつけて調子がいいと来ている。もうこれは一石百鳥だ〜〜〜〜っ!
目に見えないところで私らのまわりをせっせせっせと働いてくれている存在たちがいる。その存在たちを無視して自分たちで何かできるんじゃないかと思いはじめたところから、おかしくなってきたのかもしれんな。やっぱニンゲンはアホやなあ。
そのアホさを徹底してエゴロジーになる。すると勝手にエコロジーになるのだ(ホントか?)。
絵:ハスの水「自然は緑の薬箱」より
ベトナムの貴婦人は、夜露をたっぷり含んだハスの花の水の化粧水で洗顔していたという。
2009年7月23日木曜日
目には見えない世界
私が考える絵本についてのメインテーマは、目に見えない世界にあるが、それは何もお化けや幽霊のことを言っているのではない。確かにそれも目に見えない世界の生き物ではある。しかしそれらはある限られた範囲に存在するだけなのだ。私がフォーカスしているのは、もっと広いとてつもない大きな世界なのだ。
実は電気だって電波だって風だって見えはしない。それでも必ずそこにあるのを私たちは知っている。たぶん私たちはすでに「知っている」のだ。だから心がうずく。物質の中だけでは生きられないのだ。
人とは単に老いて死んでいくだけの存在なのか?地球は人類の浅はかな行為によって破壊されてしまうような存在なのか?だから二酸化炭素もなるだけ吐き出さないようにするのか?サッカー選手はいいのに、一般人は二酸化炭素を出しちゃいけないのか?
「ほんとはそうじゃあないんだ、この世界は...!」と、心のどこかが叫んでないか?
心臓はどうして動いているのだ?電子はどうして原子核のまわりを目にもとまらないほどの速さで回転しているのだ?どうして雨が降るのだ?それは低気圧が大陸からこのように張り出してきて....と、お天気おじさんは説明する。でもそれでは理由になっていない。その低気圧が出来る理由は何なんだ?そもそもなんで地球は回っているのだ。
私たちの背後には何かが存在している。それははっきりと意識を持った存在。そういうものたちにビッチリと囲まれて、私たちはそれを知らずに生きているだけなのかもしれない。ぐうぜんに起こった出来事も、実はすでに入念に誰かが用意していたものかも。それを目に見えるものしか知らない私たちは「うわー、ぐうぜん会っちゃったわねー!」などと、デパートの前で黄色い歓声をあげていたりする。その後二人はそれをきっかけに新しいことを始めたりするのだ。
昔話にもそんな逸話が何気なく散りばめられている。天狗やカッパや龍....。彼らは私たちに何かを語りかけたり、教えていたりする。「きみきみ、それはね。天狗という架空の存在を作って、教えを説いているのだ」ともいえる。けれども、そういう存在は本当にいたのではないのか。昔の人たちはそれをそこはかとなく、いや確実に感じていて、その戒めを守っていたのじゃないのだろうか。
そしてそれは日々の営みの中に、きらっと光るものを与えてくれる。
「昨日、天狗さんに会っちゃってねえ〜」とか「雲の間を龍が飛んでいたよ」とか「畑のキュウリ、カッパがもっていっちまった」とかいって、野良仕事の合間に花を咲かせるのだ。
でもそこで「ママ、今日天狗さんに会っちゃったよ」と子供が言うと「あら、あんた何言ってんのよ。天狗なんているわけないでしょ。早く寝なさい」といわれてしまったら、子供の心の中に膨らもうとしている未知なるものへの憧れにふたをしてしまうことになる。そこで「まあ!天狗さんに会ったの?ステキじゃない!」と言ったら、「うふふ」と子供は嬉しくなり、そこから先へと思いはどんどん広がっていく。この魂の高揚は、とてつもないエネルギーを生み出していく。
ニンゲンは160センチ足らずのちっこい存在ではない。その背後にでっかい何かを背負っているのだ。そしてそのまわりにも、いっぱいすばらしいすごいものにあふれているのだ。そのことを大人がまず感じることなのだと私はおもっている。それが、日常の何気ない子供への言葉のはしばしに出る。その何気ない言葉がその子の人格を作り上げていく。そして世界を創りだしていく。
私は、地球は自分ではっきりとした意志を持っていると思っている。太陽も夜空に光る星も。そして真っ暗なこの空間。そこはざわめく意識に満ちあふれているのだ。心臓はそれ自体で意志を持ち、風も雲も意識を持っている。私たちの思いは雲に届き、低気圧にも届くのだ。なのに私たちの胃も腸も背骨もからだ中の細胞も勝手きままにバラバラに動かない。私たちがいちいち指示しなくても、完璧なバランスを持って動いている。なぜ?それはなんでかしらないが、この私たちのために働いてくれているのだ。こんなろくでもない、おバカな生き物のために、はっきりとした意志をもって働いてくれているのだ。いったいどうしてなんだ?なにか意味があるのか?
それはとてつもなくありがたいことなのだ。
これは私が勝手に行き着いた考えなのだけれども、そう思ってみるとこの世はステキにみえない?
絵:ラブロマンス表紙
2009年7月22日水曜日
私が考える絵本について
「おやすみなさいのほん」/福音館書店
私が大好きだった本は「おやすみなさいのほん」という絵本だった。大事にしていたのに、度重なる引っ越しの間に、どこかにいなくなってしまった。
表紙に三日月の上にねている小さな男の子の絵があるかわいい本。初版は私が生まれた次の年だった。中はお話というよりも「ひつじさんもねむります、ひこうきもねむります、うみのさかなもねむります。ねむたいさかなたち....」というような、夜、おだやかに眠りにさそうようなトーンの絵本だった。その何とも言えない雰囲気のある絵と静かな言葉の響きにみせられて、私もいつしか眠っていたようだ。だから最後の場面がうまく思い出せない。大人になって、最後のシーンは何だったのか本屋で探した。すると、大きな天使二人に見守られた、子供たちや生き物たちの姿だった。このページをめくられた時点で、子供の私は意識と無意識の狭間に行き、大いなる存在に見守られて、安心して眠る場所にいざなわれていたんだな。
私が作る絵本の原点はこの絵本にある。
どうしてこの絵本が好きだったのか今ごろになってわかる気がする。どっちかというと、暗ーいトーンで闇の中にうごめく生き物たちが描かれていて、一般的に考えるステキな絵本という感じではない。うさぎさんとおさるさんのなにがしかのお話でもない。ただあるのは、闇の安らぎなのだ。子どもにとって闇や夜は、えたいのしれない怖いもの。起きている状態から眠るという状態に入る時の、何かわからない恐怖。その心の状態をゆっくりとゆっくりと、大丈夫だよ、眠りにつきなさい...といざなってくれる。その世界はとても安心な、みんなが安らぐことが出来る世界なんだよと、言葉にもしないで導いていく。
描かれている絵は、まさに「影のない世界」である。太陽の日差しも風の流れもなく、うすぼんやりとした中に生き物たちがいる。みんな水の中、空気の中でとろんと眠りについている。雰囲気のある絵だ。ただよう空気感まで絵の中に入っている。それを見る子供たちはきっと絵の中に自分がいるような気分にさえなるだろう。
母の声を聞きながら、私はその絵の中にだんだんと入っていく。寝ているのに目を開けている魚に恐ろしさを感じたり、羊さんのからだに得体の知れない影を見つけたりした。私は子供ながらに、闇の恐ろしさと、安心と、未知なるモノたちへの畏怖の念をいっしょくたに感じていた。
絵本はそんな魔力をもっている。子供はまだこの世に降りてきて間もない。いろんなものをどんどんと吸収する。いいも悪いもかんけーない。ありとあらゆることを、ものを。その大事な時期に、言葉では言い表せない世界をかいま見せてくれるのが、絵本のつとめではないだろうか。
私が特に描いていきたいのは、目には見えない世界をほうふつとさせてくれるもの。いつのまにかこの世は目に見える世界だけを追求してきた。でも本当にこの世は物質だけの世界なのだろうか。本当にそうなら、今ほど物質主義な時代はないから、人々はさぞかししあわせにちがいない。ところが今、人々の心はどんどん荒んでいく。
それは、無意識にこの世は物質だけでは満たされない何かを感じているからではないのだろうか。
母と子が夜ベッドの中で一つの物語を読む。この時間ほどナイーブで、いちばん大事な時間はないのではないだろうか。昼間の慌ただしさから静けさの世界へ。今の時代は特にその時間が必要に思える。人々はあまりにも今忙し過ぎる。
その静けさの中に入る時に感じる思い、よろこび、安心は、子供の眠りの時間を温め、明日への推進力となる。同時に母の心までもおだやかにする.....。この相互作用は計り知れない力になる。
絵本の中で繰り広げられる絵の色、絵の形、雰囲気は、小さな子供の刺激になり、美意識までも作り上げる。絵本作家とはなんて大きな役割をになっているんだろうか。
私は夜寝る前、窓を開けて高尾山を見る。暗闇にお山のシルエットがぼうっと浮かんでいる。虫の声、かすかな風、かさこそと闇の中でうごめく野性の動物たち...。闇の中ですべてがじっとそこで息づいている。私はそのものたちの存在を全身で受け止める。その一部になろうとする。私も自然も境界線がなくなるのだ。すると心が落ち着いて、おだやかな眠りにつける。
そんな時間を絵本の中に作っていきたいと思うのであった。
(いや、まじめに書いちゃった)
2009年7月18日土曜日
美と科学
虫2匹が木の枝で格闘している。
縄張り争いでもしてるんかな。しばらくやりあって2人は解散。いつ決着がついたのだ?そのいきさつは、私にはわからない。
そこで学者ならばその虫をとらえて、解体、分解、分析する。ちっこい細胞の一つ一つまで解体する。するとからだの構造はわかる。ところがそれでは、あの2人がどうやってケンカの決着をつけたのかはわからない。分解したところでその決着の答えは出てこない。
ゲージツ家は、ただそれをジッと観察する。何度も何度も観察するうちに、何か感じられる。その2人の性格が見えてくるかもしれない。一人はイラチのおじさん、一人はのんびりや。
「おまえがそんなところぼけぼけ歩いてるから、オレが通れなくなるんだよ、このボケカス!」
「なんで?そんなに急いでどこ行くんだよ」
「何だっていいのさ、急いでいる方が、なんかやってるって気になるだろ!」
「何をやっているの?」
「なんかだよ。な、ん、か!何だっていいのさ。止まっちゃったらすごく不安になるじゃないか。そこどけよ!ほら!はやく!」で、二人は解散した.....。(?)
とまあアホな話は置いといて、観察するうちに何かを感じるのだ。それは彼らの行動パターンを知るのかもしれないし、二人のうちのどちらかが何かを噴射(?)したのかもしれないし、はたまた勝った負けたのオーラでも、ピラ〜ッと広げていたのかもしれない。
人はそれをそこはかとなく心の奥で感じ取るものなのだ。そしてきっとそれは当たっている。科学は分解して解体して分析してバラバラにする。なのにその虫たちの本質、彼らの中で何が行われているのかすべてはわからない。かたや観察することは、その奥にひそむ何かを感じる力がある。
ゲージツ家はそのなにかを表現しようとしているのではないのか?その何かはなぜか美しいのだ。
科学は分析して分解して、何かを知ろうとするが、そこに答えは物質としての何か、しか現われてこない。その後には分解された虫のゴミしか残っていない。科学とは、実は支配欲なのではないだろうか。虫を解体して分析する行為は、自分が何かをコントロールしているという気になる。これはいいかえれば、エゴなのではないか?
しかし観察は、支配欲でもコントロールしようとするものでもない。そこにあるのは、観察する喜びだ。物質的に手を加えるのではなく、見て、感じるよろこび。
畑も同じような気がする。
草ぼーぼーの畑の中に野菜が育っている。私はそのシーンを見るのがとても好きだ。草の中でズッキーニが大きな葉っぱを太らせている。中をのぞくと花の下から実が少しづつ育っている。なんでかしらないが、そんなシーンはなんともいえない大きなよろこびを感じる。ハーモニーを感じる。(くすぐったいのー)
だから畑に行くと、作業をするよりも、ただぼーっと眺める時間の方が多い。そのヨコでおばあちゃんは、せっせせっせと草を刈る。私はその刈った草をもらい、野菜の畝にかぶせていくのだ。その草の下にはたくさんの虫たちがいる。ほっこりとした土のにおいがする。雨が降らなくても、そこはいつもしっとりとぬれている。
すべては調和している。そんな青い言葉が頭をかすめる。すべてはそのままでいいのだ。そこに分析も分解もいらないのだ。草も虫もそこに必要だからいるのだ。それをのけた瞬間から調和が狂いはじめる。するとニンゲンはビックリして「一体何が起こったんだ!?」とパニくる。で、今度はそれを補うために分析しはじめる。でもそれは物質だけを見た世界。その奥にある大きな営みを見ることは出来ない。なぜ虫がやってくるのか、なぜ草は生え続けるのか。その答えはニンゲンにはわかりきれないのだ。だから宇宙が行うままにする。
ゲージツ家は、自然を描く。それは美しいからだ。それはたぶん、何か大事なものを無意識に感じて、それが胸を打つのだ。自然の美をブンセキして「これがこうだから美しいのだ」などとへ理屈をつけるアホはいない。「きれい〜」に理由はないのだ!
科学はばらばらにするけれど、美はいっしょくたにする。いっしょくたになった全体を見渡すことで、心は何かを感じている。美は宇宙の叡智に入るための、入り口なのかもしれない。
私はこれまで美とはたいしたものではないと思い込んでいた。紙に描かれた絵は食えないし。科学の方がもっとすごいと思っていた。研究することによってもっともっと豊かな生活が出来ると。
けれどもこうやって畑の中でいろんなことを考えさせられるうちに、美とはとてつもないところに向かうためのきっかけなのかもしれないと思いはじめている。
なんちって。
絵:トマト(そのまんまじゃねえか)
2009年7月16日木曜日
美とは何ぞや?
美とは何ぞや?
それは隠されていて、すぐには見えないもんである。
何気ない日々の営みの中に、はっとする瞬間がある。それが美を発見する瞬間である。木漏れ日が落とす光が、地面に少しだけ不思議な絵を作る。草の青、鉱物の色、そしてその光と影。風が吹けば今までの絵は一瞬のうちに変化し、絶えずその絵を新しく生まれ変わらせる。大自然に二つとして同じ葉っぱがないように、この世の美は、一瞬一瞬生まれ変わる。刹那を生きる。60分の1秒の中に今がある。1分前の私はもういない。1分前の樹々はもういない。一秒に何億個という細胞が生まれては死にゆく。すべては何も変わっていないように見えて、実はものすごい変化の中に私たちはいる。絶えず変化しながら、つねに同じ形に作られていくこの私たちには、大いなる意識が存在する。その意識が、すべてを作っては壊しているのだ。今この瞬間にそれが起こっている。ニンゲンの考えもおよばないところでこの世は動いているのだ。わっはっはーっと高笑いしている存在が、私たちの背後にはいる。そのおよびもつかないものが織りなす叡智。それこそが宇宙の完璧なのだ。そしてそれこそが隠された美なのだ。美とは、そのトンでもない宇宙の叡智をかいま見せてくれる、ということなのだ。
作家はその叡智を人々に提示する役割を担っている。
「みなさん、これが美ですよ〜」と。
けれどもそれは全員が出来ることなのだ。
与えられた美だけを「さあ、私を感動させてちょうだい」と求めていても、だんだん飽きてくる。ディズニーランドも、ティファニーも、ウエッジウッドも、美を提示してもらっているだけなのだ。それをよろこばせてもらっているだけなのだ。その時は楽しいに違いない。けれどもニンゲンの魂という奴はもっと厄介で、「まだ足りない」と思いはじめる。だから心はもっともっとと次々と新しい美に移り変わっていく。そこにゴールはない。だから死ぬまで探し求める。でも飢えた心は満たされない。
それは受け身だからだ。
豪華なソファにどっかと座って、大型画面のテレビを幾ら眺めても、そこにあなたを満たしきる美はないのだ。
美は隠れている。
美という名の宇宙の叡智は、テレビ画面なんぞにはうつらない。
その重い腰を上げて、自らが探しにいこう。本当はそのソファから立ち上がった瞬間から美はすぐヨコについてくるのだ。
絵:『イルカ』けんぽ表紙
2009年7月9日木曜日
プチストライキ
仕事が一段落すると、夕飯の支度の前のハラすかしに、畑に出るのがこのところの日課になっている。
「畑の野菜は、人の足音を聞いて育つのよ」というお百姓さんの娘だったステップマザーの教えを聞いてからだ。なかなかいい言葉だなあ。ほったらかしにされた畑は「ふん、こっちを気にもしてくれないんだったら育ってやんない」と思うらしい。
でも今日はサルの一件で、覗きに行ってやんなかった。
プチストライキ。
けれども夜自然農の本の一行を読んでほっとする。
『サルについてはお手上げですが、毎年同じ被害に遭うことはまれです。』
自然って不思議だ。理屈で行くと、一度味をしめちゃったら、またくると思うのに。その言葉を読んで、私たちの知らないところで、何かの摂理が動いているような気がした。
畑最初の年は、自然の世界に貢ぎ物をするのかもしれない。私たちはサルの神様に貢ぎ物をしたのかもしれない。
この先どうなるかはわからないが、すべては自然の摂理が、すべてがうまく行くように動かしてくれているのかもしれない。たとえ私たちニンゲンにとって不都合でも。それはきっと私たちに目先のものしか見えていないからなのだ。
(そうはいってもまた心がさわぐだろうなー。)
絵:『タコ漁』
2009年7月8日水曜日
心のメタボ
枝豆がまたやられていた。もう全滅...?
思わずお山に向かっておさるさんに懇願する私。
「私たちの分は残しておいて〜」
食われちゃったものはしょうがない。かえってはこない。とにかく状況は受け入れるとして、でも心がまだ動揺している。じつは私の心は、これから出てくる新たな枝豆のことを心配しているのだ。
心配とは、過去に起こったことを思い起こして未来に同じことが起こるのではないかと心をふるわせること。しかし今のこ瞬間に猿もいないし、未来のことは誰にも予測できない。人はまだ起こってもいないことを予測して不安がる。それが確実に起こるとは誰もわからないのに。
過去と未来はいつもくっついている。過去を思い出して未来を不安がる。でも畑に立った私の今この瞬間に猿はいない。今枝豆も食べられてもいない。静かな時間が流れて、お山は美しい。
ところが今の私の心はそんなことはどうでもよくなっている。お山が美しかろうが、キュウリがたわわに実っていようがそんなことはどーでもいい。新たに育ってくる枝豆をまた取られるんじゃないかとそればかりを心配している。そのうち心配の種はどんどん広がって、とうもろこしもやられる?とか、カボチャも食われる?とかありとあらゆることが不安の材料になりはじめる。そうすると、畑やっていて何が楽しい?どっちみち猿に食われちゃうんだよ!となって、畑やるのがいやんなっちゃうところまで心は暴走し、どんどん肥大化する!
そう、心は暴走するのだ。肥大化するのだ。ほっておいたら、心は勝手にメタボになるのだ。物質はそれ自体あまり変化をしないが、心というものはどんどん変化する。しかも外から誰にも見えないから、誰にも止められない。止めるのは自分か、外から突然やって来た出来事(電話が鳴るとか、お客さんが突然来るとか)で忘れるかだ。
心はどんどん変化しつつ、それはどっちかっちゅうと悪い方向へ向かう傾向がある。
人は楽しいことがあったとき、
「ああ、今日はたのしかった〜。そういえば、あのときもたのしかったし、このときもたのしかった。ああ、人生ってなんてたのし〜」なんていう楽しさの肥大化よりも、
「ああ、あのときつらかった。ああ、そういえば、このときもつらかった。ああ、そういえば、あのときこんなにくるしかった、そんでそのときも、こんなにきつかった!ああ、人生って、なんてつらいんだー!」と、ならない?
じつはネガティブな思いの方がメタボしやすいのだ。しかも人はあまりそのことに意識がない。心は勝手にそうなるもんだと思っている。でもその心のメタボは、あまりいい結果を生まない。肥大化すればするほど、とどのつまり世の中を恨んでみたり、会社の仲間を疑ってみたり、猿を恨んでみたり、はたまた自分の人生を呪ってみたり。
「心の時代」といわれてひさしい。でもその心を大事にするあまり、心を野放しにする傾向があるように見える。幼い子供を好きなようにさせると、好き勝手生きるように、心も野放しにすると勝手に暴走する。しかもあっという間にトンでもないところにまで行く。被害妄想にまでなる。何気ない出来事が、その人の子供の頃に経験した事件を思い起こさせ、暴走しはじめる。外からは誰にも見えない。表向けはフツーによそえる。だから歯止めも利かない。心の中はメタボから巨漢になっていく!
今、わけのわからない事件が多い。おばあさんがおじいさんを殺してみたり、おじいさんが孫を殺してみたり。きっとなんてことのない事から心は動き始めるのだ。それは過去と結びつけて考え、不安を呼び起こし、アリンコが恐竜のような存在にみえはじめてしまうのだ。
自分の心はコントロールした方がいい。行きたいように野放しにせず、自分で自分のしつけをした方がいい。
最近、とみにそう思う。心は肥大化しやすい。そしてそれは伝染する。肉体のメタボと違って、それはまわりの空気まで変えてしまう。環境や他の人にまで影響を与える。心とはそのくらい強い影響力を持つ。『自己嫌悪菌』を自分で発見して以来、心は自身にすごい影響力をおよぼすことを直に感じている私。
猿のことを心配するのは、かえって猿を呼んでしまうのかもしれない。案の定、毎日やってきて、枝豆はどんどんなくなっていく。
もっとシンプルに心のダイエットをしたほうがいいようだ。
絵:「ナイスバディな黒人のおばさま」
2009年7月7日火曜日
枝豆への執着
ぐふふ....もうすぐだ。
もうすぐ、ぷっくーっとふくらんだ、完全無農薬の枝豆ちゃんをほおばりながら、ビールがぐびぐび飲めるぞー...。
と、畑に行く度に覗いていた枝豆ちゃん。草の刈り方を調節して風の通りをよくしたり、はたまた残してみたりと、あれこれ気をもんでいた枝豆ちゃん。なのに....、
昨日畑に行くと、そのほとんどがなぎ倒されて、枝豆が食い荒らされていた!ぐわーん!
よく見ると、ここで座って食ってたわね、と言わんばかりにお尻のあとがくっきり。猿だ。これまたごていねいに、一個一個ちゃんと割って食べている。しかもだ。よく育ったやつばかり!
こっ....このやろーっ!人がビールのあてにどんだけ楽しみにしていたか!
と、動揺しまくりの私。でもいっしょにいた友達にその悔しさの共感を求めるが、そうでもない。
「あ〜、やられちゃったわね〜」って、どこかたのしそうである。
「おまえ、それ執着だよ」と電話のむこうでダンナはこともなげに言う。畑で一人でバタバタして心が落ち着かないから応援を求めるが、ダンナはこない。一人畑でぼーっと山を見る。霧がかかっている。
そういや、何日か前、インゲンにカメムシがくっついていたのを「カメムシも食わなきゃいかんだろ」などと、心の広いフリしてそっとしておいた私はどこ行った。ようは量の問題かよー!
なんつー勝手なやつ。ダメじゃん私。優しさのフリしてただけじゃん。心が広いのは、執着するものの度合いによるって事かい!
その友達には執着はなかった。だから引いて見れた。冷静に見ていたのだ。
「共存するってそういうことだろ。シェアだよ、シェア!」ダンナの言った言葉が鳴り響く。そーなのだ。いっしょにそこで共存しているのだ。猿も食わないかんのだ。でもなんでわしの好物を!...いや、いかんいかん。
大事に育てるということは、それにたいする愛着もわく。それが突然誰かに取られると、思わず執着してしまう。その心は「もうとられないようにしよう」と、網をかける。電流を流す。見張りをする...にまでいたる。猿は頭がいいから、ちょっとやそっとのことでは削除できない。削除?どっかで聞いた事がある...。そう、これも草と同じだ。虫と同じだ。わしだけが食うという思いにかられると、削除しようという発想になる。
ここの畑はそんな削除はしないことにしようとしたではないか。野草も野菜もいっしょ。草も虫も共存だーと。で、動物の共存だけ削除するってのかい?都合が良過ぎるぜ私。
私の動揺は未来を心配しているのだ。ちょうど新たな枝豆を蒔いておいたばかりなのだ。それも食べられてしまうのではないか?という不安なのだ。今こうしてブログを書いている間にも猿どもが、残り僅かな愛しの枝豆ちゃんをむさぼり食ってんではないだろうか?と、頭がぐるぐるする。
いやはや、畑一つで自分の心の状態がわかるってもんだ。種をまいて、おてんとうさまにまかせる。これは自分で作ったのではないとつい先日言いながら、手をかけ、気をかけするうちに、自分で作ったような気になってしまうのだ。自分のもののような気になってしまうのだ。で、横取りされて怒る。それを『横取り』とおもう。
でもさ、あそこはみんなのものなのだ。みんなで潤ってみんながしあわせに生きるための場所なのだ。コゲラも虫を食べなきゃいかんし、ヘビもコゲラを食べなきゃいかん。わしらも鶏肉を食うし、猿だって枝豆があったら食う。みんながちょうどいいバランスで食って生きて、潤っていくのだ。植物はただ食われるままにそのからだを提供してくれる。その偉大さをみんなでシェアするのだ。んで、みんなで偉大になっていくのだ。
...と、自分に言い聞かせる。
絵:COOPけんぽ表紙『七夕』
2009年7月2日木曜日
マイケルジャクソン
マイケルジャクソンが亡くなった。
美しいものが好きな私としては、彼の姿を見るのは、いつもたのしみだった。あの動き、あの歌、そしてあの美貌。すべてそろっていた。とくに『バッド』の頃が一番美しかったなあ。
才能、名誉、財産、すべてが彼のもとにあったのに、人とは厄介なものである。もっとほしいものがあった。それはたぶん白人である自分。あの頃、黒人差別はひどいものだった。それにあわせて、小さいとき兄妹に鼻がおっきいと言われたらしい。以来本人はずっと気にしていた。だから整形をした。鼻も細く、肌も白く。それは私たち凡人が考えるよりも徹底していたのかもしれない。なぜなら彼の子供たちでさえも、白人のようだ。噂では、彼の血脈は入っていないとも聞く。そこまでして、黒人である自分を否定していたのか。
結果的にそれは薬の乱用を招き、尋常ではないほどからだを蝕んだ。
だが、彼は黒人であるが故にあの才能は開花したのだ。そのことを決定的に忘れている。あのリズム感、声、うねるような肢体。あれは白人には出せない。やっぱ黒人でなきゃ出てこない。
そんな子供っぽい発想は、ネバーランドをみればわかる。きっと子供時代、彼は子供らしい遊びをして来れなかったんだろうな。その飢えた気持ちが、極端な発想をおこさせる。何かが足りない、何かを足そう.....と。
人はそうやっていつも足りないものを探し求める。その根底には、自分は完璧ではないという思いが横たわっている。あのマイケルジャクソンでさえも足りない足りないと思っていたのだ。こうなってくると、お金や名誉の問題ではなくなってくる。お金があったら満ち足りるわけでも、権力があったら満ち足りるわけでも、みんなに愛されたから満ち足りるわけでもないのだ。凡人はどーすりゃいいのさー。
すべては自分自身が自分を満たす。つまり自分を全部受け入れることでしかないのかもしれない。これは外から受け入れろと言われることではない。自らが意識的に自分を認めていくことだ。マイケルは自分自身を受け入れることが出来なかった。黒い肌をした自分を、子供時代の満たされなかった自分を。
もし彼が黒い肌を受け入れていたなら、私たちはもっと彼の活躍を見続けていられたのかもしれない。
絵:「死美人」文庫表紙
2009年7月1日水曜日
腐る野菜・枯れる野菜
冷蔵庫にキュウリが残っていた。ビニールの上から持ち上げると、ぐちゃっとつぶれた。
スーパーで買ったキュウリはいつのまにか溶けていた。
最近、野菜には腐る野菜と枯れる野菜があるのを知る。
畑をやるまで、野菜は腐るもんだと思っていた。だって冷蔵庫でよく腐ってるんだもん(そりゃ、あんたの怠慢じゃないのか)。でもなぜかウチで採れた小松菜の親分さんは、冷蔵庫の中でいつまでたっても腐らない。いつまでも「わしが親分じゃ!」と主張してやまない。
そういえば、昔そんなふうに野菜って溶けたり腐ったりしたかなあ?ここにきて、私の怠慢加減が、そんなに群を抜いてひどくなったとはおもえない。最初っから怠慢である。(いばってどーする)若い頃の方が忙しくて、冷蔵庫にほおりっぱなしが多かった。しかし溶けるなんてことはなかった気がする...。
小松菜以外のうちの野菜もそうだ。春菊、サンチュ、ルッコラ、大根、キュウリ。みんな冷蔵庫の中で腐ることも溶けることもない。ルッコラは黄色くなった。これはどちらかと言うと、枯れるという言葉があっている。庭に余った小松菜を捨ててあるが、茶色くなって枯れていった。においもしない。
よく考えたら、草が腐ったり溶けたりしているのを見たことがある?どっちかっちゅうと、黄色くなったり茶色くなったりして枯れて一生を終える。山で、ぷ〜んなんて臭いにおいを放ちながら腐る草を見たことがない。でもスーパーの野菜はドロドロに溶けて臭い(そこまでほっぽっといて、あんた、どーゆー神経?)。
試しにウチのキュウリを一本ほっぽいて見ようか。腐るか枯れるか。それとも溶けるか。
聞くところによると、野菜は肥料をあたえると、細胞が膨張して急激に大きくなると言う。これは大きく柔らかく育てるという意味もあるのか。
先日書いたトマトの苗を今日も覗く。ゆいいつ実験的に入れられたコンポスターの肥料たっぷりの苗は、さらに巨体になって、フロリダに住む肥満体のおっさんのような体つきになってきた。ブッとい茎にぶっとい葉っぱが重そうについている。大きな葉っぱは自分の重みに耐えきれず、ぐったりたれさがり、全体的にまるでクリスマスツリーのような形。その巨漢の割には、ミニトマトは、ホントに小さく、しかも一個しかついていない。そのエネルギーはもっぱら自分のからだを誇るためだけにそそがれているかのようだ。しかもその葉っぱという葉っぱがどんどん黒ずんでくる。今や全部の葉がそのような黒い悶々の模様になってきた。どう見ても健康体にはみえない。
緑のひょう柄のフロックコートを着た、お手てにちっこい緑のトマトを一個ぶら下げたフロリダの巨漢のおっさん出現である。
かたや、肥料も何も与えられないスパルタ畝にうえられた同じ苗は、ひょろひょろと柳のように頼りなく伸びる。葉っぱも頼りないほどに小さい。そんなか細いからだに、なぜかミニトマトは順調に育っている。葉っぱも黒ずんではいない。下の方がちょっと黄色いくらいだ。
そういえば、このトマトの葉は、若葉色をしている。フロリダのおっさんの葉の色は、濃い緑色。窒素が多いと色が濃くなると聞く。コンポスターの肥料は窒素が多かったのだろうか。
同じ種類の苗が、ここまで違いを見せたものは何か。急激に大きくなった野菜は、はたして自然な姿なのだろうか。それこそが溶ける野菜の正体?メタボ野菜は溶ける?
そしてそれってホントに栄養があるのか?
フロリダのおっさんを冷蔵庫に入れてみたら、溶けるんじゃないだろうか。あ〜れ〜って。
などと畑のまん中で一人想像して、ほくそ笑むおばさんであった。
畑って楽しー。
絵:けんぽ表紙「カタツムリと雨」
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