2024年4月27日土曜日

もともと私たちは幸せなのだと


 

いよいよ明日展覧会の搬入。


作品のリスト作りで値段の設定に迷う。

高すぎるか?安すぎるか?

あれこれ考えて頭がこんがらがる。

そして買ってもらいたいという自分の思いにハッとする。


人は自分の価値をお金で判断する。

売れた方が価値があって、売れないのは価値がないと。

だから売れるためには、、、と四苦八苦するのだ。


そして売れている作家さんを羨ましく思い、

しかしどこかでいやらしい考えも持つ(たんに嫉妬w)。


しかし一昨年展覧会を開いた時、大事なことに気がついた。

人が絵と出会う時、そこに交流が生まれる。

その二人(絵と人)の間に流れるものを外から見た時、

私はそこにとてつもない喜びを見出したのだった。

なんというありがたい仕事をしているのだ私は!と。


小さい時、絵描きに対してもった恐れ、つまり

絵描きになったら気が狂うと、ゴッホを見て思ったあの恐れが、

ずっと自分を縛り付けていたのだが、

それがあの瞬間解けたのだった。


今回もそんな瞬間に出会わせてもらえる最高の時を私はもらう。

そこに絵が売れるとか売れないとか、

そんなことに重きを置く必要はなかったのだ。


そうはいっても生きていくためには多少のお金がいる。

だがそれをここで私が考える必要はあるだろうか?

私が考えてどうこうなるものではなかった。




お恥ずかしい話だが、去年の暮れ私は初めて絵を買った。

その時の感動は忘れられない。


絵を手に入れるとは、こんなにも幸せなことだったのか!

今まで私の絵を買ってくれた人たちは、こんな思いを抱いてくれていたのか!

同じ立場に立って、人々の気持ちをダイレクトに味わった。

買ってくれた方々には本当に感謝したい。

本当にありがとうございました!



だからやっぱりすごい仕事なのだな。

でもそれは全ての仕事に同じことが言える。

人々を幸せにすること。

それはお金に換算できなくてもいい。
お金で換算しようとするから、
自分で不幸になっちゃうのだ。


そこに喜びがあれば、それで大成功なのだ。


それは町会の冊子を作り終えた後、

ますますそれを実感する。



物理的なものを手にれるから、

幸せなのではなかった。


もともと私たちは幸せなのだと、

思い出させてくれるきっかけを、

絵は与えてくれている。



展覧会場でお会いできる時を楽しみにしています。



2024年4月16日火曜日

畑への思い


 

「畑やらない?」

「え?まじっすか」


5年前に11年間やっていた畑仕事をやめた私に、降って湧いた話。


早速現場を見に行く。でかい!土がフカフカ!

最近までやっていた持ち主が亡くなられたので、

家族の人が手入れに困って私の知り合いにふってきたのだ。

それでも大きすぎるので、私にもやらないかと。

心がおどった。



まてよ。そもそもなんで畑を手放したんだろうか?

猿だ。


やってもやっても猿の集団がやってきて、片っぱしから取っていく。

その猿対策に明け暮れた。

そして最後はイノシシに檻を破られて、畑は壊滅的になった。

200坪以上あった土地を一人で切り盛りするには大きすぎ、

そして野生動物との戦いに精根尽き果てた。


その戦いが再開する?あそこに猿は来るのか?

いやいや。そこまでひどくはないだろう。


とりあえず、明日行ってもう一回様子を見てこよう。


だが一箇所気になったところがあった。

それは畑への出入り口だ。

畑へのアプローチの急な坂道を上がって車を停められるスペースはあっても

Uターンできる場所がない。

頭から突っ込んで、お尻で出るしかない。

しかし公道に出る時が危険すぎた。

山に遮られて後ろが全く見えない。

しかもその先はカーブしていて、後ろからやってくる車さえも見えないのだ。

土日は車の量も多い。


「あそこ、事故るよ」

ダンナに言われて、やっぱそうだよなぁと思った。


私が歩いて行ける距離ではない。畑の持ち主はすぐそばだから問題なかったのだろう。

自転車で行くことも考えたが、いろんなものを持って自転車で行くには無理すぎた。





どうしてここにきて畑の話が出てきたのだろうか。

出来事は私の中にあるものを解体するために出てきてくれるはずだ。

ここに何かある。


畑の話が持ち上がった時、頭の中がぐるぐるした。

「無農薬無肥料の健全な野菜」を育てるためにあれをやってこれをやってと、

あらゆる行動を考えさせた。


そう考え始めた時、心がどんどん、どーんと重くなっていった。

久しぶりにきた感覚だった。


野菜という結果を生み出すために、計画を立てている心は、

こんなにも私を重くさせていたのか。


いいものを作りたい、美味しいものを作りたい、

そして無肥料無農薬でもこんないいものができるんだと豪語したい思いもあった。


それは分離という違いを生む。

スーパーの野菜は良くない、無肥料無農薬で作られた野菜は良いという分離だ。


分離を自負するために行う行為は破壊に向かう。

違いに重きを置かれた行為は苦しみを生む。




あの時の苦しみが今再び浮上してきていた。

私はその思いを否定もせず、浮き上がるままにさせた。


ああ、やっぱり消えるためにこの想いが出てきてくれたんだな。



私の中にある「分離の美意識」を解体するために、

この畑の話が持ち上がったのだろう。


畑への出入り口問題は、

畑を再開する必要がないことを教えてくれていた。

これも抜け目がない。



出来事は私を解放するために、

みごとに完璧に起こってくれている。


山の緑がますます輝き始めた。




絵:「夏」






2024年4月11日木曜日

努力、しない!


 

未来の保証もない63歳のおばさんは、ついに強行突破に出た。


どんな強行突破か。

好きなことして生きる!


何だそんなことか。

そんなセリフならどこにも転がっている。

しかしそれを真に受けてやるヤツは、実はそんなにいない。


その好きなことして生きるために、どっかで保険を確保したりする。

私もその口。


昔友達が言った。

「水の上はす~いす~いと軽やかに進みながら、水の下では必死で水をかく」

表向きは軽やかに見えるが、その下で多大な努力をするという名言。なかなか鋭いことを言う。


が。ここにきて、その水かきをやめることにした。

水、かかない!

努力、しない!(笑)





きっかけをくれたのはこの動画

30歳で自殺して、自分の体が抜けた後、宇宙の外まで行ったはいいけど、無性に帰りたくなって帰ってきたら、生まれた時からぜーんぶの体験を、まったく同じことを30年間再体験して帰ってきた人の話。


これを見てやっぱりそうなのか。。。と思った。

奇跡のコースは、「あなたの人生のシナリオはすでに書かれている」という。


そのことは頭ではわかっていても、ちったあ例外もあるだろうと思ってた。

あわよくば、最近のバカリズムが描いたドラマ「ブラッシュアップライフ」みたいに、

何度も生まれ変わるたびに徳を積んで、良い人生に変えていけるんちゃうか?とも。


それって、「つくしの人生」って書かれた一冊の本の中身を変えるようなもんだ。

書き直して、また印刷して、製本しなきゃいかんじゃないか。(いや、そーゆーこと?)


コースは、書き換えなどできないと言い放つ。書かれたものは書かれたまんまなのだ。

それがその動画ではっきりと教えてくれていた。


要するに、この世界でシナリオを書き換えるというのは、

この世界を実在させるのだ。

悪いことをいいことに変えてえ~、ちっとは楽に行きたいの~、という風に、

この世界があるものと信じていることを、さらに強化することになる。



そうはいっても自分が努力して仕事を勝ち取ったと思っているものが、

実はそういう脚本がすでに書かれていてそうなっただけだとしたら、

それを受け入れるのは相当勇気がいる。

でも反面、もう書かれているんだから、「らくち~ん」でもある。


その動画で重要だと思ったのは、

凄まじい人生のシナリオを自身で追体験しながら、

「まんざら、そう悪い人生でもなかったな。。」と思える彼である。


実はそれが本当のことなのではないだろうか。

きっと人生、引いて眺めたら、そういう視点になるのではないか。

それが真の自己から見た視点なのではないか。

愛おしく自分自身を見る目、それは周りの人々にも注がれるはずだ。




もうすでに書かれているなら、今これを書いていることも書かれているだろう。


ここにきて、「自分でなんとかしよう」という努力をやめた。

どうせ起こることは起こる。起こらないことはどーやっても起こらないのだ。


必死でお金稼ごうとうしても、さっぱり思ったようにはならなかった。

でも突然何かが起こったりした。そこに私の努力は皆無だった(笑)。

思い起こせば、「なんで?」という思い当たる出来事がいっぱいあったのだ。


だからここらで腹をくくることにする。

私というちっぽけな考えで必死でセコセコとあれやこれやを考えても、

せいぜいどっかで聞いたことのある物語の設定だ。

ちっこいちっこい鼻くそみたいな設定。

たとえその設定通りになっても、そう面白くはない。


だから「私はなんも知らない」「なんもできませーん」

「どうやって生きていけばいいのか、どうやって幸せになれるのか、さーっぱりわかりません。おしえてください!」

と、天に向かってお願いする。


そして今まで嫌なことが起こらないようにするため、

あれやこれや防衛したり守ったりしていたことをやめ始めた。

だって、どうせ決まっているんだもん。


そう思って日々過ごしていると、

なんだか楽しくなってきたのだった。



絵:「山笑ふ」





2024年4月8日月曜日

自我はどちらかを悪者にする


 

昨日ダンナとケンカになった。

お互いがお互いの言い分を主張する。


キリがないので「一度持ち帰って」社内(心内)で検討する。


落ち着いて考えると、実はどっちも正しかった。


それぞれの立場や、生き方や、人生経路をかんがみると、

そう反応してしかるべき理由がある。

まあ、人によっちゃあ、「そこまで反応しなくても。。。」

というものがあるだろうが、

それでもその人(私とダンナ)にとっては、

「そこまで反応しなくてはならない」バックボーンがあるのだ。


だから実はみんな「正しい」。

と、考えて気がつく。


そういえば、ケンカしている時、

心は「どっちかが正しい」というところに収めようとしていた。


自分がなぜあんなことを言ったのか、

どうしてそうせざるを得なかったのかと、

心の中で必死でエアー演説して、自分を正当化しようとするのだ。


自我は、「どちらかが正しい。ということはもう片方が間違っている」

というところに落ち着きたい。


正当化しようとする思いは、必ず相手を悪者にする。

自分は無垢で相手は悪者。被害者と加害者。


でも正当化しようとするってことは、

実はどっかで自分が悪いんではないか?という恐れがある。

だからこそそれを隠蔽するために必死でエアー演説するのだ(笑)。


これぞ自我のトリック。

その正当化は、「世界はあるぞ、リアルだぞ。

ほら、こんなに重くずっしりとのしかかってるじゃないか。

早く自分を正当化しないと、悪者に襲われるぞ」と。





言い争いをしたことで、自我がいかに分離したがっているかが見えた。

私とあなたは分かれているという分離の概念。

自我はいつでも、どっちか、なのだ。


ところが「ひとつである」というところに立つと、どっちも、なのだ。


同じひとつの心の中に、正しいものと正しくないものが一緒にいることは不可能だ。

相手に罪を見れば、自分に罪があることを証明し、

相手に愛を見れば、自分にも愛があることを証しする。

だって同じなのだから。



目の前に展開する現象を使って、

その分離しているかに見えるものは、

ただの妄想だよと教えてくれている。


罪ではなく、愛に立ち返るために、

そういう状況をそっと提示してくれている。


怒ってもいい。

ケンカして言い争いしてもいい。


そのあとはスッと下がって、通り過ぎる。


幻想は幻想として消えていく。




絵:コージーミステリー表紙イラスト