2020年6月25日木曜日

一人の戦士




「怖い。。これをどうにかしなければ、、、」
恐れの中にいるとき、私の意識は前のめりになっています。

頭の中は、それを逃れる方法、解決する方法を次々考え出します。
はたまた、まだそんなところにいるのかと、怖がっている自分に腹が立ち、その怖さを退けようとします。

だいたいそんな感じで心の中は動いています。
この一連の動き全部が自我の動きです。
自我はこの世界には恐ろしいものがあり、それを自分で解決しなければいけない。誰もやってくれないのだからと言い聞かせてきます。そこで私は一人の戦士になります。


その前のめりになっていること自体が、戦士として自分で一人で戦わなければ(解決せねば)と思っている心の状態でした。
この世界が実在し、自分一人で戦わねばならない場所だと。

それはまさに自我で解釈し、自我で解決しようとする試みでした。
汚れた鏡を、汚れた雑巾で拭いて綺麗にしようとするあてのない戦いでした。

自我と共に前のめりになっている自分に気づきます。
一瞬止まり、自我である私は後ろに退きます。

そして私の本質に委ねます。
その時私は鎧を脱いでいました。
恐怖で緊張していた体は、あるいは鎧をつけた戦闘態勢の状態ともいえるでしょう。

委ねた心と体はとても軽くなります。

私はすぐ前を歩く、見えない神が歌う、聞こえない歌と共に、歩いていきます。



絵:「猫じゃらし」


2020年6月20日土曜日

いい子でいたなら。。。





「大丈夫。神様が守ってくれる」
そう言われて、ホッとしたことがあったのではないでしょうか。

思えば、幼い頃はいつもそばに何かがいて、それと共に喜んだり楽しんだりしていた気がします。
それが何かは知らないうちに、やがて親をとおして「神様」という言葉が入ってきました。



ところが「大丈夫。あなたを守ってくれる神様がいる」と言ってくれる言葉のあとに、
「いい子でいたなら。。。」というものがついてくるようになりました。
神様が守ってくれるには、「いい子でいるなら」という条件が必要になりました。

しかしその言葉の背後には、こういう思いが付録のようにありました。
「もしもいい子でなかったなら。。。」



それはいつも守ってくれている神が、いい子でいなかったなら、恐ろしい神に豹変する、、、ということを子供心に暗示させました。
おとぎ話にもたくさん出てきます。神を敬わなかったら、神に背いたら、神はどんな大きな力で私たちに痛い目に合わすかを教えてきました。

その神に対するイメージは、そのまま大人になっても持ち続けます。
「ぼーっとしてたら、ろくなことにならない」
「嫌なことが起こった。これはきっと自分が何かやらかしたからに違いない。」
「あいつにバチが当たった。」
言葉の中に神というものは出てこないけれど、罪を犯せば、神によって罰せられるという無意識の恐れがあります。

荒ぶる神の心を鎮めるために、人類はあらゆることをしてきました。人身御供を差し出したり、大きな仏像を作ったり、厳粛な儀式を行ったり。。。
それが少しでもまちがうと神は罰を与える。だから人々は神を恐れ、敬い、なんとか機嫌を取ろうとする。
日常生活でも、神を恐れ、怠惰を嫌い、ひたすら切磋琢磨する人にだけ幸福が訪れると信じる。


それが神なのでしょうか。
神は私たちが機嫌を取らなければ守ってくれない、そんな心の狭い存在なのでしょうか。

神が絶対的な存在なのであれば、神が愛そのものであるなら、条件次第で態度を変えてくるものなのだろうか。

そう思い込んだのは、私たち自身なのではないだろうか。
そこに恐れるものを吹き込んだのは人間の考えだったのではないだろうか。
いい子でいたなら、罪はない、罰も与えない。
しかしいい子でいなかったら、罪があり、罰を与えられる。
これは言い方を変えれば、人をコントロールするにはもってこいの考えでもある。。。


恐れる時、私たちは体を縮め、恐ろしいことが過ぎ去るのを待つ。
だが喜びにあふれている時、心は広がり拡張し、私たちは体のことを忘れている。

神は条件など必要としないのではないでしょうか。
愛に条件など必要でしょうか。

幼いころ、いつもそばにいた何かは、
私が何をしようと、ただ愛に溢れていた。

一緒に喜び、一緒に歌い、一緒に飛び跳ね。。。



何もせず、静かにする。
何も感じない。だけど何かがこの胸の奥にある。

騒がしい声は、「何かしていないとバチが当たるぞ」と、罪を見つけようとする。
けれども神はバチなど与えない。そう信じたのは人間。
自分たちが作った「恐ろしい神」を本物と信じ続けていただけだ。

その偽物の神が騒ぐ声を通り越して、本当の神の声を聞こう。

それは今でも常に語りかけている。
神は喜びとともに私たちに歌いかけている。

どんなに大人になっても、
幼い頃聞いていた神の歌は、今でもここで鳴っている。

自分で作った神には、もうお役目は終わってもらおう。



絵:「池のある風景」/和紙



2020年6月15日月曜日

お化け屋敷のオーナーさん





あるところにオーナーさんがいました。

オーナーさんはある時いいことを思いつきました。
お化け屋敷を作ったのです。

ところがオーナーさんは、自分がお化け屋敷を作ったことを覚えていません。
お化け屋敷の中で、毎日毎日、「怖い怖い」と言い続けています。

お化け屋敷の中に、どんな怖いものを仕込んであるかも覚えていません。だから隣の部屋にどんな魔物が潜んでいるかと、おっかなびっくり住んでいます。

そしてとても怖いものを仕込んでいます。それはテレビです。
テレビをつけると、毎日恐ろしい話が流れてきます。連続殺人犯がまだ捕まっていない話、未知のウイルスが世界を凌駕していく話、子が親を虐待する話。。。

オーナーさんは、それを見ては震え上がり、外に出るのも警戒します。あの電柱の後ろには、まだ捕まっていない犯人が隠れ潜んでいて、今にも襲ってくるかもしれない。人とすれ違ったら、何をうつされるかわかったものじゃない。。。。

自分で作ったものに、自分で怯えているのです。
どうにかしてその恐怖から逃れるために、あの手この手を使って対処しようとします。



でもなぜオーナーさんは、自分で作ったのに忘れているのでしょう?
それは、覚えていては楽しくないからです。

この部屋にこの魔物が仕込んであって、どのように現れてくるのかを覚えていたら、ちっとも怖がれないのです。
臨場感がないって言うんでしょうか。ドキドキ感がないって言うんでしょうか。
それを味わうために作ったのに、それが味わえないなんて、作った意味がありません。

だからオーナーさんは、あえて忘れることにしたのです。

でももう何年も、何十年も、何百年も繰り返しています。
いつになったら、自分が作ったお化け屋敷のことを思い出すのでしょうか。

それはたぶん、

もう飽きました。
恐怖を楽しんだところで、何の意味もありませんでした。

だってそれによって私はちっとも幸せになんかなれなかったんだもん。

と、気付いた時なのでしょう。



ところでそのオーナーさんって?

白状します。

私のことです(苦笑)。




絵:「Murder Comes to Call」ミステリー表紙イラスト