「大丈夫。神様が守ってくれる」
そう言われて、ホッとしたことがあったのではないでしょうか。
思えば、幼い頃はいつもそばに何かがいて、それと共に喜んだり楽しんだりしていた気がします。
それが何かは知らないうちに、やがて親をとおして「神様」という言葉が入ってきました。
ところが「大丈夫。あなたを守ってくれる神様がいる」と言ってくれる言葉のあとに、
「いい子でいたなら。。。」というものがついてくるようになりました。
神様が守ってくれるには、「いい子でいるなら」という条件が必要になりました。
しかしその言葉の背後には、こういう思いが付録のようにありました。
「もしもいい子でなかったなら。。。」
それはいつも守ってくれている神が、いい子でいなかったなら、恐ろしい神に豹変する、、、ということを子供心に暗示させました。
おとぎ話にもたくさん出てきます。神を敬わなかったら、神に背いたら、神はどんな大きな力で私たちに痛い目に合わすかを教えてきました。
その神に対するイメージは、そのまま大人になっても持ち続けます。
「ぼーっとしてたら、ろくなことにならない」
「嫌なことが起こった。これはきっと自分が何かやらかしたからに違いない。」
「あいつにバチが当たった。」
言葉の中に神というものは出てこないけれど、罪を犯せば、神によって罰せられるという無意識の恐れがあります。
荒ぶる神の心を鎮めるために、人類はあらゆることをしてきました。人身御供を差し出したり、大きな仏像を作ったり、厳粛な儀式を行ったり。。。
それが少しでもまちがうと神は罰を与える。だから人々は神を恐れ、敬い、なんとか機嫌を取ろうとする。
日常生活でも、神を恐れ、怠惰を嫌い、ひたすら切磋琢磨する人にだけ幸福が訪れると信じる。
それが神なのでしょうか。
神は私たちが機嫌を取らなければ守ってくれない、そんな心の狭い存在なのでしょうか。
神が絶対的な存在なのであれば、神が愛そのものであるなら、条件次第で態度を変えてくるものなのだろうか。
そう思い込んだのは、私たち自身なのではないだろうか。
そこに恐れるものを吹き込んだのは人間の考えだったのではないだろうか。
いい子でいたなら、罪はない、罰も与えない。
しかしいい子でいなかったら、罪があり、罰を与えられる。
これは言い方を変えれば、人をコントロールするにはもってこいの考えでもある。。。
恐れる時、私たちは体を縮め、恐ろしいことが過ぎ去るのを待つ。
だが喜びにあふれている時、心は広がり拡張し、私たちは体のことを忘れている。
神は条件など必要としないのではないでしょうか。
愛に条件など必要でしょうか。
幼いころ、いつもそばにいた何かは、
私が何をしようと、ただ愛に溢れていた。
一緒に喜び、一緒に歌い、一緒に飛び跳ね。。。
何もせず、静かにする。
何も感じない。だけど何かがこの胸の奥にある。
騒がしい声は、「何かしていないとバチが当たるぞ」と、罪を見つけようとする。
けれども神はバチなど与えない。そう信じたのは人間。
自分たちが作った「恐ろしい神」を本物と信じ続けていただけだ。
その偽物の神が騒ぐ声を通り越して、本当の神の声を聞こう。
それは今でも常に語りかけている。
神は喜びとともに私たちに歌いかけている。
どんなに大人になっても、
幼い頃聞いていた神の歌は、今でもここで鳴っている。
自分で作った神には、もうお役目は終わってもらおう。
絵:「池のある風景」/和紙