今は展覧会の真っ最中。
毎日たくさんの人と会う。
わざわざ都心から来てくれた友人、ご近所さん、そして高尾山帰りの見ず知らずの人々。
私の作品をしげしげと眺め、
「一体これは何!?どうやって作ってるんですか?」
「それはですねえ~。和紙を使って。。。。」
と説明すると、ますます驚いた様子。
中には食い入るように見て、
しばし嬉しそうにその絵の中に入っていく人までいる。
そういう姿を眺めるのは楽しい。
絵を売るということ。
昔は自分の絵を見せるということにどこか引け目を感じていた。
私の汚点を見せるようで、どうもすいません。。。と。
そうは言いながらも、その展覧会の準備にかかった費用や生活のことを考えると、
絵を売りたい!とおもう。
売りたい。でも申し訳ない。売りたい。でも申し訳ない。
という二つの相矛盾する思いの中でいつも心は分裂を繰り返していた。
でもコースを学ぶうちに、自分の中の罪悪感が徐々に消え始め、
絵と自分との折り合いがつき始めた。
やがて絵を喜びとともに描き始めた。
しかしお金に関する信念は、コースを始めてから何年もそれに取り組んできたが、
なかなか取れるものではない。
そして今回の展覧会中のある夜、お金に関する信念が私を襲った。
怒涛の赦し。聖霊に捧げ、訂正をお願いしまくる。
苦しみは続き、明け方近くに、やっとこのまま、ありのまま、
この苦しみのままでいいのだ。。。
という考えに行き着いた。
その苦しみをそのまま受け取り、気がついたら朝になっていた。
次の日、見知らぬ人たちが、私の絵を見て喜んでくれている。
その姿を見ながら、気づいた。
これだ。。。
私の仕事はこれなんだ。。。
絵はただのきっかけに過ぎない。
それを通して喜び合う。兄弟が幸せになって喜び合う。
これが私の仕事なんだ!
なんてすごい仕事をしているんだ、私は。。。!
「絵を売らないと。。。」という自我のささやきが来た途端、
私の中の幸せが消えた。
さっきまでの、ただ幸せだった感覚が、
「お金。。。」という言葉とともに消え失せる喜び。
この違いにも気づいた。
自我は肉体を維持するためにあらゆることを促してくる。
「この展覧会のためにいくら使ったと思っているんだ。
それを回収しないでお前は生きていけるのか?
なに青二才のようなこと言ってるんだ?」
このささやきに私はずっと悩まされてきた。
だからどうにかして、どうにかしてお金をゲットして、、、と。
そこじゃなかった。
幸せになるために、絵を売って、お金を稼いで、、、
いやいやいや。
その途中経過なんかいらなかった。
今、幸せになれる。
今、目の前の見知らぬ人と幸せを分かち合える。。。。!
なんてすごい仕事なんだ!
私が初めて絵描きという存在を意識したのは、ゴッホだった。
彼の絵に心が震わされながらも、
耳を切って愛する人に渡したり、
絵は一枚しか売れなかったり、
挙げ句の果てに最後は狂って自殺してしまうという絵描きという職業。
小学1年生の私は、
「絶対絵描きになるまい!そうでないと狂ってしまう!」
と、心に固く誓っていた。
しかし図らずも私はその仕事に引っ張られていった。
なんということか、狂ってもいない。
そして今思うのだ。
ゴッホはただ愛をもとめていただけだったのだ。
愛する人を愛するがゆえに、あの表現があったのだ。
そう思えた時、そこに愛があった。
すべては愛の表現だった。
石油ストーブも、パソコンも、庭の盆栽も、
愛を表現したいがために現れたものだったのだ。
その愛のみを見る。
そこには愛しか存在しない。