2022年11月29日火曜日

絵を描くという仕事


 

今は展覧会の真っ最中。

毎日たくさんの人と会う。


わざわざ都心から来てくれた友人、ご近所さん、そして高尾山帰りの見ず知らずの人々。


私の作品をしげしげと眺め、

「一体これは何!?どうやって作ってるんですか?」

「それはですねえ~。和紙を使って。。。。」

と説明すると、ますます驚いた様子。


中には食い入るように見て、

しばし嬉しそうにその絵の中に入っていく人までいる。

そういう姿を眺めるのは楽しい。




絵を売るということ。

昔は自分の絵を見せるということにどこか引け目を感じていた。

私の汚点を見せるようで、どうもすいません。。。と。


そうは言いながらも、その展覧会の準備にかかった費用や生活のことを考えると、

絵を売りたい!とおもう。


売りたい。でも申し訳ない。売りたい。でも申し訳ない。

という二つの相矛盾する思いの中でいつも心は分裂を繰り返していた。



でもコースを学ぶうちに、自分の中の罪悪感が徐々に消え始め、

絵と自分との折り合いがつき始めた。

やがて絵を喜びとともに描き始めた。


しかしお金に関する信念は、コースを始めてから何年もそれに取り組んできたが、

なかなか取れるものではない。


そして今回の展覧会中のある夜、お金に関する信念が私を襲った。


怒涛の赦し。聖霊に捧げ、訂正をお願いしまくる。

苦しみは続き、明け方近くに、やっとこのまま、ありのまま、

この苦しみのままでいいのだ。。。

という考えに行き着いた。

その苦しみをそのまま受け取り、気がついたら朝になっていた。









次の日、見知らぬ人たちが、私の絵を見て喜んでくれている。

その姿を見ながら、気づいた。


これだ。。。

私の仕事はこれなんだ。。。


絵はただのきっかけに過ぎない。

それを通して喜び合う。兄弟が幸せになって喜び合う。

これが私の仕事なんだ!


なんてすごい仕事をしているんだ、私は。。。!





「絵を売らないと。。。」という自我のささやきが来た途端、

私の中の幸せが消えた。


さっきまでの、ただ幸せだった感覚が、

「お金。。。」という言葉とともに消え失せる喜び。

この違いにも気づいた。


自我は肉体を維持するためにあらゆることを促してくる。

「この展覧会のためにいくら使ったと思っているんだ。

それを回収しないでお前は生きていけるのか?

なに青二才のようなこと言ってるんだ?」


このささやきに私はずっと悩まされてきた。

だからどうにかして、どうにかしてお金をゲットして、、、と。


そこじゃなかった。

幸せになるために、絵を売って、お金を稼いで、、、


いやいやいや。

その途中経過なんかいらなかった。


今、幸せになれる。

今、目の前の見知らぬ人と幸せを分かち合える。。。。!


なんてすごい仕事なんだ!



私が初めて絵描きという存在を意識したのは、ゴッホだった。


彼の絵に心が震わされながらも、

耳を切って愛する人に渡したり、

絵は一枚しか売れなかったり、

挙げ句の果てに最後は狂って自殺してしまうという絵描きという職業。


小学1年生の私は、

「絶対絵描きになるまい!そうでないと狂ってしまう!」

と、心に固く誓っていた。


しかし図らずも私はその仕事に引っ張られていった。

なんということか、狂ってもいない。


そして今思うのだ。

ゴッホはただ愛をもとめていただけだったのだ。

愛する人を愛するがゆえに、あの表現があったのだ。


そう思えた時、そこに愛があった。



すべては愛の表現だった。

石油ストーブも、パソコンも、庭の盆栽も、

愛を表現したいがために現れたものだったのだ。


その愛のみを見る。


そこには愛しか存在しない。









2022年11月24日木曜日

聖霊のガイダンス


 

聖霊のガイダンスについて書いてみたい。


恐れで迷ってしまい、

聖霊にあなたの見方を教えて下さいとたのむ。


その時降りてくるものが、

自我か聖霊かどっちかわからないということはない。


それはまったく違うところからくるアイディアだからだ。




おそらく自我か聖霊かわからないというのは、

同じ次元での選択やアイディアなんじゃないだろうか。


水平線上での、AかBか。はたまたCか。

およそ自分が思いつくところからの答えを求めているのかもしれない。


「聖霊さんはBって言ってる気がするけど、、、だけど本当だろうか。

ひょっとしたらこれが自我。。。?」

だからまだ迷う。


それは、そのどちらかが正しいのだと私は知っているという前提だからだ。




しかしこの形態の世界(水平線上)の中に、

聖霊の答えは見つからない。


自分が予想できるところの、

どれかに当てはまるものの中のどれかが聖霊の視点ではないのだ。


まったく違うところからくる。

そのインスピレーションが来た時、ハッとする。


「こっ。。。これは。。。。!」と。


その時心が開く。

それまで重い鎖にがんじがらめにされていた感覚が、一気になくなる。


そうか。。。!その見方があったんだ。。。!と。

その時視界が広がる。

考えもしなかったところから見ることになる。


これが聖霊の見方だ。

どっちかわからない次元ではない。


水平線上にはない、垂直の見方。


それが降りてくる時、「アッと驚く為五郎~」なのだ。



だから私はどっちかわからなくなっても聖霊に聞かない。

そこに答えはないと知っているからだ。

きっと聞いても、どちらでもいいというだろう。

そこに真実はないからねと。



そうは言いながらも、私はしょっちゅう聖霊に聞く(笑)。


あなたの見方で見たい!

あなたの視点でこのすべてを見せてほしい!と懇願する。




今は前ほど言葉のインスピレーションは来なくなった。

しかし別の見方がジワリジワリとやってくる。


それに比例して心は解放されていく。









2022年11月23日水曜日

今日から展覧会


今日から二週間、高尾での展覧会が始まります。


戦前に作られた落ち着いた日本家屋の、そこかしこに作品を展示いたしました。


ブルーグレー色の渋い色合いの床の間に飾られた絵は、

どんなふうに見えるのだろう?と半信半疑でしたが、

飾られてみると、昔からそこにいたかのような顔をしていました。


「まるでこの家のご主人の、元々の収蔵作品を展示したかのようですね」

と館長さんはおっしゃってくださいました。


それは私がずっと毎日見て、

描いてきた風景だったからなのでしょうか。



作品は、喫茶室、それぞれの部屋にある床の間、廊下、小部屋、出窓、

そして一番奥にある展示室、あちこちに飾られています。

全部で29点。


いつもは真っ白いキューブのギャラリーに、

スポットライトを当てる展示のしかたですが、

今回あえて一切照明は当てませんでした。


日本家屋から醸し出される柔らかな陽の光の中で、

彼らがどのような表情をしてくれるのか見てみたいと思いました。


不意に出会う風景に、

ハッとさせられることもあるかもしれません。




折しも今は晩秋まっさかりの高尾。

庭からは高尾山の一部が借景で見えています。

美しく整えられた庭の風景と一緒にご堪能ください。


私は23日、26日、27日、3日、4日は、朝10時から会場にいます。

そのほか、24日、25日も午後からいます。

そのほかの日もちょこちょこ出向きますが、

案内の方、もしくは私にご連絡くだされば、馳せ参じます。


閉館時間が3時半と、とても早いので、

そこのところはお気をつけください。



展示と日本家屋と風景と。

すべてが融合された素敵な空間と時間を味わっていただければ嬉しい限りです。


皆様のお越しをお待ちしております。









2022年11月21日月曜日

心は活動的


心は活動的だ。

常に何かを作り出し続けている。


これが神の子のゆえんなのだろうか。腐っても鯛なのだ。


ところが何と一緒になって作っているのかが問題。


ほとんど自我と一緒になって作り事をしているのだ。

いや100パー自我と、と言っても過言ではないだろう。


そもそも聖霊と一緒に創造するってことがなんなのか知らない

(すっかりコン抜け落ちている)のだから。




自我と一緒に何を作り出しているのか。

この世のことである。


朝目が覚めた瞬間から、この世界のことをどーしたこーしたと語り始める。

そもそもこの世界は自我が作り出した仮想世界。

だから自我がそれを推ししないわけにはいかない(笑)。


そのために恐れが利用される。

「こうなったらどうする?路頭に迷ったらどうする?」

「え。。ヤダ。。」

「だろう~?だからこうやっておくのさ。」

と、私を奴隷にさせる。



活動的とは、常に何かを作り続けていること。

恐れを作り続けているか、愛を創り続けているか。


恐れは時間と空間を生み出した。

知覚はそれをとらえる。

時間と空間ができたから知覚ができた?

知覚ができたから時間と空間が生まれた?

わからん。

しかし真の知覚というものがあるらしい。


だけど自我と一緒に何かを作り出している限り、真の知覚とはなり得ないようだ。



時間は恐れを生む。


心を見ていると、いかに時間の中にいるかわかる。

未来の心配だ。

過去の怖かったことを思い出し、未来に備えるのだ。


これが世界を作出する。

世界は時間と空間と恐れと罪悪感に満ちている。


なんで?

自我と作ってるからだー。


ワッセ、ワッセと、四六時中、自我と一緒に、

荒ぶる妄想の世界を作り出している。



ちょっと待ったーっ!


そのワッセワッセをやめる。


もう自我ではなく、聖霊さんと一緒に創造する。


で、聖霊さんの創造とは?


わからん。

おそらく愛なのだろう。(あてずっぽうかい!)


そうなのだ。神の子の創造とは、今の私にはちっともわからない。

永らく自我さんとご一緒させていただいていたのでね。


だけどこいつじゃないとわかる。

こいつはあかんやつだ。



自我と一緒にいたら、いつも時間の中にいる。

過去に罪を見て、未来を恐れる。


今とは、過去から未来へのただの通過点にする。

「今?大したことない。ないない。そんなもの」と、軽くあしらう。


自我にとって今は一番ヤバいこと。

一番なかったことにしたいもの。

推しはやっぱり過去と未来。




でも違ったんだ。

今というものは、とんでもないしろものだった。


今には時間がない。


今には出口と入口がある。

妄想からの出口と実在への入り口。



今の中に静かにいる。

真っ白で何の形もない光の中に。


そこに私の忘れていた創造がある。


なんかわかんないけど、
そこに心はいつも触れていたい。





絵:「秋の山」けんぽ表紙イラスト






2022年11月19日土曜日

プロセス2


今にいるって、心が安心している時なんだろうな。


心は絶えず未来の不安に向けて何かしら考えている。

今日は何しよう?これからどうする?あの問題をどうやって解決しようか?


そういった未来への心配が全くない状態。

何も考える必要がない。

だから今にいて、今この瞬間に安堵して楽しんでいられる。






さてつづき。


当たり前のように信じていた「常識」という信念を

聖霊によって取り消してもらうたびに、

心は少しづつ軽くなっていった。


ある程度の信念が解放されると、とても楽になった。

そしてまた訪れる苦しみ。

そしてまた手放し。解放。苦しみ。

そういうローテイションが起こっていた。


しかし同じ繰り返しではなく、

らせん階段を降りていくように、少しづつ変化している。


それまではわかりやすい言葉があった。それを捧げて行けばよかった。

だが徐々にはっきりとわかる信念ではなく、精妙なものに触れ始める。


そして全く言葉にもならない、

振動のような恐れにたどり着いた。


一体何を感じているのかわからないが、

とてつもない罪悪感が私を襲う。

重低音の膨大な量の声が私の中を駆け巡っていた。


一晩中その振動に脅かされる。

聖霊に捧げるも何も変わらない。

息を殺して耐えた。

その頃だったか、線路に飛び込もうとした衝動があったのは。

生きているのも苦しくて、消えてしまおうとした。


しかし今それをやっても、また同じことがやってくることはわかっていた。

今ここで乗り越えなくてどうする。

意志の力がそれを止めていた。



そんなことが起こるあたりから思ったのだ。

「これはいい、悪い」という信念とは、罪のことではなかったか。

タバコのポイ捨てでさえ、私たちはそこに罪を見る。


あんなことをやっちゃった。

あるいは、あんなことをしている人がいる。


自分の外や内側に何かを見つけてそれをつかんで、それについて語る。

テレビやネットのニュースを見て、ああだこうだと意見を言う。


語るなんていうのは優しい言い廻しだ。

実はさばくという行為で、攻撃している。


私たちは罪を見れば自動的にさばきたくなる。


私は罪を見たがっているのではないか?

自分や兄弟に罪を見ることを嬉々としてやっている。。。!


私はゾクッとした。

それがコースのいう罪の魅力だ。


私たちには、罪を探すという衝動があったのだ。



罪は、罰とセットだ。

罪を犯せば、必ず罰が下る。


心はひとつだから、兄弟に罪を見れば、それは即自分にも罪があるということになる。

だから罪と罰はセットなので、自動的に自分に罰を与えることになるのだ。


罪を人に見ようが、自分に見ようが同じ。

あると見たなら、自分に無意識に罰を与えようとする。


なぜならその罰で苦しむことで、自分は罪を償うことができると信じているのだ。


これがずっとずっと繰り返されている。。。。


唖然とした。。。

これが自我がやっていることだ。


自我は罪を見たがる。見せようとする。


心を観察していると、

自分の問題、兄弟の問題、あれはどうなった?これはどうするんだ?

絶え間ない葛藤を心は喋っていた。




「これは嘘なんじゃないか。。。?」


それまで心の中でしゃべっていることは、自分の味方だと思っていたのを

自分を惑わす声であって、自分の味方ではないのではないかと気づき始め、


ことごとく声の内容を吟味してみた。


「根拠がない。。。」

まるで根拠がなかった。。。。


私はその声をそのまま放置した。


自分や兄弟に、罪を見るんだと促す声に取り合わなくなった。






私たちの目の前に展開しているように見える世界。

これはただ起こっているだけではなさそうだ。


私たちはただなすすべもなく、

起こってくるものに翻弄されているのではなく、

自分が信じたものを見ているのだ。


世界は悪い奴がいっぱいいると思えば、

そのような世界を見る。


自我はその見ているものを使って、

「ほら、ここに罪がある。君が罰するべきだろう」

と言い、この世界を実在させ続ける。


聖霊はその見ているものを使って、

「ここに君が信じているものがある。

それを私とともに赦し、終わらせていかないか?」

と、実在しないものを終わらせていく。



ある時、突然「罪などない!」

というインスピレーションが来たことがあった。

それはとんでもない開放感だった。


罪がないとはこういうことなのか!と、聖霊が教えてくれた一瞥だった。

聖霊は、時々こうやって向かう方向を指し示してくれる。


この世は幻想だと頭で否認して終わらせるのではなく、

直に体験として聖霊に導かれて教わっていくこの醍醐味は、

本当にありがたいことだ。

それは自分が一人ではないことをも実感する。




そして私はいつの間にか、罪というものが

単なる間違った考えに過ぎなかったんだと思い始めた。


コースは「罪」などない。

それは単に間違った考えだ。

それは聖霊に訂正してもらうだけのことだ。


と、いとも簡単なことのようにいう。

そんなバカなと思っていた。


罪悪感妖怪だった私にとって、

「罪」とは、山のように重たく硬い、

絶対的な存在を持った、一生ぬぐいきれないもののはずだった。


最初は重く硬い罪がそこにあった。

それがだんだん溶けるほどに、罪は柔らかくなり、

やがて単なる間違った考えだという、吹けば飛ぶような煙に変わってきた。





ある夜、自分のみじめさに泣いていた。


これをどうやって取り除いていいかわかりません。。。

聖霊さん、あなたの見方を教えてください。。。


恐れに震えながら、

ふと「私はこれをただ選択しているだけなんじゃないか?」

と思った。

これを選ばないことができるのか。。。


そう思った瞬間、みじめさが消えていた。



心は一瞬で切り替わる。

そう教えられた瞬間だった。


見えている現象が変わったから変化したのではない。

ただ、心が変わったのだ。



すべては選択だった。


どちらを選ぶ?

という二者択一。


愛を選ぶのか、恐れを選ぶのか。

どちらを選ぼうと、神は赦している。



ゆっくり目覚めなさい。


私はいつでもここにいる。







絵:「はっとする」今度の展覧会の作品