うまくいかない現象に、心は動揺する。
この気に入らない現象を変えようと努力する。
ところがこの現象は変わらない。
その時、
現象は結果であって、原因ではなかったことを思い出す。
では原因はどこに。
心だ。
こうなってほしくない。
ああなってほしい。
と、切に願っているその心を見る。
なぜそう願うのか。
辿っていけば、そうであってくれたら、
私は幸せだと思っているからだった。
つまり私の幸せは、その現象次第ということになる。
おっと。
これはいつものパターンだぞ。
形が変われば幸せ。
形をゲットできたら幸せ。
この手の幸せは、一瞬で消える。
自我が私を手招きする「条件付きの幸せ」だ。
これを得られたらお前は幸せだぞお~。
そうやって、この現象界にいつまでもフォーカスさせ続ける、あれだ。
私は本当にそれをゲットしたいのだろうか。
じっと考える。
たとえそれがゲットできてもあっという間に消えるのを知ってる。
本当はそれじゃないんだ。
それが必要だと信じているだけだ。
つまり欠乏感の中にいる私を見た。
本当に私は欠乏している?
足りないものがあるのか?
ゲットするってことは、失うってこともついてくるぜ。
「ない」が先にあるから「ほしい」がやってくる。
その「ない」は、単なる信念だったら?
自我がささやいただけの考えに過ぎなかったら?
「無」は、「有」がない限り生まれない発想。
「無」から「無」は生み出せない。
だが、そこが「ある」もので満ち溢れているなら、
「ない」ものを探す必要はあるだろうか。
「ない」という狂った考えが、私たちに欠乏を教え、
どこ?どこ?どこにいる?青い鳥は?
と、探し続けさせてきた。
考えだけだったんだ。。。!
と、気づいた時、
それをゲットする必要が消える。
欠乏などしていないことに安堵する。
「人は心に思う通りに知覚する」
心が変わる瞬間は、現象が変わる喜びの比ではない。
一瞬で解放される。
一旦それを味わい始めると、
かっぱえびせんのようにやめられない止まらないになり、
それにしか興味がなくなる。
心の比重がどんどん大きくなってくる。
コースの目的は、心を変えること。
心がこれまでの考えとは全く反対の、180度向きを変えた時、
そこに平安が両手を広げて待っている。
「おかえり〜」
なんだ。そこにいたじゃん。
見てる方向間違ってただけじゃん。
形などどちらでもよくなる。