石けんなし生活を始めて、かれこれ14年。
相変わらずこのまんまで快適。
物理的にあまり必要ないものだという実感はあるが、
それを使わないことで見えてきたものもある。
人はなぜ石けんを使うのか。
(おお。哲学的だ。)
石けんという言葉には、大量の信念がくっついている。
きれい、きたない。
菌がある。
菌が増殖する、それを消すことができる。
臭う、臭わない。
悪いものを消すことができる。
浄化する、などなど。
その言葉たちから導き出されるのは、恐れ。
きたないことはいけない、菌はよくない、臭うことはいけない、病原菌、、、。
とはいえ、石けんですべての問題が解決するかといえばそうでもない。
徹底的に洗えばいいのかというと、きれいにしすぎたら抵抗力が落ちるという。
じゃあ、どこまできれいにして、どこまできたないままでいいのか。(笑)
どこに線引きがあるのか、さっぱりわからない。
ネットで探せば、これがいいという意見があるかと思うと、
その隣に、それは良くないという意見もある。
情報はぐちゃぐちゃ。
恐れる子羊たちは、右往左往させられる。
私たちは恐れると、その恐れをどうにかしようと行動に走る。
その行動がますます混乱させる。
決定的に正しいことなどないと、
私に教えてくれたのは、この石けんなし生活だった。
だからと言って石けんなし生活ですべての問題が解決したかというとそうでもない。
肉体的な不快はかなり減少したが、
完璧な健康体になれる!などというような「石けんなし運動」の旗揚げする気もない。
ただ、これ、なくてもいいんじゃね?と思って実験しただけだ。
足してもダメなら引いてみな、だ。
だが、その物理的な引き算で幸せがやってくるわけではない。
大事なのは、その信念からの解放だ。
石けんが絶対必要。シャンプーリンスが絶対必要。歯磨き粉が絶対必要。
という信念からの解放のための第一歩。
実際、私にはそこまでいらなかった。
そして、そもそもその信念とはなんぞや?と考えるきっかけにもなった。
菌って何?悪玉菌、善玉菌って何?汚いって何?免疫って何?
ひとつ言葉を覚えると、なんだか賢くなった気になる。
善玉菌っていうのはねえ~。。。
でもそれを知った途端、心の片隅にかすかな恐れが入り込む。
悪玉菌も一緒に生み出してくるから(笑)
こうしてわたしたちの体には、
とんでもない量の言葉がくっついてくる。
こうなってしまわないように、こうする。
ああなってしまう前に、こうする。。。
そうするためにはあの商品を買って、夜寝る前につけて、、、
つけなかった日には、翌日にえらい乾燥肌になって、、、、
思うに、石けん使うから、肌から油が消えて、
その油をわざわざお金をかけて、また外からつける。
ところがその外からつけたものに、いらぬ保存料が入っていて、
その合成の何かのためにまたお肌が荒れて。。。。コメディか!
というようなことを通して、信念は脅迫になることを知る。
体はそんなに軟弱だろうか。
ほっといても案外強靭なのかもしれぬ。
だって人類ここまで生き延びてきたんだから。
かなり柔軟な適応能力があったと見える。
また長くなってしまった。
これ、なくてもいいんじゃね?
というものは、物質的なものだけじゃない。
考え。この考えからの解放だ。
折しも、この時期、あらゆる信念で渦巻いている。
年末にはきれ~いにお掃除して全て終わらせて、
新しいピカピカな新年を迎えなければいけない。
そうでないと神様が良い福をもたらさない、と。
神様はそんな風に
「この家は汚い。うむ。こいつに福は授けない」
「うん?この家はなかなか綺麗だ。よし。こやつには、福を授けよう」
などと天秤にかけるのだろうか。
そんなこと言ったら、うちは
「うん?この家には、石けんがない!なんてえこった!こやつには一銭も福はやらぬ!」
となっちまうではないか!
神様は閻魔様じゃない。
神は平等だ。
こっちが綺麗とか汚いとか、関係なく、
無条件に私たちを強烈に愛してくれている。
そもそも私たちが作り上げた幻想の世界など、
神には見えてない。
(だから平等なのだ。笑)
絵:ワカサギ釣り。去年の今頃、知り合いからいっぱいワカサギをもらった。