「苦労なんかしてないでしょ」
その言葉にひっかかった。
私が?苦労してないひと?
んなわきゃないやろ。どんだけ苦労してきたと思ってるねん!
心がぶつぶつ言った。
そのとき「苦労は美徳」という観念が私の中にあるのに気がついた。
「苦労は買ってでもするもの」
そういうふうに教えられてきた。
だから人々の会話の中に苦労話が多い。それは苦労話をすることで、
「それは大変だったねえ~。エラかったねえ~」
と言ってもらうことによって、自分の価値を他人にあげてもらおうとする。
承認欲求は、苦労話でも得られる。むしろメインと言えるかもしれない。
「三時間しか寝てない」「一睡もしてない」
ところがその苦労話も、共感できる内容でないと効き目がない。
理解できない内容の苦労話も他人にとっちゃ、
「はあ、そーですか。それはそれは。。。」では自慢のしようがない。
冒頭に苦労なんかしてないでしょと言った人は、いつもへらへらして、アホなことばっかり言う私をみてるからなんだろう。
彼女はいわゆる苦労を絵に書いたようなひと。誰が聞いても誰に言わせても苦労100%のひと。それを自慢にしているのはあきらかだった。わかりやすい苦労話である。
しかし私の苦労は、あんまり共感が持てない苦労話。
グリーンカード取得の苦労、アメリカ生活の苦労、営業の苦労、絵を制作する産みの苦しみの苦労、過去のトラウマの苦労、心の癖の苦労。。。
と書いてみていやになった。
共感が持てない苦労話は、他人に言うに値しない。
苦労話自慢はそれが通用するひとにしか効き目がない。
私と同じ境遇のひとなんか、ひとりもいない。
苦労話は競い合う。
あなたより私の方が苦労が多い。
君より僕の方が苦労が上だ。
三時間睡眠より、一睡も寝てない方がえらいが、
数字で換算されるように比べられる苦労はあんがい少ない。
こっちのほうが上だ!と、互いに無言で競い合っているのがオチだ。
ご近所のおばさんの会話も
「あたしはこうなのよ」
「あら、あたしはこうなのよ」
と、話しの中に何の絡み合いもなく、お互いの一方的な自分の苦労話がつづき、
自分のいいたいことを言い合って、気がすんだらおわる。
そんなかんじなのも、無意識が心の中で競い合っているのかもしれない。
苦労は美徳。
そうおもってきたから、苦労自慢がしたくなる。しかし共感はしてもらえない。
だからつねに他人の共感欲求対してに
「そうだね。苦労したね。大変だったね。えらいね」と言い続けるだけだ。
ほんとに苦労は美徳なのだろうか。
もし私の中に苦労を美徳とおもわなくなったなら、他人の苦労話に何の苦痛も感じなくなるだろう。自分を苦労話で認めさせようとすることもしなくなるだろう。
そして苦労をしなければ、幸せになれないともおもわなくなるだろう。
それだけ私の心の深いところで、苦労はするべきだ、という観念が居座っていることに気づく。
昔、幼いころ手相見のひとが私の手を見て、
「まあ、この子はまだこんなにちっちゃいのに、こんなに苦労の相が出ている。かわいそうに。。。」
と言われたことを思いだす。
そのころから、私は苦労が好きになったのかもしれない。苦労をしてこそ一人前、みたいな。苦悩の血をにじませて、苦悩とともに歩くひと。。。そんなイメージを自分に持たせていたのかもしれない。
悲劇は文学になるぐらい美しく見えるのだから。
(え?ぜんぜんみえないって?)
苦労はしなくても、しあわせになれるんやとおもう。
苦労の土台なしで、しあわせになれるんやとおもう。
うん。だんだんそんな気になってきたぞ。
苦労は美徳と言う観念。
私にはもう必要ないなあ~。
絵:「苦労話」はすればするほど職場がよくなる/MF新書表紙イラスト
本の内容とま逆のことを言ってます。失礼しました。
本の内容とま逆のことを言ってます。失礼しました。