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2019年10月1日火曜日

別の見方



畑にお別れをしたあと、心もとないままさんぽにでる。

圏央道が高尾山の懐に風穴を開けた橋の下で座る。


「終ったなあ~。。。やっぱさびしいなあ~。。。」
意気消沈している私の心に、ふいにFBでもらったコメントがよみがえる。
そこには「決断おめでとう!」と書いてあった。

「畑やめた決断、おめでとうかあ~。。。。
ってか『おめでとう』ってなんやねん!」
と、ひとりツッコミを入れる。


畑をやめる決断をした私に、エールを送ってくれた彼女は、日頃ものすごい緊張を強いられる仕事の中で、数多くの決断をしてきた人だ。自分の決断がまちがえば、億単位のお金の損失をまねく。。。。

私の決断は一銭も動かん。次元が違う。
なのにじめじめくよくよ、あと髪引かれていた。その結果ダンナにぎっくり腰させちゃって、あわててやめた根性なしだ。



「おめでとうかあ~」
畑をやめると、たいていは、お疲れさまとか、さびしいねえ、などの共感をもらう。その言葉にホッとさせられたり、安堵したり。
だけどおめでとうは、良かったね!というニュアンスがこもっている。やめたことはすてきなことだ!という前向きな考えが入っている。



その時おもった。
あ!これだ!
彼女の言葉は次元を越えていた。
ぽーん!と、別次元の視点を与えてくれたんだ。
ほんとは彼女はそこまでの意図があったわけではなかったのかもしれないが、私に大きな転換をくれた。



「そうだ!これだ!今までにない視点、今まで考えもつかなかった別の考えがあるんだ!」
橋の下で急に元気になった。胸のあたりからボワン!と大きなものが膨らんだ。



別の視点?
そうそう。まったく別の視点だ。
それは日頃私たちが普通に考える判断、解釈。それとは真反対のものだ。過去を探してもでて来ない、未知のアイディアだ。

自我がいつも私たちに投げかける、悲しげなネガティブなアイデアではなく、聖霊がもつ豊かなアイディアだ。



「そうだ!そうなんだ!この畑をやめたことは、きっと別の視点でみれる!やったあ~!」
じゃあ、別な視点はなんなのか?といわれれば、「はて?」となる。
ちっとも解決はしてない。なのになぜかその「別の視点」をはじめて意識した私は天下を取ったような気分になった。

そしてこれが、奇跡の意味だったことをのちに知る。
自我の視点ではなく、聖霊の視点をもつ。いや、持とうと意志すること。別の視点をもちたいと願うこと。このこと自体が奇跡だったのだ。





ここで母の背骨事件をおもいだす。
彼女は背骨が木っ端みじんになった時、泣くわけでもなく、ただ一言こうおもった。
「あ。粉々に砕けた背骨は、私のからだの中に今あるがよね。ほいたら、集めりゃええだけやんか」

このアイディアは自我の視点ではぜったい思いつかない。自我だと、ああしてこうしてこうやって、、、、ああ、一生車いす。。。というアイディアしか浮かばない。
まちがっても「集めりゃええがよね」とはおもわない。

あの時、彼女は別の視点をもらったのだ。
原因と結果とは、原因、つまり心がつくる。
原因になる心が自我の視点ではなければ、結果も自我の視点の世界にはない。


彼女がそれを意識的にやったのではない。たまたまそうアイディアが浮かんだのだ。
その理由はわからない。でもきっとそれは偶然ではないのだろう。彼女のバックボーンがそううながしたのだ。





起こるできごとは、どうしようもなく起こる。
それを偶然だとはおもわなくなった。その人にとって必要だから起こるのだ。
そしてその時、その出来事をどう解釈、どう判断するかによって、その先がちがってくる。

すべては心にかかっている。
今まで通りの解釈や判断で抵抗してもいいだろう。だけどきついことであればあるほど、それは何かを教えようとしている。今まで通りに抵抗をすれば、一時は楽かもしれないが、やがて同じようなことが起こって、最終的にそれに向かわざるを得なくなる。


私は畑をやめたことに、判断をしないことにする。今の私は自我でしか考えられない。
なぜなら自我は混乱しか生まないことを知りはじめたから。

判断は起こる。それが私たちの習慣だから。
だけどその判断が何か窮屈なものであったなら、それは採用しないほうがいいかもしれない。

別の見方をしたい。
ただそれを願う。






2019年9月28日土曜日

畑という大きな親



11年やってきた畑をやめた。

なんでかって?
もちろん挫折したからさー。
成功してやめる人はめったにいないやろ。

一番の理由は、体力。
二番目は一番目とほとんど同じ。野生動物とのおりあいがつかなかったこと。

やってもやっても彼らに持っていかれる。普通ならやらないこと、大根にネットを掛ける、枝豆にネットを掛ける、落花生に、ジャガイモに、取られないようにあらゆることをやった。それでも食べられる。彼らが食べないのは、唐辛子とシシトウとピーマンぐらい。他は全部平らげる。

畑に向かうたびに、荒らされてないか気が重い。
心の勉強をしていることで、物理的なもの以外にまでその原因をさぐった。この現象は自分の考え方の何が悪いのか?どう考えればこの現象が終るのか?と。

それでも答えは見つけられなかった。



やめるきっかけになったのは、イノシシに入られたこと。徹底的にやられた。その惨状を見た時、なぜか心は穏やかだった。どこかでやめるきっかけを探していたんだと思う。

それでもその予感は一年前から徐々に来ていた。父の死の前後、忙しくて畑に向かえない。草は生え放題。畑は徐々に山に帰ろうとしていた。その上バイトで体力はがっくりと落ちた。


ある時、畑に未来を感じない自分を見つけた。
そのおどろきとあまりの悲しさに、畑でひとり大声で泣いた。
その時自分がいかに土に触れることを愛してやまなかったかを知る。
小さいときからいつも一人で土と戯れていたのだから。




畑は私に収穫だけでなく、ありとあらゆることを教えてくれた。

辛い時、苦しさに喘いでいる時、草を刈っていると、ふいにヒントをくれる。
まるでまわりの土や草や虫たちが、私の心にじっと耳を傾けて聞いているかのようだった。

すべてが私の仲間だった。草は刈られることをいとわなかった。最初は草を刈ることに罪の意識を感じていた。しかし彼らに私たち人間がもつ自我のようなものはなかった。ただただ受け入れてくる。自我の塊の私をただただ受け入れる。したいようにさせる。

私は畑という大きな親の懐の中で遊ぶ、ひとりのやんちゃな子どもだった。



イノシシはこの畑に野生の空気を入れてくれた。イノシシにホックリ返されて、畑全体に出来た大量の巨大な穴たちは、土にたくさん空気を入れた。畑が、大きく深呼吸をしているように見えた。

「ここで学ぶことはもう終ったね。さあ、交替だよ」
そう、イノシシは言っていた。



私は黙々と小屋の整理を始めた。
整理したら、またやりたくなるかな?
ひそかに期待をしている自分がまだいた。
しかし心は動かなかった。

それでも自我は過去楽しかったことを思い起こさせて、まだ畑にしがみつけとうながしてくる。それをバッサリ切られることになったのは、ダンナに力仕事を頼んだときだった。彼が一瞬のうちに腰をやられた。その時私の畑への執着が、彼のケガにつながってしまったと気づかされた。


畑は私の背中を押していた。
「もう、ここから出て行きなさい。」


畑にあった支柱を全部外して、小屋をきれいにした。
私が畑から持って帰ったのは、生前ゆいいつ父に買って送ってもらったハミキリとのこぎり一個。それだけで十分だった。


帰りがけ、畑にいっぱいお礼を言った。
もう言葉にはならないくらいの感謝でいっぱいだったけど、全然言いたらないけど、
それでもきっとわかってくれているだろう。

さようならは、なぜか言えなかった。


薄赤く色づいたすすきがゆれて、私に手をふっていた。




2019年8月10日土曜日

ドラマにハマる


今の庭の様子。左、ズッキーニの葉っぱ、右奥、サトイモの葉っぱ


無料配信のドラマをよく見る。
「おっさんずラブ」は最高だった。

ドラマはその時代のムードを象徴しているといえるが、ほんとのところはその時代のムードを作っているんじゃないか?

マスメディアは時代の価値観を誘導する。それは意図的なのか、それともこの世界が無意識にそれを求めているがゆえに作らされているのか、それはわからないけど。

しかしドラマは人々の今の価値観に大きく影響を与えているのはたしかだ。


「おっさんずラブ」がここまでヒットしたのも、性別に関する偏見がだんだんなくなって来ているのが背景にある。

そんな中、最近でてくるのが空気を読まないキャラ。
「凪のおいとま」ももともと空気を読み過ぎる主人公が彼氏の言葉にショックを受けて過呼吸になり、それまでのすべての生活を捨てると言う、私的にはめっちゃハマる内容のドラマ。そこに出てくる空気読まないキャラもなかなかおもしろい。


突出しているキャラは、「ヘブン?ご苦楽レストラン」というドラマの中にいる。
その中に出てくる川合君というかわいいキャラがいい。

まったく空気を読まない。仕事もまったく出来ない。すべてがダメダメなのに、本人はまったく気にしない。ただただ幸せを感じている、世界一の幸せ野郎なのだ。この幸せ野郎はなぜか憎めない。まわりを勝手に幸せにしていく。
まわりの役柄が通常の私たちの反応。しかし川合君は逸脱している。
そんなキャラがじっさいこの世にいたら、たぶん普通の人とは思われないだろう。

それでもこのキャラがこの世界を変えていくんじゃないかとおもわせてくれる。もちろんそれを受けとめる伊賀君がいてこそなりたつのだが。
この世に布石を打った人々はだれもが逸脱していた。つぎつぎと常識を覆していくのだ。




んで今日も暑い。目の前の庭は植物全盛期だ。
「ウ。。。草刈りしないと。。。野菜も草に埋もれる。。。。」
心がうずく。

川合君ならこのうちの庭を見てどういうだろう。
「わあ~~!草がいっぱい!た~のし~なあ~!」
きっとでかいサトイモの葉っぱを見ておどろき、
オクラの花に「きれいだなあ~」と感動することだろう。

凡庸な私は問題点を見つけるのが得意だ。
ズッキーニ、育ってないとか、キュウリが出来てないとか、出来ていることよりも、出来てないことにフォーカスし悩む。しかしそこにあるのは不幸な気持ちだけだ。
わざわざそれを選ぶこたあないのに、やっぱりそっちを無意識に選んで心をうずかせる。
これこそ、自我のワナにガッつりハマってる。

一方川合君は、すてきなものを見つけるのが得意。
感動するものを見つけて大喜びする。

どっちを選択するかは、私しだい。



2019年8月7日水曜日

そのままにしておきなさい



畑のフェンスがすこし崩れていた。

このままにしていたら、そのうちイノシシが入ってくるだろうなあ。。。
ジャングル状態になった畑で、そっと心の中で聞く。
「どう、、すればいい、、、?」

即座に答えが返って来た。
「そのままにしておきなさい」

「え?そのままに?けど、、、あのままじゃ絶対イノシシがあ。。。。」

これ、自分で言ってない?
ウン。きっとめんどくさいから自分で自分に答えたんだ。。。
でも、そのまんまにした。


そしてきのう。
畑に行って、なにかが大きく変化しているのに気づく。
フェンスが破られている!

畑は巨大な穴ぼこだらけ、あんなにあったサトイモは、跡形もなく掘り返され、見事に消えていた。そこら中掘り返され、たくさん実っていたであろうミョウガも消えていた。キクイモのエリアはそこだけ台風が来たみたいに踏み倒され荒れ狂っていた。
みごとなイノシシたちの破壊力にグーの根もでない。



だが心はなぜか静かだった。
キュウリの支柱も倒され、砂まみれになっているキュウリを収穫しながら、心は穏やかだった。

なぜだろう。
こうなってくれることをどこかで望んでいた気がする。。。

この畑は山に接している。近所の畑よりももっとも山に近い場所に、人間のエリアとしてフェンスという境界線を作ったことに、わたしはどこかで抵抗を感じていた。

猿が来て、タヌキが来て、ハクビシンが来て、猫が来て、そしてイノシシが来る。
フェンスを作ることは、ここに城壁を建てるようなもんだ。
ここは人間さまのエリア、その他はお前たち野生のエリアと。
だがしかしそれをあざ笑うかのように野菜は猿に襲われる。年々ひどくなる。今とられない野菜は鷹の爪ぐらいなもんだ。

今回フェンスが壊され、畑をイノシシに壊滅的にやられたことで、畑に風が通った。
そんな気持ちになったのだ。
まるで風通しの悪い、締め切ったカビ臭い部屋に、爽やかな風が入ったように。

ここは山に還すべきだろうか。。。
おもいがよぎる。
ここが畑になったいきさつ、それにまつわるいろんな出来事、それぞれの思い。
なんといろんな過去を作ったものだ。


それと同時に、人間と自然とのかかわりもまた教えられている。
慣行農法、有機農法、無肥料栽培、不耕機栽培、自然農法と、だんだん自然に近い農法に移行しながら、
そもそも栽培するとはどういうことなのか。
自然とはなんなのか。
人間とはなんなのか。
生命とはなんなのか。
そんなところまで突きつめられる。
この畑を通して、たくさんの葛藤をあじわった。


ぼうせんと畑のすがたをおもいおこしていると、

「人間の視点に立たない。」

心に声が聞こえた。



2018年11月11日日曜日

キクイモが消えた



畑の一角に、ずっと森のようにこんもりと生い茂って勝手に育っていたキクイモ。

収穫の時期が来て、土を掘り起こしてみると、いつもはわらわらと出て来る芋が、今年はこつ然と姿を消した。

昔は背丈ほどあったハルジオンも姿を消した。アカザも消えた。
畑の中で植物たちは変化をつづける。
キクイモもその姿を消そうというのか。

鳥に食べられる豆類は、移動したがっている。風に吹かれて飛んでいく種も移動したがっている。種たちはそれぞれの特徴を生かして、どうにかして移動したがっている。

芋たちは自ら移動しない。だから移動させなくてもいいものだとして、サトイモもそのまま同じ所にうわりっぱなしだった。でもそういえば、新たな所では芋は大きいいが、昔からある場所は、小さくなってきている。かれらもまた何らかの形で移動したがっているのだろうか。

キクイモは同じ所で、かれこれ6年育ってきた。
サトイモもおなじくらいだ。

キクイモはキクイモの、サトイモはサトイモの、それぞれの土の中で飽和状態が起こっているのかもしれない。来年は別の場所に移動させてみよう。

ん?しかし芋はどうやって移動するのかな?
人の手だけ?
え?サル?
ちょいぐいして、ほったらかすのは、そのためか(おいっ!)




2018年9月26日水曜日

ビギナーズラック


庭の斜面にダイコン植えた。虫も食わずに元気。


ダイコン引っこ抜かれる。
落花生、食われる。
人参、引っこ抜かれる。
ジャガイモ、食われる。
トウモロコシ、食われる。
きゅうり。。なす。。。さつまいも。。。枝豆。。。

もー。
なに作っても、猿とたぬきに食われるやんけーー!
と、ふてくされていた。

ある日、庭を眺めていた。
「あ。庭には猿こねえし。たぬきもめったにこねえし(たまに来てるんかい!)」

ウチの庭は、はっきり言って畑にはまったくむかない。山に迫っていて、日があたらない。木だらけ。日陰だらけ。草のいきおいが強過ぎる。しかも急な斜面。
土もわけの分らん砂まじりの土。

やまんばは庭のあっちこっちのかたすみに、遊び心でダイコン、人参、落花生の種を蒔いてみた。
なぜか知らんがみんな元気に育っている。同じ時期に畑に撒いたダイコンは枯れ、何度も蒔き直しをしているありさまなのに。


片隅に植えた落花生。葉っぱのいきおいがいい。

小さなすきまに人参



これはいったいどゆこと!?
まったく肥料の入ってない、畑としてはほとんど機能を果たしていない場所に、元気に育つ野菜たち。

やまんばは、頭を抱えた。
そのとき畑でいちばん最初に種を蒔いた時のことを思いだした。あの時の爆発的な野菜たちの育ち方は半端なかった。しばらく放置されていた畑を開拓したので、たまりにたまっていた堆肥があってそうなった、ともいえる。

しかしこの二つの現象に共通点を見つけた。
ビギナーズラックだ。
物事の初心者がもっているとされる幸運のこと。

いやいや。私はすでに畑のビギナーじゃない。

ビギナーとは、すなわち過去がないのだ。
畑の最初の時、私には、畑に対しての過去がなかったのだ。
そして今、庭に対しても、庭に野菜を植えるという過去がなかった。

それは何を意味しているかというと、それにまつわる記憶がないと言うことだ。
ゼロ。ナッシング。
真っ白なあたまで、庭に、畑に、種を蒔いた。
庭と畑の最初の爆発的ないきおいの共通項はそのことだけだ。

ほぼ縁の下にジャガイモ植えた。どーなる???


過去。
最近そのことについてよく考える。
もし私たちに過去の記憶がなかったら、苦しみはない。
あのとき、あんなことされた、あのとき、あんなことしてしまった、
いいことも悪いことも、思いだしては比べ、嘆き、それを元に未来を想定し続ける。
過去の後悔と、未来の望みに翻弄される。

自分にまつわることもそうだ。
私はこんな過去をもっていて、こんな肩書きをもち、こんな性質をして、、、、。
その自分の過去が、自分をふりまわしていることに気づく。
こんな状況になったら、こんな風になってしまう私!そうならないためには、ああやってこうやって!と、そうならないための苦労をする。

ん?まてよ?今そんな状況にあるのか?
まわりを見渡せば、そんな状況にない。あたまがそれをイメージして大騒ぎしているだけだ。

そんなとき、過去を消してみる。
私の背中からずーっと続いていると思っている過去を、ぱき。と切ってみるのだ。

目の前には静かな光景。
いきなり静かになる心。
自分に対するたくさんのレッテルがない。
ゼロ。真空。すべてが止まる。時間がなくなる。


私たちはつねに時間の中にいる。
畑に種を蒔く。芽が出る。大きくなる、という時間がある。
すると次には、大きくしなければいけない、育てなければいけない、という次の観念が動きはじめる。
起きる時間、仕事に行く時間、ノルマをこなす時間、スケジュール、死に行くまでの時間、、、。
その時間の中で翻弄され続ける。

時間が止まる経験をすると、当り前だったはずの時間というものが、すこし苦しく感じはじめた。

ビギナーズラック。過去のない自分。
私はずっと、ビギナーでいられるだろうか。


無肥料栽培の白菜の育苗は全滅w




2018年8月5日日曜日

あ、きゅうりがない


「あ。きゅうりがない。。。あ。とうもろこしもない。。。」
畑にあったはずのものが、どっちも消えていた。

「。。。。」
なんも言えない。

気を取り直して、秋に植えるダイコン用の畝の草を刈りはじめる。
「これもサルに引っこ抜かれるんだろうな。。。」
そう思うと、急にやる気が失せた。


サルも食べる野菜をわたしが口に出来るのは、年々減って来て収穫の1割程度。じゃがいも、とうもろこし、えだまめ、キュウリ、ダイコン、ズッキーニ、さつまいも、落花生、今年はトマトと、残り9割はサルどんに寄付している状態である。
近所の人に「オタク、サルに餌付けしてるんじゃないの?」
とかいわれそうなくらいである。



人の行動は必ず目的を持っている。
「収穫」という結果を求めて種を蒔く。

それは畑だけじゃない。すべてだ。
絵を描くのも、仕事するのも、『良い結果』をゲットする!という大前提を目標に行為する。
物だけじゃない。評価もそうだ。
人にほめられるため、人にここにいていいと言われるため、人にすごいやつだといわれるため、人にうらやましがられるため。
はたまた、神さまに認められるため。
地獄でなく、天国に入れてもらうため。
行為の後ろに必ず「目標=結果」という動機がある。

わたしもイヤシさゆえに、そして無肥料無農薬でも育つ!と言わせたいがために、種を蒔く。
それがことごとく否定される現実。

「結果」を求めちゃいけないのか?
人並みの欲をもってはないけないのか?
ひとり畑で呆然とする。




人は結果を良い方に望む。悪い結果を望む人はいない。
結果に判断を下す。「これは良い結果だ。それは悪い結果だ」と。
それが苦悩を生む。
そして出来れば、つねに良い結果だけを求める。
それがますます苦悩を生む。


しかし良い悪いはどこで区切るかで判断が変わってくる。目先の事で区切ればこの畑の結果は悪い事だ。しかし何年という単位でもっと引いて見れば、この畑は良いか、悪いかと言えば、良い結果に思える。もっと引いて、わたしの人生という区切りで見れば、良い結果だと思えてくる。
なんだ。大きく引いて見れば見るほど、良い結果しか見えてこないじゃないか。




「現れてくる現象を理解することなどできない」
そんな言葉が浮かんだ。

思考は、あらわれてくる現象を、「これはいったいどういうことだ!?」と、理解を求めようとする。
それは心が納得、安心したいからだ。

「この夏の暑さはいったいどういうことだ!?」
というと、気象庁は南の海水温が上昇しているから、、、とかいろいろいってくれるだろう。けれどそれを知ったからといって、じゃあ海水温を下げて、、とか解決法があるわけでもない。せいぜい熱中症にならないように気をつけるぐらいだ。そもそもなんで海水温が上がっているのかもあいまいだ。

「何で畑にサルがやってくるのだ!?」と、理解しようとした所で、何の解決にもならない。鉄砲で撃つことも出来ないし、電気を張り巡らせることも出来ないし。


心が納得し、安心できるものが何一つない。

それでも手は勝手に草を刈る。
またそこにダイコンの種はまかれるのだろう。






2018年8月2日木曜日

雑草のとらえかた


家の外装工事が終って、久しぶりに大家さんのお母様が様子を見に来られた。

彼女は草が気になる様子。ぶちぶちと生えて来た草をちぎっていく。

「おかあさん、この外壁は、こうやったのよ、、」
と娘さんが説明するも母は、
「ここはだめ、こうしなきゃ。。」
と、草や木の事に意識がむいて、片っ端から雑草を引っこ抜いていく。

その前日、わたしは彼女が引き抜いていくそのヤブガラシを美しく眺めていた。


同じ植物を見るのでも、それをいけないもの、醜いものととらえる視点もあれば、
美しく、たのもしいものとしてとらえる視点もある。
どっちが正しいわけじゃない。存在は中立だ。
人の立ち位置によって、解釈が変わっていくだけだ。



野良仕事の合間、木陰で休んで畑を眺める。
父の葬儀や雑用で忙しく、今年は畑に手がつけられていない。
そのあいだに草が旺盛に広がった。オリーブの木や高く伸びた篠竹にくずの葉っぱがおおいかぶさり、畑はジャングルになっていた。

だがそれが美しい。葉のひとつひとつ。枝の一本一本。それぞれが美しい。実際、彼らを刈るとなるとたいへんだがそれでも美しい。

6月に蒔いた枝豆が、イネ科の植物のいきおいに押されている。根元から刈り、枝豆の足元に置く。イネ科の植物が生えた土はとても柔らかい。心地よい感触が足の裏に伝わる。


花だけでなく、葉も、枝も、つたも、木も美しい。それが植物。
畑で、庭で、道路の端っこで、彼等の姿を見てはっとする。それだけで心がおどる。
「これを絵で表現できるのか?」
ひとり心に問う。
今は答えられない。彼らの存在を越えるものは作れそうにない。



私たちは環境の生き物。うまれた時代、そだった環境によって、価値観がまるで違う。
大家さんのお母様は、草は取るもので、観照するものではない。草に対して入ってくる情報はそれ以上にはないだろう。
わたしはすこし違った環境に育った。それだけの違いだ。


雑草はふしぎな位置にいる。
人間に嫌われはするが、じつは大地にとって、野菜にとって、虫にとって、動物にとって、すべてにとって必要である。

むしろ人間こそが、この地球にとって必要でないのかもしれない(笑)。

この地球にとって違和感がある存在が、あれがいい、これいらない、などと文句を言う。


あ。そもそも文句を言うのは、人間種ぐらいなもんか。




2018年5月26日土曜日

優柔不断とやさしさと。



紺地に水玉模様のほっかむりをした初老のおばさんが野良仕事をしている。

薄緑色のエンドウのサヤをプチプチちぎりながら、彼女の心はちがう所にあった。

「何でわたしはこんなに薄情なんだ」
「何でこんなにうそつきなんだ」
「何でこんなに優柔不断なんだ。。。」

彼女は人とのやり取りの中で、いつも二つの意見を持っていた。
ひとつはその場の流れを乱さない意見。
もうひとつはまったくちがう視点からの意見。
そして選択されるのは、たいてい流れを乱さないほう。

すると彼女はそんな自分にちくりと針を刺す。
「このうそつき」
自分をのろいながら、会話の川にながされていく。
たまに嘘つきな自分に嫌気がさして、ちがう意見をなげてみる。
すると川の流れは急にぎこちなくなり、それまでの空気が変わってしまう。

「あ、やっちまった。。。」彼女はあせる。ドキドキしながら、また川がいつものように流れはじめるのを固唾を飲んで待つ。
そんな自分にもいやけがさしていた。

「これ、どっちも苦しいじゃないか」
ふいにエンドウをちぎっていた手が止まる。

空気を読んだ意見をいう自分を否定し、正直な意見を言う自分を後悔し、あげくにつねに二つの意見を持つ自分の優柔不断さをのろう。
何を選択しようとも否定していた。

その時、今まで考えたこともなかった言葉が出た。
「あ。わたしは、やさしいんだ。。。」

ちがう意見を持つのに人に合わせる意見を言う自分。それは優柔不断から来ているのではなく、ひとえに人を思う心から来ていた。そのことに気がついた瞬間、胸のあたりがふわっと軽くなった。


手にした白い粉が吹いたエンドウのむこうに、過去の出来事がみえた。

高校時代、門限は8時と決まっていた。
厳格な父の決めごとは死守すべきものだったが、ある時友人の恋愛相談をうけて、門限を30分おくれてしまった。

玄関で仁王立ちした父の顔は真っ暗で何もみえなかった。言い訳は聞き入れてはもらえない。間髪入れず鉄拳が飛んで来た。岩のようなげんこつを顔面に食らって、コンクリートの地面に吹っ飛んだ。

その夜、湯船につかりながら泣いた。
父が怖くて泣いたのではない。友だちを裏切ったことと、自分の力不足に泣いたのだ。
友人の恋は切実なものだった。泣いて訴える彼女を振り切って帰って来た自分。友人よりも父に殴られることを怖れた自分。結局どっちも失敗に終ってしまった現実。自身のふがいなさになさけなく、そして今も苦しんでいるであろう友人の心の痛手を思うと、涙が止まらなかった。
今思えば、それは友人を思うやさしい気持ちからの苦しみだった。


「わたしは今まで自分を冷たい人間だとばかり思っていた。。。」
目の前に草だらけの畑が広がる。この農法は草を刈り続ける。彼女は草を刈りながら、草にわびをし続けていた。
「ごめんよ。ごめんよ。でもあなたたちのおかげでおいしい野菜が食べられる。わたしはなんて勝手なんだ。おいしい野菜を食べたいが故に、あなたたちを育て、そして刈る。人間てなんて勝手なんだろうね。。。」
自分の勝手さをのろいながらも、この農法がやめられない。そういう自分をまたのろう。

でもそれに気づいていることもまた、草を思うやさしさからきているのではないか。

実際、彼女ははたから見たらやさしいひとではないのかもしれない。人の意見は千差万別。だけど大事なのは、彼女が自分をやさしいのだと自分自身を肯定したこと。

わたしはやさしい。
そう口にするたびに、心はふわっとなる。

いくつもの意見を同時に持つことは、物事を冷静に見れていることでもある。そしてその選択は吟味して選ばれたものであるのなら、それこそやさしさゆえではないか。
そうおもえた時、いくつもの分裂した意見は、ひとつの大きなものに統合された。

たわわに実ったウスイエンドウが彼女にほほえみかけていた。


2018年3月10日土曜日

山が好きだ



私は山が好きだ。
だからといって、登山もしないし、山に分け入って山遊びもしない。

目の前の高尾山に向かって「山は眺めるものだ」とかいって、仁王立ちして腕を組んで、エラそーに眺めているだけだ。


そんな私でも人と違うことをひそかにやっている。
それは山と一体になること(笑)。


以前近所に住んでる女の子が「山の声」を聞くのを驚きと尊敬の眼差しで見た。
あれから12年。山の声を聞いていたあの子は、今はガンガンに化粧をして、ガンガンにお洒落をして、とても大地に座り込んで山の声を聞いた本人だとは想像もできない。

「あんた、ちっちゃいとき山の声聴いてたやん」
と言っても、怪しいおばさんを見るような目で私を見る。

きっと世の大人たちは、昔自分がやっていた事をかけらも思いださないのだろう。


だが私は今でも昔の感覚を覚えている。
しかし昔のようにはいかない自分も知っている。
あの開放される感覚、すべてが一体になる感覚は、何度トライしてみてもできない。そんな自分を嘆くことしか出来なかった。


ところが最近、その感覚が戻って来たのだ。
私の思い描く山は、低山。富士山とかエベレスト山とかそんなりっぱなものではない。きっとちっちゃい頃見ていた禿げ山だ。だから目の前の高尾山はちょうどいい。
しかも山は見ていなくてもいい。ただ浮かんでくる山と一体となるのだ。


その時の心の安心感と安らぎと至福はなんともいえない。
山がもつ安定感。その上に豊かに生きる植物や、動物や、昆虫や、名もなき存在たちを、がーっとぜーん部ひっくるめて抱きかかえている山。すべてが自分の上や中にあっていいと許している。何万年と言う長ーい時間を「ふおっふおっふお。。。」とか、笑いながら受けとめるおおらかさ。
それがこのちっこい私のカラダにしみ込んでくる。

私は山の上を駆け巡る風となり、
大地の下をぬける素粒子となり、
転がり、飛び出し、
天狗のような気分になり、
ものでなくなり、
やがてすべてとなる。


その時、私は一個の人ではなくなる。
ただそこにある、なにか、になる。

それはどこかずーっと奥にひそんでいて、
「いつでもここにいるよ」と、告げているなにか。

ちっちゃい頃の私はいつもそれとともにいた。
そしてそれは、今もここにあるのを感じている。





2018年1月31日水曜日

はーるよこい。


大雪ふってから、畑にはしばらく顔出してなかった(飲み屋か)。

畑に向かう北の斜面がいつも吹きだまりになってて残り雪もすごいので、シャベルをもって出かける。

「どこいくんでい」
「畑」
「雪残ってるんかあ?」
「わからん」

道すがら、隣の町会長さんや、宅急便のお兄さんから声をかけられる。
おばさんがショベルをもって、道を歩いてるのが不思議なんか。

それにしても、シャベルなんか、ショベルなんか、よおわからん。スコップとも言うらしい。
名前ってのはほんとに面倒くさい。

まあいいや。
んで、畑に行くと、思ったほど雪は残っていなかった。

ウチの農法は、この時期何もすることがない(と、勝ってに思っているだけだが)。普通は石灰をまいたり、耕したり、春の種蒔きのためにあらかじめ肥料を仕込んで準備をするらしい。

そういう作業は全部すっとばかすのが、やまんば流。
これからろーじん大国突入。何事も楽にできる方法を探すに限る。

やまんば流は、種蒔きする時にちょこっとホックリ返して、種ぱらぱら、ハイおしまい。追肥などもしない、成長途中で手をかけたりもしない。あとは種さんが勝手に気のむくまま芽を出し、気のむくまま大きくなったりならなかったり(笑)してくれる「種さんの気分次第」な農法なのであーる。

もっともやまんばは、最初はそれなりに計画性をもって望んでいたのであった。しかし、長年この畑と関わるうちに、計画性とは、とても人間的なものなのだなとおもいはじめる。

というのも、人の計画無視して野生動物は季節構わずやって来て畑を襲撃していくわ、季節は毎年同じようにやさしくやって来ないわ、植物は毎年同じように生えて来ないわで、とてもじゃないが人間様の計画通りには事は進んでくれぬと言うことをいろいろ痛感したのであった。

そもそも、毎年同じように事が進んでくれる上での計画ではないか。それこそ人間の机上の計画。。。。
こうあるべきをいつも裏切ってくれるのが人生。こうじゃないとこまる~~!というのを、スコーンと裏切ってくれるのが畑だった。

だったらこっちも無計画だ!と、気のむくまま動くことに方針を変えた。
人生の方も、もう無計画だ!と、気のむくまま動くことに方針を変えた。



菊芋を掘り起こしてると、枯れ草の中から去年仕込んでおいたオブジェがみえた。

ゴボウをラクチンに掘り起こせるナイスなシステム。
米10キロ用のビニール袋の上下に穴を開け、4本の支柱でそれを立たせ、その中に土を入れる。土が入った筒状のオブジェのてっぺんにゴボウの種を仕込み、ゴボウの根が出来た暁には、そのビニールをタテにシャーーーッと裂いて、土の下に埋もれたゴボウを根こそぎゲットするという画期的なシステムだった。

しかし種を間違えて、去年はうんともすんとも芽が出なかったのだ。それでそのオブジェはそのまんま放置されたまんまだった。

やまんばは、ビニール袋のてっぺんに生えた草をとりのぞき、去年そこらに勝手に生えて来たゴボウの種を新たに仕込んだ。
今ゴボウの種蒔きする時期ではないが、蒔いてはいけない法律はない。自然界は勝手に好きな時に芽を出す。その力にまかせた。
ゴボウさんも気がむきゃ、育ってくれるだろう。

作業のあと、畑で大の字になって寝る。
もちろん長靴はぬいでアーシング。
青い空が春がくるのを告げていた。