2026年2月15日日曜日

恐れを作った

 




コースの言葉は抽象的だ。

その言葉をそのままオウムのように繰り返していてもあまり意味がない。

それを全て日常の中に自分ごととして取り込んでこそ意味がある。



「あなたが恐れを作った。

だからあなたが恐れを自分で取り除くことはできない。

なぜなら自分で作ったものをあなたは信じるからだ。」


このちんぷんかんぷんな言葉が、

本当に自分で恐れを作っていること、

そしてだからこそ自分でそれをコントロールしたり取り除くことはできない

と言うことを日常の中で具体的に気づいていく。




私は現象に恐れを抱く。

ある夜、ー10度という天気予報を見て、水道水が破裂するんではないかと心配する。

うちの給湯器を直してくれた業者さんに電話をしたら、

水道水をぽとぽとと出しっぱなしにしとけばいいと聞く。

安心するが、今度はポタポタという音で寝られない。

音にも恐れを抱く私。


本当にちっぽけな心配事だが、

恐れに大きいも小さいもない。

それは必ず大きな恐怖につながっている。

そしてその恐れを自分で取り除くことはできない。


恐れで行為したものは、いっときは楽になるが、また別の恐れを生み出す。

こうして恐れが順繰りに回っているだけで、

その根本の恐れの原因にはたどり着けないようになっている。

現象を現象で消しても、同じ水平線上での行為だから消えることはない。

私が信じた世界だから。


こんな風にコースの抽象的な言葉は、具体性を帯びて私に説得力を与える。

だからこその聖霊力。


私はあらゆる恐れの中で震えている。

これはどういうことか、

どう見ればいいのかと問い続けた。




恐れは何のために作られているのか。

私自身を苦しめるためだ。


私たちは自分自身に罰を与えるためにこの世に生まれてきている。

いや罰を与えるためにこの世を作った。

この世界自体が牢獄。


だからこそその恐れ/罰に気がつき、

それが実は存在していないことを教わる。




明け方小さな言葉がすっと入ってきた。

「信頼しなさい」


その言葉を聞いた時、心がポッと広がった。


信頼。。。。

そうだった。

私は信頼することを忘れていた。



この世界を信頼せず、私を信頼せず、現象を信頼せず、

この不快なものをどうにかしなければと思い続けていた。

自分でやらなければ、自分で解決しなければ、自分で、自分で。。。。


考えたら、自分自身を信頼していないのに、

自分でどうにかできると信じていたのだ。

それは信頼できない業者さんに心配事を頼むようなものだ。

心もとないに決まっている。


これが自分が作った恐れを信じてやまないこと。

矛盾する中をぐるぐる。



この世界に生まれてきた意味は、

私の中にある闇をどんどん光の元に渡していくことだ。


自分がやっていることの矛盾に気がつけば気がつくほど

それが明るみに照らされる。


隠しておきたいものに触れた時、

それは渡す準備が整っているからこそ触れる。

それを勇気を出して差し出す。


私は怖がっている

ということをまともに見て、それを認識し、

それはもう要らないと宣言する。


信頼がそこについていてくれるからこそそれができる。


信頼は意志力がいる。

ほおって置いたらすぐに恐れを信じる。

自分は小さい、弱い、無力だ。

その無力の中でどうにかしようとする。


信頼するとは、自分の人生を信頼することだ。

何が起こっても、それはあなたの闇を溶かすために起こる。

水道管の破裂の心配も、ポタポタ音への恐怖も、

私の闇を溶かすために起こる。


愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去るために。


悪夢から目をさますために。












和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2026年2月12日木曜日

間違いだらけ

「葛」ビールジョッキ

 

「君の考え方はずれている。

僕の質問の答えになっていない」

「君はいつもそういう言い方をする。

それは僕を不快にする」


そう言われるたびに、

「自分は間違っている!」と感じ、

恐れおののく。


「ち、違う。。。そういう意味じゃない。。。」

と言っても相手には届かない。


相手が愛を求めていることがわかっているからこそ、

こういう考えはどうだろうと提案するが、

それがかえって火に油をそそぐ。


ああ、やっちまった。。。


相手に対する恐れと怒りが出てくる。

恐れと怒りはセットになっている。

存在を揺るがされると、人は怒りで防衛しようとする。



これは何を私に教えてくれようとしているのだろうと聖霊に問い続けた。

そして「自分は間違っている」

あるいは「間違っているのかもしれない」という信念があることに気づく。


「あなたは間違っている」と言われることが心底恐ろしい。

だから「あなたは間違っている」と言われるのが投影の仕組み。


知ってはいたが、その仕組みをまともに見て、

今度こそその信念と真剣に向き合わなければいけないと思った。


そしてじっと考えた。




幼い時、警察官の父に、

「嘘をつくな!」と怒られたことがある。

嘘はついていなかった。

しかしそう言われると、

私はだんだん嘘をついている気になって泣いた。


間違ってはいけない。

嘘をついてはいけない。


間違うとか嘘というものは、神の世界にはない。

それが分離であることがわかる。

この世界のものだ。


分離。。。


Aさんから見た世界は、Aさんから見える世界しか見えない。

Bさんから見た世界も、Bさんから見える世界しか見えない。


浜に立って、海に顔が向けば海が見える。

浜に立って、海に背を向ければ海は見えない。


「何が見える?」

「海!」

「嘘だ!海なんか見えない!」


それぞれが見たものを言えば、

それは間違っていると言われて嘘をつくことになる。


仮にいくら私の目の横に、相手の目をくっつけても、

目の位置だけ見ている世界がずれる。

どうやっても「同じ」ものを見ることができない。

誰かの目と私の目を重ね合わせることもできない。


これが分離の世界だ。

これが知覚の世界だ。

ただそれぞれが自分が見たものを言い合うだけだ。


間違いと嘘だらけ。

それぞれの解釈と判断でさらに分離する。

それがこの世界の道理。


「私だけ」が間違っているわけではなかった。

この世界のすべてが「間違い」なのだ。


それに気がついた時、心が少しほどけた。




知覚と言う五感で世界を見ている限り、

兄弟との間では違いしか見えない。


分離したいという間違った思いの世界の中で、

思いを一つにすることはできない。


この間違いの世界を使って、

つまり、ここで必死にどうにかしようとすることの無意味さを知るためにこの世界はある。


その先に心を向けるために。




その気づきを相手とシェアした。


そこにこの世界に立って話していない二人がいた。

水平線上にいない二人。


その時、心は一つになっていた。








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2026年2月7日土曜日

「展覧会 in 山籟」を終えて

 


今日は柔らかな雪が高尾に降っています。


新年明けてからのジビエ料理レストラン山籟さんでの展覧会が幕を下ろしました。


寒い中、わざわざ足を運んでくださった方々に御礼申し上げます。


幸いにも毎日いいお天気に恵まれ、

珍しい鹿肉やイノシシ肉のイタリアンなフレンチな美味しいジビエ料理を囲んでの団欒は

今までの展覧会とは趣の違う素敵な時間でした。


「こんな料理食べたことない!」

と感動してくれる人もたくさんいました。


「オレ、今度こっちの方の山歩きして、帰りにここに寄って一杯やって行くわ」

と密かに計画を練るクマさんもいました笑。


とにかく連日すごい人で、常連さんはもちろん、私の知り合いまで来て、

山籟さんはさぞかし大変だったことと思います。

さらに私の器や作品集なども販売もあったので、なおさらのことと。。。

山籟さん、お疲れ様でございました。

本当にありがとうございました。








今回初めて絵と器を同時に展示したのですが、

器がなぜかとても売れて、

会期中に窯出しがあったので器を追加したのですが、

結果ほとんど売れてしまいました。


なんでかな?安いからかな?

いやたとえ安かろうと人はそう簡単に買ってはくれません。


つくしが慣れない手つきで必死こいて作った器を

うちに持って帰って使いたいと思ってくださった方々にお礼申し上げます。

ありがとうございました。


そして作品はというと、

うちの旦那が厳選して掛けたのですが、

まるで前からそこにあったかのような自然な風景になっていました。


展覧会というのは、ギャラリーのようなホワイトキューブ、

つまり白い壁があって、そこに絵がかけてある。

絵を見てくださいと飾られるわけです。

異質なものが置いてあってこそ、初めてそこに目が向く。


レストランでの展覧会というのは初めてでした。

山籟さんの料理の美味しさに心が奪われてしまい、

絵を見るという感じではなかったのかもしれません。

一つ勉強になりました。


それでも作品が心地よい空間を作ってくれていたらいいなあ、

心のどこかに記憶として残っていてくれればいいなあと思いました。








期間中、ジビエ料理を食べながら、

「僕のそれまでの木の見え方が変わりました」

と話してくれた人がいました。


彼は私の絵を買ってくださった方なのですが、

毎日近くの公園を散歩されているそうです。


「それまで木が僕に語りかけてくれることなんてなかったんです。

それが公園の木たちそれぞれ個性を持っていることに気がついてきたんです。

「私はね」とか「俺は」とか僕に語りかけてくるんですよ。

これはつくしさんの絵の影響です!」


なんと答えていいのかわかりませんでしたが(笑)、

私が森を見て感じ取っていることが、

絵を通して人にも伝わっていくのかもしれないと思いました。


また昨日、去年の展覧会の時送った絵葉書を見ているだけで、

いろんなことが起こり、心が癒されていく方のメールをいただきました。

読んでいる私まで心が震えて涙が溢れてしまいました。


これはもう私の作品がとか、手柄がとかいう次元じゃない。

絵は勝手に私の手を離れて一人歩きをしている。

人々の元に何かを伝えに出かけているのでしょう。

これを奇跡と呼ばずに何というのだろう。



絵を描くこと、

器を作ること、

何か面白いことを思いついたら作ってみること。

これからも楽しんでいきたいと思っています。


ありがとうございました。










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