2026年4月30日木曜日

答えのない長い旅

「春慈恩/ハルジオンの庭」

 

緑が日に日に深まっていく。

その美しさを目の前に見ている私の心は暗い。


目の前の風景はこんなにキラキラと輝いているのに、

心は暗い。


あれ?

このギャップはなんだ?


目の前の「今」。

心の中の「過去と未来」。


そう、私の思考は時間の中にいた。


こうやって今あるものを見てないんだと気づく。



思考はどんどんやってきて止まることがない。

それらを観察してみると、

自動的に流れてくるものは、

心配、恐れ、惨めさ、怒り、等々の否定的な思いだ。


恐れの考えが浮かんだ時、

人はそれを自分の考えだとまともに信じ、

その恐れに対処しようとあれこれ考え始め、

思考の中に埋没していく。

目の前の美しさは気にもとめていない。


そうやって人はとても美しいものの中にいることに気付かず、時間の中を生きている。


だがひとたび、その「思考」に疑問を持ち始めた時、闇の出口の方向が見えてくる。


私もある時、絵をスケッチしていると、

ことごとくそれを否定してくる存在に気がついた。

どうやっても否定してくるのだ。

その時の言葉。


「あんた、誰?」


今思えば、その時が自我という思考を外に見た瞬間だった。


私たちはその思考を「聞いている」存在なのだ。

何かが、その考えを聞いている。


激しくしゃべりまくる声を聞いて、

「そうなんか!それってヤバイじゃないか!どうにかしよう!」

するとその声も

「そうだそうだ!なんとかするんじゃ!」

とけしかけてくる。


そうやって答えの出ない長い旅に出る(笑)。


そう。自我の声はいつも問題定義をするが、

決して答えは「しら~ん」のだ。


「探せよ。されど見つけることなかれ」by 自我



見つかるわけがない。

探す必要ないのだから。


その問題定義は、「ない」を前提としている。

ないないと言いながら、あるを探すことほど馬鹿げた問いはなかったのだ。


問題などもともとなかった。

もうすでにとっくにある豊かさの中に私たちはいるのだ。


頭の中に聞こえる声が、

この世界を欠点だらけの問題だらけの恐る世界にさせていたのだった。



ではその声の作り主は誰か。

実は私たち。


私たちに罪があると信じてしまったがゆえに、そういう存在を生み出した。

ずっと苦しまなければいけないと自分に苦を課したのだ。


自作自演だった。。。

私たちは自分で自分を苦しめ続けている。


スケッチのアイデアをことごとく否定してきたのは、

私は罪深いと信じた私自身なのだった。




だが。

それを聞いている存在。

それこそが私たちのオリジナル。


問題定義を投げかける存在でもなければ、

不安を煽る存在でもない、

そしてこの肉体でさえもない、まったく形のない存在。


形でも思考でも感情でもないなら、一体どこにそんな存在を感じるのだ?


言葉で言ってしまえば、めっちゃチンプかもしんない。


それは喜び。楽しさ。幸せ。静けさ。広がり。愛。光。


形の世界から見れば、

「は?なに?それのどこが存在?」

説得力もクソもない(笑)。


だけどそれこそが存在感を増して心に迫ってくる。

頭で理解する話ではない。

体感を通してやってくる。


思考への信仰から徐々に離れていくに従い、

もともとそこにあるものが現れてくる。


ただ恐れさせる思考によって、

そこには存在しないものを見ていただけだった。



今この目の前に展開している美しい緑を味わう。

それだけが私の重要な仕事なのだった。



そんなことを思い出させてくれた茂藤かおりさんの動画

そして香港さんのブログ


お二人に感謝です。









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2026年4月26日日曜日

あなたはそのままでいい

下絵付け。庭の草花を描いてみる


人はそのまんまを受け入れてもらえることがとても安心する。


でもいかんせん、この世はたいてい条件付きである。


いい子でいたらお母さんは嬉しい。

お手伝いしてくれたらお菓子あげる。


小さい時聞いた言葉が、大人になっても原動力になっている。


何もしていない時、どこか落ち着かない。

なんかせずにはいられない。

こんなんじゃダメだ、もっと生産的なことを。。。


そのままでいることは、

欠けている自分をそのままにしておくような心もとなさがある。



ある人に、そのままでいてくださいと言った時、

なぜか私の心が落ち着いた。

その人もまた心が嬉しく思っているのを感じた。




あなたはそのまんまでいい。

これは魔法の言葉だ。




そうだ。これは恋愛が始まった時と同じだ。

相手がそのまんまであることがとても嬉しい。

そのまんま、ただそこにいてくれることがとても嬉しい。

その人をそのまま丸ごと大好きなのだ。

何もしていなくても。


これは神の視点?

神は私を丸ごとそのまんまを大好きでいてくれている。

永遠に。無限大に。


でも私たちはすぐにあの始まりとは真逆に向かう。

あれさえ変わってくれたらいいのに。

ああ、もう嫌い!私の視界に入ってこないで!


いつの間にか条件付きの愛に変わっていく(笑)。


その人の行動を見始める。

その人のカタチを見始める。

判断し、解釈し、裁き始める。

いつの間にかその人と自分は分裂する。

しっしっ、あっち行ってと。



でも。。。

あの時。

そのままでいてくれるだけで嬉しかったその人の、

カタチを見てはいなかった。


私は確かにその人の、


存在の美しさを見ていたのだ。










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2026年4月19日日曜日

私は喜びである

「高尾の春」

 

ある夜。

いつものように庭に出て地面に素足をつけてボーッとする。


心は喜びを探していた。

暗闇の中、かすかに見える木々たちを眺めながら、

待てよ。外に喜びを見つける必要なんかないんじゃないかと思った。


外にある喜びはすぐ消えてなくなる。

それをいつまでも追い求めることって、いる?


ふと別の見方がやってきた。


喜びは今ここにないか?


何もしていなくても、

どこかに何かを見つけなくても

喜びは今、すでにここにあるんじゃないか?


そう思った時、

これが、喜びなんじゃないか。。。?


私はここにいる。


それこそが喜びなんじゃないか?


「存在しているということに喜びがある」


そんな言葉が頭に浮かんだ。


私=喜び

私=愛


喜びが歩く

愛が歩く


なんということだ。

私という存在じたいが喜びだったんだ!


喜びが外にあるわけでもなく、
手に入れるものでもなく、
その中に入るのでもなく、
私自身が喜びだと。


心がブワーッと広がる。




そんなふうに思ったことなかった。

私という厄介な存在、

いるだけで問題児、

厄介なカラダ、

仕事できない無能な存在、

貧乏な私、

歩く罪女、等々。

自分の嫌なこと言わせたら宇宙一じゃないか、、、

というほどのこの私が。


。。。


世界が遠くにあった。

世界情勢も最近の事件も遠くに。

そしてカラダも遠くに。


最近時々やってくるこの感覚。

世界がうすらボンヤリしてて気にならない。

自分の目下の問題も、ネットの向こうの問題も、

私とは関係ない絵空事になっている。


それよりもこの静けさと、

どこからか湧き上がってくるウキウキ感。



コースはいう。


「あなたの使命は実に簡単なものである。

あなたは自分が自我ではないと実証する生き方をするようにと頼まれている」


「癒すとは幸福にすることである。

私は、あなたに自分自身を喜ばせる機会が何度あったか、

そのうち何度、拒否したか考えてみるようにと言ったことがある。

これは自分自身を癒すのを拒否したのはあなただと言っているにひとしい。

あなたにふさわしい光は喜びの光そのもの。

光り輝く姿は悲しみとは結びつかない。

喜びはそれを進んで分かち合いたいと思う融和した気持ちを呼び起こし、

心が自然にはずんで一つになって応じるようにさせる。」


「聖霊は喜びの霊である」


今はコースのいう言葉の意味が

さらに深く理解できるようになってきた。


「思い出すように」というのは、このことだったのか。




こういう体験はやってきては消えていく。

また元の感覚に戻っている。

それでもその時の記憶は残る。


人の啓示体験は劇的なものなのだろうが、私の体験はちっちゃい。

ちょろっとやってきては消え、またちょろっとやってきては消えていく。

だけどそのおかげで浮き足立てない(笑)。


でもそれがヒントになってそっちの方向だと教えてくれる。




ずっと自我のいうことを真に受けてきた。

心の中で聞こえる声を「正しい」と信じてきた。

今はその声が苦悩の元凶だとわかる。


私という存在を否定することが自我の生きがいだったのだ。


だからこそ「あなたは自分が自我ではないと実証する生き方」を頼まれている。








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