2026年3月15日日曜日

愛は選べるのか

鉄分の多い土に絵付け「葡萄小鉢」

 

闇が襲ってくるとき、どう対処すればいいのか。


その闇によって上がってくる自分の闇を

選ばないと意志することもあるし、

その自分の中に出てきた闇を受け入れ、

その闇を感じるままにすることもある。


コースの赦しは簡単じゃない。


これは何も起こってないこととして赦す、などできない。

何も起こってないと「わかる」には、相当な心の訓練がいる。

そして何も起こっていないのだと本当に知るとき、世界は終わる。

そのぐらいの強い赦しなのだった。


だから闇が襲ってきて、

もう自分ではどうやっても切り替えることができないとき、

いや、はっきり言って、

「これは幻想であって、何も起こってないのだから赦します。

恐れではなく愛を選びます。」

と言うことによって心が穏やかになっていく。。。なんてことはない。

なったことあっただろうか?(私の場合ですが)


実際「愛を選ぶ」ことなどできない。

(と、雲黒斎さんも言っていた)


「あ、愛ね。愛の方だった。」

と言って、目の前の闇を即座に愛で見ることなどできるだろうか。


可哀想だと言って見るのとは違う。

それはどこか自分ごとじゃない、突き放した見方のように思える。



でも意志を持つことはできる。


「これを闇としてみている見方は間違っている。

愛を選びたい!だが今の私にはどうしても愛を選べない。

だから聖霊よ手伝ってくれ。

私の代わりに愛を選んでくれ。」



この意志、ほんの少しの意欲、

それがあればいいとコースはいう。


私は失敗するかもしれない。

兄弟を神の子だとみれないかもしれない。

だけどイエスは手伝うと言ってくれる。

コオさんの動画でそんな言葉をもらった。


聖霊にお任せ~ではなく、

そうしたいができない自分を認める。

だが、そうしたいのだ!と。


どんな方法でもいいから、私を癒してくれ!

どうすればいいのか、教えてくれ!と。


その答えはすぐには来ない。

見かけた動画から、見かけた文章から、それはやって来る。


「カオスがやってくるとき、もうそれはいらない!

金輪際欲しくない!と、変えていく決意のためにやって来る」


と、この動画は言っていた。

まさに今の私の状況だ。


そういう言葉によって教えられる。


やがて全然違う方向から愛がやってくる。

「こうなったら愛よね」という私のちょこざいな考えとは全く違う方向から不意にやってくる。


癒しは、自分でできるものではなく、

やってくるものだ。


愛も選べるものというよりは、

そこに湧きだしてくるものだ。

自分で意図してできることじゃない。


癒しも、愛の選択も、

自分じゃできない。


ただそうありたいという意志を持つ。


そんな心の今日この頃。








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2026年3月9日月曜日

未来への期待

変な形の織部


 昨日地域のお祭りがあった。


このお祭りには毎年わが陶芸教室の生徒たちが出店してきた。

私も去年その仲間入りをした。


だが今年はその主催者側の40周年記念とかで式典が催され、私たちは出店を断られる。

だが蓋を開けてみれば、二日間のお祭りのうち、二日目は通常通りのフリーマーケットや焼き鳥などの出店があった。


うちだけ外されるのはどういうこと?

いやいやこれは式典のせいで外されただけだから、

来年は出店できるはずと思いながら、その代表の方に打診をしてみた。


すると来年は来年でわからないという返答がきた。

どういうこと?うちだけ外されて他はいいってどういうこと?


私の心に動揺が走った。

確かにうちの先生は嫌われている(笑)。

でも地域の人々に喜びを提供するというコンセプトであるのに、

その地域の人間が外されていいのか?


「なんだ~出店してないのか~。

つくしさんの器が買えると思ってきたのに~」

と言ってくれたりするとなおさら。


そう思った時ハッとする。

私は結果を求めている。

こうあってほしいという思いがある。

だからそうならないことに苛立つ。


この世界を実在させ、この世界に固執している自分がいた。

そんな自分を赦し、お祭りの実行委員の持ち場に戻った。




そこである町会の会長と知り合う。

彼は来年もこの同じメンバーで祭りを支えていこうという。


来年。。

ふと心が重くなる。


来年の陶芸の出店も実行委員のメンバーも、ここにない空想の世界。

今目の前にあるものがすべて。

未来は架空の話。


世界は今しかない。

そういう言葉がだんだん本当のことだと思えてくる。

しかもその目の前に展開している世界も存在しないらしい。


人々が未来にフォーカスするのは、

今というものが受け入れられないから未来にそれを託す。

だがその未来が来ても「今」だ。

ずっと今であり、それが嫌で未来へ未来へ心は前のめりになる。


私が来年の陶芸出店に固執するのは、今そこにないから。

出店できないもどかしさが、来年の保証をを求めて代表者に打診していたのだ。

それが安心感をもたらすと信じていたが、それこそが不安をもたらす。


代表者の方が「わからない」と言ってくれたのは、

私にその架空の期待があることを教えるためだった。




今というものも、実は何もわからないものだ。

そのわからないということがなぜか安堵になってくる。


ああなってはいけない。こうなってもいけない。

いけないからこうする。いけないからこうしない。

みんな未来からくる不安。


それは未来を知っているという信念からくる。

ニュートンの法則を知っているからくる不安。

医者が言うからくる不安。

情報が教えてくれる不安。

常識が教えてくれる不安。


そんなものみんな取っ払うとただアホになる。


アホのまま、そこにいる。


何も知らないと言うのはなんて愉快なのだ。


頭の中で愉快な音楽がなっている。


口をあんぐり開けてお空を眺める。


心が広がっていく。








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2026年3月6日金曜日

陶芸する

真ん中の白い大きなお皿と下三つが私。
上と両脇四つがダンナの作品

 

このところ陶芸にはまっているが、

ついにダンナまでやりだした(笑)。


瑞穂町にあるジョイフル本田で粘土を2種類30キロ買ってくる。

粘土は重い!もちろんダンナに任せる。


ダンスはちっとも上手くならないが、陶芸は徐々に技術が身についてくる。

一年前おっかなびっくり手回し轆轤で8センチくらいのを作ってたが、

今はお皿やビアジョッキまで作れるようになってきた。


なんで器を作っているのか、本当はわからん。

陶芸家になりたいわけでもない。

でも土に触る感覚と、1240度という高温で焼くという工程を経て作られた器が違うものにメタモルフォーゼする驚きを味わっている。

これは絵を描く工程とはまるで違う。

絵は描いたら、描いたまんまだ。

せいぜい額に入ってちょっと変化するぐらいか、

印刷物になって色が変わっていたりする(苦笑)ぐらいのもんだ。

そして絵は触れない。


三本足のついたお皿に鰹のタタキ



だが器は直に触る。

そして料理をのせて使える!

料理をのせて、飲み物を入れて味わう唇の感覚、味覚の感覚、

そんなものが自分の手で作られたもので味わえる。


そして回転するろくろの上で、

粘土が両手の人差し指と中指の間で徐々にせり上がってくるこのかすかな感覚と快感。。。


初めてその感覚を捉えた時、一種のエクスタシーにも似た感覚を覚えた。

うわ。。これか。。。

陶芸する人はその快感を知っているに違いない。

土の塊が自分の手の中で変幻自在になっていく驚き。


27年前、ニューヨークの陶芸教室で一年間やった時、

最初は電動ろくろを回していたが、

そのうち手びねりになっていった。

縄文土器みたいなものが作りたいと移行していった。

今はろくろを回しているが、そのうちまた変化していくのだろう。

そんな自分も楽しむことにする。










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2026年2月27日金曜日

コース頭でっかち

つい最近できた作品群



 「俺、罪悪感がすごくある。。。

この世は全部罪悪感でできてる。人は罪悪感で動いてる!」


昨日夕飯を食べながらダンナが熱く語る。

パスタ食べながら話す内容ではないけれど、

こうやって心を紐解いていく最近の私たち。


コースを学ぶためには罪悪感のことを避けて通れない。

私たちには罪というものはない。

だからこそ自分の中にある罪悪感に気づいていく必要があるけれど、

なかなか人は「もともと私たちに罪はないんだから、

罪悪感は見なくて大丈夫。

だってその罪悪感に引っかかるとさらに自我に巻き込まれるから」

と言って、罪悪感案件をさらっと通り抜けようとする。


それでもいい。

少しづつ、少しづつ、心の闇に気づいていく。

そして優しくゆっくりとほぐしていく。



人によっては、短期決戦のパターンもある。

出来事によって前に進むことを促される。

ダンナがそのパターンだ。

コースを学び始めた頃、

「罪悪感?はい?そんなもの俺にはない」という人だった。


しかし本人曰く「カラダの痛い痛いシリーズ」

が後から後から次々にやってきたり、鬱状態になったりして、

どんどん心と体が疲弊していって、

「一体なんだこれは!コースやって楽になるはずが、

もっとひどくなったではないかー!」

と私に訴えること百万回。


ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジを徹底的に読み倒し、

それでも人生への苦しさは消えず、

隣にいたやつが読んでいる奇跡講座という分厚い本を手に取ってから、

さらに不幸になる始末。


そうはいってもコースに書かれた内容は、

マハルシやマハラジがボンヤリとしたものでしかなかった心の仕組みを

具体的に説明してあることに驚き、四六時中読みふける。


頭の中に完全に知識が入っていったが、

まだそれと実際の自分の行動への応用がなく分離している、

いわば「コース頭でっかち」なやつがそこにいた(笑)


しかし人生とは捨てたもんじゃなく、

だんだんとコースが自分ごとに照らし合わせられるようになってくる。


それまでぼんやりとしかわからなかった自分の心の状態が

うすらうすら見えるようになってきた。

そこに学んできた知識が応用されていった。


「俺、マハルシやマハラジ読み倒してた頃、

もうすぐ悟れると思ってた。山の頂上はもうそこだと。

でもコース学んでからは、まだ山の裾野にも行けてないって知ったよ。。」





心は本当に深い。

自分の心を見ることは、

何か恐ろしいものに触れるんじゃないかとなかなか見れない。


でも人生の苦難に直面した時、人はそこに行き着くしか無くなる。

人生の苦難の原因は外にあるんではなく、心にある。


勇気を振り絞って見る。

すると見れば見るほど、心の理解を促され、

そしてまたその先の理解に連れていかれる。

連れていかれるのだ。いったい誰に?


個人的な罪悪感の層を深く掘り進んでいくと、

個人を超えた層に触れてくる。

それと同時に神の片鱗に触れ始める。



ついこのあいだまでコースの理解が違い、

喧嘩ばかりしていた二人だった。


それがこんな風に罪悪感について、神について、

こんなに楽しく笑いながら語り合える日が来るとは思わなかった。







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