2026年8月5日水曜日

わかっちゃいるのにやめられない

「そらへ」和紙、水彩

 


このところ人との間でもめている。


それぞれの立場で言う意見を聞くにつけ、

人は本当に恐れているんだと実感する。


あとで何言われるかわからない。

あとで最悪の事態になったらどうするんだ!と。


そしてこれは私の投影なのかと思うと、さらに嫌になる。

これが私!?こんなに恐れているの!?こんなどうでもいいことで!


しかもその恐れは、自分が恐れたがっているからなのだという。


私は人のせいや状況のせいで恐れていたり怒っていたりするが、

本当はその状況のせいで怒っているんじゃない。

怒りたいから怒っている。

怖がりたいから怖がる状況を作って、

その状況のせいで怖がっているというふうを装っているそうだ。


「奇跡のコース」をやっていると、ここで苦しくなってくる。

投影していると言う事実と、怖がらせているのは自分だと言う事実。

目の前で起こっていることは、じつは自分がでっち上げた偽物だと。


だから誰も怒れない。

だから泣けない。


泣きっ面にハチ。

ただでさえ文句言われて傷つくのに、そこに塩を塗り込んでくる。

誰が?

張本人は私なんやんか!


罪悪感の専門店みたいな私は、さらなる罪悪感を製造する。

罪悪感専門店から、罪悪感百貨店に発展する。

ほっておくと心の中がエアー演説しまくる。

私が悪いんだ!全部私のせいなんだー!全世界の悪は全部私のせいなんだー!と。


これが自我がコースを使う手だ。

まんまとその手に引っかかる。

自分をいじめるために。

自分を恐れさせるために。


恐れさせたがっているのは、この自我なのだった。

投影であり、自分が作り上げたことであると言う事実を

自我はさらっと罪悪感のために使う。

ほら、お前のせいでこうなったと。


そこまで気付くのにずいぶん時間がかかった。

その思考の仕組みに気がついても、まだまだ飲み込まれる。


わかっちゃいるのにやめられない。

あそれ、ス~ス~ス~ダララッタ、スラスラスイスイスイ~と。


それでもいい。

私にゃ別の道へのいざないがある。


夜、もめた人たちのことを思い浮かべる。

自我とともに見れば、その人たちに罪を見る。

すると私にも罪を見ることになる。

罪は罪と一緒にいるからだ。

片っ方だけに罪があるなんて自我のトリック。目くらまし。

相手も自分も同じ。罪があると見れば、両方にある。


でもその人たちに罪を見なければ、私にも罪はない。

だから誰にも罪はないんだよな~~ってぼんやり思う。

月を見ながら、みんなの心が癒されることを願う。

だんだん心がゆるんでくる。

そうしてふっと形のないところを思い出す。

なんの形もないところ。

ああ、そうだった。忘れてた。


知覚の世界にいると、形にとらわれる。

この形が良くない、あの形の方が良い、

もっとああいう形にならなければ。。。

形を見るというのは分離を見るということ。

他人という形、自分という形。分離を象徴する。


でも形のないところは分離を見ることができない。

そこには何もないわけではない。

そこに心がある。

想いというのがあってるかな。


幸せな想いがやってきてそのまま眠りにつく。


朝になると世界が遠い。

あの苦しさはなんだったんだろう。

嬉しさでワクワクする。


でもだんだん心は世界の中に入り込んでいく。

また恐ろしさがやってくる。


だからこそ、心を警戒していること。

自我の誘惑は常にやってくる。


心の訓練はつづく。











和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです

2026年7月28日火曜日

「早くニンゲンになりた〜い」か?

 

「滝」和紙、水彩

陶芸教室の展覧会のハガキやチラシなど作っててぼんやりと思ってたことは、

「私、仕事できる人って思われたいんだなあ~」ってことだった。

町会の会計やってても仕事できる人に思われたいんだなあ~と。


そしたらある時大事な役員会議があり、

「築紫さん、書記やってください」と言われた。

私、自慢じゃないが、漢字書けないし、読めない人。

こうやってブログで漢字知ってるかのように書いているが、

その実、パソコンさんに変換してもらっているだけだ。


正直に言う。

「え~、無理です!私漢字書けないもん。ひらがなばっかりになりますよ!」

すると、いいです。ひらがなばっかりでと。


当日、ひらがなばっかりでメモる(苦笑)。

翌日パソコンで書き起こす。

誰が何を言ったのかその言葉そのものを書いたので、

臨場感が出て小説みたいになって、自分で面白くなっていた。

会長から「すごい!」と一言。

仕事ができる人みたいになってしまった。




役員会で、自分が役に立ちたいと言う思いから、空回りしている人を見る。

「私、仕事ができないから、小姑の役割をします」と言ったように、

あまり重要でもないことを重箱の隅を突っつくように言う。

イライラした。


「仕事ができる人」になりたいと言うのは、

この世界をうまく生きていけるようになりたいと言うことで、

この世界で必要とされたいと思っていると言うことで、

つまりは私はこの世界でいけてない!と思っているわけだ。

私は仕事できない!

人迷惑になる!

だからなんとかして人の役に立ちたい!と思っている。

これ、私そのものだ。





先日銀行の残高を見て恐怖におののく。やばい!

その苦しさで一晩中うなされる。

これを違う見方で見せてくださいと願った。


次の日の朝。

お金がないって、仕事できない人の代名詞みたいなもんだよなあ~。

私、やっぱり仕事できないじゃん。


すると、一筋のそよ風が吹いた。


あ、そうか。

私、この世界で生きるのヘタなんじゃん!

この世界をうまく渡り歩く事なんてできなかったんじゃん!


なんだなんだ。

早く言ってよ~。


嬉しくなってしまった。


それまでは、なんとかして人の役に立たねば、

人の迷惑にならないように生きねば、

ちゃんとしなきゃ、

仕事できて人のためになって、

そしてこの世界にいていいんだと思えるために頑張る。

という考えの中にいた。


人に向かっていた。

人ありきで考えていた。

人が認めてくれるからいていいんだと。


この心には欠乏があった。

自分はそのままでは欠乏しているから、

ちゃんとして、仕事できて、そしてその欠乏を埋める。

欠乏という罪悪感。


でもそよ風と一緒にやってきたのは、

この世で生きるのヘタじゃんという、

ただそのままの事実を受け取った。

そこに罪悪感はなかった。

逆に嬉しくなった。

無理だったじゃ~んって。


思えば小さい時から、この人間社会が苦しかったが、

ここで生きなければ私は弾かれる!と必死でニンゲンになろうとして来た。

この小さなニンゲンという小さな檻の中に自分を入れ込んで、その中でうまく生きようとして来た。


幼い頃見たアニメ、「妖怪人間ベム」

彼らの口癖は「早くニンゲンになりた~い」だった。

親に怒られてばっかりだった私も彼らと同じ妖怪で、

早くニンゲンになりた~いとマジで思い続けて来た。


だが、そもそもニンゲンになんかならなくてよかったんじゃないか?

彼らは必死で人間を助けていたように思う(よく覚えてないが、そんな印象)。




自我と共に生きるとは、

自分をニンゲンだと信じてこの世界の夢の主人公として生きる。


聖霊と共に生きるとは、

ニンゲンではないことを思い出し、神の子として生きる。


まさに私はベム、ベラ、ベロだ。

ニンゲンになりたくて必死に生きて来た。

欠けている存在として自分を自覚し、

ニンゲンにさえなれれば(仕事できる人になれれば)、

全て解決できると思って来た。



だがベム、ベラ、ベロよ。

ニンゲンになんかならなくていいんだ。


君はそのまんまで神の子だ。









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2026年7月24日金曜日

苦しみに関わらない

「わたしの庭」和紙、水彩

 

お知らせ:秋の展覧会の日程が決まりました。


築紫(つくし)作品展

2026年10月9日(金)~19日(月)


高尾駒木野庭園

八王子市裏高尾町268ー1

tel:042-663-3611


開館時間9時30分~16時30分

無休 入場無料


今年から作家名を「つくし」から

本名の漢字である、

「築紫」に変更していきます。

よろしくおねがします。


注:九州の「筑紫」ではありません。

元々母はこの漢字を私の名前にしたかったようですが、

父が役所に届け出ましたところ、

その当時当用漢字でないものは名前として使えなかったらしく、

建築の築と、紫を合わせて「つくし」と読むという不思議な読ませ方で採用になったそうです。

というわけで今流行りな感じのオリジナルな名前ですね(笑)。


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このところやたら忙しい。

10月の展覧会に向けてのハガキ作りやチラシ作りや

自身の制作は言わずもがな、

それとは別に陶芸展に向けてのハガキやチラシ作り、

そして町内会の会計の仕事、営業など、

毎日あっちこっち行きまくっている。


だがそんなこの世界の「やること」とは真逆の感覚も。


夜は私の心の中の雑多なものが噴出する時間なのだろう。

夜中になると漠然とした苦しみが心に溢れてくる。

この世界のありとあらゆる問題定義である。


それはこの問題、あの問題とも言えない混沌としたヘドロのようなものだ。

それをどうにか解決するという代物でもなく、

その圧倒的な漠然とした苦しみを前になすすべもない。


そして気がついてくる。

これはどんな解決方法もない。

ただそこから離れることだけだと。




エゴはこの世界の問題定義をし、

その問題を解決するために私たちを奔走させる。

これが世界を私にくっつけさせ、

この世界を維持していくための手段だ。


そう、エゴとくっついた私がこの世界をでっち上げ、

この世界に問題を見つけ、それを解決していく。。そんなことの繰り返し。


そういうすべてもろもろの、この具象的世界とは全く関係のないところに心を置く。


関わらない。

関わらないという言葉がその感覚に近いかもしれない。


苦しみにさえも関わらない。


例えば陶芸展のハガキ作り。

器のブツ撮りやそのバックに置く桑の葉っぱ探し。

そういう一つ一つの面倒なことに、感情を関わらせない。

会計の仕事に恐れを関わらせない。


これまでは、恐れと一緒に

頑張って、無理して、我慢して、やってきた。


だがその感情こそが、この世界を重要に、深刻に、重く、

そして超リアルにさせてきたのだ。


作品の制作過程の行為一つ一つに

「これ、間違ってないか?変な方向に行かないか?」

と恐れと共に作品を作ってきたその感情から離れる。

「こうである必要はない」





真っ暗闇の中、この世界の苦しみと関わらないでいると、

つまり具象性の中ではなく、

何もない抽象性の中にいると、

やがて静寂に包まれる。

苦しみなどなかったかのようになる。


指一つ動かしていないのに、

問題を何一つ解決していないのに、

心が変わる。


そういう体験をしていくほどに、

この世界は本当にあるのか?という思いになる。

すべては心次第なのではないか?という結論が迫ってくる。


でっち上げが、

でっち上げとして証明されていく。











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