2023年3月26日日曜日

君、バカなの?

 

松尾貴史

見えている世界は自分の心の結果が現れている。


変えるのは、その見えている現象ではなく、心だ。




最近整骨院に通っている。

結果があまり見えてこない。

「あの病院、ダメなんかな?」

まわりの別のクリニックに目がいく。

あっちのがいいのかな?いや、その向こうにあるやつの方かな?


その時コースの今日の文言が浮かんだ。

「兄弟を信頼する」


あ。そうだった。

先生を信頼しよう。


大事なお金を持ってプールに行く。

大丈夫かな?ついではやめたほうがいいのかな?

コースの文言が浮かぶ。

「防衛しないことの中に、私の安全がある」


あ。そうだった。

防衛しないでいよう。



この二つの思いは、

はっきり言って「君、バカなの?」というたぐいだ。


間違った選択をしちゃいけない。

自分でなんとかしなきゃいけない。

正しい整骨院を選んで、正しく直してもらわなきゃいけないのだ。

間違いがないように、自分がちゃんと防衛しなければいけないのだ。


自分が決めて、自分がちゃんと守らなきゃいけない。

それが大人ってもんだ。

そう教わってきた。




ところが、兄弟は疑うものではなく、信頼するものだ。

防衛しようとするから、攻撃されるんだ。

というコースの考え。


真逆じゃん!


私たちはどうしても形の結果を求める。

だからあの病院この病院とさまよう。

いい病院を自分で探し当てなければ!と。


しかし「君、バカなの?」を実行すると、ギクシャクしなくなる。

いい病院を探して露頭に迷うこともない。

安心してその場にくつろぐことができる。





いやいや。

学校のせんせーは、そんなこたあ言わねえ。


「せんせー!つくしちゃんが、バカなこと言ってますー」

と、優等生にチクられる。




心が原因。

見えている世界は自分の心の結果だということが、ここで生きてくる。


結果は一瞬確認するためにある。

そして即座に原因に戻る。


兄弟を疑ってかかっていることは、

自分で自覚しない限り、自動的にやっている。


そう教えられてきたし、

そうでなければ、そもそもここに生まれてこないからだ。



疑うとは分離そのもの。

防衛とは、敵がいるという信念そのもの。


自動的に疑い、防衛、攻撃を繰り返しているのが私たちなのだ。



その自動的に疑っている、その心を見る。

自動的に分離したがっている、その心を見る。

外に敵を見つけたがっている、その心を見る。


その心を見なければ、永遠に分離の中に居続ける。

永遠に鏡に映った敵と不毛な戦いをやり続ける。


それが鏡だとわかった時、戦いは終わる。


私だったんだ、と。


私が恐れて、私が私と戦い続けていたんだと。


だから私の心に帰る。

分離させたがっていた心に。

敵を欲していた心に。





分離することが、疑うことが、戦いという防衛をすることが、

賢い生き方だと教わってきたのは、


そもそもそれを教えたせんせーもまた分離を背負って生まれてきたからだ。

そうすることが正しいと信じてきたからだ。




そのせんせーを赦し、


「君、バカなの?」を生きていく。







2023年3月25日土曜日

私一人ではない


 

今回、コケたことで色々教えられた老いという恐れ。


体が動かなくなって、不自由になる。

自分で何もできなくなって人に頼る。

そのためにはお金が必要。家が必要。。。

しかし私にはない。。。


その漠然とした恐怖の中で生きる。



最近通い出した25mプールの中は、

私も含めて100%老人たちで埋め尽くされている。


彼らの心の中は、自身の体のことで頭がいっぱいだろう。

この体をちょっとでも快適にするために。


その思いを私も共有していた。

ちょっと足をくじいただけでここまでの思いが浮上する。

大病を患った人の心はいかばかりか。


その心は自分を責める気持ちでいっぱいだろう。

あの時もっと制御していたら、あの時、、ああ、あの時も、、、。

しかし悔やんでも仕方がなく、絶望の中で小さな光を求めて生きる。


後悔と絶望。。。

老人たちはこんな思いを抱えて生きている。


プールの後、JAに行けば、そこにも介護の人に付き添われた老人たちだらけ。


心は体とお金のことでいっぱいだ。

この私はといえば、お金もなければ保証も全くない人生。


老いてきて、ますますリアルになってきた。

なんでこうしてしまったんだろう。あの時ああやっとけば。。。


老いが考えさせるお手本みたいな思いが押し寄せる(笑)。


体というこの厄介なものと、それを少しでも快適にさせるためのお金。

この二大巨頭を求めて人間は彷徨う。

この世は地獄だ。




自分の心の中を見れば見るほど、

ものすごい恐れの中で生きているのがわかる。


それを目先の楽しいことで気を紛らわす。

見ないことにする。なかったことにする。一瞬忘れる。

その気の紛らわせでかろうじて生きている。


私にはそれができなくなった。

ごまかせなくなった。

人はどんな思いを人知れず抱えているのか、

自分の思いを通して見えるようになってきた。


それは私一人が抱えている恐れではなかった。

この世界に生きる全員が抱えている恐れだ。


私一人ではない。

今はそれが私を支えてくれている。


プールで泳ぐ50人ぐらいの老人たちを愛しい気持ちで眺める。

泳ぎながら心に愛が広がってくる。



明け方、

徹底的に自分を責める心で起こされる。


部屋のアレが汚い。あそこを綺麗にしなければ。。

そう思って起き上がって綺麗にする。しかし心は晴れない。

当然だ。本当はそこが問題ではないからだ。

自分の存在自体を責めているのだから。



私は自分の闇に向かい合う。

正直にそれを聖霊に語る。


闇は手放されるために出てくる。

私の中の全ての闇を光に捧げたい。


そして今この瞬間にも、私と同じ悩みを抱えている、

この世界のどこかの誰かも、

ともに癒されるよう祈る。


私一人が抱えているのではない、

この苦しみをがともに癒されることを願いながら祈るとき、

私の心は広がる。


個の自分ではない何かに触れている。


心が癒されていく。





絵:「縁側ネコ」





2023年3月22日水曜日

大きくなったら何になる?


 

「つくしちゃんは、大きくなったら、何になりたい?」


「?。。。。大きなつくしちゃんになります!」


ここで大人は爆笑。


つくしちゃんは、なんで笑われるのか、さっぱりわかりません。

大きくなったら、何になる?

自分じゃない、何かにならなきゃいけないのか?

自分じゃない、別のものにならなきゃいけないのか?


「そうじゃなくて、ほら、いろいろあるでしょ?

看護婦さんとか、先生とか。。。」


「看護婦さん。。。。じゃあ、私、看護婦さんになる!」


その時、つくしちゃんの心に小さなうずきがありました。

自分じゃない何かに、

どこかにある形に自分をはめ込まないといけないんだ。

それがこの世界のルールなんだ、と。




ある日学校の先生がみんなに紙を配りました。

「今日はテストの日です。答案用紙に答えを書いて、みんな提出してください。」


つくしちゃんは初めて見る紙にキョトンとしました。

そして「提出」という言葉を聞いた時、ドキッとしました。


普段から何をやっても遅い、「のろま」というあだ名をもらっていた彼女は、

とにかく早く「提出」をしないといけないと思いました。


よく見ると、紙の右上に、「なまえ」と書いてありました。

つくしちゃんは必死で名前を書いて

「先生、できましたー!」と提出しました。


「あら。つくしちゃん、早いのねえ」

と、答案用紙を見ると、名前しか書いてません。


「つくしちゃん。名前しか書いてないじゃない。

ほら。ここに空欄があるでしょう?

そこに答えを書いてきてね。そこを埋めないといけないのよ。」


よく見ると、いっぱい文字が書かれてある下に、

いくつかの白いスペースが空いていました。


「ああ、そっか。ここを埋めなきゃいけないのね。」


そう思ったつくしちゃんは、

自分が知っているひらがなで、その空欄を埋めました。


それは言葉にも、質問の答えにもなっていません。

そもそもテストという意味も、問題という意味も、

答えという意味も知りませんでした。

ただ彼女が知っているひらがなを次々に嬉々としていっぱい書きました。


そして誰よりも早くテストを「提出」できたのでした。

つくしちゃんは、大満足でした。




この頃、私の母とその先生は友人でした。

後日、この話を聞いた母は、二人で大笑いをしたそうです。


おおらかに受け止める、いい時代でした。




絵:「MF新書」表紙イラスト