2026年10月3日土曜日

なんもわからん!

「食パン皿」
うねうねした四角いお皿に草花をあしらってみました。

 

二箇所同時開催の和紙の作品の展覧会、陶器の作品の展覧会と、

立て続けの忙しさの中で、ぎっくり腰になってしまった。


なんてこったい。

理由はわかってる。

何キロかもわからない鉄のかたまりの重たい手回し轆轤を何個も使って作品を作ってたからだ。


この忙しい時期に!何やってる私!と、自我は叫ぶ。


朝目が覚めて立ち上がるまでに5分かかる(笑)。

はたから見たらなんというすっとぼけた格好だと自画自賛(使い方違う)。




しばらくブログを更新していない。

あらゆる出来事が起こって、どこをどう話していいのかわからん。

全ての問題は何一つ解決することもなく進行中。

目下の問題、未来の問題、全部があやふやなまま突き進んでいる。

そしてぎっくり腰。

ある朝、私は思った。


「なんもわからん!」


ひとりリビングで叫ぶ。


そうなのだ。

さっぱりわからんのだ。

わかんなきゃいけないと思ってきたのだ。

わかってこそ大人と。


でもわしは思った。

そんなもん、分かるわけないやろ。


狂気の土台で成り立っているこの世界は、全てが狂気。

辻褄なんて合ってる風に見えているだけで、よく見たら合ってない。

合った気になっているだけだ。


問題は一見解決したように見えて、

ホッとした瞬間、また別の問題がやってくる。


最近はやりの映画やドラマでやってるタイムループは、

一つの出来事が繰り返しやってくることだけど、

これ、実は同じことがこの世界で言えている。


一つのことが「形を変えて」繰り返しやってきているのだ。

形が違うからタイムループとは思えない。

でも一瞬止まってよく考えると

「あれ?また同じことやってね?」とならないか?


この世界はそのタイムループを気づかないようにずっと繰り返しやらされて、

ずっとこの世界に魅了させられるよう(つまり問題解決に明け暮れるように)に仕向けられている。

ハツカネズミが輪っかの中をぐるぐる回り続けるように。


だから「なんもわからん!」は、

このぐるぐるから手を引くことでもあるのだ。




こうするのが正しい。

この問題はこうやって、こうしてこの方向に進むのがいい。。。

そういう画策を一切手放して、「なんもわからん」のまま進むと、

気がつくと、なんだか人生が優しくなっている。


握ったハンドルを手放して自動操縦にさせると勝手にことは進んでいく。

そこで思うのだ。

最初から自分で操縦なんかしてなかったんだって。


してる気になって

「そっちじゃない!こっちだ!そっちじゃなーい!」

って自分でなんとかしようとしてたことが苦しかったんだと。


未来のことも、自分の人生も、この社会の道理も、なんもわからん!


これって「無知の知を知る」ってこと?


いや~。

そもそもこの世界を知る必要もないってことかな(こらあ~っ!)。








和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2026年9月20日日曜日

クルンと回ってひとつの輪っか

 

「ムカゴ」長石、織部

ありがたいことに器が売れたので、宅急便を出しにコンビニに行く。

自転車で行けば速いけど、川沿いをテクテク歩いて持っていく。

たくさんの草たちに会えるから。


これでもかーってぐらいみごとに虫に食われてレース状になったクズのぱっぱ。

華麗な花を咲かせるイタドリの群生。

ハヤトウリのツルがそこら中に広がって、桜の老木を登っていく。

瓜がなったときは、誰か食べるのかな?たぶんサルが食べてしまうのだろう。
(私もおこぼれをもらうことにしよう)


風に乗ってキンモクセイが香ってくる。

鼻をおっ広げてクンクン嗅ぎながら出どころを探す。見つけられない。

きっとどこかの庭先にあるのだろう。自然の中や山の中に見ることはないから。

川のそばの柿がたわわになっている。

栗もそうだったけど、今年はなりがいいのかな。


昨日、小さな作品ができた。

野菊の花。

出来上がった時、心が踊る。



先日陶芸の先生が言ってた。

「自分の核になるものを見つけなさい」


私は先生に「これ使いたい!と思って作ると良いものができた。

それは使っても良いけど、売ったほうがいいんだろうか。。?

陶芸家はそういうの、どういう基準で考えてるんですか?」

と、ちょっと下世話な質問をしたつもりだったのに、先生は深読みをした。


先生にとっては「敗戦」が彼の作品の根になっているという。

「私は『日本の終戦』とは呼ばない。『敗戦』と呼ぶ」

敗戦後、彼は母親に連れられて米軍の武器輸送船に乗って平壌から日本に帰ってきた。

幼い頃、たくさんの悲しいものを見てきたようだった。


私の作品の核になるものってなんだろうと考える。

地べた、草、花、ダンゴ虫、、、、笑


とにかく地面からにょきっと出てる不思議なもの、面白いもの、綺麗なものを見ていた。

私のズボンの膝はいつもすり切れて、母がそこにアップリケをつけてくれていたらしいから、相当這いつくばって生きていたようだ。

それが核、、なのかな?


若い時、この地球の主人公は植物だ!と思った時のあの感動を今も覚えている。

だから自然の中で自然に触れて暮らす。


考えてみると、地べたは粘土とつながっている。

和紙はコウゾだし。


粘土という地べたに、

和紙という植物に、

草を描く。


なんか、クルンと回ってひとつの輪っかになってるなあ。









和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2026年9月16日水曜日

夢のほころびを見つける

 

山芋のツルの器

ここんところ、なんだか嫌なことばかり起こる。


突然知らないオヤジに怒られたり、

パソコン乗っ取られたり、

陶芸の道具である撥水剤をうっかり床にこぼして、

大勢の人を巻き込んでえらい騒動になったり(今も進行中)、

兄弟がヒステリーになったり(笑)。


いや笑い事ではない状況に落ち込んで、

あーでもない、こーでもないと必死に対処する。

毎日何かが起こる。

その都度カラムーチョのおばあさんみたいにヒーヒー言う。


そんなことやってる場合ではない、

展覧会の準備はどうするんだ!?と言うと、

なぜか淡々と進んでいる。

心が荒れ狂っている最中にも制作は進む(笑)。


いや笑い事ではない。

心は完全に疲労困憊した。



現象は私の心の中の現れだとコースはいう。

見せてくれているのだ「あなたの心の中はこうだよ」と。

そうすると、「えーっ!私はこんなにもこんがらがったひどい心の中なの!?」

と罪悪感が浮上する。。。という元気さえもなくなった。


ただただボーゼンとする。

そうして自分がいろんなことをコントロールしようと思っていたことに気づく。

この世界をどうにかして、いいように持っていく。。。


ってできないじゃん!

ってことをとことん思い知らされた。


この世は支離滅裂だ。

香港さんのブログでハッとする。


夢の世界は支離滅裂だ。

夢の中にいるときは、それが本当に起こっていると信じて必死で対処する。

でも夢から覚めると、なーんだ、支離滅裂だったじゃん。

なんで必死に対応しようとしてたんだろ?

と一笑に伏す。


それと同じことがこの世界に起こっている。

支離滅裂に見えない。辻褄が合っているように見える。

しかしよく見ると変だ。

ほっといたら消えていたりする。


夢のほころびを見つける。


この世界をコントロールしようとすることをやめる。

私の心が外に見えているだけなのだ。

鏡に映ったものを気に入らないと言って
鏡を拭いて変えようとするのをやめる。
それは私の心の結果だから。


ただやって来ては消えていく様を見る、雲を眺めるように。


世界は暴れたい放題に、

暴れさせておいてあげよう。







和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです

2026年9月8日火曜日

私たちは心で食べている

「銀河」和紙、水彩

 

近所に引っ越ししてきた若い人たちが、

農薬はもちろん、肥料も使わない自然農法、自然農、自然栽培、炭素循環農法などに興味を持っていることを知る。


私がそれを始めた頃は、誰も知らなかったというのに。

私はいつもちょい先を行く。

みんな後からついてくる(こらあ~。どこから目線や)。

お隣さんが勤める会社は、そういう農の形をバックアップしようという動きまであるらしい。

時代だねえ~。


私はというと、11年続けた畑を手放してもっぱらスーパーの野菜を買う。

近所を歩けばオヤジが畑からナスやらピーマンやらその場で収穫してくれて、

持ちきれないくらいもらう。


畑をやっていた頃は、農薬も肥料も入っていない野菜にこだわっていた。

山の植物たちと同じ。混ざり気のない自然がそのまま現れてきた純粋な野菜。本当に美味しかった。

だからその横で肥料をせっせと入れる虫食いだらけの野菜を毛嫌いしていたのだ。


ところが今は農薬も肥料もたっぷり入った野菜をありがたく頂戴できる。


理屈ではそんな危ないもの、体に入れてどうするんだ。

純粋なものを取り入れてこそ健康だろうと思うんだろうが、まったく違う。

そんなもの関係なく健康なのだ。


そういう経緯があるから今の私には言えることがある。


体は食べ物でできていない。


私たちは心で食べている。

心こそが私たちを健康にもし、病気にもする。


危ない野菜、安心な野菜。。。

情報が私たちをどんどん不安にさせる。

知れば知るほど混乱を生む。

探せば探すほど、さらに迷子になる。


私が自然農、自然農法、自然栽培、、、と

ありとあらゆる方法で試して訳が分からなくなったことと同じように。


そしてある日気がつくのだ。

これって本当?


物質にエネルギーがあるわけではない。

思いにエネルギーがある。


ありがたい思いで食べる。

喜びとともに食べる。

それが幸せを生み出す。


喜びで料理する。

喜びで絵を描く。

喜びが伝播する。


喜びって味わえば味わうほど、それが真の強さだと知る。

形はきっかけに過ぎない。

その形を見て、その後ろにある神を感じる。

どんな形であろうとも。


心が恐れを選ぶのか、

愛を選ぼうとする意志を持つのか。


恐れを選ぶのは簡単だ。

それ、いつもやっていることだ(笑)。

でもそっちではなく、

愛を選びたいという意欲を持つ。





思い返せば、マクロビとも名付けられていなかったマクロビのはしりの頃(30年前)、添加物や砂糖も一切とらず、豆をひたすら食い、荻窪の「ぐるっぺ」で無農薬野菜を買い、健康に気をつけていたにも関わらず、実態は心も体もボロボロで、井荻にある漢方薬屋さんで漢方を飲み続けしのいでいた。健康と呼ぶにはあまりに遠かった。


その頃の私は恐れを選んでいた。

物質に力があると信じ、その力に翻弄されることを恐れていた。

だからピュアなもの、力があるように見えるものを選んでそれを取り入れることによって

自分もピュアな体になれると信じていた。


だが実際は違っていた。

力は外から取り入れるものではなかった。


内側、つまり心という自分の宇宙が知っているものを思い出すことだったんだ。


それこそが本当の力。

すでに私たち自身が持っている力。







和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです