2022年8月19日金曜日

それと一つになる

高知の浜で小さいとき母と一緒に拾ったハマグリ

 

「その時、そこに幸せや喜びはありますか?」

そう聞かれた時、それはないと気がついた。


何を感じて何を考えてどんな心の状態にいるか、四六時中気がついている。

そんな状態にどこかでうんざりしていた矢先に聞かれた言葉。


幸せになるために、ずっと気づくという作業をしていたのに、

いつの間にかそこに喜びはなかった。


「それと一つになってください」


びっくりする。

一つになるって、そんなことできない。

だって、わざわざ離れたんだもの!


自我と同一化して巻き込まれるところから離れて、

それを見ている視点に立つ。

でもそれは、見るものと見られるものに分かれて、

私とそれは二元になっていた。


しかしその見ている対象は、私の心から出たものだった。

私はそれを突き放してみていたのだ。

そして無意識に「消えてくれ」と思っていたのだ。


ネガティブな感情、それを消したいと思うことは、

その前提にそれはあると言っている。

ある、ある、あると言っているものを消そう消そうとしても無駄だ。

あると言ってるのだから。


私はその私から出たものを愛の視点で見ていなかった。


愛の視点はそれを溶かす。心の底からそれと寄り添う。


光によって闇は消えていく。

本当に存在しないものは光によって消えていく。




全ての対象物は、私から出ている。

私の考えから現れて見えるもの。


知覚で見えているものだけではなく、

心の内側にあるものも一旦それを見るために外に出し、

そしてそれを聖霊とともに観る(愛でる)ことによって一つになる。


すべての感情を愛しさとともに見よう。




2022年8月16日火曜日

No private thought

 

春の露天風呂

この世界を「絵に描いた餅だ」と分かったとしても、

それを実際生きていくのは相当難しい。


この世は幻想だと言いながら、しっかりいろんな感情に振り回される。

それはまさしくその世界があるのだと信じている証になる。


その「証」を使って、この世界から解放させていくのだ。

信じていることからの解放。



先日ある人から、コースを教える人であるデーヴィッドホフマイスター氏がやっている「エクスプレッションセッション(心の開示)」というものの内容を詳しく聞いた。


それは何人かと輪になって、その中で自分が何を思っているか考えているかということを

正直に人に打ち明けるのだ。


そこに一切の綺麗事はない。

自分の闇の部分をしっかりとさらけ出す。


例えば自分が不倫をしていることさえも打ち明けて、

それがどのように自分に苦しみを与えているかをもさらけ出すのだ。


そこにはルールがある。

話の腰を折らない。

その話の途中で自分の意見を一切挟まない。

行ったり来たりの会話をしない。


ひたすら誰かが自分の心のうちを話し、

誰もそこに何の判断も解釈も入れない。

誰もそれに対して、いいも悪いも言わない。

そして、次の人に手渡していく。


例えばその場に、その逆の立場、旦那に不倫をされている人がいるとしよう。

自分の番が来た時、自分の旦那が不倫していて苦しく思っている胸の内を話す。

場合によっては、さっき話した彼女に対する思いさえも吐露するのかもしれない。

だが誰もそこに口を挟まない。誰もそれをいいとも悪いとも判断をしない。


デーヴィッドは、それをNo people pleasing No private thought(人の機嫌を取らない。隠し事をしない)という。



私はその話を聞いた時、思い当たることがあった。

あるグループラインの中でのことだった。


そして私はそのグループラインの中で、

日頃感じている悲しい思いを正直に打ち明けた。


私は不安だ。

ひょっとしたら私は嫌われているんではないのか?と。


書きながら、自分であることに気がついた。

心が癒されていったのだ。


いじめられっ子だったころの心の習慣がこう思わせていたのだとわかり、

それが溶けていった。


ああ、私は誰かの嬉しい返答を求めているわけではなかったのだ。

書けてよかったと感じていた。


しかし私の思いとは関係なく、

そのグループのみんなは、優しい返答をたくさんくれた。

私の勘違いだったことをちゃんと説明してくれた。


そしてもうひとつ気が付いた。

このグループに信頼を置いてない限り、

私はここにその思いを書けなかったということを。


自我の思いは、彼らを敵にしていたが、

聖霊の思いは、しっかりと信頼の中にいたのだった。


犬は信頼してそのハラを出す。

それが信頼の証。

いわば、自分の一番弱いところをさらけ出す。

人の機嫌を取らず、隠し事をしないとは、

まさに自分の弱さをさらけ出すことであったのだ。



その話と、冒頭の話とはどう関係があるのか。


心にためている苦しみは、それが実在すると証しする。

苦しむための原因がそこにあると教えているのだ。


幻想をしっかり握り締めているかぎり、この世界を実在させ続ける。

 

心に不信を持つことは、自分と他人は分かれていると証明していることになる。


デーヴィッドのエクスプレッションセッションは、

あらゆる物語には、何の判断も解釈も必要がないということを教えている。

それはすべて分離の夢物語だからだ。


リカちゃん人形遊びで(古い!)、ワタルくんにリカちゃんが、

「あんた、浮気したでしょ!」

って怒る遊びをしてても、そこに判断も解釈もいらないのと同じ。

そこに判断が起こるから、それが実在し始める。


この世界が存在しないことを知り始めるのは、

兄弟との間の不信を消していくことだ。

兄弟とともに癒されていくことがこの世界からの解放。

一人では決してできない。


兄弟と自分が分かれていると思わせるのがこの世界。

闇は必ず兄弟の間で起こる。

それは自分と他人が分かれていて、

相手のことはわからないという恐れによって引き起こされるから。


その揉め事の中にずっといるのがこの世界。


だが心の中に隠し持っている闇をさらけ出していく勇気によって、

この世界が光り始める。

忘れ去られていたものが、現れ始める。






2022年8月10日水曜日

絵に描いた餅

 

紙を切って貼った似顔絵/ジュリアロバーツ

まだイラストレーター駆け出しのころ、

ある有名なグラフィックデザイナーにあった。


その時の彼の言葉がずっと私の心に残っていて、

それが後々にまで影響を及ぼし続けた。


「僕らの仕事は、しょせん絵に描いた餅」


確かに、絵に描いた餅は食えない。

私はデザイナーに憧れて力及ばず、イラストレーターになった矢先のこと。


その言葉はこう私に告げていた。

「イラストレーターもデザイナーも架空の儚い仕事」

鼻っぱしをぽきっとおられた。


なんの意味もない架空の仕事を私はやり続けるのか?


心はなんとしてでも地に足がついたことをやりたいと願っていた。


そしてニューヨークのブックオフで見つけた、

福岡正信さんの『自然に還る』の本と出会い。

「これだ!」と思った。


フィラデルフィアにあるオーガニックの農園を訪ねたこともあった。

アメリカではついに土に触れることはなかったが、

そのせめてもの願いは、陶芸作りで少し癒された。


そして日本に帰って約200坪の畑を手にした。

「これで私は架空の仕事から脱出できる。。!」

そう真剣に考えていた。



デザイナーとしての仕事を離れ、

自然を相手にする、もっと地に足をつけた生き方をする何人かの人たちを知っている。

彼らもまたどこか私と同じような空虚感を感じたのかもしれない。



私は架空ではない、絶対的な答えがあるはずだと信じて、大地に触れていった。


しかしその思いはことごとく崩れていく。

人間が自然に関与するということは、その自然自体を破壊していく。

その間の折り合いというものは存在しないようにみえた。


これだけ欲しいと計画立てることを、自然は軽々と裏切っていく。

そしてまた生き物たちとの間でも縄張り争いをすることになった。

網を張り、罠を仕掛け、痛い思いをさせてまでも。


その間の、私の罪悪感という心のせめぎあいの葛藤はますます激しくなった。


ここが最後じゃないのか?

これこそ足が地に着いた仕事なのに、どこが美しいのだ?

単に私は野菜の奪い合いを猿たちとやっているだけではないか。


先日うちに来た、デザイナーをやめて養蜂家になった彼が見せた落ち込みが、

あの時の私の悲しみと重なった。




架空の仕事から脱出できる、最後に見出せる答えだと信じてきたのに、

結局、私はそこにあの言葉の答えは見出せなかった。


この世界にいくら取り組んでも、

それはコロコロと常に変化し、

昨日答えだったものは、今日はもうすでにそれが答えではなくなっている。


結果が全てだと追いかけ、結果が一瞬良くても、

またもっと先にある次の目標に向かって走り続けさせられる。




そして私は気づいた。

この世界自体が「絵に描いた餅」なのだ。


それが色即是空の意味。


それが奇跡のコースのワークブックレッスン1の言葉、

「この部屋の中に(この路上に、この窓の外に、この場所に)

見えているものには、なんの意味もない」のこと。


そのことに気づくために、私はここにいる。



その「絵に描いた餅」の向こうの、

忘れてきた不変のものを思い出すために、

この世界にいる。






2022年8月7日日曜日

問題問題詐欺



気がついたら、体のどこかにあるできものを触っているってことないだろうか(笑)。


できものをホジホジしている自分に気がつき、

「あ」と思った。


私は何かとっかかるもの、引っかかるものが欲しいんだ。


それはもうニキビの問題でも脂肪の問題でも車のワイパーの問題でも旦那の問題でもお金の問題でも、なんでもいいのだ。

引っかかれるものさえあれば。


自分の心の中をつぶさに観察していると、四六時中探している。

何を?問題を。


あ。この問題!あったあった。この問題さえ解決できたら、私は幸せになれる!

その問題に取り組み、そして無事解決し、

ホッとしたのもつかの間、また次の問題が発覚するのだ!


その問題に一生取り組み続ける。


私たちは自分が体だと思いたい。

肉体だと思うってことは、あなたと私は違いますっ!と線を引きたい。

分離を確認したい毎日なのだ。


なんでやねん。

平安が怖いねん。平安を拒否しているねん。

ホゲーーっとすることが怖いねん。

それは自分が消えてしまう気がするから。


だから必死で毎瞬毎瞬問題探しに明け暮れるのだ。

これを問題詐欺師という。(今作った)



電話がかかってくる。


「もしもし?」

「あー問題問題。それ問題ですよー。どーしますかー。」

「え?問題があるんですか?」

「そーですよ。その問題を解決しないことには、あなたには幸せが訪れません」

「えー。どーすればいいんですか?」

「それはですねえ。。。。」


と、あなたは問題問題詐欺に引っかかる。

そもそも詐欺師は問題があるという前提から始まるではないか。

問題がなかったら、詐欺師にはならない。


ずっと問題と取り組んでいる間は安心である。

それは自分という個別の肉体を温存できるから。


「あーたっ、一瞬でも問題を忘れてホゲーっとでもしてみなさい。

その瞬間、自分が消えてしまうのですよっ。

なんて恐ろしいことでしょう~。」


その自分とは自我の自分。

実は存在していない架空の人物。


その人物の人生は苦痛と苦悩で満ちている。

苦労と努力の中で、ほんのちょっとの飴をもらって喜ぶだけのちっこい人形。

その人形が、自分が消えることを恐れている。


本当の私はそこにいない。

そんなちっこい架空の人形の中にはいない。


平安が恐ろしいのは、

本当の自分を思い出すと消えてしまう自我の恐れ。



問題問題詐欺から卒業だー。





ミステリー表紙イラスト



2022年8月2日火曜日

正直にみる


 

自分に正直になるとは、

自分が今恐れている、ということを自覚することだ。


私たちが自分の心を見たくない理由はそこにある。

恐れている自分を知りたくないのだ。



小さい時から「恐れてはいけない」と親から教わってこなかっただろうか。

それは親もまた、恐れてはいけないと言う思いを抱えているからだ。

だから恐れている我が子を見るとイライラする。

そして「恐れるな!」と怒る。


でも恐れるな!って怒られて、

はいっ、わかりました!と恐れなくなれる子供っているか?w


それほど恐れとは「見てはならないもの」アンタッチャブル領域に入る。



恐れといってもいろんな言葉で言い換えられる。

心配、犠牲、モヤモヤ、苦しさ、イヤーな気持ち、ビクビク、ドキドキ、ハラハラ、惨めさ、悲しさ、寂しさ、いたたまれなさ、憎しみ、嫉妬、、、。

あらゆる形をとった恐れのバリエーションに気がつくこと。


普段はその恐れに気がついて、とっさに否定する、

あるいはないことにする、

さっとカーペットの下に隠すことはよくやることだけど(やるんかい)、

それをあえてしない。


自分の中に恐れがあることを見ることだ。

それは恐れている自分を肯定することでもある。


「私は今、恐れているのだあ~!」

と胸を張っていう(笑)。


この行為はとっても大事。

行為と言っても、体の行動のことじゃない。心の行動のこと。


その自分の恐れを見ることが、心が強くなっていく過程。

ここから心の訓練が始まる。



自分の心を正直に見る、つまり自分の恐れを正直に見始めると、

今まで自分がどれだけ恐れの中で生きていたかがわかる。


また、その恐れを見ないようにするために、

気を紛らわせたり、違うことをやって忘れようとしたり、

それを克服するための解決方法を必死で考えたりしている。


行動のほとんどのモチベーションが、恐れから発していることにも気がつく。


そして恐れをもたらした誰かを非難して攻撃していることにも気がつく。

怒りの下に恐れがある。攻撃されたと思うから、それに対して防衛をする。

防衛のための攻撃として怒る。


その恐れの元になっているものは、体。

自分は体という思いが、外から傷つけられる、攻撃されると信じる。


実際、体は何も傷つてられてはいないのに傷ついたという。

それは自分は体だと信じているから、

その思いさえも体と同じように解釈して傷ついたと思うのだ。


しかし実際心は何も傷ついてはいない。

心も体と同じように傷つくと思うのは、実は観念なのだ。




恐れは観念でしかない。


それはおいそれとはわかることではないけれど、

ああ、気のせいなのねとバイバイできるようなものではないけれど、

まずは自分の中にある恐れを自覚すること。


恐れながら行動している自分に気がついていること。



そのうちに恐れている自分の位置とは違う位置でそれを見ている自分に気がつき始めるだろう。

恐れと同一化していない自分。

恐れの中にいる自分を外から見ているのだ。


そのすぐそばにもう一つの別の見方をする存在がいる。

それをコースは聖霊という。

その聖霊とともに、この恐れを見る。


恐れはまだそこにあるだろう。

けれども聖霊の視点は、これを恐れとは見ない。

聖霊の中に恐れという判断はない。

まったく違う見方をする。


それは愛の眼差し。

聖霊は愛という判断しかない。


私たちはその聖霊とともに、その恐れの見方を変えていける。


それが私たちの本来の見方だったのだ。

その見方をすっかり忘れてきてしまった。


だが思い出せる。

その意志さえあれば。


すべてを愛で見る心眼。

その眼差しで見た世界は、いったいどんなふうなのだろう。




絵:似顔絵「JAY-Z」



2022年7月31日日曜日

過去を受け入れる



部屋の押入れの一角に、隠されるようにおいてある私の過去がある。


それはNY時代にやっていたペーパーバックやハードカバーの表紙に使われたイラストの原画だ。

今はパソコンで作るため、全てデータになっているが、日本に帰ってきてからもしばらくは依頼仕事の原画は紙を使って制作しており、その都度Fedexでアメリカまで送っていた。そしてそのアメリカにいた頃にも日本の仕事をやっていて、やはりその都度日本に送っていた。その原画たちが大量に部屋の片隅にあるのだ。


そのいわば「私の過去」を今回完全に整理しようと思い立った。

終活に近づいているのか?それとも新しい自分を見るために過去を終わらせようとしているのか。


引っ張り出してみた。

パラパラと覗くだけで一気に過去が押し寄せてくる。

ああ、こんな作品もあった。そうだったあの時はここで苦労したんだ。

記憶から完全に消えていた過去が一瞬で思い出される。


そして愛おしさがこみ上げてきた。

この幅50センチ、長さ70センチの中に、私の想いが詰まっていた。

ここはこういうアイディアにしよう、ここの色はこれでパキッとさせて、そしてぐいっと動きをつけて、こう大胆にレイアウトしよう。。。


あの時代、アメリカで私のような手法で紙を切って作品を作っているイラストレーターはいなかった。

そしてポップなイラストのラブロマンスやミステリーはなかったのだ。


その斬新さが買われて、私は一気に忙しくなった。

これまでのペーパーバックのあり方を変えたイラストとも言われて記事になったこともある。

バーンズ&ノーブルという大型チェーン店の新刊のコーナーにあるイラストを使われた表紙が全部私の絵で埋まったこともあった。あの時代にスマホがあったら、確実に写メ撮ってたのになあ。



私は整理が下手だし、めちゃくちゃ忙しかったから、いちいちその絵がどんなふうに印刷物になっていたのかを確認する暇もなかった。

それが今回整理するにあたり、ググってみる。あったあった。こんなふうに使われていたのか(遅すぎ!)ああ、この作家さんの仕事は結構やっていたなあと。


一人の作家さんのシリーズ。
アメリはでは一人のイラストレーターへのリピートが少ないと聞いている



断捨離ってあるけれど、ただでさえ服を捨てるのも、ものを捨てるのも辛いのに、

自分がゼロから作ったものを整理し、捨てていくのはとても勇気がいる。


私は今まで自分が作ったものをどこか恥ずかしいものとして、目を塞いできた。

汚点のような感覚。それは自分自身が自信がないからなのだろう。

自分自身を否定しまくって、愛せなかったからだろう。

だから押入れの隅っこに隠しておいたのだ。


でもこうして、ひとつひとつ見ていくと、そこには愛があった。

たとえ依頼仕事で自分本来の思いからは遠く離れてはいても、私の感覚の中から出てきたもの。

その都度、思いをいっぱい入れて作ってきたのだと心に響いてくる。


自分から出た愛の表現を、私は自分で目を背けてきたのだ。

今だから私はそれを受け取ることができるように思う。

自分自身を愛せると思い始めたから。

その愛をはっきりと今受け取ろう。


受け取ることによってそれを終わらせていくとき、過去は必然的に消えていく。

広げられたカーペットが巻き戻されていくように。

それと同時にそれまで過去の延長線で同じように広がっていた未来は当然消えていくだろう。



そしてそこに知られざる未知が出現する。