2021年2月21日日曜日

不思議に静かな心

 



「鍵がない。。。」


駅に向かう途中で家の鍵がないのに気がついた。

ポケットにもカバンの中にもない。どこで落としたんだろう。。それとも鍵はドアに刺さったまま?


家の中に泥棒が入ったイメージが浮かぶ。ゾッとする。

引き返そうか。でも駅はすぐそこ。。。


普通ならパニクってしまう自分がいるのに、心は不思議に静かだった。

起こる出来事は私に何か教えてくれようとしている。これはどういう意味だろう。。。?

聖霊さん、これはどういう意味。。。?一緒にみてください。。。


。。。


相変わらず、答えなど聞こえない。

だけどだんだん「泥棒に入られてもいいじゃないか。。」などと、のんきなことまで考え出した。


この静かな心を信じて、とりあえず出かけよう。

そう思って、駅に向かって歩き出した。


歩き出して1分。ふいにイメージが湧いた。

「あ。あの時だ。。。」


車で駅に向かう途中、ご近所さんを拾った。

「駅から遠いから、助かるわ~」


車内に入ってきた彼女に、マスクをしていなかった私は慌ててポケットからマスクを手繰った。その時マスクの紐と鍵が絡んで、右往左往したのだ。


「きっと鍵は車の中にある」

そう確信した私は、電車に乗った。






私はこれまでずっと自分を攻撃してきた。

自分の至らなさ、落ち度、罪、自分がした行為ならなんでもそれを罪に仕立てた。

そして自分を責め続ける。私は歩く罪悪感人間だった。

だから鍵をなくしたとおもえば、最悪の事態まで想定し、とことんまで自分を責め続けるはずだった。


それが今回は、頭では責め立てようとしているのに、それを受け取る心が反応しない。

頭/自我が言葉をまくし立てて大騒ぎするのに、心がそれに乗ってこない。

静かな心の方が圧倒的に優っていた。


自我は責める。大騒ぎをして「お前は罪人だ!」という。

聖霊はただ包み込む。そして微かな声で「あなたを愛してるよ」という。


私がずっと自分を攻撃してきたのは、自我の声しか知らなかったからだ。

自我は実在しない。

私は実在しないものの声に振り回されていただけだった。



自我の声は、私の声ではない。

そう気がつき、その大騒ぎする声から徐々に距離を置き始めた。そのうちもう一つの存在に気付き始めた。

それは最初からあった。それはもともとの私だった。それを光ともいう。




目の前にある全ての形は、自我とともに作り上げた世界。神はこの世界など作ってはいない。

神がいない矛盾だらけのこの世界の中で、本当に幸せになることはできない。


自我は罪だけを見る。

だからこの世界は罪でできている。

罪で作り上げられた世界は闇。この闇でいくら奮闘しようとも、闇は闇では消せない。


しかしその闇に光が入れば一瞬で闇は闇でなくなるのだ。



聖霊は元々いた場所に私をいざなう。

ずっと自我とともにいたけれど、それは単なる錯覚でしかなかったよと、優しく教えてくれる。




用事をすませて車に戻った。


椅子の隙間にひっかかった鍵が、お日様に当たって光っていた。




2021年2月15日月曜日

「ほっとけ」という御神託



もう少しで仕事が終わるから、終わったら友人を誘って、知り合いの梅林作業の手伝いに行こうと思った。


しかしいざ仕事が終わってみると、急に具合が悪くなる。立ってられない。こんな調子じゃ手伝いにも行けないし、午後から来ると言ってくれた友人にも悪い。どうしようかと迷ったが、何もせずになりゆきに任せることにする。


なりゆきに任せる。

一見無責任。だがしかしこれは叡智だ。


今まで自分でなんとかしなければいけないと一人奮闘してきた。しかし自分でなんとかしようとすればするほどドツボにはまる。さらにそれを埋めようと頑張ると底なし沼に。。。


これはいかがなものかと思い巡らしていたら、ある叡智がやってきた。

それは「ほっとけ」という神のご神託であった。

(ホトケは、この「ほっとけ」からきているのか?)




クラクラするからこたつでゴロゴロする。お日さんに当たりながら考える。

私は自分の罪悪感を大量放出させていた。


1手伝わなければいけないのに、手伝えない。

2人を誘ったのに、自分は働けない。

3そもそも仕事が終わったのに、なんで具合が悪くなる???


自我とともに考えれば、「あんたは死罪!」と言われる。

しかしここでもう一人の教師に聞く。

聖霊さん、私と一緒に考えてください。


。。。


ん?まてよ。

そもそも知り合いのところに手伝いに行かなければいけないという義務はない。

仕事が終わったんだもの、一人ゴロゴロこたつで寝てて何が悪い?

具合が悪けりゃ、寝てりゃあいいじゃあないか。

誘った友人にも連絡来てから考えればいいじゃないか。


なんだなんだ。何を問題にしてたんだ?

急に気楽になって、ゴロゴロすること2時間。退屈になって起き上がる。

ヒマだ。私、どおしたい?


体が勝手に支度をしていた。具合が悪かったことなんか忘れてる。

友人の作業道具も用意して現地に向かった。

誰もいない。手伝うつもりだった梅の枝も綺麗に整理されていた。




南向きの斜面でぼーっとする。

東からの風が冷たいが、お日様の心地よさがそれを忘れさせてくれる。

まだ1分咲きの梅の花の香りがほんのり漂ってくる。


線路を挟んだ向こう側に天神様の祠が見える。

菅原道真が読んだ句が思い出される。

「まさに、東風ふかば、匂いおこせよ梅の花。。。やな。

ちょと意味はちゃうか。あはは」




私は常に自分の落ち度を気にしていた。

絵を制作しているときは、何か問題はないか、悪い作品になっているのではないか、クライアントが求めるものは網羅できているか、、、。

仕事を終えやっとそのプレッシャーから解放されると、今度は別の落ち度を探している。


落ち度。罪。

罪を見つけては罪悪感と未来への恐れでオロオロして対処する。

しかし恐れの中での問題解決はドツボにハマる。これが私を長年苦しめてきた。


自我は罪をささやく。

「お前は悪いことをした。お前は罪人だ。この罪からは逃れられない。罰を受けて許しを乞え」


だがもう一人の教師に聞くと、

「あなたは無辜で神の子だ。神の子に罪はないし、罪は存在しない。」と必ず言う。


その言葉が真実だと頭ではわかっているが、ずっと自我の教えに耳を傾けてきた私は、油断しているとつい習慣で罪を探してしまう。

今朝もそうやって自我に耳を傾けていたのだ。

そこには何の喜びもない。何の解放も解決もない。ドツボと底なし沼があるだけだ。



梅の花の香りの中で大きく深呼吸し、


「ここに罪はあるか?」

と、自分に問う。


「ない」


自我とともにいるときには感じられない開放感があった。




突然ケータイが鳴る。

友人からかと思えば、ダンナからだった。

「今スタバ。なんか買っていくか?」

「カプチーノのトール!」


すぐ近くに別の友人が、山をスケッチをしているのに気がつき合流。

まもなく旦那がスタバからカプチーノを持ってやってくる。

すると出かけていた知り合いも帰ってきた。


夕日が山に沈むまで、微かな梅の花の匂いに包まれて、想定外の楽しい時間を過ごした。






絵:「梅の木とつた」








2021年2月4日木曜日

出会い

 



夢を見た。


千里眼のある少女が、インドの田舎の暴動を遠隔で見ている。

彼女が見ている世界を私も見ていた。


暗闇の中で赤く燃える焚き火の炎が、怯えた村人たちの顔を浮かび上がらせていた。

彼らをじっくり眺めていても、誰も私に気がつかない。


そこから少し離れたところにいるサリーを着た初老の女性に心奪われ、目の前に立った。

私の姿は見えないにも関わらず、彼女は驚いたような顔で、はっきりと私を見た。


「あなた。。。!」


そこから先の夢の物語はちぐはぐで馬鹿げた話に展開していくのだが。。。



目を覚ましてそのシーンを思い出す。

インド人の彼女の顔。互いがその存在を確認しあった時の言葉にならない喜び。。。


それは先日金毘羅さんで起こった出来事と似ていた。


「はい。つくしちゃん、お餅!」

お餅を渡されただけなのに、

「私を見つけてくれた!」というパッと花が咲いたような喜びがあった。


その後、ママチャリに乗っけられた小さな赤ちゃんとの出会いもまた似たような喜びが。

どの出会いにも、ぱあ~んと、大きな何かが弾けた。


それは一人ぼっちでさまよっている存在が

「ああ!ここに仲間がいた!」

と、存在と存在がお互いを確認し、

自分たちは孤独ではないのだと安堵し合うような感じ。。。

うーん。。うまく言えない。。


ひょっとしたら、それはまさに神に出会った瞬間ではなかったか。


神と神の子が出会う瞬間、「ああ!嬉しい!」という爆発するような喜び。




その二日前に見た夢も奇妙だった。


高校時代の同級生に、「ダンナと別れて、私と結婚しよう!」と告白する夢。


高知は室戸の海岸で、荒々しく岩肌にぶつかる波しぶきを浴びながら、

私は喜びとともに、彼女に高らかに宣言するのだ。

彼女は受け入れ、隣にいた友達に祝福される。

もう意味不明(笑)。


でもあの夢もまた、神に出会った瞬間なのかもしれない。


神は人にもなるし、時には雨にもなる。

畑にもなるし、山にもなる。

あるいは鳥になるかもしれないし、

道端に落ちたビニール袋になるかもしれない。


その出会いが、心の深いところに亀裂を入れ、光を差し込む。

その時「ああ、私は喜びだったんだ!」と思い出させるのだ。


今春一番が吹き荒れている。


心の深いところが揺さぶられて、

長い冬から目を覚ます。





絵:「つた」



2021年2月2日火曜日

絵に描いた餅

 

「ススキと高尾山」



「秋の音」



緊急事態宣言が出た日に初日を迎えた「つくし作品展」も、大盛況のうちに幕を閉じました。


初めの頃は営業していいものかどうかと迷われていたオーナーさんも、来てくれるつくしのお客様たちに臨機応変に対応してくださいました。


私も頭で考えたら、やめるしかないと思いましたが、成り行きに身を任せてみました。


こんな折にも関わらず、わざわざ時間をとって来てくださった皆様に本当に感謝いたします。

ありがとうございました。




「こんな時期だから、この絵を毎日見て、心安らかに過ごすわ」

と言って買ってくださいます。


絵が人々に与える心の影響を、こんなに実感したことは初めてでした。


「ケヤキの道」


「飛び石と秋」



絵は「絵に描いた餅」のようなもので、実際にカラダを満たさないものはどうなのか。。。

自分で描きながらも、私は絵に対する葛藤が常にありました。


それが「絵に描いた餅」は、心を満たすのだ。物理的なものよりも、それが与える影響の方がいかに大きいか、それこそが大事なことなのだと気づかされたのです。


みんながそれぞれに食い入るように、とてもじっくりと見てくれた私の作品たち。

でもそこにある作品はもう「私が作った」絵ではありませんでした。この世界にあらわれてきたもの。たまたま私の手を通して現れてきたものでした。


逆に言うと、その絵を買ってくれた人が、その絵を見たいがために私の手を使った、、、とでも言うのでしょうか。

そんなことが起こっているような気さえしました。



自分の特別性が解体していく瞬間。。。

この一ヶ月、とても大事なことを教わった気がしました。


ふじだなさん、お越しくださった方々に、心から感謝します。


日々が明るく平安で喜びに満ちていきますように。



「むかご」


「ささやく杉」



2021年1月20日水曜日

「はじめに言葉ありき」

 


「はじめに言葉ありき」


言葉があって、この世界が出来上がった。

私たちはそれを良きこととして受け取っている。


言葉とは名前だ。

つくしという名前があり、〇〇ちゃんという名前がある。

その瞬間分離が起こる。

〇〇ちゃんと私は違う人になり、心の中も違う人。考えも違う人。収入も肩書きも過去も全く違う人になる。



コップちゃんとテーブルちゃんは同じじゃない。それは違うからだ。


コップちゃんはテーブルちゃんを「私とちがーう」と否定しないかぎり、コップちゃんでいられない。

テーブルちゃんもまた、コップちゃんを否定しないかぎり、テーブルちゃんとして独立できないのだ。

つまり互いに否定し合うことによって、それぞれが独立できる、という仕組みになっている。

分離とは、互いに否定し合うことなのだ。
(この話はハレルヤさんの講義で聞いたお話)


つくしちゃんがいるのは、〇〇ちゃんを否定するから存在する。





この世は言葉だらけだ。

ある一つの名前がつけられた瞬間、その存在が立ち上がり始める。

それまで存在しなかったものが、形を持って存在し始める。

人はそれを喜んだり、悲しんだり、恐れたりする。


言葉がこの世界を作っている。

それを楽しめもすれば、悲しめもする。


つくしちゃんは、〇〇ちゃんと違うことで、悲しみが増える。

どう違うか、言葉によってその違いを味わう。


言葉は、感情にも名前をつける。

この感情はこういう名前、この感情はこういう名前、そしてこの名前の感情は、嫌うべきもので、こっちのは好きになるべき感情、云々。。。


名前によっては嫌うべき名前もある。突き放したい名前もある。

そうかと思えば、最初は好きだった名前も、だんだん嫌いになっていったりもする。





いつの間にか頭の中は言葉だらけ。

つけられた名前、それに対する感情にも名前、それをどうにかしようとする行為にも名前、その名前たちに解釈がつけられ、判断され、解決するために、多大な言葉を使う。。。


そうやってこの世界は続いていく。

さもあるがごとく。


言葉は分離を生み、互いを否定し合いながら、折り合いをつけようと躍起になる。


分離のままでいたいなら、なぜそのまま幸せではないのだ?

分離しているだけでいいではないか。

なぜこうも苦しい?


本当は一つになりたいのではないだろうか。

その一つになりたい思いが、折り合いをつけようと躍起にさせる。

けれども分離して独立したいという思いと、一つになりたいという思いは、融合することはできない。





そこで最初に戻る。

言葉がこの世界を作ったのなら、言葉がなかった時はあったのか?


言葉によってこの世界が作られる、その元の何かはあったのか。

一つになりたいというその衝動はどこから来ている?




頭の中からあらゆる言葉が消えた時、静けさが戻る。

戻るという感覚は、それをどこかで知っていたからだ。


その静けさの中に、安堵がある。

安堵の中に、暖かさがある。

暖かさの中に、満ちているものがある。

満ちているものの中に、喜びがある。


喜びの中に、


かつて知っていた愛があった。


それが本当の名前。


神の言葉。






絵:「エストニア」/健康と生活表紙イラスト

2021年1月13日水曜日

動画絵本『The Monster in the Subway station』英語字幕付き

 




まだ私がニューヨークにいた頃、英会話の教室に通っていた。


57丁目のセントラル・パークのすぐ隣にある大きなマンションの一角。大きなリビングの隣にある小さなキッチンの片隅に丸いテーブルがあり、そこでマンツーマンで英語を習っていた。


私はあまり良い生徒ではなかったが、シーガン先生は、私の仕事をとても尊敬してくれていた。


私の絵本「ちかてつのおばけ」を英語訳してくれたのも彼女。彼女は日本語が一切できない。私のたどたどしい英語で、絵を見せ、ニュアンスを伝え、何を言わんとしているかを伝えるのに苦労したものだ。



先日動画公開したその絵本に、英語字幕のものも作ろうということになった。

近所に住んでいる翻訳家の方に、英語訳のチェックを入れてもらう。


シーガンさんに英語訳をしてもらってのち、私は何度も文章や話の内容を変えているので、ニュアンスが少しづつ変わってしまっていたからだ。



「とてもいい文章。直すところがないわ」

チェックを入れてくれた方のその言葉に、シーガンさんの私への想いが伝わってきた。


国語の先生だった彼女。どんな思いでこの絵本の訳を考えてくれていたのだろう。あの小さなキッチンの片隅で、6年間続いた彼女との時間を思い出し、胸が熱くなる。


その後二人の翻訳家の方に、少しだけ手直しをしてもらい、
英語字幕付きの絵本の動画『The Monster in the Subway station』が出来上がった。




一人ではできない。

そのことを今回私はとても感じた。

たった一つの絵を作ることさえも、私が一人で作っているわけではないのだ。


物語を生み出すことになった、あの14丁目で出会った「彼」。インスピレーションをくれたニューヨークの街。私の過去に出会った人々からもらったたくさんの感覚。英語訳してくれた人々。出会った出版社の方々。動画にしてくれた旦那。その動画ソフトを作った人々、SNS。。。


とてつもない人々の存在と、とてつもない多くの心が作り上げてくれた一つの世界観。。。


私は一人ではないし、一人で作り上げたのでもない。

壮大な世界の一片を垣間見たような、そんな大事な体験をさせてもらいました。



ありがとうございます。


そしてシーガン先生、ありがとう。