このところ人との間でもめている。
それぞれの立場で言う意見を聞くにつけ、
人は本当に恐れているんだと実感する。
あとで何言われるかわからない。
あとで最悪の事態になったらどうするんだ!と。
そしてこれは私の投影なのかと思うと、さらに嫌になる。
これが私!?こんなに恐れているの!?こんなどうでもいいことで!
しかもその恐れは、自分が恐れたがっているからなのだという。
私は人のせいや状況のせいで恐れていたり怒っていたりするが、
本当はその状況のせいで怒っているんじゃない。
怒りたいから怒っている。
怖がりたいから怖がる状況を作って、
その状況のせいで怖がっているというふうを装っているそうだ。
「奇跡のコース」をやっていると、ここで苦しくなってくる。
投影していると言う事実と、怖がらせているのは自分だと言う事実。
目の前で起こっていることは、じつは自分がでっち上げた偽物だと。
だから誰も怒れない。
だから泣けない。
泣きっ面にハチ。
ただでさえ文句言われて傷つくのに、そこに塩を塗り込んでくる。
誰が?
張本人は私なんやんか!
罪悪感の専門店みたいな私は、さらなる罪悪感を製造する。
罪悪感専門店から、罪悪感百貨店に発展する。
ほっておくと心の中がエアー演説しまくる。
私が悪いんだ!全部私のせいなんだー!全世界の悪は全部私のせいなんだー!と。
これが自我がコースを使う手だ。
まんまとその手に引っかかる。
自分をいじめるために。
自分を恐れさせるために。
恐れさせたがっているのは、この自我なのだった。
投影であり、自分が作り上げたことであると言う事実を
自我はさらっと罪悪感のために使う。
ほら、お前のせいでこうなったと。
そこまで気付くのにずいぶん時間がかかった。
その思考の仕組みに気がついても、まだまだ飲み込まれる。
わかっちゃいるのにやめられない。
あそれ、ス~ス~ス~ダララッタ、スラスラスイスイスイ~と。
それでもいい。
私にゃ別の道へのいざないがある。
夜、もめた人たちのことを思い浮かべる。
自我とともに見れば、その人たちに罪を見る。
すると私にも罪を見ることになる。
罪は罪と一緒にいるからだ。
片っ方だけに罪があるなんて自我のトリック。目くらまし。
相手も自分も同じ。罪があると見れば、両方にある。
でもその人たちに罪を見なければ、私にも罪はない。
だから誰にも罪はないんだよな~~ってぼんやり思う。
月を見ながら、みんなの心が癒されることを願う。
だんだん心がゆるんでくる。
そうしてふっと形のないところを思い出す。
なんの形もないところ。
ああ、そうだった。忘れてた。
知覚の世界にいると、形にとらわれる。
この形が良くない、あの形の方が良い、
もっとああいう形にならなければ。。。
形を見るというのは分離を見るということ。
他人という形、自分という形。分離を象徴する。
でも形のないところは分離を見ることができない。
そこには何もないわけではない。
そこに心がある。
想いというのがあってるかな。
幸せな想いがやってきてそのまま眠りにつく。
朝になると世界が遠い。
あの苦しさはなんだったんだろう。
嬉しさでワクワクする。
でもだんだん心は世界の中に入り込んでいく。
また恐ろしさがやってくる。
だからこそ、心を警戒していること。
自我の誘惑は常にやってくる。
心の訓練はつづく。




