2023年6月7日水曜日

おバカでいたい



若い頃に見たドラマのワンシーンが、

ずーっと私の脳裏にくっついて離れない。

あれは一体なんだったんだろう?

そう思ってその謎をずっと追いかけることになった。



ある男女が広大な砂漠の中を歩いている。

どっちに向かったらいいのか、いつオアシスにたどり着くのかわからない。


そんな中、男はペットボトルにあった残り少ない水を頭から全部かけて、

「あ~気持ちいい~」と言った。


それを見た女の方が、

「あんた!なにやってんのよ!もう飲み水ないじゃないの!」

と、ものすごい剣幕で起こる。

男はキョトンとする。


そのボケた男優は渡部篤郎。女優は覚えてない。

もし私がその状況に置かれたなら、ブチ切れるだろう。

ふざけんなよ、このやろう!

飲み水なくってどーやって生きていくんだよ!死ね!とか言っちゃう。



いわゆる後先考えないヤツであり、

常識でいったら「おバカ」であるのに、

その行為になぜか惹かれる。


コースの言葉の中に「癒された心は計画を立てない」というのがある。


彼はまさに計画を立てていない。

これから水なしで砂漠を何日歩くかわからない、

マジで死ぬかもしれないという心配がない。


一方、私の考えは、これだけしかない水で、

どうやって生き延びようか必死で考える。


でもなんか辛い。

自分がなんか弱っちい、ちっこいものに思える。

後先ばっかり考えて、せせこましくビクビク生きるものに思えてくる。

ギュ~って、ちっこく縮こまった、や~な感じがする。


いや、ここだけの話。

そもそも60数年間、後先考えて計画立てて、

計画通りになった試しがない(笑)。



でも彼は違う。

水?そんなもんないと生きていけないの?

そんな限られた存在なの、僕たち?


という、なんというか全託。

全然大丈夫。オッケー。みたいな感がある。



そこに惹かれるのだ。

自分というものが、身長158センチぐらいのちっこい檻の中に入ったものではなく、

輪郭で区切られていない、外と内の境界線がない、何か。


果てしなく広がる何か。

まわりの砂漠も空も全部包み込んだ何か。


そこに心が向けられている。

そしてそのことさえも気にもしてない。


彼は喜びの中にいる。陽気な中にいる。

今を楽しんでいる。

そこには恐れのかけらもない。



本当のわたしたちはこうなのではないか?


真の自己は、水が、体が、どうなるこうなるという考えを持った存在ではなく、

果てしなく広がるもの。

それは喜びと平安とまったき静けさがある。



これは本当のことなんじゃね?


めちゃ自由なんじゃね?私ら。




絵:「coopけんぽ」表紙イラスト






2023年6月1日木曜日

通り過ぎる


 

兄弟が間違ったことを話している。

それを正そうとする自分に気づいた。


その瞬間、さっと何かが入り込んだ。

言葉にならないものが、コンマ一秒もない短い時間の中に。


それを言葉に置き換えると、こう言う感じだった。


そうだ。このままでいいのだ。私は何も正さなくていい。

彼は間違うままでいいのだ。それが彼の役目。

私はただそれを受け入れるだけでいい。


そう。この世のすべてが間違っている。

そのすべての一部をどう正すのだ?

正せば、それを実在化させる。

間違いがそこにい続ける。

私がそこですることは何もない。


私は安堵の中で、彼の言葉を聞き続けた。




最近、目の前で起こっていることはすべて結果だとじわじわ感じる。

私が思ったことの結果。

兄弟が間違ったことを言う。

それもきっと私の思いの結果。


心の中に罪悪感があれば、そのことを嘆くだろう。


私は彼に対してそんな人間だと思っているから、それがあらわれたのだ。。

これを投影というならば、「私」が間違ったことを言う人間だと思っているから。。。


今度は自分を責め始める。

投影という言葉は、瞬時に罪悪感を引き起こしてくる。


その投影の呪縛に長いこと絡め取られていた。

自我はあらゆることを駆使して、自分を攻撃するための道具とする。

投影もその一つ。


私が間違ったことをしているのか。

それとも彼が間違ったことをしているのか。

ここに分離がある。

罪悪感はどちらかに罪があると言う。

私か彼か。


事実は、間違った考えがある。それだけなのだ。

彼も私もどちらでもない。


どこかで考えられた間違った考えの結果がそこに現れただけだ。


結果はそれが消えていくために現れた。


その現れた結果が不快だからといっていじると、またそれは現れる。



私はそれをいじらない。

ただそれを眺め、通り過ぎる。


するとそこにもともとあったものがじわ~ッと現れてくる。


間違いも何もない、平安がそこに広がった。





絵:「ホタルブクロとどくだみ」





2023年5月23日火曜日

恐れがないことが怖い!





夕暮れに麦汁(缶ビール)を飲みながらボーッとする。

雨に濡れた木々の緑が美しい。

なんか心がザワザワする。


え?なんかあった?

ない。

でもなんかザワザワする。。。


じーっと心の中を探す。

ザワザワするってことはなんか怖いこととか、問題があるってことじゃないの?

思い出せ。つくし!


必死で心の中を探す。仕事のことを考える。体のことを考える。

。。。ない。。。。


ないの?

うん。ない。。。




そこに恐れはなかった。

それなのに心は落ち着かない。


ふと、変な考えが浮かんだ。

心はそこに問題がないと困るんじゃないか?

ひょっとしたら怖いことがないと、怖いんじゃないか?(笑)


怖いことがないと、怖い。

なんじゃそりゃ、と。



私は、恐れがないことに慣れていないんだ。

それはいつも恐れがそこにあったからだ。

恐れ(問題)を見つけては、それに取り組む、ということをずっとやり続けていたから。


だからそこに何も問題がないと困るのだ。

これって、テストが作れない先生みたいじゃないか!(どんな例え?)


問題がないことが問題だ!

恐れがないことが怖い!


なんて私たちは恐れの中にいることが日常化しているのだー!


恐れというオブラートが剥がれたように思えた。

嬉しくなった。

平安がそこにあった。




朝、整骨院に向かう途中、

「今、ここに恐れはある?」

と心に聞いてみる。


「んー。。。ない」


恐れというオブラートが、

雨で濡れたTシャツみたいに、べとっと常に張り付いている。


それに引っ張られて、無条件に恐れている自分。

そしてその問題や恐れをどこからか見つけ出してきて、

やっぱこれが怖いんだー!と発見するたびに、


「でかした。つくし。褒美を使わす」

と、さらに恐れるようにご褒美をくれる自我は、

クックックとほくそ笑んでいたのだろう。


駄菓子菓子!

今まで無意味に恐れていた自分に、今度は私が微笑む番だぜ。



雨に濡れた道端の草が美しく見える。





2023年5月21日日曜日

静けさが分岐点


 

嫌になったらやめる。

迷いだしたらやめる。



理屈では「いや、時間がないし。今やめてどーする。今でしょ!」と、心は騒ぐ。


その時、なんとも言えないやるせな~い気分になる。


自分が惨めになって、ワタワタして、泣きが入って、

びえ~~~っ!って、言いながら走る。(心の中が)



そんな中で無理やり無理くりやってきた。

だからこそ人生は苦しみの連続だし、

苦あれば楽ありの証だし、

アメとムチのバランスだとか言って、知ったかぶりをしてきた大人な私。


今になって思う。

そんなもん、糞食らえだ。



迷ったらほっとく。

嫌になったら一旦やめる。


その時間が大事なのだった。

惨めの中に巻き込まれない時間が。



この世界の目的は、惨めになること(笑)。


自分と他人を比べて惨めになり、

あるいは自分と他人を比べてちょっと優越感に浸る。


でも優越感なんてほんの一瞬のことだけで、

残りは常に劣等感と欠乏感の中で、

どうにかして満たされようと、わちゃわちゃさまよい歩く日々だ。


その堂々巡りに気がつく。





静けさの中に立つ時、この世界を遠くにする。


頭の中のぐるぐるは、この世界の具象の中に埋没している。

形の中で形をどうにかしようとし続けている。


その時の心は惨めでいっぱい。

びえ~~~と泣きながら、必死で何かやることを探し続けている。

何かやったら、この悲惨さから抜け出せると信じて疑わない。


ああすべきだこうすべきだ、早くしろ、今やらないでどーするんだ。

このままだと路頭に迷うぞ!という大きな声で頭の中は埋まっている。

声は私を混乱させるだけで、

まったく無意味な言葉をしゃべり続けているだけだった。


それに巻き込まれている自分を見る。

状況はいろんな形を見せてくるが、

いつも全く同じ感情、同じ心持ちになっている自分。


「これ」を味わい続けるために、

あらゆる状況を作り出して、その世界に埋没しようとしているだけなのだ。


それが罪悪感。

これが惨めさ。



その声を遠くに聴く。


静けさがその分岐点。


だからやめる。

一旦引く。


そして待つ。





苦しみから無理やりやる行為は、

さらなる迷いを生み出す。


喜びから自ずと湧き上がる行為は、

さらなる喜びを生み出す。




絵:ミステリー表紙イラスト