2026年6月13日土曜日

母の三回忌の旅にて思う

「湖畔遊」からみた物部川

 

母の三回忌のために高知に帰ってきた。


友達やいとこに助けられて、

お寺やお墓や土佐和紙の工房や素敵な場所に連れて行ってもらった。

本当にありがたかった。


今回は亡くなった人へ寂しさではなく、

自分自身への苦しみを抱えることになった。


同い年の友達といると、自分自身への罪悪感がどんとやってきた。

年金を払っていなかったことへの山のような恐れと後悔がやってきた。

なんてことをしてしまったんだという後悔。

これからどうなってしまうんだという恐れ。

その罪悪感の中にどっぷり入ってしまった。


そして話は大体が認知症や介護の親の問題。

それだけではない。

やっと親の問題が終わったと思ったら

今度は自分の問題への対応へと、

問題が後から後から続いてやってくる。


この世界は判で押したように「同じ問題」が人々に降りかかってくる、

体にまつわる話でいっぱいだ。

この世界で生きるということはなんて苦しいことなんだろう。




ホテルに帰ってずっとコースを読んでいた。

今回はワークブックのレッスン1から一気にまとめて読んでいく。


「この部屋の中で、自分が見ているものには何一つ、なんの意味もない」

「この部屋の中で、自分が見ているものすべてのものに、

自分にとってどれだけの意味があるか、それを決めたのは自分」

「自分は過去だけを見ている」

「自分は何一つ、今あるがままに見ていない」

「自分の思いには何の意味もない」

「自分の無意味な思いが、無意味な世界を自分に見せている」

「無意味な世界は恐れを生ずる」

「神は無意味な世界を創造なさらなかった」

「自分の思いは、自分が作った想像の産物である」

「自分が思っていることが及ぼす影響を感じるのは、自分一人ではない」


ここまでは今自分が見ている世界についての話だ。

そしてここから別の視点へと移っていく。


「自分は物事を違った風に見ようと決心している」

「自分が見ていることは報復の一つのかたちである」

「自分の見ている世界からは、攻撃的な思いを放棄することで逃れられる」

「何よりも自分は物事を違った風に見たいと望んでいる」

「神は自分の心の中におられるので、

自分が見ているすべてのもののうちにおられる」


                 「奇跡の道」田中百合子訳より



私たちはこの世界は初めにあって、その中に生まれ落ちたと信じている。

だが真実は逆だ。

初めに心があって、その心がこの世界をでっち上げて、さもそれがあるかのように見ている。

自分は人間だと信じ、この体は老いて朽ちて死んでいく。

そういう壮大な物語を自分で作り上げてその中で一喜一憂して生きているのだ。


三回忌の読経の後、浄土真宗のお坊さんが話してくれた。

「阿弥陀さまにお願いすると、極楽浄土に行けます。」

だからすべてを阿弥陀さまに委ねなさいと。


そうか、コースもすべてを聖霊に委ねなさいという。

一緒なんだと思ったが、よく聞いていると、

後生のことだった。


「私たちにはたくさんの闇があります(そこは一緒だ)

いくらいいことをしたと思っても、知らない間に悪いことをしていたりします。

だから死んだのち、閻魔さまに裁かれてどこへいくかわからない。

だけど阿弥陀さまにいつも感謝の念を唱えていると、

それだけで死んだ後は即悟り、そのまま極楽浄土に連れて行ってくださり、

もう輪廻することはありません。」


仏教は後生のことを話ししているのかもしれない。

面白いのは輪廻するっていうのが前提だ。

ほっといたら輪廻してしまうから、もうしないための仏教。。。


そういう意味ではコースと同じ。

もう輪廻しないために学ぶのだから。


仏教は「この世は幻である」ということと、

コースの「世界はない!」は同じだ。


しかしこのふたつがちょっと、、、

いや、だいぶ違うのは、

この世界はあなたがでっち上げたということだ(笑)。


だから年金の問題も親の問題も体の問題も、

私がでっち上げたのだ。

この世界をハラハラドキドキ臨場感たっぷりのお化け屋敷にするために。


コースは経済についてでも親の問題についてでも、

この世界のことを考えている時、心は空白になっているという。

必死で考えている気になっているが、

無、何もないものについて必死で考えているから、空っぽと(笑)。


だから私は無益な考えに浸っていたのだ。


「今、私は必死で考えているように思っているけど、

本当は何も考えていないんだな」

そう思うと愉快になってくる。



「自分の見ている世界からは、攻撃的な思いを放棄することで逃れられる」

この言葉が私にひびく。


つまり私は自分がいたらなかったことに対して

自分自身に攻撃を仕掛けていたのだった。

自分の罪悪感に対して、その中にどっぷり浸り、

罪の償いを必死で考えていたのだ。


その自分自身への攻撃心を放棄しよう。

心は活動的だからしょっちゅうその攻撃心はやってくる。

だけどそのつど放棄する。


心を静けさの中におく。


「まるで世界がないかのように生きなさい」


最近心の中にリフレインしてくる言葉。

歌のように聞こえる。


最近、静けさは私の宝だ。

何もないところに心を向けると、

ずっとそこにあったものに触れて幸せになってくる。



こうやって聖霊はこの世界を使って

私に本当の自分を思い出すことを手伝ってくれる。


母の三回忌の旅に感謝。




それから一つお知らせがあります。


来年の6月中旬から7月中旬まで約一ヶ月、

高知にある和紙の博物館、

『いの町紙の博物館』で、少し大きな展覧会を開くことになりました。

詳しいことはまたおってお知らせいたします。


田村工房の田村晴彦さん、栄子さん、

そしていの町紙の博物館に感謝いたします。










和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです



2026年5月30日土曜日

絵のかけら


 

明け方不安で目が覚めた。

何が不安って、やっぱり未来。

もうすぐやってくる老い、病、死。

でもその前に経済。

未来はもう恐れしか見えない。

布団の中でいくらもがいても、

どう計画立てようとも、

その不安が全く解消されることはない。


そうだ。

形のないもののところへ。


この世界の背後にある、まったく形のない何か。

とてつもなく大きな何か。

今もそれに包まれている。

満ちている何か。

そこに意識を向けた。


すっと不安が消えた。


穏やかで優しく、満ち足りた静けさがそこにあった。


ああ、そうだった。

答えはここにあった。


何が答えかを知るための感覚は、

心が穏やかになる、喜びが広がる。

この感覚を覚えておくと便利。


そっちに向かっておくれというメッセージだ。


不安とはこの世界のもの。

人という形、社会という形、ルールという形、形、形、形。

その形をどう変えようともがいても、

絶対的安心はない。


そのことを知るために、私は苦しんできた。

この世界に生きる私の絶望を徹底的に味わい、

そこに解決の道筋はないとはっきりと知るために。




ここに一枚の絵があるとする。

それは神の子の心だとしよう。

神の子はそれを小さくちぎってバラバラにした。

その小さな絵のかけらの一つが自分だと思った。

かけらとかけらの間の隙間を「これは自分の体だ」とした。


その小さなかけらの中に、小さな心を入れて、

その心に「この小さなかけらが自分だ」と思わせることにした。


元は一つの心なのに、ちぎってバラバラにすることで、

「自分以外の体の心はわからない」ことにした。


そしてその小さなかけらは弱く限界があって老いて死ぬことにした。

その小さなかけらは病気にもなる。

病気になることでさらに他の存在とバラバラになっていった。


だがそのちぎったと思っていた絵は、ちぎられてはいなかった。

ちぎることさえできないものだ。

ちぎったという夢を見た。バラバラになったという夢を見た。

その夢がこの世界。

バラバラで心は不安に満ちて、

自分一人でサバイバルしなければ生きていけない、

この冷たい世界に一人置き去りにされた、

たった一人ぼっちの私という夢。


それは自分をずっといじめていたんだ。

小さな自分、弱い自分、ダメな自分、生きていくのが下手な自分

という設定にして。

このちぎられた小さなかけらが自分だと思うことにして。




「私は体ではない。

私は霊だ。

私は自由だ。

私は今でも神が創造したままの私だ。」


コース言葉は、最初はチンプンカンプン。

そしてある時、ふとその言葉を理解する。

そしてその感覚を忘れる。

そしてまたある時その言葉をさらに理解する。

そしてまた忘れる。

そしてまたある時、その言葉を以前よりもさらに理解する。

そして徐々に浸透し始めるけど、

また忘れてかけらに戻る。

そしてまた以前よりさらに深く理解する。

そしてそれを頻繁に思い出すようになる。

そこに至っていない自分を嘆く。

そしてある時、それが自分の事だったんだとはっきり理解する。











和紙で制作した作品のオンラインショップができました

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2026年5月26日火曜日

自然の化身

 

「杉林の小径」

蛇滝に向かう途中の道である男の人と出会った。

彼はずっと探求の道を歩んでいる。

仏教のあらゆる宗派を渡り歩き、

自給自足の生活に憧れ奄美や徳之島で師匠と出会い、

そこで一人生活をする。

今は東京のどこかで居を構え、時々こうして高尾山にやってくる。


夕食を食べながらその人の話をすると、

もういい加減にそういう世捨て人的な人と会うのはやめろ。

なぜそんな人ばかりと出会うのか、

そんな自分自身をしっかり見つめてみることだと旦那に言われる。


確かに世捨て人的な人には過去に二人会ったが、

そのぐらいで他に思い当たる人物は旦那しかいない。

私が出会う人は普通の人よりはるかに多いから、

そのタイプの人は全体の1%にも満たない。

だがこれも何かあるのだと思い、心の中を旅する。


私の中にある信念は、

私は何を考えても、何を感じても、何をしても間違っているという信念だ。

全面的に私が悪いという信念がある。

だから今回の出会いも、私が間違ってしまったのだと考えた。


これは小さい時に父親に殴られて育った時のあの感情を引き出して、

光の下に晒し、終わりにすることなのだと思った。

その感情を終わりにするために起こった出来事なのだと。


悲しみ怒り恐れ、それらの感情を表に浮上させ、

味わいながら聖霊にひたすら渡し続けた。

しかし一向にその苦しみは消えなかった。

ただ苦しみの中にいるだけでいいのだと思ったが、

どうにも苦しさに耐えられない。



コースを読んだ。

邪悪な夢を兄弟と分かちあわないことだという。


私の中に少し彼に対する怖さがあった。

旦那はそれに気づいて、それを終わりにしろと言いたかったのかもしれない。


兄弟を恐れない。

兄弟を恐れるとは、自分と兄弟を分離させていたがっているということ。


私はあまり人は怖くない。だから知り合いがたくさんいる。

それでも厳密にいうと恐れはある。

それを徹底的に根絶せよということなのか。

だからもう兄弟を恐れるのはやめようと思った。




すると森の中にいる彼が心に見えた。

杉林を背景に立っている。

彼は次第に後ろの杉たちに溶け始める。

彼の体はいく筋もの線になって、

ザーッとゆっくりと上に流れ始めた。

彼の姿はもう見えない。


その時、彼はこの森そのものだったんだと思った。


この蛇滝の森の思い。

この森にはずっとずっと長いこと歴史を刻んできた幾千万という思いが宿っている。

その思いが彼という形をとって私の前に現れたとしたら。


それは浄化のためであるのかもしれない。

私たちの、宗教への思い、悟りへの思い、神への思い。。。

自然の中に染み込んだ悲しみ、怒り、恐れ。。。
それは私の思いでもある。

それを取り除くために。。。


そう考えると、後の二人もまた森の人だ。

ミツバチや虫の妖精、もう一人は木の妖精。。。

彼らは自然の化身として私の前に現れたのかもしれない。


そう考えた時、やっと心が穏やかになった。













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