2024年7月19日金曜日

心の中はとてつもなく大きい

「夏の草」和紙
 

相手に罪を見ているということは、自分もまた罪びとだ。

このことに気がつかない限り、争いは永遠に続く。



自我の考えは、罪はどっちか片方にしかないから、

相手が罪があるということは、私には罪はないと教える。

だから言い争う。だがその言葉は互いに傷つけ合うだけで、何の幸せも生み出さない。


片方が黙ることでしか決着はない。

しかしそれは決着でも何でもなく、一時休戦するだけ。

きっかけがあれば、いつでも爆発できる。



こんな争いをもう何十年もやってきた。

もううんざりだ。もう無理だ。こんなことこれから先もやっていられない。

神様、どうにかしてくれ!

死んだほうがマシだと思うほどの絶望感の中、コースのテキストを開く。

そこにあった文章は、まさに私がやっている矛盾を突いていた。



「兄弟よ、あなたは私を傷つけた。しかし二人の中では私の方が善人なので、私が受けた傷についてあなたを赦すことができる」などと、誰が本気で言えるだろう。彼の赦しとあなたの傷は共存できない。


罪を証言しながらそれを赦すというのは、理性が理解することのできない矛盾(パラドックス)である。


赦しは、それがあなたの兄弟とあなた自身に癒しをもたらさない限り、本当のものではない。彼の罪が実在しないことを実証するためには、あなたはそれが自分にいかなる結果ももたらしていないことを証言しなければならない。


結果が取り消される時、罪は単なる誤りであることが証明される。あなたが赦す者となり、兄弟と自分自身に救いを差し出せるようになるために、自分に癒しを受け入れなさい。


「奇跡講座」テキスト第27章「癒しに対する恐れ」




「自分に癒しを受け入れなさい」

この言葉に私は強烈に惹かれた。


兄弟に罪を見ながら、その罪を赦すことなどできない。

罪がないということを知るためには、癒されなければならない。

自分で自分を癒すことなどできない。

常に与えられている愛で癒されることでしか。


私は癒しを受け入れていなかったのだ。

罪を兄弟に見続けることで癒されようとしていたのだ。


心の中で叫んだ。

「私は自分に癒しを受け入れます!」




それからしばらくして、何かがパタパタと紐解け始めた。

何故あのような言動になっていたのか、

何故私があのような反応をしていたのか、

そしてどうすればその恐れが癒されていくのか、

次々に明確になってくる。

そこに罪など生じていなかった。


それまで分厚い壁が立ちはだかっていたかのように見えていたのに、

それがあっさりと消えてしまっていた。



これらのことは、とてもじゃないが私だけの考えで浮かぶものではない。


心の中はとんでもなく大きい。

その中で一体何が起こっているのか全くわからない。


だが私の心の中は、

私一人がいるわけではないことを、

こうやって教えられる。







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2024年7月17日水曜日

感じようそして癒されよう



恐れることはいけない。

きっと小さい時からそう教わってきたことだろう。


だから私たちは自分に感じる恐れを隠蔽する。


怒りは恐れを隠蔽するためにしょっちゅう使われる。

また理論武装するもの常套手段だ。

誰かのせいでこうなった、社会のここが悪いからこうなったんだと、

社会や誰かのせいにして、自分が恐れていることをうやむやにする。


でもいくら怒っても、誰かのせいにしても、

元にある「恐れ」は消えることはない。


恐れは、ただそれを見るためにある。



自分が今恐れを感じていることに抵抗するのではなく受け入れる。

恐れている自分と寄り添う。


「ああ、今私は恐れているんだ」と、

否定するのではなく肯定する。

その恐れをじっと感じる。


恐れは感じるためにある。

不安、心配、見捨てられる、破棄される、拒絶される、存在をなきものにされる、、

そんな思いが浮上するのを見る。


自我は「恐れを見るな!見たらお前は破壊されてしまうぞ!」と訴えてくる。

だから感じることには勇気がいる。



でもそれを感じ続けていると、

やがて神を感じることに移行し始める。


私たちは、この世界の何かによって恐れさせられていると信じている。

誰かに見捨てられる、拒絶されると信じている。


しかしその恐れの元は、神への恐れ。

神に見放される、見捨てられる、拒絶されるという思いに行き当たる。


しかし神は私たちを拒絶するだろうか。

もし拒絶するなら、それは作り上げられた神だ。

本当の神は、私たちを愛している。


拒絶したのは私たちなのだ。

私たちが神を拒絶したから、神を恐れている。

怒られるのではないか、見捨てられるのではないかと。


神は見捨てない。拒絶など考えたこともない。

ただひたすら私たちを愛している。



だから

恐れが来た時、実は私たちは神に近づいている。


恐れを正直に受け取って、感じる。


その時、その恐れは光の元に渡されて消えていく。

神の元に恐れなど存在しないから。



恐れを苦しみを悲しみを感じよう。

そして癒されよう。


そのさきに天国への入口がある。

それは神へと続く道だから。


素敵な動画がありました。


2024年11月3日,4日 in東京

ACIMティーチャーであり、

プロの歌手でもあるNeda Boinさんが来日されるそうです。

ご興味のある方は是非!






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2024年7月11日木曜日

今、私はどこにいる?

 

「水辺」/和紙、水彩


時間というものが、いかに恐れと共にあるかを実感する日々だ。



今年に入って未経験なことが毎日山のようにつづく。

その最大なものが母の死だと思ったが、さらにまた新しいことが起こる。


そのため都心の公的な場所に毎日足を運んで書類集めに忙しい。

職員さん;「あ~、それはここでは扱っていません。九段下に。。。」

私:「え。八王子でできるって言ってたけどなあ。。。」


職員さん:「えーと、本籍地は八王子ですよね?え?違う?」

私:「いやさっき電話で確認した時、本籍地のこと聞かれなかったですよね。今しがた電車でその駅を通ってきたのに、、、今から都心に引き返しですか。。。。(ガックシ)」


あれをゲットするために、まずこれをやって、それからこーやってあーやって。

それをゲットしても、その次があるし、その次がたとえ受け入れられても、あのめんどくささがやってきて、、、、。



小仏川の土手沿いを歩きながら思う。

頭の中にあるのは、未来を想定した心配事でいっぱい。未経験のことばかりに慌てふためいている。私はそれをやりたいのか?やりたくないのか?と言われれば、なかり難しい内容なので正直言うとあまりやりたくはない。だけどそれが私に出来事として来ているということは、何かを私に伝えようとしているはずだ。



今、私はどこにいる?


川のせせらぎを聞きながら歩いている。

目の前には緑がいっぱいだ。今日は曇っていて湿度は高いが暑くはない。


今ここにいるとき、実はこれしかない。

頭の中だけに、未来と過去という時間がうごめいている。


こうしたほうが良かったとか、ああすればいいんだとか考えるとき、私は時間の中にいる。


予定を立てて計画するとき、

それは罪と共にいる。

罪とは「間違いがあってはいけない」という思いだ。

それは恐れと共にいる。

未来という時間と共にいる。

そして自分と他人という分離と共にいる。


でも今にいるとき、

そこに罪はない。

恐れもない。

そしてなにとも分離していない。


私はそこにあるものと一体となっている。

そこには安堵がある。心地よさがある。静けさがある。



恐れが時間を生む。

今ある自分を否定する。

そうして頭の中にドラマが始まる。

自分をなんとか肯定するために。


そうではなかった。

最初に否定があるから、時間を生み出し始める。


最初に肯定があるとき、そこに恐れはない。

時間が頭に生み出されることもない。


放っていたら、私たちは自分を否定している。常に。

否定するがゆえに、なんとか取り繕おうとする。

恐れがそこに忍び込んでいるから。


自分の否定の否定。

自分がここにいていいのだということを肯定する。

これには意志力がいる。

放っておいたら、自動的に自己を否定しているのだから。

そして時間の中に埋没していく。


時間の中に埋没していく自分に気がついて一歩下がる。


今、私はどこにいる?

ここにいる。


ここにいることをこことともにいよう。









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