2026年8月12日水曜日

自分を否定することによって世界を維持させている

「天狗とはなたれさきち」

 

2、3日前の夜、夢を見た。


目の前に長く黒いコートを着た背の高い男の人が座っている。

顔はよくわからない。しかし私はその存在に強く惹きつけられた。

なんの会話もないまま、彼は私を地下のレストランに誘う。


「いや、私には旦那がいるし、、、いいんだろうか、、、」

とか後ろ髪を引かれながらも、うす暗いらせん階段を彼の後について降りていく。

というところで目が覚めた。


目が覚めてもその衝動は心に残っている。

あんなに惹きつけられるってなんだろう?

顔もわからない、ただそこにいるだけの存在に、なぜ私はこうも魅了されているのか。

ものすごい吸引力だった。


黒いし暗いし、下に降りていくし、あれは魔物?自我の塊?

でも下に降りていけばいくほど、神に近づくのもまた真理。。。


この夢の話を友達にすると、

奇跡のコースのテキストの一文を教えてくれた。


「自我の土台よりもさらに深いところにあって、

常にそれよりも強きものであり続けるのが、

神に対してあなたが抱いている激しく燃えるような愛であり、

神からあなたへの同様の愛である。

これがあなたが真に隠しておきたいものである。」

テキスト第13章Ⅲ2、8


あの存在はイエスだろうか?聖霊だろうか?

と考えていたが、自分の中にある、自分を愛する存在なのではないかと思い至った。

そう考えた時、とても安堵した。

そんなにも私を愛している存在が私の中にある。

それほど心強いことはないと感じた。


海の底の底にあるハッチを開けると、

そこは即神の世界だったというデービッドの言葉もある。

私はその存在に、底の底に行けとうながされていたのか。





町会の夏祭りが終わった夜、穏やかな気持ちで眠りについた。

そして夜中目がさめる。

心の中に不安が満ち溢れていた。

ピリピリと落ち着かない心は、自分の中の何かを探している。


それはなんというべきなのか、、、

なんとか言葉にしてみると、

私は自分自身の不満な部分を探し続けていたのだ。


なんてことないことまで引っ張り上げてきて、

それができていない自分に不平不満を言おうとしていた。

だがそれがことごとく失敗に終わる。

だから次々に何かを必死で探し続けていた。


なんなんだこれは?

自分の中の不思議な衝動にただなすがままにさせていると、

やがて一気に飛躍する。


私は自分自身を否定することによって、

この世界を維持させているんだ!!!


なんてこった。。。


その真実に唖然とする。

「自己肯定感が足りないから、自分を肯定しなさい」

なんていってる次元じゃなかった。

もともと私たちは全面的な自己否定によってこの世界を作り上げていたのだ。


その前夜、自分を愛する存在を見せてもらったそのあとで、

その真反対である、自分を嫌う衝動を見た。

これが自我の動き。


自分や神を愛していることを思い出すと、世界が消えてしまう。

なぜなら神を裏切った!という思いがこの世界を作り出したからだ。


私たちは神を裏切ったという途方も無い罪悪感からこの世界を作り、そしてその中に逃げ込んだ。

だから自分と神を嫌うことでこの世界が支えられている。

だからこそ、ずっと自分を否定し続けなければならないのだ。


それが自我の衝動。

ずっと自分や他人や社会や世界のすべてを否定し続ける。

その否定からくる「どうにかしなければ」という思いで世界をまた作り出す。

問題定義による世界の構築。


だが、なぜそこまでするのか?

簡単だ。そういう衝動を真に受けないと、すぐ神を思い出してしまうからだ!


私たちは自分で作ったこの世界を恨みながらも愛してやまない。

消えて欲しくない。

その思いが、心に浮かぶ自己否定を真に受け続ける。




だが本当は私たちは神や自分を激しく燃えるような衝動で愛している。


「自我の土台よりもさらに深いところにあって、

常にそれよりも強きものであり続けるのが、

神に対してあなたが抱いている激しく燃えるような愛であり、

神からあなたへの同様の愛である。

これがあなたが真に隠しておきたいものである。」


これを隠しておきたいがために、

私は自我の誘惑に耳を傾け続けてきたのだ!



ところでどんな自己否定?


甘いもの食べ過ぎた。。

朝ごはんちゃんと食べてない。。。

部屋が汚い。。。

あの言い方はまずかったかな。。。?


こんなしょうもないこと?

そうです。

そんな自我のつぶやきを真に受けないだけでいい。

それが愛を妨げる障壁なのです。









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2026年8月10日月曜日

夏祭りとゆかた

「風鈴」


短大の頃、高知の母が私にゆかたを縫ってくれた。

ずっと押入れにしまいこまれていたんだが、

町会で盆踊りを踊ることになってそれがあったことを思い出し着ることになる。

ところが中年太り(いや老年太り)の体型がそのゆかたにちっとも治らない(笑)。

それでも無理やり着て何年か過ごした。


だが踊っているとだんだん前がはだけてきて気が気じゃない。

着物ってよくしたもんで、反物でできているので幅広くお直しすることができる。

いつも行くスポーツクラブがあるモールの中に呉服屋さんがあったので、

そこでお直しをお願いする。


京都から出張でくる先生に見てもらうと、

昔のしっかりしたいい反物ですねと褒められる。

そりゃそーだろーもう50年は経つ昔の反物だ。

しかし丈が短い。そこは知恵があって、おはしょりで隠れるように別の生地で賄うことができた。

私はそこにインドの藍染の生地を選んだ。

着ると見えないけどちょっとした遊び心。

予算よりはるかにオーバーしたけど、母の思い出のゆかた。お願いした。




さて昨日は町内会の夏祭り。

初めてお直しされたゆかたに袖を通す。

新しいゆかたはゆったりとたっぷりと、

私の大きな体を包み込んでくれた。


お祭りが始まる時間は雷雨の予報。

北の山の上には真っ黒い雲が静かにやってきていた。


「あっちの山の上にこの雲が来ると絶対降るよ。オラの長年の経験だ」


西の空は雲がまだ明るかったが、

生まれも育ちもこの地で生きているオヤジの言葉。きっと来る。


「じゃあ、やれるとこまでやっちゃいましょう!」

と始まった。


演目は「炭坑節」「東京音頭」「高尾山音頭」「太陽おどり」。

それぞれ2回づつ繰り返す。


小さな手作りの子供神輿の周りを円になって踊る。

一人、また一人と、参加者が増えていく。

見よう見まねで、初めてで。

それでも繰り返すうちに様になっていくのが日本の盆踊り。

愛の輪っかが広がっていた。


もう一曲「相馬盆唄」をやる予定だったが、

八王子の代表曲「太陽おどり」で終わりにした。

途端に雨。


滝のような雨の中、

カラオケ大会も返上して、

2回目の盆踊りも中止にして、

テントの中でぎゅうぎゅうになってビンゴゲームをしてお祭りは終了。

途中でっかい雷が近くに落ちる。

うお〜っ!ってみんなと叫ぶのが楽しい。


ちょっと雨が上がった頃合いを見て一人家路につく。

街灯もほとんどない町会の一本道。

カランコロンと下駄の音をさせながら、遠くに雷の光を見る。

短い夏が終わる予感がした。





2026年8月5日水曜日

わかっちゃいるのにやめられない

「そらへ」和紙、水彩

 


このところ人との間でもめている。


それぞれの立場で言う意見を聞くにつけ、

人は本当に恐れているんだと実感する。


あとで何言われるかわからない。

あとで最悪の事態になったらどうするんだ!と。


そしてこれは私の投影なのかと思うと、さらに嫌になる。

これが私!?こんなに恐れているの!?こんなどうでもいいことで!


しかもその恐れは、自分が恐れたがっているからなのだという。


私は人のせいや状況のせいで恐れていたり怒っていたりするが、

本当はその状況のせいで怒っているんじゃない。

怒りたいから怒っている。

怖がりたいから怖がる状況を作って、

その状況のせいで怖がっているというふうを装っているそうだ。


「奇跡のコース」をやっていると、ここで苦しくなってくる。

投影していると言う事実と、怖がらせているのは自分だと言う事実。

目の前で起こっていることは、じつは自分がでっち上げた偽物だと。


だから誰も怒れない。

だから泣けない。


泣きっ面にハチ。

ただでさえ文句言われて傷つくのに、そこに塩を塗り込んでくる。

誰が?

張本人は私なんやんか!


罪悪感の専門店みたいな私は、さらなる罪悪感を製造する。

罪悪感専門店から、罪悪感百貨店に発展する。

ほっておくと心の中がエアー演説しまくる。

私が悪いんだ!全部私のせいなんだー!全世界の悪は全部私のせいなんだー!と。


これが自我がコースを使う手だ。

まんまとその手に引っかかる。

自分をいじめるために。

自分を恐れさせるために。


恐れさせたがっているのは、この自我なのだった。

投影であり、自分が作り上げたことであると言う事実を

自我はさらっと罪悪感のために使う。

ほら、お前のせいでこうなったと。


そこまで気付くのにずいぶん時間がかかった。

その思考の仕組みに気がついても、まだまだ飲み込まれる。


わかっちゃいるのにやめられない。

あそれ、ス~ス~ス~ダララッタ、スラスラスイスイスイ~と。


それでもいい。

私にゃ別の道へのいざないがある。


夜、もめた人たちのことを思い浮かべる。

自我とともに見れば、その人たちに罪を見る。

すると私にも罪を見ることになる。

罪は罪と一緒にいるからだ。

片っ方だけに罪があるなんて自我のトリック。目くらまし。

相手も自分も同じ。罪があると見れば、両方にある。


でもその人たちに罪を見なければ、私にも罪はない。

だから誰にも罪はないんだよな~~ってぼんやり思う。

月を見ながら、みんなの心が癒されることを願う。

だんだん心がゆるんでくる。

そうしてふっと形のないところを思い出す。

なんの形もないところ。

ああ、そうだった。忘れてた。


知覚の世界にいると、形にとらわれる。

この形が良くない、あの形の方が良い、

もっとああいう形にならなければ。。。

形を見るというのは分離を見るということ。

他人という形、自分という形。分離を象徴する。


でも形のないところは分離を見ることができない。

そこには何もないわけではない。

そこに心がある。

想いというのがあってるかな。


幸せな想いがやってきてそのまま眠りにつく。


朝になると世界が遠い。

あの苦しさはなんだったんだろう。

嬉しさでワクワクする。


でもだんだん心は世界の中に入り込んでいく。

また恐ろしさがやってくる。


だからこそ、心を警戒していること。

自我の誘惑は常にやってくる。


心の訓練はつづく。











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