2026年5月11日月曜日

自分で作ったお化け屋敷

ミステリーペーパーバック表紙イラスト


Aさん、Bさん、Cさん。

三人とも全く別の人物なのに、

三人がまぜこぜになって時々わからんなる。


ダンナに言わせたら「それは同一人物」だそうだ。


それを聞いた時大笑いしたが、

ひょっとしたらそうなのかもしれない(笑)。



かおりさんのブログで「自分で作ったお化け屋敷」というフレーズにハマった。

私たちは自分で作ったお化け屋敷にいる。

そしてそのことをすっかりコン忘れてきているのだ。

そうじゃなきゃお化け屋敷で本気で怖がれないではないか。


Aさん、Bさん、Cさんが、つくしが作ったモブキャラだったら、

似たようなキャラになっていてもおかしくはない。

だってそう簡単には多くのバリエーションが作れないから。


私が作った恐ろしいお化け屋敷。。。

想像してみる。


恐ろしい形相をしたエンマ様が私にこん棒で殴りつける。

あ、これトーチャンじゃねえか。


古いお屋敷の奥の奥に、

10ワットぐらいしかない電球の下にぼんやり浮かび上がる深みどり色の和式のトイレ。。。

恐る恐る覗けばそこに真っ暗な底なしの穴が。。。

あ、これババアちゃんの家だ。


周りを土葬の墓に囲まれた一軒家。。。

西の森には腰の曲がった墓守の老婆が住んでいる。。


その一軒家は私が幼い頃住んでいた家。

そこのぼっちゃんトイレは、

土葬のとき掘られた穴をそのまま使っているというもっぱらの噂。。。。


そのまんまお化け屋敷じゃねえか!

我ながら素晴らしい設定を作り上げたもんだ。


この世は恐ろしい人で溢れていて、

私は媚びて媚びて媚びまくらなければこの世で生きてはいけない。。。


あの夜、トーチャンの逆鱗に触れ、

裸足で外に放り出され全ての雨戸を閉められ、

「ごめんなさい!ごめんなさい!もうしません!」

と泣き叫びながら雨戸を叩きまくったあの夜。

何をもうしませんと言ったのか覚えてない。

たぶんご飯を全部食べられなかったか、靴が揃ってなかったか。


ご飯が全部食べられないことで大罪になってしまう私が、

力のあるものの下で生きるには、

泣いて懇願しなければ生きていけない。


なんと恐ろしいお化け屋敷設定ではないか。

私にはなんの力もなく、その自身の力を他人に渡していた。


考えたら、お化け屋敷って他人(お化け)に怖がらされる屋敷だもんね。


その時、自分の外にいる存在、力のある存在、

父や出版社やアートディレクターや画廊のオーナー等々の

権威にひれ伏して生きていかねばならないという信念が

私の中に深く根付いていたことに気づかされた。


こっ、これはあの時の体験からずっと続いている。。

気づかないまま、その信念の中で、

惨めな思いを抱えながら力のある存在に泣いて訴えていたのだ。


これを知るために私は何度もなんども同じ経験をして、

そこにその信念があるよと教えてもらっていたのだった。




だがそのお化け屋敷の中で、光は確かにあった。

そうでなければ私は今頃死んでいる。

だがその違いが私には自覚されていなかった。


その光とは、自分と他人は対等だということ。

力がどちらかにあるということではなく、どちらにもある。

そしてそのどちらも私だということだ。


私の中に分離したもう一つの自分を作って、その片方に力を与える。

ある時は他人に、またある時は私に。

そうやって力のシーソーを続け、この世界を実在させ、

お化け屋敷を長々と維持させていたんだ。


見る対象はお化けの姿じゃない。

お化けの心を見るんだ。

悲しくて、苦しくて、恐ろしくて、怒りにまみれたそのお化けの心を。

傷ついた自分の心が、お化けという形を作り出していたんだ。



外にあった力は、つまり権威という力、恐ろしいと思わせる力は、

私が原因だった。

私の中にある力の一部を外に放り出して、それと対峙していた。


それを今戻していく。

自分の元へ。


自分には力があった。

それを思い出していく。


微動だにしなかったお化け屋敷が、

今静かに解体を始めた。









和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです

2026年5月6日水曜日

過去は罪、未来は罰


「森を歩いていると」和紙、水彩

 

昨日の夜の気づき。


過去は罪を思い出し震え、


未来はその罪がゆえに、

これからやってくるであろう罰に怯える。


過去は罪

未来は罰


そして時間のないこの今瞬間には、罪も罰もない。

完璧な世界が満ちている。



こうやって少しづつ、時間が私にくれるものを認識し、

時間のないこととはどういうことかを教えてもらう。


今が別の道に向かう入り口。

でも今って何?

今に一体どういうものがあるの?

ここに大きな何かがあるのは感じる。



一瞬一瞬が、

自我/時間を選ぶか、

聖霊/今を選ぶか、それが問われる。


あっという間に自我/時間に引き戻される。

慣れ親しんだ想い/時間の癖に。


それでもそれにあらがう意志を持つ。


もうそこには戻らないと。










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2026年4月30日木曜日

答えのない長い旅

「春慈恩/ハルジオンの庭」

 

緑が日に日に深まっていく。

その美しさを目の前に見ている私の心は暗い。


目の前の風景はこんなにキラキラと輝いているのに、

心は暗い。


あれ?

このギャップはなんだ?


目の前の「今」。

心の中の「過去と未来」。


そう、私の思考は時間の中にいた。


こうやって今あるものを見てないんだと気づく。



思考はどんどんやってきて止まることがない。

それらを観察してみると、

自動的に流れてくるものは、

心配、恐れ、惨めさ、怒り、等々の否定的な思いだ。


恐れの考えが浮かんだ時、

人はそれを自分の考えだとまともに信じ、

その恐れに対処しようとあれこれ考え始め、

思考の中に埋没していく。

目の前の美しさは気にもとめていない。


そうやって人はとても美しいものの中にいることに気付かず、時間の中を生きている。


だがひとたび、その「思考」に疑問を持ち始めた時、闇の出口の方向が見えてくる。


私もある時、絵をスケッチしていると、

ことごとくそれを否定してくる存在に気がついた。

どうやっても否定してくるのだ。

その時の言葉。


「あんた、誰?」


今思えば、その時が自我という思考を外に見た瞬間だった。


私たちはその思考を「聞いている」存在なのだ。

何かが、その考えを聞いている。


激しくしゃべりまくる声を聞いて、

「そうなんか!それってヤバイじゃないか!どうにかしよう!」

するとその声も

「そうだそうだ!なんとかするんじゃ!」

とけしかけてくる。


そうやって答えの出ない長い旅に出る(笑)。


そう。自我の声はいつも問題定義をするが、

決して答えは「しら~ん」のだ。


「探せよ。されど見つけることなかれ」by 自我



見つかるわけがない。

探す必要ないのだから。


その問題定義は、「ない」を前提としている。

ないないと言いながら、あるを探すことほど馬鹿げた問いはなかったのだ。


問題などもともとなかった。

もうすでにとっくにある豊かさの中に私たちはいるのだ。


頭の中に聞こえる声が、

この世界を欠点だらけの問題だらけの恐る世界にさせていたのだった。



ではその声の作り主は誰か。

実は私たち。


私たちに罪があると信じてしまったがゆえに、そういう存在を生み出した。

ずっと苦しまなければいけないと自分に苦を課したのだ。


自作自演だった。。。

私たちは自分で自分を苦しめ続けている。


スケッチのアイデアをことごとく否定してきたのは、

私は罪深いと信じた私自身なのだった。




だが。

それを聞いている存在。

それこそが私たちのオリジナル。


問題定義を投げかける存在でもなければ、

不安を煽る存在でもない、

そしてこの肉体でさえもない、まったく形のない存在。


形でも思考でも感情でもないなら、一体どこにそんな存在を感じるのだ?


言葉で言ってしまえば、めっちゃチンプかもしんない。


それは喜び。楽しさ。幸せ。静けさ。広がり。愛。光。


形の世界から見れば、

「は?なに?それのどこが存在?」

説得力もクソもない(笑)。


だけどそれこそが存在感を増して心に迫ってくる。

頭で理解する話ではない。

体感を通してやってくる。


思考への信仰から徐々に離れていくに従い、

もともとそこにあるものが現れてくる。


ただ恐れさせる思考によって、

そこには存在しないものを見ていただけだった。



今この目の前に展開している美しい緑を味わう。

それだけが私の重要な仕事なのだった。



そんなことを思い出させてくれた茂藤かおりさんの動画

そして香港さんのブログ


お二人に感謝です。









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