2023年9月20日水曜日

内田宇宙人との出会い


 

ひょんな事から出会ったある夫婦。


縁もゆかりもない神社をお掃除するそのご夫婦の元へ

「今日は掃除に来ているかなあ~?」と、ひょっこり顔を出す私。


「あ、来てる来てる。ヤッホー!」

と、やってきては別に掃除を手伝うでもなく、私は好きなこと喋って帰っていく。そんなローテーションだった。


ある日、うちに呼んでみようかと思いたち、声をかけた。


うちの旦那の武史と会うのは、展覧会の時の挨拶から2回目。だけど面と向かってはこれがお初。

そこから怒濤の展開が待っていた。


武史が超絶絶不調とわかるや否や、いきなり弾丸トークが始まった。

ご主人、内田氏が占いを専門にやっているのは知っていたが、姓名判断も四柱推命も何もしない。さあ、これから占いやりますね的な前フリもない。武史の存在に直接語りかけていた。


彼がどんなことを考えているか、どう感じているか、どんどん聞き出し、どうしたいのか、自分の内面を自分自身で観られるように光を当てている。

それはまるで眠っている彼の潜在意識に直接光線をババババっと連打し、意識を立ち上がらせようとしているかのようだった。


これがいつもなら、武史の方が「あなたはこういう人で、こうやっていけばもっと良くなる」的なアドバイスをするのがこれまでのパターンだった。なのにどういうことだ?完全に逆転している!

しかも一回りも年下の見ず知らずの人に、あれだけ質問責めにされているのに、逆に前のめりになって聞いているではないか。


これは、、、面白いことが起こっているぞ、、、。


この展開はその日だけでは終わらなかった。

次の日も、その次の日も、ひらめいたことを告げる。

そしてLINEでは内容が伝わりきれないことを察知した彼は、直接出向いて伝えに来た。往復4時間もかけて、一瞬の対話のためにやってくる!

このパッションは一体どこからやってくるのか。


「愛ですよ~」

と、チャラい言葉を言う。


でもその言葉の本質を彼は知っている。本質とは何かを知っている。どこで身につけたのだ?なんで最初っからそれを知っている?謎は深まるばかりだ。

彼のバックボーンが見えない。どこかの宗教の匂いもしない。


彼の姿を私は心眼でこう見ていた。

建物の骨組みだけが見える。そこからたくさんの光線が武史に放たれている。

それは「ほら!武史さん!これですよ!これ!幸せを思い出してください!僕らの本当に持っているものを!」と言う、愛がいっぱいのメッセージを送り続けている。



ある日武史の中の何かが変化した。内田氏はそれをLINE上の言葉で察知する。私が気がつくのはわかる。すぐ近くにいるのだから。しかしたった一言で、彼の何かが変わったことがわかるその触手は一体なんなのだ?


じーっと眺めていた私。

「何がないのかわかったよ~。内田くん、かぶりものがないんだ~」


私たちは常にかぶりものをして、人から防衛するワザを持っている。
つまりどんな職業についてるとか、性別や、年齢や、貯金がいくら持ってるとか持ってないとか、どんな体型とか、どんなお住まいとか、そういうもので自分自身を覆うことで、身を守る「かぶりもの」を身につけた。

しかしその自ら身につけたかぶりもののせいで、自分の本心が見えなくなっている。何をどうすれば幸せになれるのか、もうこんがらがってわからなくなっている。


彼には人の本質しか見えていない。幸せになるためには、そもそも厄介なかぶりものを必要としないのだ。

「そんなもの、必要ないですよ」


私には、彼がこの地球に「本質」を伝えにきている宇宙人に見える。


最近占いからカウンセリングに移行したようだ。

興味のある方は動画をご覧ください。


彼のHPはここ




2023年9月17日日曜日

一瞬心が通う

 


「無茶苦茶じゃないか!あれもこれも、全然違う!無茶苦茶でいいのか?なら無茶苦茶なままで出せばいいじゃないか!俺はもう知らん!」


電話の向こうで長老は怒鳴った。

町会の歴史の聞き取りをしてまとめた原稿のチェックをお願いしたが、それが彼の感想だった。


恐れていたことが起こった。


人から聞いたことがいつも正しいわけじゃない。聞けば聞くほど意見が分かれて来た。私は外から来た人間で、誰の意見が正しいのか、どれが正しいのかわからない。彼の剣幕にも私は傷ついた。


「私も人から聞いた話をまとめたものですから、正しいのかどうかわかりません。間違っているのならご立腹なのはわかります。明日伺いますので、どこがどう間違っているのか、詳しくお聞かせください」


それだけではなかった。他の長老たちからも、あることに関する対立した意見を聞くことになった。

それまで穏やかだった長老が一瞬殺気立った空気を出した。


もうここらで終わりにしたほうがいいのかもしれない。

原稿ができても、これからレイアウト作業が待っている。文字組みや写真やイラストを組み合わせての大変な作業だ。そして印刷となれば費用もかかる。でもその一番だいじな原稿で。。。いったいみんなが納得のいく原稿など作れるのだろうか。

今ならまだ間に合う。。。



いつでもやめていい覚悟で翌日長老の家を訪ねた。

畑作業の後だろうか。風呂上がりのさっぱりした顔で、上半身裸で現れた。最近倉庫の奥に見つけたという古い梅酒を出してくれる。


「昨日はちょっと言い過ぎた」

恥ずかしそうに微笑む。

「いえ。お気持ちはわかります。私も何もわからないので、教えてください」


Vネックのシャツを着ようとするが、汗で張り付いてなかなか着れない。私は手を回して彼の背中に巻きついていたシャツをほぐした。

「ありがとう」

その時、彼を昔から知っている親戚のように感じた。一瞬何かが通った。


そのあとはどこがどう違うのか冷静に話してくれ、和やかな時間が過ぎた。






この世界は結果がすべてという。


例えばこの例を挙げると、印刷物ができて結果が現れたという。

そしてその結果を、いいとか悪いとか言って評価をする。いいと言われて喜び、悪いと言われて悲しむ。

それがこの世界。

そうであるならば、今ここで町会の歴史の作業をやめてしまうことは、惨敗ということになる。挫折というべきか。


だけど私はそうは思わなくなった。

人に会い、人に聞き、質問し、意見が違い、怒られ、傷つき、考えを改め、どう見ればいいか見方を変えて行くチャンスが与えられている。

その時間が一番大切なのではないかと思い始めた。


カタチは結果ではなく、手段なのだ。

町会の歴史をまとめるという手段を通して、自分が何を信じていたのか、何を恐れているのか、その信念があるからこそ、自分が苦しみ、その信念は手放せることを知る。


それは全ての行為に言えることなのだろう。洗濯物をするという行為を通して、自分が何を信じて、何を恐れているかを認識する。


だからこの編纂を続けていこうが、ここで終わりにしようが、それは問題ではない。

この一瞬一瞬の一挙手一投足に意識を向け、自分の恐れを赦し、兄弟の恐れを赦し、受け入れられるか。

私に求められていることはそれだけだ。

カタチの向こう側にあるものだけを掴む。すると目の前のカタチにさえ、愛の反映がみえる。

カタチはどんどん優しくなっていく。


帰り、長老から畑で採ったモロヘイヤと茗荷をもらった。夜それで酢の物を作る。


ネバネバつるつるの、喜びがそこにあった。





絵「COOPけんぽ」表紙イラスト/山辺の道





2023年9月8日金曜日

カタチのないところ


 

ずっとカタチに囚われてきた。


カタチにこだわってきた、ではなく、囚われてきた私がいた。


それはイラストレーターというカタチを作り上げる事をなりわいとしていたからだろうか。

一瞬のうちに「あるべきカタチ」というものを頭の中に作り上げるワザを身につけてしまったからだろうか。


とにかく私は知らない間に、「一瞬のうちにカタチ」を見る(イメージする)癖をつけてしまった。


それは絵だけではなく、人としてこうあるべきカタチ、人に頼まれたらこうやるべきカタチ、人に接するにはこうするべきカタチ、人間としてこうあるべきカタチ。。。。。あらゆることに形を見ていた。


ある時それがどうしようもなく苦しくなった。

ある晩、「カタチ」が私を襲ってきた。カタチ、カタチ、カタチ、カタチ、、、、、

頭の中に怒涛のように、世界のあらゆる形象や、ものの考えや、世界の常識や、歴史や、人々の心や、、、とんでもない量の「カタチ」が束になって私を襲った。

それは振り払うことも否定することもできない。なかったことにもできない。


布団の中でこれ以上縮こまれないほどにカッチカチに丸くなって、この暴風雨が過ぎ去るのを心底願った。しかし一向に過ぎ去らないばかりかますます激しくなる。この苦しみの中で私はあることを思い出した。


それはカタチのないところだった。


具象の世界に押しつぶされそうになった私の唯一の逃げ道は、完全なる抽象、全くカタチのないところだった。

左上におぼろげなく見えてきた「カタチのない」ところに私は心を一点集中させていった。

気がつけば朝になっていた。


そんな経験を通して、カタチがないことは、私に安堵をもたらすことを知り始める。



カタチは、そのカタチにならない限り、裁くことをする。


こうならなければいけないのに、そうなれない自分がいる!

こう描かなければいけないのに、そう描けない私がいる!

そういって自分を責めるのだ。


この形象の世界は、常に比較を生む。

こうあるべきは、こうならない、こうなれない自分や兄弟を見つけ、それで責める。

戦い、葛藤、攻撃、防衛が生まれる。


こうなれない自分にエンドレスの苦しみを生み出す。





今、町会の年表作りをやっている。

間違ったことを書いてはいけない、間違った数字を書いてはいけない、間違った名前を書いてはいけない、間違った言い回しをしてはいけない、間違った、間違った、間違った。。。。


真実とは一つ。正しいとはこういうことで、それ以外は全部間違い。

プレッシャーに押しつぶされて身動きが取れなくなっていた。


そのうち私はこう考えるようになる。

「こうであるべきカタチ」でない限り、私は村八分にされる。

この町会で生きていけない。追放の刑だ!

なんという仕事を受け持ってしまったのだろう。。。。


苦しくなった時、あのカタチがないところに心を向ける。すると心が休まる。

そこはなんの比較も、なんの責める道具もない。

そこは誰が何をやったとか、誰に何をされたとか、そんなもののないところ。攻撃も防衛もないところ。

完全に赦されたところ。

優しさに包まれたところ。

カタチの向こうにあるものは、カタチが消えた世界だった。




この、今歩いているこの道。

何百年もの間人々が往来していた道。。。いろんなドラマがあったろう。いろんな愛もあったろう。

それを恐れで見るか、愛で見るか。カタチで見るか、カタチなきものとしてみるか。


恐れの目で見るなら、私は追放の刑に処されるだろう。

なぜなら私はこの村の歴史を全く知らないのだから。


しかし愛の目で見るなら、それは光とともに消えていくだろう。

深い安堵とともに。



今、町会についてお話ししてくれた方々に、

原稿のチェックをお願いしている。


恐れの思いでそれを渡すなら、私は裁かれるだろう。

しかし愛の思いでそれを渡すなら、どうなるのだろう。


私は確かめたい。




2023年9月6日水曜日

愛が、すべてさ〜♪


 


愛。

最近これが私のキーワードだー。


友達がある日、仕事の帰りバスに乗っている時、

いきなり家の近くまでバスに乗って帰れることに心底ありがたみを感じ、

泣きがとまらなくなったそうだ。

そして泣きながら運転手さんに「ありがとうございます」と言って降りたんだって。


何がどうしたわけでもないのに胸のあたりが感動みたいな震えがきたんだそう。

なんだったんだ?こんなことは今までなかったと。


そんな話聞いちゃうと、こっちまでうるうるしてしまうじゃないか。


その夜、思った。

それはまさに聖霊が持っている視点なんだなあ~って。


彼女はきっと愛を見つけたんだね。

運転手さんの愛、バス会社の愛、人を家まで送り届けるというバスの運行を考えてくれた愛、バスという乗り物を考えついた人の愛、、、、。

あらゆる愛に支えられた自分が今いるんだという、全てが愛の反映に見えた瞬間。


と、書いては見たものの。

本当はそんな風に言葉では表しきれない「何か」を彼女は受け取ったんだな。




そう。物理的な形象の中でしか生きてないように見える私たち。

だけど本当はそんな形なんかよりはるかにデカイものを実は受け取っている。


一つの形ができるまでに、たくさんの愛がそこに入っている。

椅子一つとっても、人を楽チンに居心地よくさせる「思い」が入ってるんだ。

その「思い」を受け取る力が私たちにはある。その「思い」が「愛」だ。

その思いを受け取るアンテナを広げていきたい。


昨日、久々に「フィールド・オブ・ドリームス」を見た。

常識的に考えたら、まったく意味もないことをやり始める主人公。

理屈に合わないことなのに、「声」に導かれてどんどん進んでいく。

周りもそこに巻き込まれていく。はたから見たら、とっても変なことなのに。

そうしたら、それまで常識の目で生きていた人が、今まで見えていなかったものを見始める。

そして愛が広がっていくんだ。



今まで見えなかったものが見え始める。それは形じゃなかった。

形がないのに、完全にそこにある。それがどんどん存在感を増し始めるんだ。

そっちがリアルだった!それだけが実在してたんだ!

なんだなんだ。見るとこ、ここだったんだ。




人々の行動を裁きの目で見るのか。愛の目で見るのか。

どちらで見てもいい。私たちには選択の自由がある。


しかし裁きの目で見ることは、自分も裁いていることになる。

その目は恐れと苦しみと悲しみしか生まない。


愛の目で見ようとすること。

それは兄弟を裁かないばかりか、

自分も裁かなくなる。

そこに平安がある。



先日、モスバーガーのテイクアウトを電話で頼んだ。

取りに行った時、

「お電話ありがとうございます」と言って小さな紙包みが渡された。

電話代金10円が入っていた。可愛い玉ねぎの絵が描かれた小さな紙包み。


企業戦略か。。。なーんて思うのも自由。

でも心がウキッとなった。


「また頼もう」と思った。






絵:ミステリー表紙イラスト