2022年5月18日水曜日

とある神秘家との結婚

 

最近出た新刊「とある神秘家との結婚」という本を読んでいる。


ディヴィッド・ホフマイスター という、

コースをそのまま生きているような人と結婚した奥さんが書いた。

本には彼女の中にどんな葛藤が生まれていくのか、正直に書かれている。


神秘家と結婚なんて、めっちゃラッキーや!

と思いきや、

ぎゃくに自分の内面がはっきりと映し出される鏡と一緒に生活しているような感じになっていく。


ひえ~~、強烈や~~~。


私も自分の内面がクリアに見えれば見えるほど、

どんどん葛藤し始めるので、彼女の苦悩がめちゃリアルに感じる。




ディヴィッドは彼女の聖霊みたいなもんだ。

その生身の聖霊に、正直に彼女が感じている彼への攻撃、嫌悪、全てを打ち明ける。

彼はそれを無邪気な子供のように受け止め、彼女はその場その場で癒されていく。


しかし癒されては、また憎しみや怒りが生まれる。


人が持った信念は相当ある。

その時その時見つける不快感は、それを手放すために少しづつ起こっている。


それを今度は聖霊に打ち明ける。

ジャーナリングという方法で筆記しながら聖霊と話すのだ。


聖霊はいう。

「あなたの闇を私に渡してください。」


彼女が自分の心を正直にみて、その怒りの中にどんな信念があるのかを言葉にしていく。

一つの怒りの中に、たくさんの信念があった。

ああであってはいけない。こうでなければいけない。そうあってほしい。。。。etc。



自分が兄弟と分離しているなどと思ってもいなかったことが、

実は分離が前提となって怒りや恐れが起こっていることに気づかされる。


一見複雑に絡み合っているような要因が、

分離という概念を信じていることが原因でそう見えているだけなのだ。


そしてそれは自分が作っていることに気づかされる。。!


罪を兄弟に渡して、兄弟に罪を見て、自分は無垢だと証明したい。

それはいわば私が演出家。


旦那にはこんな罪深い役をやらせて、

親にはこのような罪深い役を当てはめ、

友達にもこんな風な嫌な性格の役割をやらせ、

社会にはとんでもない罪を被せ、

そして私はか弱い、かわいそうで無垢なヒロインになる。


という子供の遊びをマジになってやっているのが私。

マジになってやっていることさえ忘れてしまった。


その前提になっているのは「私は有罪だ」という頑なな信念。


いやまいったまいった。

私もやってるやってる(笑)



恐れは、神から離れたという罪悪感から来ていることは知識では知っているが、

一足飛びにそこにはたどり着けない。


その大元の原因の手前にある、身近な恐れについての解体が

プロセスとして必要なんじゃないかと思って、

自分の中の信念を見ていく作業をしていた。


恐れは、言葉によって起こされている


同じようなことをしている人を見てホッとした。


まだ本は三分の一ほど。

これからどうなっていくのか楽しみだ。




言葉という具象は、解体されて形なき抽象になっていく。


正直に聖霊に打ち明けているその時々に、

何もない抽象の世界を垣間見る。

その透明感は、本当に心地よい。


これもまた私のプロセスとして進み、

やがてまた変わっていくのだろう。




絵:ホタルブクロとどくだみ/和紙




2022年5月16日月曜日

この世がアルデンテ

 


昨日、ラーメン屋さんでラーメンを待っている間、

後ろ手にテレビの音を聞いていた。

DASH村の番組。久しぶりにテレビの音を聞いた。


アナウンスを聞きながら、

「この世があるという前提で話しているよなあ~」

と思った。


当たり前だと言えば当たり前だった。

何言っちゃってんだろ。あたし。


それで心の中を見た。

一時間前のことを思い出す。

「あれ?これもこの世があるという前提になってるなあ。。。」


そう思った時、心の声を消してみた。


目の前に見える風景は、なんでもないもの。

ラーメン屋のメニューが書いてある壁と、その前の席の角っこ。

どーでもいい場所を見ながら、心の中を静かにする。


心の中の声が止まると、この風景が意味のないものになった。

そうか。心がこの世界に臨場感を与えているんだ。。。。


心は常に過去を追いかける。

一時間前はこうだった。あの人がこう言った。私がそれをどう思った。。。

そういう考えが、この世界をリアルなものにしている。

時間があって、空間があって、車でラーメン屋さんにやってきて。。。と。


ふ~ん。。。おもしろいなあ。

この心が世界があるように仕向けているんだ。



朝起きてそのことを思い出す。


ラーメン屋さんにいるとき、

心は30%、風景は70%の価値を見出していた。


だけど今振り返ってみると、違っていた。

心は90%、そして風景は10%。。。。。?


いや!違う!

心が100%で、風景は、、、0だ。。!


うわうわうわ~~~。。。。


それが心が原因という意味だったのだ。

心が作り上げているのだ。


だから静かになれと言ったんだ。

それがこの世界に関わりを持たないことだから。


「世界はない。」

「肉体は一瞬たりとも存在したことがない。」

コースがいう言葉。


そんな話は仏教でも聞く。どこでもいう。

宗教かじれば出てくるおきまりの言葉。


でもそれをちょっとでも「マジなんや!」と垣間見ると、ぶったまげる。


だから心を変えろと言ったんだ。

だから正しい心を思い出せと言ったんだ。



いつまでも間違った心で、この世界をアルデンテで、、、


もとい。

この世界をある前提で見てても、
四苦八苦しててもしょうがないよ。
それ、ないんだからと。




絵:ミステリー表紙イラスト




2022年5月15日日曜日

判断を疑う


 

「俺は自分の判断を絶対的なものだと信じてきた。

だけど初めてそれを疑った」


朝一番にダンナがいった。

起きた時、不意にそのことに気がついたのだという。



彼はこの所、いろんなことが自分自身に起こり、考えがどんどん変化している。

自分の身に起こったことを通して、

「これは一体俺に何を伝えようとしているんだろう?」

と、真摯に向き合っている。


昔はただ出来事を嘆くだけだった。

「なんで俺がこんな目に合わなければいけないのだ!?

俺がいったい何をしたというんだ!」


彼もまたコースの形而上学を学んで、実践へと向かっている。

あの強烈な確信を持って判断をしてきた人が、

こんな風に変化していくとはと驚いたし、また嬉しくなった。


この世界の被害者的視点から出ようとしている。



コースはまず形而上学を学ばなければ、

実践は単なる方法論になってしまうことがある。


下手すると、

「赦せばいいのね。聖霊さんにお任せすればいいのね」

と、こうしておけば大丈夫という方法論に成り下がってしまいかねない。


しかし一人一人がまったく違うカリキュラムが与えられている。


私には私のための出来事が起こり、それを通して実践していくが、

同じようにコースを学んでいるダンナには、また違うアプローチがやってくる。


それは「なんでそんなことまで知ってるの!絶対横で見てるよねえ!」

と、自分一人じゃないことを否が応でも実感する。


だから出来事が起こるたびに、

自分の中にどんな信念があるのか、

それによってどんな感情を引き起こされているのかと

じっくり見ていくチャンスが与えられていると思うことだ。


自我は出来事をいつもと同じように嘆き怒るために使い、

聖霊は出来事を別の道があるはずだと気づき、そこから解放するために使う。



「私は何が最善かを知っている。」

それが私たちの中に確固たる信念としてある。

でもその信念がゆえに、苦しんできたのだ。



それが本当に正しいのか疑い始めた時、

私たちの中の何かが解体し始める。





絵:雑誌表紙イラスト/ガンジー


2022年5月9日月曜日

思いをいただく


 

「ありがとう!」


友達からうちの旦那へのお見舞いの、美味しいスープを受け取った。


大きなタッパーを返すとき、

「空じゃ悪いかな。何か気の利いたものを。。。」

と思ったが、そんな間もなく「ありがとう!」と返した。


空のタッパーを振って、

「この中に、ありがとうがいっぱい入ってるね」

と、友達は言ってくれた。


そうなのだ。

それこそが本当のお礼なのではないか。


人様に何かをもらったら、それに見合うものをお返ししなければ、、、という思い。

その思いには、どこか後ろめたい思いを含んでいる。

借りを作ったから、その借りを返さねばと。


その心の底に、罪悪感が見え隠れしていた。

それは差し引きゼロにしたい、チャラにしたいという思いがあった。


それは違う。

それこそ、その思いをくださった方にめちゃ失礼だ。


「ほんっとに、美味しかったよ!」

という思いだけを伝えるだけでいい。




心の訓練するほどに、心の方がますます重要になってくる。

形象は結果であって、その原因は心。


心が結果を作っている。

そしてそれはどれだけ巨大なものか。



私たちは思いを形にすることに躍起になってきた。

愛しているよという思いを形に、楽しいを形に、思い出を形に。。。


そうしていつの間にか、その形がもらえないことに悲しんだり悔しんだりしている。


それは本末転倒ではなかったか。



美味しいスープ。

そのスープと、思いをいただく。

それと同じ量の形と思いをお返しすることなどできはしない。


本当に、「ありがとう!」と、いっぱいの思いを相手に送る。

それこそが大事なのだ。



私なんかが、そんな思いは受け取りきれません。

そんな資格などありません。。。

そういう思いが、私の中にあった。


でも思いを受け取る力が私にもついてきたように思う。

それは罪悪感がちょっとづつ減ってきたからなのだろう。



道を歩けば、たけのこに当たる。

京都からも美味しいものが届く。


おばさんは、

「ありがとう!」と言って、

いっぱいの思いを、もらいうける。




絵:ミステリー表紙イラスト




2022年5月6日金曜日

ちょい体験

 


世の中には、一瞥体験ってものがあるらしいんだけど、

わたしゃ、あれかな?これかな?ってのがあるぐらいで、

ちっとも自慢できるものはない。


その程度の、ほんの一瞬のことなんで、

人生を揺るがすほどのものでもない。


だけどその一瞥(かいま見)のおかげで、

「あ。こっち方向なのね」

と、教科書の虎の巻読むみたいに教えてもらえる。


でもそれが返ってよかったな。

だってジャジャジャジャーン!って、やってきたら、

なんか特別感が出てきちゃって、

勘違いして教祖になっちゃうかもしんないではないか。

私みたいなゴーマンな人間は、ちょい見させていただくのがいい。


半年ぐらい前、いきなり「罪などない!」ってのが来ちゃって、

もう、小躍りどころじゃない、大踊りしちゃって、

喜んじゃって、部屋の中で一人で大騒ぎしちゃったことがあった。

この発見は、私を全面開放させた。


でもその全面開放も3日間ぐらいで終了~。

あっけなく幕を閉じた。はやっ。


こういうちょい体験を通して、

その体験は、決して自分が起こしたんではないと確信する。

誰かが常に横で見ている。


こっちだよと方向性を見せてくれたり、

「つくしちゃん、今度はコレいこか」

と、やり残した課題をホイッと目の前に差し出したりしてくれる存在がいる。


それは決して嬉しいものではない。

「うっ。。。。コレきたかー」

と、七転八倒する類のものだけど。


だけどそれと向き合い、赦しとともに乗り越えると、

雲が少し晴れて、一つ世界が明るくなる。

一つ心が軽くなる。



この世に生まれてきたことの目的はただ一つ。

この世界での生まれ変わりの夢を終わらせていくこと。

このためだけに生まれているのだと実感し始める。


どこかで名の知れた人物として生まれたことを自慢する次元じゃなく、

今ここに生まれたことで、

過去にやり残した課題/罪悪感を、

その都度、その時持った罪悪感の解釈を、

本来の解釈に訂正し直し、

終わらせていくことなんだね。


そしてやがて、本当に罪はないのだと完全に知る。




絵:ミステリー表紙イラスト



2022年5月4日水曜日

昔盗賊だった


 

私が見ているものについての責任は、私自身にある。


見ているとは、解釈。


その解釈の方向は、目の前の光景を誰と見るかにかかっている。


自我か、聖霊か。

恐れか、愛か。



この頃ジャンクメールが多い。

その中でアマゾンの注文メールとそっくりなのがきた。

知らないひとあての注文。

ゾッとする。


確認すると、そんなものはなかった。



この恐れの中に何があるのかを見ると、

「悪意のある奴に身ぐるみはがされる」

という信念があった。


だいたいひた隠している信念は、漫画みたいなノリが多い。

露頭に迷うとか、身ぐるみはがされるとか。


身ぐるみはがされるって、どんな状態や。盗賊か!

どっから持ってきたんや!

と、旦那に話す。


「その信念があるってことは、それをどっかでやったことでもあるんか?」


じっと考える。

そやな。そういうことした私がおるから、そんな信念があるんかな。。

うん。。。確かにかすかに記憶がある。

北欧の海をうろうろしてたバイキングだったこともあるやろし、

アラブの砂漠の中で盗賊やったこともある。。。(ほんまか?)


ってか、こんな信念誰でも持ってるわ!

そしたらみんな盗賊や海賊やった過去があるんや(爆)。


みんなが盗賊やったかどうかはさておき(置いとくんか)、


悪意を持った奴がいるという信念は、

愛によって思い起こされるものではない。

恐れと分離の信念によって信じられたものだ。


その見たものへの解釈は、間違いなく自我とともに解釈したもの。

この信念を持っている限り、同じ出来事が起こったら、また同じように反応するだけだ。


恐れはそれを実在化する。

自我はそれを使う。

自我の思考システムは、常に恐れを引き起こす。

悲観、非難、攻撃、全て恐れ。


私はこの残酷な世界で、兄弟の身ぐるみはがしてでも生き抜いていかねばならないのだ!

というサバイバルな心。

取られたら、取り返せ~~~っ!と。


その恐れをずっと感じていたいか?私。

もちろん、ノーだ。


この信念を聖霊にお渡しする。

「もういりません。訂正をお願いします」



ワプニックさんの動画を見て、とても感じるところがあった。


私たちはあらゆることに、常に瞬時に自我的な解釈をしている。


その解釈は恐れを伴うからすぐわかる。

それはまさにこの世界を実在させ、重くのしかかるものだ。


今まで、自我を選んでいたとさえ思わず勝手に起こしていた自動反応が、

私は自我を選んでいたのだと知る。

自我でしか、見ることを知らなかったと知る。


その今までの見方を、別の見方でみたいと願うことは、

見方の方向転換をさせる。


外に罪を見ることは、自分に罪を見ることと同じ。

しかし外に無垢性を見る事は、自分に無罪を見ることになる。

心の作用は全く同じように起こる。





昔盗賊だった私は、神の愛を求めて暴れていたんだ。

モノを得ることで、神を得られると。

愛を求めていたんだ。


でもそれはずっとここにあった。

ないという思いが、私を暴れさせていただけだったんだ。


私はそれを選ばない。もうそれを望まない。

そんな自分を赦す。

私は別の見方を選ぶ。



重くのしかかっていたこの世界が、

軽くなっていく。




絵:ミステリー表紙イラスト