2021年12月6日月曜日

シナリオはすでに書かれている

 



「我々はただその旅路を、終わった時点から振り返って見て、

もう一度その旅をしていると想像し、

過ぎ去ったことを心の中で思い巡らしているに過ぎない」


と言われたらどんな気分になるか。

はっきりいって憤慨ものである。


あなたはそのすでに終わった旅路を台本通りに動く。

一ミリの違いもなく、すでに終わった映画を再生するがごとく。


つまり自由意志はこれっぽっちもないというのである。

たとえ自由意志があるように見えても、その範囲はすでに台本通り。

すべては起こるがままに起こるというのだ。


コースのこの言葉に私はかなり抵抗した。

自由意志がないだって!?すでに私の人生は決まっている?

じゃああの必死になって営業してゲットしたニューヨークのレップも、

それ以降仕事がガンガン入ってきたこともシナリオ通りだったと言うのか!

つまり「私のお手柄」ではなかったと。。。


小さい時から、自分で頑張ってなんぼと教わってきた。

頑張れば結果が出ると。だから「自分が」やればできると。





それがここにきて、そうでもないようだと思えるようになってきたのは、

どんどんと「やればできる」が「やってもできない」になり、

そのうち暖簾に腕押し状態になり、ふぬけになってきたからだ。

いわば、大いなる挫折感?


その大いなる挫折感は、私に別の力(視点)を与え始めたようだ。


何をやっても結果が出ず、何をどうしていいかわからなくなった時、

自分がどうにかしてやれることではないのではないかという考えに至ったのだった。


起こってくる出来事に対して抵抗するのは、「こうあるべき」という信念があるからだ。

こうあるべきという心の底には、そうならないことはいけないことという罪悪感がある。

それがその出来事を変えてしまいたい!という衝動になる。

この世界の行動の動機のほとんどが隠された罪悪感からくる。



その反対の無罪性を知ることは、立ち上がってくる出来事に何の判断も下さなくなる。

罪の意識が隠れていると、無意識にジャッジをするが、

そこに罪の意識がなければ、そのまま受け入れることができる。

だから私はこれまでシナリオ通りという言葉に抵抗していたのだ。


でも罪がないということがだんだんわかってくると、出来事に対して思い煩うことがなくなっていく。ああなって、こうなって、人に迷惑をかけて、とんでもないことになって。。。という最悪のストーリー展開でさえも判断しなくなる。

もうすでに起こっているのであるなら変えようがない。

自分でどうにか何かを変えようとさえ思わなくなる。

そうすると何もする必要がなくなってくる。



非二元で言われる「起こることが起こっているだけ」という言葉も

すでに台本は出来上がっていて、どうにもなりようがないことを知っているのだ。


コースはその「起こることが起こっているだけ」を

「誰と見るか」と問うてくる。


シナリオ通りで自由意志がないとすれば、私たちには何もできないが、たった一つだけできることがある。それは誰と一緒にそれを見るかだ。

その判断だけが私たちに備わっている。


自我とともにそれを見るか。

聖霊とともにそれを見るか。


自我とともに見れば、起こる出来事にジャッジし、うろたえ、混乱の中で全ての出来事はシナリオ通りに起こっていく。


しかし聖霊とともに見るとは、起こる出来事を自我とは真反対の見方で、静けさと平安とともに見る。無罪性の中で見られるその視点はジャッジなどしない。むしろその出来事を、これまで持っていた信念を手放し自由へと解放するチャンスとみなす。赦しによって自我のシナリオを溶解させていく。



私は一度、自我とともに生きた私の人生がどんな最後になるのかを見た瞬間があった。それは惨めな終わり方だった。自我とともに生きるとどのみちこうなる。自我とは破壊への道。


私はそれを見たとき、これ以降聖霊とともにしか生きたくはないと決めた。

たとえすぐに自我的になろうとも、すぐ訂正できるように。


自我の肉眼でしか見れなかったこの世界が、

聖霊の心眼と完全に重なって真実の世界が観れるまで。







2021年12月1日水曜日

愉快を選ぶその2

 


昨日のつづき


愉快を選ぶというのは、単に楽しいことを選ぶということでもない。


なんというか。。。心が恐れのない状態になっているというのだろうか。

真っ白で、よどみがなく、全てがクリアに見えている。。そんな感じ。



先日、国から支援金をたくさんもらった人の話を聞いた。

いいなあ。そんなにもらえて。

聞いた時はその程度だった。


だけどだんだん愉快になってきたのだ。

「そっか。私もやってみよう!」


詳しい友人に今どういう支援金があるのか聞いて、私も動き出した。

彼女は個展の準備に忙しい最中、知ってる限りの情報を与えてくれ、ラインで手取り足取り細かく教えてくれ、いろんな手続きを踏んで、彼女のおかげで申請にまでこぎつけた。本当にありがたい。



その申請手続の書類を集めている最中、私の中にあったある信念に気がついた。


「持っているお金が少ないことは、いけないこと」

「持っているお金が少ないことは、恥ずかしいこと」


そういう信念があったから、私は支援金をもらうことは恥ずかしいことだと思っていた。

ましてやそれに申請をするということは、

私は貧しいということを認めることになるのだと恐れていたのだ。


だから今年に入って、NYから仕事と入金がピタッと止まってしまったことに、

心は恐れ戸惑い、それを見ないようにしていた。



だがその信念があると気付いた時、同時にそれを持つ必要はないことにも気がついた。


私はそこに罪を見ていた。罪だと信じていたから、恐れていたのだ。

だがお金がないことは罪ではない。


お金には、ある方が正しくて、ない方が間違っているという、

なんか知らんが漠然とした解釈がくっついている。


「お金がないのは首がないのと同じ」という言葉があるぐらい(笑)。



ある方が正しいのであれば、じゃあどこまであれば「正しい」のか。

人によって違うだろうが、その上限にはキリがない。

あればあるほど良くて、あればあるほどもっと欲しいし、

あればあったで、今度はそれを誰かに奪われないかと恐れ始める。


「お金」という概念がつれてくる恐怖は計り知れない。

これこそ自我の領域そのもの。


その中に取り込まれていた自分に気がついた。

お金が重要であり、お金に自分が価値を置いている限り、この恐怖から逃れることはない。

いつまでもそのループの中で生きることになる。


私はお金を神にしていた。

お金を神にして信仰していたのだ。


それに気づいた時、とても愉快になった。

私は自分がお金に与えていた信念を赦し取り下げ、聖霊に渡した。

おかしくて、嬉しくて、幸せになった。





支援金の申請も、選挙の一票も、愉快で動いた。


行為は同じでも、この動機はこの世のルールの上に乗っかったものではなかった。


この世のルールは常に変化し、価値とされていたものがある日突然無価値にもなる。

常に揺れ動くものを自分の源とするなら、さながら砂上の城を建てるようなもの。

だからいつも心は不安なのだ。


だけど常にあるもの、不変のものを自分の源とするなら、その源は不動。

揺るぎないものになる。


苦悩は常に変化する具象。

苦痛の中を見ればそこには必ず具体的な何かがある。

その具象を飛び越えて、抽象の形のないものに心が触れた時、

それが愉快に思えたのだろうか。


巷のざわざわしたものをポーンと飛び越えたところにある垂直の流れ。


そこは明るくて軽くて愉快。

そんなところに私はいつもいたい。





絵:「健康と生活」表紙イラスト/エストニア





2021年11月30日火曜日

愉快を選ぶ

 


久しぶりに友達から電話があった。

互いの近況報告をしてしばらく話した後、電話を切ろうとしたら、


「待って待って。実は別の用事があって電話したんよ」という。


なんと彼女が選挙の話を熱く語るではないか。

「らしくないねえ~」とからかった。


だけど彼女は真剣そのもの。

「わかった。考えとく」と言って電話を切った。


その後彼女が薦める人の動画を見る。

はつらつと今の政治の悪い部分を変えていこうと、熱く語っていた。


なかなかいい話。

しかしその話の大部分は、この国の政治は今最悪の状態だ。今こそ、この最悪の政治を自分たちの手で変えていこうというものだった。


私は彼の動画を見ているうちにだんだん怖くなってきた。

この国は今大変なことになっている。このまま放っておいたら、この国の国民は悲劇を被る。

それをあなた方は放っておいても良いのですかと。

まるで私が放っておくから、この国は崩壊すると言わんばかりなのだった。


急に一票入れる気が失せた。

これは私の恐れを彼によって解消してもらうようなものではないか。


コースを学んでいる私が、恐れによってその一票を入れるということは自我を選んでいる。

ということはその恐れを実在させることになる。


「やーめたっ!」



その後、投票日が近付くにつれて、私の心に変化が起こった。

なぜか彼の選挙がお祭り騒ぎのように見えてきたのだ。


それまでは彼は私に脅しをかけてきたように見えていた。だが時間が経つにつれ、その部分よりも彼の楽しさの方が見え始めたのだ。彼は喜びの中でこれをやっているように見えてきた。そのわっしょいわっしょい感が、私を楽しくさせていた。


「あ!愉快だ!」

そう思った時、私は彼に投票することに決めた。



その「愉快を選ぶ」という考え方。

今までなかった。


そんな考えが自分にあるとも知らなかった。

行動はいつも「そうせねばならない」で動いていた。

それは義務感。だからだんだんやることが辛くなっていたんだ。


その後、私は愉快を選ぶようになっていった。


つづく。




絵:「健康と生活」表紙イラスト/ノルディックウォーク





2021年11月24日水曜日

罪はなかった

 


夢を見た。


ある問題があり、それを解決しようとしていると、

それを上回るアイディアが聖霊から送られた。

私はその圧倒的なアイディアに喜び、視点が変わり、問題は消えていった。


そして今度はまた別の問題が立ち上がり、

それもまた即座に聖霊から別のアイディアを受け取り、

その圧倒的な視点の違いに感動し、その問題は消えていく。


そしてまた全く別の問題が立ち上がったが、

それもまた聖霊の圧倒的な視点の違いで、

その問題がなかったことになっていく。。。。


その同じパターンを何度も何度も繰り返しながら、

自分の中で限りなく膨らんでいく聖霊のとてつもない愛の中で目を覚ます。

寒い部屋の暖かい布団の中で喜びにあふれた。


寝てられないので起きる。

夢の中の問題はいったい何だったのかさっぱり思い出せない。

そしてそれを解決させた聖霊のアイディアさえも。


だけど全ての問題が聖霊によって次々になかったことになっていく。

こうやって聖霊は私のそばにずっといてくれているんだ!という感謝の思いでいっぱいになっていた。


イメージとしてはこんな感じ。

たくさんのバルーンが、どんどんどんどん膨らんでいく感じ。

私の胸の中で無限に広がっていくその風船の中は、

喜びという空気で満たされていた。





先日「罪はなかったんだ!そんなもの、最初っから、まったくなかったんだ。。。!」

という思いがいきなりやってきた。

何のきっかけもなく、突然。


罪はないという言葉はコースで学んで知っている。

しかしその言葉を知識で知っているのではなく、はっきりと自覚したのだ。

「そんなもの、なかったんだ!」と。


自分に罪はなかったんだと知ることは、すべての重荷をなくすことになった。

ずっと罪を背負って生きてきた私にとって

その開放感はすごいものがあった。

「なかったんだ!罪なんか、まったくなかったんだ!」

私は一人部屋の中で叫んだ。


そのあとの心の大騒ぎといったら。嬉しくて嬉しくてじっとしてられない。

心をどこに置いていいかわからなくなって、誰かに確認したくなる。

だけどそれを確認してどうなる???


これは自分を特別視しようと誘う、自我の動きではないのか?

という思いで行ったり来たりして、ぐちゃぐちゃになった。

そしてそのはち切れんばかりの思いをぐっと押さえ込んだ。

その押さえ込みは相当なもんだったが(笑)。




次の日、罪はないということを知った私に、

自我は猛攻撃を仕掛けてきた。

罪は自我の専売特許だから、それを奪われた日には、自分の存在が消えてしまう。


狭い道路に車が渋滞していた。私は運転しながら、道の脇に知り合いが犬を連れて立っているところを見つける。

軽くクラクションを鳴らしたら、彼女はすぐ私に気がついた。軽くあいさつして通り抜けた時、小さな犬は「ワン!」と吠えた。

そして数秒後、心の中の声はこう言った。

「犬、ひいちゃったんじゃないのか。。?」

その時、犬が「ワン!」って言ったのを思い出した。


「あれは『ワン!』ではなく『ギャン!』て言ったんじゃないか?お前はひいてしまったのだ。。」

ものすごい恐怖が私を襲った。私はとんでもないことをしてしまったんじゃないだろうか。。。

それから家についてもその恐怖はますます増していった。


あれてて彼女にラインをする。だけど既読にならない。

今頃大変なことになってて、ラインを見るどころの騒ぎじゃないかもしれない。。。

自我の声は私を奈落の底に突き落とす。


昨日罪はないとわかったはずだ。だから何も起こってなどいない。

そう言いながら赦し続けた。しかし一向に苦しさは治らない。

過去に、自分の犬が車に轢かれて死んだことも思い出して赦した。

そして幼い頃、うちの犬が産んだたくさんの子犬たちを父と海に流したことまで思い出し、それも赦した。

しかし依然苦しいままだ。


私は単にこの苦しさを、赦しをすることによってなくそうとしているだけじゃないのか?

それは真の赦しではないのではないか?


そう気がついた時、心の中で左上の方に明るい白い雲が見えた。

「これは?」


そして今度は右のほうに、犬が死んだシーンが浮かぶ。

私の心の中に二つの映像があった。

これはまるでシュレーディンガーの猫だ。

一つの箱の中に、生きている猫と死んだ猫がいる。

その両方の可能性がそこにあるのだ。


白い雲は、罪のない世界。形のない抽象の世界。

死んだ犬は、罪のある世界。具象の世界だ。


どちらの可能性もあるのであれば、

私は今ここでそのどちらかを選ぶことができると思った。


この世界が私の投影でできているのであれば、作り上げるのは私。


私は罪のない世界を選ぶ!と断言した。


そのすぐ後だった。

彼女から「大丈夫だよ~」

と明るい返信メールが届いた。



罪はないと確信したからといって、すべてがすぐにひっくり返るわけではない。

それは恩寵のように私に教えてくれたもの。


そのこっちだよと教えてくれる光の方に向かって、

私は日々心の訓練を積んでいく。


やがてまったく罪のない真実の心にもどるために。





絵:「健康と生活」表紙イラスト/カナダのスキー親子




2021年11月21日日曜日

沈黙で答える


 

心の中の声は、絶えず自分を正当化している。


あの人がこう言ったから、私は傷ついた。

あの人がこう言ったのは、私がああ言ったからだ。

だけど、だけど、そもそもあの人がああいう態度だから、私はああ言ったのよ。

私がどれだけあの人に。。。。


考えもしないのにどんどん出てくる言葉。


私はその声に沈黙した。


その声はいくらでも言い続ける。

しかしその声に答えはない。

それは自我の声だからだ。


自我は自分で答えを見つけ出さない。出せない。

なぜならそれが自我の目的だから。


自我はそうやって私たちの心の中にいくらでも忍び込んでくる。

そうやっていつまでもありもしない問題に取り組ませようとする。


私はその声に沈黙した。

沈黙で答える。

沈黙が満ちていく。




自我の声はとても具体的だ。


人がいて、自分がいて、喋った言葉や態度があって、状況があって、物があって、問題があって、、、。

すべてが具象の中で展開する。


しかしそれは偽物だから具体的なのだ。

具体で示すことで、ここに実在すると証明しようとしている。


ほらここにあるでしょ。

ほら、ここに肉体があるでしょ。

ほら目の前にも肉体があるでしょ。

あるでしょ。見えるでしょ。

だ、か、ら、あるのよ!


あるのだと証明したがっているのは、それがないということだ。


具体の中には苦しみしかない。

答えのない世界でぐるぐる回っているだけの苦の連鎖。




それを見届け、どんどん赦していくうちに、しだいに具象ではない抽象を見つけ始める。


肉体という具象の目で見る世界ではない、

肉体ではない何かで知る抽象。


今までは雲の形をなぞっていた。

どんな形の雲か、それをどうすればいいのかと。

しかし今は、雲と雲の間の何もないものを見る。



沈黙の先に見える光。

静けさの中に満ちてくる光。



忘れていた答えはここにあった。





絵:「見上げた空」

2021年11月17日水曜日

喜びと散歩


私もかなりなものだったが、罪悪感や自己嫌悪が強い人は、

形而上学を学び始めると、

自我が、恐れによって攻撃と防御を繰り返している仕組みを知ると、


自分が自我とともに何をしているのかをはっきりと自覚してしまうので、

自分をさらに責めてしまうことになる。


そうなると本末転倒。

自分を裁くことを日常的にやっている人間が、

そうやっている自分をさらに責めることになり、

裁きに裁きが重なって身動きが取れなくなってくる。


そんな時道しるべになるのが、喜びだ。


私たちは喜びは数ある感情の一つだと思っているが、

実はその感情こそが、自我からの脱却を導いてくれる。


喜びはもっと大事にされるべきだ。


誰かが傷つくことによって得られる喜びは論外として、

心に火を灯す何気ない日常での小さな喜びは、大きな喜びの火種になる。


それが一体なんなのかを事細かく教えてくれたハレルヤさんには、本当に感謝している。

罪悪感まみれで苦しんでいたとき、喜びが私たちの本当の姿だということを教えてくれた。



私はよく散歩をする。

木々の間を歩きながら、心がだんだん明るくなってくるのに気がつく。

家の中でぐるぐると考えがまとまらずにいたことが、

歩いているうちに、なんてことないことでくよくよ考えていたんだなと、

別の視点が広がってくる。


木漏れ日など見ているうちに、ますます嬉しくなってしまい、訳もなくその場ではしゃぎたくなってくる。

この頃は家の中でも嬉しさでぴょんぴょん跳ねている。


でも本当はみんなそうなんじゃないだろうか。

嬉しくなったら、子供のようにその場でポンポン跳ねて、

ぐるぐるまわって、

きゃーっ!って叫びたくなっちゃう。


でも「大人しく」という言葉が示すように、

大人とはこうあるべき、こうするべき態度っていうのを教えられて、

その最も大事な、宝石のような感情を押し殺してしまう。



散歩していると、ご近所さんたちや、山から帰ってきた登山者の人たちとよく会う。

すれ違うだけの人も多いが、中には一緒に歩きながら話をすることも。


みんないろんな人生を背負って、この高尾山にやってくる。

そっけない態度をする人もいるけれど、本当は愛を求めている全員素敵な人たちだ。


一人一人が個性的で魅力的。

一瞬すれ違うのも、きっと私と縁のある人たち。


心の中でそっと祝福を送る。時には白い百合の花を贈る。

驚いて喜んでいる姿が目に浮かび、私までほっこりする。



歩けば歩くだけ、喜びが増えていく。


道でぴょんぴょん跳ねているおかしなおばさんがいたら、

喜びを表現している山姥だと思ってください。






絵:「秋山」今は高尾はこんな感じ。