私たちは、自分の中でわき起こった感情を、疑問も持たずに信じる。
イヤ~な気分になった時、それに気がつき、
あ、あいつがあんなことしたからこんなイヤ~な気分になったんだーと、
その気分の理由をすぐに見つけ出す。
私がこんなに苦しいのは、残高が少ないから。
私がこんなに悲しいのは仕事がないから。
ムカつくのは上司がイヤミを言ったから。
なぜならこう言う事情があったからこんな感情に見舞われたと信じる。
夜中にトイレに立って歩いている間、心が未来の不安でいっぱいになる。
真っ暗闇で何にも見えない。
何のきっかけもないはずなのに心が不安材料を思い出す。
私はそこに疑問を持つ。
何で?
この不安の感情はしょっちゅう起こる。
何で?
不安な気持ちがやってくると、
そうだこの不安をどうにか解消しなければ!といって考え始めて来た。
けれど、いっとき成功した気になったことはあっても、
また次の不安がやってきて、
それに関連した事柄がずーっと芋づる式に広がっていって、
嫌な気分はどん底にまで至る。
その繰り返しはもう嫌だ。。。。
そしてある実験を開始する。
罪悪感が襲ってくると、その罪悪感の理由はちゃんとあるけれど、
それとまともに付き合わず、あ、来たなといってほっておいてみた。
どんな感情も瞬時に気づき、
ネガティブなものには取り合わないようにしていった。
そうやって地味な作業をしていると、
わいて来た感情って本当は正しくはなかったことに気づく。
正しくなんかないのだ。
振り込め詐欺みたいなもんだ。
不安をあおっといて、その不安を解消するためにあらゆることをやらせる。
するとこの世は俄然リアルに迫ってくる。
ほれほれ、もっと苦しめ~。もっとなげけ~。もっと心配しろ~。
って、不安な感情を起こさせてくる。
これこそが自我の誘惑だったのだ。
自我は詐欺師だ。
晩御飯時のニュース番組みたいなもんだ。
恐怖のお知らせを立て続けに見せて民衆を恐れさせ、
自分で考える力を失わせ、マインドを一定方向にコントロールするアレだ。
そうすると、もともとどっちが先だったのかと思い始めた。
本当はその気分になりたい自分がいたんじゃないかと。
イヤ~な気分になりたかったから、上司のこう言う行動を見た。
苦しみたいから、残高を見た。
悲しみたいから仕事がないように見た。
何で苦しみたいのか。
苦しみという罰を受けようとしているのだ。
刑罰は何も刑務所に入ることばかりじゃない。
イヤ~な気分になるのも罰の一つだ。
苦労ばかりする人もいる。
それは無意識に自分に罰を与えている。
ではなぜ罰を与え続けるのか。
自分には罪があるという深いところでの信念があるからなのだ。
もともとこの世界に生まれていること自体が刑の中にいると言える。
人生って苦しみばかりじゃないですか。
それ、そういうことなのだ。
だから人生の中で苦労をすることがいいことのように思われている。
それは少しでも罰を受けることで、
死んだ時えんま様に情状酌量の余地を与えられると信じているからだ。
「私ってえ~、こんだけ苦労してきたんだからあ~、えんま様。よろしくねっ!」と。
でもどっちみち同じこと。
針のむしろが、つまようじのむしろに変わるぐらいのこと。
死んでも苦しむ刑なのは同じ。
だからこその、私には罪などないということを思い出すのだ。
苦しむ/罰を受ける必要などないことを思い出すのだ。
ふっと浮かぶイヤな思い、ふっと浮かぶ不安、
ふっと浮かぶ心配、ふっと浮かぶ寂しさ、
ふっと浮かぶ怒り。。。
それを地味に放っておいた。
相手にしないでいた。
だんだんそれが来なくなり始める。
夜中にトイレに起きても心に不安は立ち上らなくなっている。
心が静かになってくる。
そしてその反対に、忘れていたあの感覚が浮かび上がり始める。
心の底にウキウキするものが、あったかい想いが。。。
意味がわからないけれど、喜びで眠れない夜もやってくる。
ありがたさで胸がいっぱいになってくる。
見えているものに重さを感じなくなってくる。
心はこの世界に縛り付けられなくなってくる。
世界が遠くなってくる。。。






