私たちはいつも誰と喋っているのかというと、
ダンナでもなく友達とでもなく、自分の中で聞こえる声としゃべっている。
まさかそんな架空の存在と絶え間なくしゃべっているとも自覚なく、
ひたすらそいつと朝から晩までしゃべり続けている。
「あいつのアレが気に入らないわよねえ」
「ああ、そうそう!あれさえなけりゃあねえ」
「どうにかならないもんかしら」
「いっぺん言ってやんなさいよ。バシッと!」
「そ、そうよ。そうよ。いっぺんバシッと言ってやんないと。」
「ところであの件はどうなった?」
「まだ何も進んでないわよ~」
「ダメじゃないの~」
「そうなのよ~」
「あんたが甘いからなめられてんのよ」
「やっぱりそう?」
「そうに決まってんじゃないの!バカにされてんのよ、あんた!」
「やっぱりそうなの!もう、あのやろう!明日なんか言ってやるわ」
言葉でここまではっきり会話してなくても、
なんとなくそんな空気感の中でずーーーーーーっと
垂れ流し状態の会話がなされている。
心の中の声は、自分の中から聞こえてくるんで、自分の味方みたいに思っている。
でもその内容をよく吟味すると、
会話のほとんどが、イヤーな気分になったり、心配事を持ちかけてくる。
気が滅入る、人生が嫌になる、お先真っ暗、
惨めになる、泣きが入る、挙句に死にたくなる。。。
そして今ぼーっとしてたら大変なことになるから、
何かを変えなければいけないと訴えてくる。
外の何かを、外の誰かを、そして自分の何かを。
常に何かを変えて、コントロールして、楽にならなきゃと。
ところがそう簡単には外を変えられないし、
自分も変えられないし、コントロールもうまくいかない。
今度はそれを責め立てる。あんたの力不足だと。
この声はいったい何。
味方のフリした自分を責め立てる鬼じゃないか。
気分が落ち込むのは、外の環境のせいじゃない。
自分の心の中の声を信じてそうなったということに気づく方がいい。
ダンナを見てイライラする。
そのイライラを疑う。
ぎっくり腰になっちゃった自分を責める。
その責める気持ちを疑う。
責めたとして、それがどうなるもんでもない。
責めることでぎっくり腰が治ればいい。
イライラすることでダンナが変わればいい。
どっちをやっても効かない。
声があおるままにイライラや後悔に心を持っていけばいくほどそれは肥大化する。
実はそれがその声の目的なのだ。
苦しんでくれることがその声のエネルギーになる。
宿り主、つまり私たちが疲労困憊してドツボにハマってくれて、
この世界をますます実在化し、地を這うように生きて死んでいく。
それが声の目的。
声は詐欺師だ。
思考という詐欺師。
感情という詐欺師。
そして五感という装置を生み出して、
この世があるかのように見せる詐欺師。
五感、思考、感情。
これが組み合わさって、この世界に臨場感を与える。
それが延々とグルグルと回っている。
その思考を疑い、
その感情を疑い、
目の前に見えている世界を疑う。。。





