やる人がいない町内会の会計。急遽私にお鉢が回ってきた。
しゃーない。誰もやらんのやからやったるわい。
先日の役員会で町会費を集計。
慣れない手つきでお札を数えていると、
「金を扱ったことのねえ奴の手つきだな」
と、口の悪いオヤジが私の横でぼやく。
罪悪感が頭をもたげる。
「やばい。簿記もやったことのない私が、会計なんてやっていいんだろうか?」
ちゃんとしなきゃ病が湧いてくる。。。
だが次の瞬間、その罪悪感をぽいっと捨てる。
一昨日の京王八王子駅近くの「えきまえテラス」での陶器出店の時。
「明日は一日中雨だけど、明日、午前中だけでもやるか~」
「先生。私はやめときまーす」
先生のやりたそうな空気を読まずに思ったことをはっきり言う。
心の中は常に罪悪感が渦巻いている。
どう思われる?
こんなことやっちゃったら後でバチが当たる?
これ食べちゃったら太る?
これは体に悪い食べ物?
やっても、そしてやらなくても、バチを恐れる。
コースの中にある言葉「罪悪感は罰である」
罪悪感があるから、罰を与えるんではなくて、
罪悪感を持つ、それがすでに自分への罰なのだ。
罪悪感は、持った瞬間に苦痛がそこにある。
それこそが罰だった。
自分がいかに罪悪感で世界を怖がっていることか。
それを知ることは、この世界からの解放への道だ。
そのために自分の心を見る。
そこからしか始まらない。
見えている世界を変えることではない。
見えている世界こそが、自分が信じていることが結果として現れている(見えている)世界だから。
だからその原因を見る。心という原因を。
私たちの行動の一つ一つは、よく見ると罪悪感が動機になっている。
息をするたびに罪悪感が湧いてきている。
この世界は罪悪感でできている。
そしてそれを自分の心を見るために利用する。
冒頭のオヤジの言葉は、私のちゃんとしなきゃ病を意識させてくれた。
オヤジが悪いわけではない。
自分の中にそんな罪悪感があるよと教えるためにその言葉を発してくれたのだ。
なぜ教えてくれたのか。
それはあなたが罪深いからではない。
あなたには罪などないということを思い出すためなのだ。
自分が罪悪感を持っているということを意識しない限り、
「それはない」というところには行けない。
知らないうちに消えてくものではないから。
この自分が持っている罪悪感を一旦自覚し始めると、苦しい時期を過ごすことになる。
自分がどれだけ恐れているかを知り始めるからだ。
しかしそこを通り抜けて、別の道へと歩む。
自分が作ったお化け屋敷を解体していくのだ。
自覚された小さな一つ一つの罪の意識。
それはここに生まれてきた時に既に持っていたもの。
でもそれは本来の私たちのものではない。
それをそっと手放していこう。
もういりませんと、空に渡していこう。
そうして少しづつ薄い罪悪感というベールを剥がしていくうちに、
時々恩寵という名の陽の光がさっと差し込む。
ああ、こっちなんだ。。。と確信が増えていく。
その違いは心の感覚ではっきりとわかる。
ぎゅっと苦しいか、ほ~っと緩んでいくか。その違いを認識する。
私たちは一人ぼっちではない。
私が一つほどけるごとに、この地球のどこかで誰かがほどけていく。
罪か。愛か。
どっちを選ぶ?
すぐ横で、何かが、暖かい思いで、見つめてくれている。





