2024年10月10日木曜日

60過ぎて踊りはじめる

 

天狗舞

約2年ぐらい前に、急に走った時、左ひざがグキッとなった。

それから半年後に道の僅かな段差にバランスを崩し、

おもいっくそ全身で地面に体当たり。

それで左足首を捻挫。

その後、何気ないことでこけそーになったり、滑りそーになったり。


どんどん歩けなくなっていった母のことを思い出し、

老後はこーなってしまうのか。。。と焦ること山の如し。

ヤバイ。。。これヤバイ案件や。




「もーちょっと早く来た方がよかったですねえ~。。。」

足首捻挫を自力で治そうとしたが、

どーにも収まらず1ヶ月経って整骨院に行くとせんせーに言われた。


それから長いこと整骨院に通うも、あまり治った感じがしない。

「遅すぎたかー。。」とかいってる場合ではない。

なんとかしなければ!と近くのスポーツクラブでプールに行き始めた。


NYにいるとき、アパートの一階にスポーツジムがあって、そこのプールでよく泳いでいた。

「おお~20年ぶりじゃん。泳げるかな~?」

とプールに入ったが、

「ち、ち、ちっとも泳げない!!!」

1キロくらい軽く遠泳できてたこの私が!!!

いくら太ったからって、泳げるだろうとタカをくくっていたが、

全く泳げなくなっている自分にあぜんとする。

ロッカーでひとり打ちひしがれた。



それからとりあえず泳げるようになったが、昔のようには行かず、

そのうち25メートルを行ったり来たりするのに飽きてきた。

なんでこの狭いところを、何が面白くて行ったり来たりしているのだ?と。


ふとプールのガラス越しに見えるダンス教室。。。


「踊ってみよ~っかな?」

と、魔のささやきが。。。


こう見えて(どう見えてだ?)私は、

30年ぐらい前にフラメンコなるものを習っていたことがあった。

しかしどうあがいても下手くそなのであった。

だが泳ぐに飽きた私は踊るに変更した。




まだ左足の足首が完治していないにも関わらず、無謀にもヒップホップに挑戦。

そのクラブは多彩なジャンルがある。

最初メガダンスやジャズダンスをやってみたが、途中で嫌になってしまう。

どうも私はその音楽自体に惹かれるようで、

「ヒップホップ、カッコええじゃん!」と。

ところがヒップホップは、足首をクネクネさせるではないか!

左足でジャンプするではないか!

左足でくるっと回るではないか!

ってか、そもそも踊りなるものは足首を柔軟に動かさなければならないのだ。それさえ知らない私。。。


で案の定、はじめて間もなく再び左足首を「グキッ!」

それから1ヶ月半クラスに行かなかった。

久しぶりに参加したクラスで、先生は「あれっ、やめたんじゃなかったんだ」と。

やめませんよ~~~~~だ。


確か5月の高尾駒木野庭園での展覧会直前の出来事。

展覧会中は密かにビッコ引いていたと思う。


あれから5ヶ月。まだヒップホップは続行中。

やっぱりダンスは下手だと確信した(笑)。

つい先日も踊っている最中に軽く捻挫。今もちょっと痛い。

しかし体の変化には気がついている。

普通に歩けるようになっている(どんだけレベル低いねん)。



人はこういう風に衰えていくのかという経験をさせてもらっている。

年配の方々はいつもこんな心配の中で生きているのだろうな。

なんと心細いことであろうか。


私がいくクラスは平日の午前中が多い。生徒さんの平均年齢は私より上。

70代後半から80代の人まで来ている。

みんな元気にホップステップジャンプしている。


「先日、道路でこけたんよ~。スマホも飛んじゃったわ」

とケタケタ笑う。


見た所70代の彼女は、膝をちょっとすりむいてちょっと両ひざ腫れただけという。

普通はそれで骨折するレベル。

彼女の知り合いも同じようにコケて手首を骨折。手術したのだという。


「筋肉は裏切らない」って最近流行りの言葉らしいね。

まさに日々ダンスで彼女も筋肉をつけているのだろう。


最近マシーンも始めた。

さぞかし痩せただろうと思うでしょ?ちっとも痩せてない(笑)。


でもなんだか楽しい。


平日のスポーツクラブは老人天国。

みんなマシーンで、ダンスで、お風呂で出会う。

世間話を小耳にはさむ。

ゆったり湯船につかって、目を閉じて、彼らの笑い声を聞く。


幸せだなあ~って思う。









和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです









2024年10月4日金曜日

ひょっとしたら、何の影響ももたらさない?

ミステリー表紙イラスト

 

内側に起こってくる感情。


最初は自分が今どんな感情になっているか気づきもしない。

気づかないまま、感情に翻弄されて衝動のまま動く。

自分が怒っていることさえも気づかない。


やがて自分が今どんな感情になっているのか気づき始める。

怒ったり、不安がったりして恐れの中にいることに気がつき始める。


ほどなくして、恐れを解消するために行動しているのだと気づく。

怒ることも恐れがゆえに怒るのだとわかり始める。


行為することのほとんどが、恐れからくる衝動なのだと知る。

そして自分が日常の中で、ほとんど恐れの中にいることにあぜんとする。


恐れから突き動かされていることに気づくと、恐れを止めようとする。


しかし何をやっても恐れはとまらない。

恐れを止めようとすればするほど、ますます恐れは膨らんでいく。。。。




苦しみの中でどうしようもなくなった時、

コースの言葉を思い出す。

そうだ、この思いは自我だ。これは私ではない。


自我が私にこの思いを吹き込んでいるのだと気がつくと、

少し楽になる。

ああ、この思いは私ではないのだと。


今度は、恐れの思いが出てきた時、

これは自我だ。私ではないと思い出し、それを退けようとする。

ところが一向に消えない。


あの手この手を使って、一晩中恐れと格闘する羽目になる。


そしてほとほと疲れると、

「もういいや。。。こいつと一緒にいよう。。」

と、あきらめる。

恐れの中で恐れと共にいるうちに朝を迎える。


これは絵本「夜の嫌いなヒルディリド」に出てくる

夜を嫌いまくるヒルディリドばあさん、そのものだ(笑)




そうやって恐れと格闘すること、数しれず。


ある時、恐れと共にいると、

知らない間に寝てしまっている自分に気がついた。


あれ?


それからは恐れが出てきたら、恐れと共にいるようにしている。

私の中にあったものが、今出てきてくれているんだなあ~と、

出てきた感情を真正面から見て、受け止めるんだ。

じーっとその中で一緒にいる。


それは通り過ぎることでもなく、

ただ湧いてきただけだと知らん顔するのでもない。


「ヤダ~出てきた。聖霊さん持って行ってえ~」と、

嫌なものを扱うように拒絶することもない。


また、自我/恐れを選んだ自分がいることを受け止める。

そんな自分さえも否定しない。


これはどんな自分も赦すってことなのかな。



じーっとそれと共にいると、

胸の奥がチリチリと何かが引っかかるように感じていた感覚が、

だんだん消えて曖昧なものになっていく。


しばらくすると

「あれ?なんだったっけ?」

とさっきまでの恐れが何だったか忘れている。


その間、何もしていない。

何かに対処するためにやることは一つもない。




形に怯えていたはずなのに、形が変わりもしないのに、

心が静けさを取り戻す。


その時、目に見えているものは、

実は私に何の影響ももたらさないものなんじゃないかと思い始める。


ただ自分がそう思い込んだだけなのだと。。。







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2024年9月26日木曜日

何も変えなくていい

「オトコエシ」/和紙、水彩

 


「君は変わらなくていいんだよ。

そのまんまでいいんだよ。

自分を否定することはないんだ」

ダンナがうちに遊びにきた友人にそう言った。


その時私の心に、今いる3人がまったくそのまんまを肯定されているイメージが見えた。


「そうだ!

私らこの3人、何一つ変わらなくていいんだ!

そうだ!そうだ!私も変わらなくていい!

何も変わらなくていいんだ。

何も変えなくていいんだ!やったあ!」


私は喜びで飛び跳ねそうになった。




人は何かをしようとする時、何かを変えようとしている。

行動のモチベーションはほとんど恐れからくる。

「~をしなければ」「こうであらねばならないからこれをする」

心の前提に、こうあるべき姿があって、その姿に今私はなっていない。

だからこそ、その姿になるために行動する。

それ自体が、今この時の自分への否定だ。


私は変わらなければいけない。

私を変えなければいけない。


私たちはその思いが意識にも登らせないほどに、

息するようにびっちりこびりついていて、

それが焦燥感となって、つき動かされている。


人に対しても持っている。

あの人は変わらなければいけない。

なんとかして変えなければいけない。



それが逆方向に変わった。


あの人は、変わらなくていいんだ。

あのままでいいんだ!

誰も変えなくていい!


そう思った時、心が自由になった。


あの人も、この人も、その人のまんまでいい。

その人のまんま。。。


イメージする。

その人のまんま。。。


するとなぜかホッとする。

その人への愛しさが湧き上がってくる。

ホッと安堵するような不思議な想い。。。


きっとそれは自分への想いなのだ。

自分が自分のままでいいと、自分を受け取っているんだな。


何もする必要がないい。

どうにかして自分を変える必要もない。


ああ、なんだ。何もすることはなかったんだ。。


なんの努力もいらない。

作戦を練らなくていい。

計画立てなくてもいい。

今そのまんまの自分で、なんかやりたくなったらやればいい。

なんも思いつかなかったら、そのまんまぼーっとしてればいい。


人が誰かの悪口を言っていても、

それを止めることもしなくていい。

言うには言うだけのその人のこれまで生きてきたことからの理由があるのだ。


それを止める人もそのままでいい。

それを止めなければいけないと思うその人のこれまで生きてきた理由があるのだ。



そう思えるようになってきたのも、

自分の中から罪悪感が徐々に消えてきたからだろう。


人のネガティブな行為を見て、それを嫌だなと思ってきたけど、

それは自分の中で自分を否定的に見てきたからそう反応してたのだと知る。

自分への否定が少しづつ減ってくると、人への否定も減ってくる。


なんで?だってひとつの心だから。


だからダンナが言った言葉は、私に向けて言ってくれた言葉だったんだ。




何も変えなくていい。

変える必要もない。

あなたは、あなたそのもので、すでに素晴らしいのだ。













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