コースの言葉は抽象的だ。
その言葉をそのままオウムのように繰り返していてもあまり意味がない。
それを全て日常の中に自分ごととして取り込んでこそ意味がある。
「あなたが恐れを作った。
だからあなたが恐れを自分で取り除くことはできない。
なぜなら自分で作ったものをあなたは信じるからだ。」
このちんぷんかんぷんな言葉が、
本当に自分で恐れを作っていること、
そしてだからこそ自分でそれをコントロールしたり取り除くことはできない
と言うことを日常の中で具体的に気づいていく。
私は現象に恐れを抱く。
ある夜、ー10度という天気予報を見て、水道水が破裂するんではないかと心配する。
うちの給湯器を直してくれた業者さんに電話をしたら、
水道水をぽとぽとと出しっぱなしにしとけばいいと聞く。
安心するが、今度はポタポタという音で寝られない。
音にも恐れを抱く私。
本当にちっぽけな心配事だが、
恐れに大きいも小さいもない。
それは必ず大きな恐怖につながっている。
そしてその恐れを自分で取り除くことはできない。
恐れで行為したものは、いっときは楽になるが、また別の恐れを生み出す。
こうして恐れが順繰りに回っているだけで、
その根本の恐れの原因にはたどり着けないようになっている。
現象を現象で消しても、同じ水平線上での行為だから消えることはない。
私が信じた世界だから。
こんな風にコースの抽象的な言葉は、具体性を帯びて私に説得力を与える。
だからこその聖霊力。
私はあらゆる恐れの中で震えている。
これはどういうことか、
どう見ればいいのかと問い続けた。
恐れは何のために作られているのか。
私自身を苦しめるためだ。
私たちは自分自身に罰を与えるためにこの世に生まれてきている。
いや罰を与えるためにこの世を作った。
この世界自体が牢獄。
だからこそその恐れ/罰に気がつき、
それが実は存在していないことを教わる。
明け方小さな言葉がすっと入ってきた。
「信頼しなさい」
その言葉を聞いた時、心がポッと広がった。
信頼。。。。
そうだった。
私は信頼することを忘れていた。
この世界を信頼せず、私を信頼せず、現象を信頼せず、
この不快なものをどうにかしなければと思い続けていた。
自分でやらなければ、自分で解決しなければ、自分で、自分で。。。。
考えたら、自分自身を信頼していないのに、
自分でどうにかできると信じていたのだ。
それは信頼できない業者さんに心配事を頼むようなものだ。
心もとないに決まっている。
これが自分が作った恐れを信じてやまないこと。
矛盾する中をぐるぐる。
この世界に生まれてきた意味は、
私の中にある闇をどんどん光の元に渡していくことだ。
自分がやっていることの矛盾に気がつけば気がつくほど
それが明るみに照らされる。
隠しておきたいものに触れた時、
それは渡す準備が整っているからこそ触れる。
それを勇気を出して差し出す。
私は怖がっている
ということをまともに見て、それを認識し、
それはもう要らないと宣言する。
信頼がそこについていてくれるからこそそれができる。
信頼は意志力がいる。
ほおって置いたらすぐに恐れを信じる。
自分は小さい、弱い、無力だ。
その無力の中でどうにかしようとする。
信頼するとは、自分の人生を信頼することだ。
何が起こっても、それはあなたの闇を溶かすために起こる。
水道管の破裂の心配も、ポタポタ音への恐怖も、
私の闇を溶かすために起こる。
愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去るために。
悪夢から目をさますために。







