2021年4月16日金曜日

朝の恩寵

 


夢を見ていた。


高知の帯屋町を歩く私。なぜかとてもお洒落で颯爽としていた。

なんとなく店に入り、洋服やカバンを見る。店員さんに勧められながら、心はどこか遠くを見つめていた。

ここにいながら、ここにいない私を感じていた。

夜の9時半。施設の母にお休みなさいの電話をするのを忘れていた。電話するって言ってあったのに。

どうしよう?もう寝てるかな?

そう迷ったが、心は母の愛を感じていた。

ああ、電話しなくても大丈夫。母は私を今この時も愛してくれている。


まどろみから覚めていた。


母から子への愛の想い、そして子が母に対する愛の想い、相思相愛。

それは即神の想い。


神の私への愛の想いは、一体どれほどのものなのだろう。

私の神への愛の想いは、神からのものから比べればアリンコの涙。ほんのちょっとだけ。


だけどこれこそが真実なのだとはっきりと感じた。

これだけがある。この想いだけが実在しているのだ!


そこから見えるこの世界は、蜃気楼のようなものだった。どんな出来事も瑣末なことに見えた。

あらゆる現象の意味が洞察によって紐解けていった。





そんな洞察の後に、出来事は起こった。

その「蜃気楼のような瑣末なこと」は目の前にドカンとやってきた。

その衝撃に、朝の気づきなど一瞬でどこかに吹っ飛んだ。


思えばその洞察は聖霊からの恩寵。そして出来事は、それを使って自分のものにするための実践として渡されたものだ。理論で知っていてもそれを使えないと理論は頭でっかちな空論でしかない。


蜃気楼だと感じたものは、今はありありとリアルになった。

それに対する判断という苦しみは、私と人を分離させ、この世界を存在させた。


苦しみは、どちらかが悪いという罪のなすりつけあい。相手に罪があれば、自分が無罪でいられる。しかし自分が罪となれば苦しい。だからそれをどうにかして相手に渡そうとする。

それがこの世界を維持させている原動力だ。


罪がある限り、分離が起こる。分離がこの世界を作る。恐れ、罪、分離は同じもの。

それは本当は概念でしかなく存在しないが、私たちは解離によってそれを忘れている。



人を押さえつけるとき、実は自分をも押さえつけている。

押さえつけなければいけない何かがあると信じているから。

つまり私は自分を押さえつけなければいけない存在だと信じているから、人を押さえつける。


全ては全く連動している。

人に罪を見るとき、自分に罪があると信じる。人と自分は同じだからだ。

しかし同時に、人を解放するとき、自分も解放される。



人は信念で動く。

その信念がもう必要なくなったとき、出来事が起こる。

すったもんだの挙句、自分の中に隠れていた信念を発見する。その信念がずっと自分を苦しめていたことに気づく。


世界をリアルにさせていたのは苦しみ。その苦しみから逃げるためにこの世界をますますリアルにする。こうやって延々と続くのが輪廻。もう、うんざり。



意志を持つ。

あの日の朝、感じさせてもらった実在するものを心に、

自分の思い込みからこの世界を解き放っていきたいと思う。


そして神への愛をどんどん思い出してきたいよお〜。



2021年4月2日金曜日

時代のムードとドラマのムード

 



「俺の家の話」というドラマを見た。


最終回で、こー来たかー!とちょっとびっくり。

ネタバレなのですいません。


まさか主人公がいきなり死んじゃうなんて。

でもよくよく見てたら、重要な役割を果たして逝った気がしてくる。

最終的に家を全て丸く収め、

「俺より家のことが大事」という無我の人だった。


そしてもう一つ。

死ぬっていっても死なないんじゃないか?と思わせてくれた。


死んだ後にしょっちゅう出てくる主人公。

それは認知症の親父がそう見ているとも言えるし、

認知症のように見えて、本当は真実を見ているとも言える、なかなか巧妙な演出。





配信で昔のドラマを見ると、時代背景が見えてくる。

今は絶対やらないだろうなあ~という演出が続々w。


ドラマはその時代のムードや価値観を変えてきた。

その一つは「おっさんずラブ」にも現れてる。BLもいいんじゃね?て気分にさせてくれる。


その実、漫画に没頭し、萩尾望都さんや竹宮惠子さんの作品に触発され、中学生時代から高知のど田舎の本屋さんで薔薇族、さぶ、アドンなどを密かに買ってきて、知らない大人の世界にどきどきしていた。

そんな文化が明るく公になっていくのを見るのはなんとも心地よい。

「もう、みんなひっくるめてぜーんぶ人類愛だあ~!」

と叫びたくなってくる。



そんな時代に「人は死んでも死なないんかもしれない。。?」

というドラマの演出は「お。ついにきたか」と思わせてくれた。


私自身、父が亡くなってもちっとも死んだ気がしない。

過去に亡くなった友達を思い出すけど、やっぱり死んだ気がしない。


先日もご近所で亡くなった方のお顔を拝見させてもらったが、

ちっとも「あ、死んでる」と思えなかった。


とはいえ、かーちゃんが死んだら、きっと私は大騒ぎして大泣きして暴れるだろう。

それでも時間がたつとケロッとして

「かーちゃんはやっぱり死んでない」

と、いけしゃあしゃあというに違いない。



人類は死なないためにいろんなことをやってきた。

確かに死を迎えると肉体は消える。

だけど心は死んでないのかもと思い始めたら、

すべての行動のモチベーションになっている「死ぬことは恐ろしいこと」という観念が、ぽろぽろと落ち始めるのかもしれない。



時代の価値観は時代とともに変わってくる。


その変化が、「ねばならない」という否定に進むのではなく、

「それもいいのかもしれない」

という肯定の方に変化していったなら、

心はぎゅっと縮まるんじゃなくて、ぱあ~っと無限に広がっていくだろう。







絵:三点ともBLミステリーの表紙

2021年3月30日火曜日

一緒に笑い、一緒に喜んでいる

 


ご近所にお孫さんが遊びに来ていた。


ドタドタと部屋の中をいったり来たりする音と、

キャーキャーという笑い声がお風呂場まで聞こえる。


湯船に浸かりながら、いつまでやるんだろうという嫌な気分になった。

滅多にこないお孫さんなんだから、そんなふうに思ってはいけないと思いながらも、

心はイライラしていた。


不快な気分になるときは、いつも学びのチャンス。

この状況は何を私に教えてくれようとしているのだ?



お風呂の灯りを頼りに、目をつぶって光の中に入る。

光の中で音を聞く。


楽しそうだなあ。私も小さいときあんな風にはしゃぎたかったなあ~。。

家ではしゃぐと怒られた。でもおばあちゃんの家では、やりたい放題やらせてもらってた。

幼い自分が楽しくはしゃぐ姿を思い出した。


子供がはしゃぐことは悪いことなのか?

楽しんでいることのどこが悪いのだろう?


答え。人に迷惑をかけるから。


これは大人の視点だ。

家でじっとしていなくてはいけなかったのは、大人の視点でいることを教えられてきたからだ。


はしゃぐことは楽しいことなのに、いけないことになった。

おばあちゃんの家では、それはいけないことじゃなかった。


そんなことを考えているうちに、私の心はそのお孫さんと一緒にはしゃいでいた。

楽しかったなあ、キャーキャー言って、走って、はしゃいで。ああ楽しかったなあ~。。。


いつの間にか、音はやんでいた。




はしゃぐことを、悪いこととしてみていたとき、私は彼らと分離していた。

しかし彼らの楽しさと一体となったとき、私は彼らを自然に赦していた。



赦しは、起こっている現象を消そうとすることではないのに、無意識に消すための道具にしていた。

これは赦しの中でよくある陥りがちなことだ。


被害者と加害者に分けて赦そうとする、それ自体に無理があったのだ。



この気づきで思い出したことがある。

先日旦那のオナラの臭さに辟易したときのことだ。


自分のオナラは可愛いと思うのに、人のオナラは気に入らない。

同じものを食べているから、匂いはほとんど同じはずだ。

なのにこのものすごい嫌悪感はいったいどうしてなんだ!絶対許せない!と悶々としていた。


そうだ、分離だ。


人から出るものと、自分から出るもの、という風に分けている。


でも子供達だったらどうだろう。

「きゃー、くっさーい!」と言って、きゃあきゃあ笑うだけだろう。


自分ではない、誰かさんがしたから、イヤーな気分になるだろうか。

ただただ笑い転げるだけじゃないだろうか。

自分のも人のも一緒くただ。



これは自分のもの、それは他人のもの、と分けた瞬間、苦しみが生まれる。

はしゃぐ人と、はしゃがない人に分けた瞬間、苦しみが生まれる。

オナラをした人と、オナラをしていない人に分けた瞬間、苦しみが生まれる。



でももっともっと深く心を探っていけば、

私たちは一緒に笑い、一緒に喜んでいる。




分離は、それぞれの存在感を生む。

しかしそれぞれが孤立し、欠けている感じがいつも伴う。


一体感は、実在感。

個別の意識が消え一つになった満ちてくる大きな喜びがある。


実はそれだけが本当にある、実在するもの。


さっきまでの苦悩が、跡形もなく消えているこの体験は、

実在するものがなんなのかを理屈なく教えてくれる。


もう分離を選びたくない。

そう思わせてくれる体験。


近所の可愛い天使たちに、そっと感謝した。



絵:もくれん



2021年3月26日金曜日

起こることは、起こっているだけなのか。

 



「起こることが起こっている」


この言葉は、目の前で起こっていることに翻弄される私たちの心を鎮めてくれる。


ただ起こることが起こっているだけなのだから、

それをそのままに、流れ行くままに見ているだけで良い。

そう思わせてくれる。


出来事が起こり、それに動揺するのもまた起こり。

その心の焦りが、次の行動に移させるのもまた起こり。

だからそのまま、起こるままにさせておくが良い。

それが静観することであり、心の平安をもたらす。


「起こっているけど、起こってない」


これもまた心を安心させてくれる。

目の前に起こっているかのように見える世界は、

一見起こっているかのように見えるけれども、

実は何一つ起こってはいない。なぜならこの世は幻だから。


起こっているけど、起こってないのだから、ただ起こるままにさせておく。

心が動揺するままに、心配するままに、恐れを抱くままにさせておくことが、一番の平安。


観察者の意識でそれを眺める視点で、

ただそれを川の流れを眺めるようにただ眺めるだけで心は平安の場所に居られる。



私もこの言葉を聞いたときは、ホッとした。

そうか。もういいんだ。ただ起こることが起こっているだけなのだから、何もやりようがない。

それにこの出来事は、起こることが起こっているのだから、私の責任ではない。

だから起こったことに責任は取らなくていいんだ。

淡々とその時起こったことに対処していけばいいんだと安心した。





でもだんだん苦しくなってきた。

けどこの苦しさも起こってるだけなのよね。。。とは思えなくなってきた。

そのうち、どうしてこんな出来事が起こるんだろう?と思い始めた。

どうしてこんなふうに反応するんだろう?と思い始めた。

いやいや。それも全て起こり。。。と、収めることができなくなってきた。



そんな時、コースの「あなたがそれを作った」という考えに出くわした。

「げ!マジ?」と思ったが、心のどこかで、「やっぱり。。。」と感じた。


起こることは、ただ起こっているのだから、という受動的な考えから、

起こることは、あなたがそれを起こし、

あなたがあなたに何かを教えようとしているという能動的な考え。



コースの中に出てくる画期的な考えは、聖霊の視点というもの。

聖霊といっても羽の生えたキャラではない。目に見えるようなものでもなければ、一個の独立した存在でもない。考えとでも言おうか、それは正しい心。


私たちはずっと自我の視点でものを考えてきた。自我の視点とは、恐れ、罪、罪悪感。そこから全てのものを解釈していたのだ。


一方、聖霊の視点とは、自我とは真逆の考え。

言葉は所詮自我で作られたものだから、その言葉で表すことはできないが、

あえていうなら、愛、平安、喜びからの視点。


「は?それ、ふつーじゃん。つまんねえ~」

と私は最初思った。


コースは愛を教えてはいない。それは教えるような次元のものではないから。

愛を知るのは、自我で覆われた考えが消えていくうちに、自ら立ち現れてくるものだからだ。

だから教える最初の方は、自我が何をやっているのか、だ。


「あなたがそれを作った」というなら、起こることが起こっているのは、あなたがそれを作ったからだということになる。つまり起こる出来事の責任はあなたにあると言ってのけられる。

ゲゲゲ。まずいど。


この聖霊の視点とは、これまで私が考えてきた視点とはまったく違うところからのアプローチを試みる。自我の考えしか知らない私に、別の視点があるよと教え始めるのだ。それは例えていうなら、二次元のフラットランドに住む人々に、三次元の視点を持った存在から、その視点を教わるようなもんだ。

これは観察する意識ではない。まったく違う視点。


自我が何を私たちにしているのかを知れば知るほど、イヤになってくる。

一体私は今まで何をやっていたんだ。どれだけ自我に翻弄されていたんだ!と驚く。

反面、自我のヤロウ、頭いーなーと、尊敬してしまいそうになる(笑)。



いったん形而上学的に学んだ後は、頭で学ぶというよりも習慣にしていく。

私たちが生まれてきてまもなく学んできた自我の考えを身につけていったように、

今度は聖霊の考えを身につけていくことになる。


最初はなんじゃそりゃ?って感じだけど、何かが徐々に私の知らないところで動き始める。

そしてだんだん自我の視点では決してえられなかったダイナミックな喜びが訪れ始める。


最初は「喜び?愛?平安?は?、それフツーじゃん。つまんねえ~」といってたものが、

それは自我の視点からのものだったことに気づかされる。



起こる出来事に対して、自我は、

「ほーらこの世界は残酷で無慈悲だろう~?

でもウンと努力すれば、たまにはちょっぴり幸せをやるよ」

というふうに、アメとムチでこの世界にいつまでもいさせるために使う。


一方聖霊は、

「この残酷で悲しい世界は本当にありますか?」

と、この世界がないということに気づいていくために使う。


そして私は、

「これをしでかしたのは自分、だからこれを自分は取り消したい」

と理解していくのである。



つまり起こることとは、この世界は一体どんなものなのかに気づき、

そこから目を覚ますために、起こされているのだ。





2021年3月24日水曜日

もともとないですから。

 




怒りは、人に何かをされたから怒るのではない。

自分の中の何かが触発されたから怒るのだ。


心が傷つくという。しかし心は物理的なものではない。

だから心は傷つきようがないのである。

しかし私たちは体だと思っている。体は傷つく。だから心も傷つくと信じているのだ。


もし自分が体だとは信じていなかったなら、心は傷つかない。

だからイエスは体を痛められても傷つかなかった。

なぜなら「私は体ではない」とはっきりと信じていたからだ。


私が体だと信じることは、罪悪感から来ている。

私の中に強烈な罪悪感があるから、その罪の意識から逃れるために、私はこの体に入った。

そしてこの体の中で、自分の無罪性を訴えているのだ。


罪は他人にあり、自分にはない。

そう言い続けている。


ということは、罪は自分にあると言い続けているということ。

自分に罪があると信じて疑わないから、その罪を他人になすりつけ続けるのだ。


だから人に攻撃されたと思う時、自分の中がうずく。

自分の中に、ないこととして隠しておきたい罪が浮上してくるから。


だから言い返す。「私は罪ではない!」と。

しかし相手は「私が怒っているのは、あなたが罪を持っているからだ!」という。


どちらも罪を感じている。

どちらも罪を感じてそこから逃れようと、その罪を自分以外のものになすりつけようとしている。

だから怒りは収まらない。


怒るきっかけはなんでもいい。箸が転がっただけで怒るのだ。

笑う場合もあるが。


この世界のものなら、なんでも使う。人は怒りたいのだ。

自分の中にある罪が苦しくてしょうがないから。


ほんというと、自分に怒りたい。なんでこんな苦しさを持っているのだ!と。

自分を消してしまいたいぐらい苦しい。だったら自ら消すという手もあるが、それは痛いからできない。

だからこの苦しさを人になすりつける。

「あんたが罪だから、私を怒らせた!」と。

その時だけは、自分が無罪だと主張できる(ほんとは気のせいやけど)。


鬼のような他人にいたぶられる、かわいそうな私。

罪は他人にあり、私は純粋な可愛い無垢な私で居られる。


ところがその鬼だって言い返してくる。だって鬼の方も自分の中の罪悪感が揺さぶられるからだ。その苦しさに耐えかねて、防衛という攻撃に入る。

「何よ!あんただって!」


二人の間に罪というう○こを持って、


「これはあんたのだ!」

「いや、あんたのやつだ!」

と、互いに突き返し続けている。




さて。そんな二人の間に、見知らぬ存在が入ってきた。


「まあまあ、お二人さん。そのう○こ、もともとないですから」


「へっ?」

「いや。あるじゃん!ここにこうして手に持ってるもん!」「そうだそうだ!」


「あると思ってるだけですよ」

「あると思ってる!?そんなバカな話はない!あるからあるじゃないか!」「そうだそうだ!」


「じゃあ、ないと思ってみたらどうですかね」

「は?」

「そこにう○こはなかったらどうなりますかね」


「う○こが、、なかったら?ないわけないじゃん。この人は私にあんなう○こをして、こんなう○こををして。。。!」


「だからそのう○こがなかったら」


「う。。。なかったら、、、。そうやね、そんなもんなかったら清々するね。。。

っていやいや、その手にゃ乗らん!」


「楽でしょ?」

「うん。まあ、それがなかったら、らくっちゃあ、楽かも。。。」


「そのう○こ、持ってるから、渡しっこしてるんでしょ?」

「そりゃ、それはいらんからね」


「それを渡せたら、楽?」

「そりゃあ、渡せた時は楽だ」「そうだそうだ」


「でもそれ、相手に渡したら、相手が苦しむでしょ?」

「うん。まあ、そりゃあそうだわな」


「でも相手はそれを持ったら苦しいから、それをまたあなたに渡し返すでしょ?」

「うん。。。まあ、そういうことになるかな。じゃあ、この人じゃなくて他の人に渡して、と。。」


「そうするとまたその人が苦しくなって、あなたに渡し返されない?」

「え~。。。そういうことか。。」


「あ。捨てたらいいじゃん!捨てたら、もう押し付け合わなくて済む」

「お。いい考えですね!捨てましょう!」

「そうだそうだ。もうこんなのいらない。捨てちゃえ!」


と、二人はう○こを捨てようとした。ところが手から離れない。

「これ、捨てられないよ。手から離れない。どうして?」


そのう○こを相手に渡してみる。すると相手に渡った。

渡された相手は自分で持つのが嫌だから、また相手に渡す。また渡しっこになった。


「あれえ。なんでだろう。。」

「それはあなたがそれがあると信じてるからです。あると信じているものは消せないのです」


「そのう○こを存在させたいのは、あなたが人と違うと思いたいからなのです。それは人と人とを分けるもの。汚いから自分で持ちたくない。自分がきれいでいたいから相手に渡すのです。つまりそのう○こは人と人とを分けさせるためにあるのです。

人と人と距離を置きたいから、それを存在させて、分離させるのです。」


「そのう○こを渡し続けて、いつまでも離れていたいですか?」


互いが顔を見合わせる。

「いや~~~~。そんなことはもうしたくないなあ。。」「だよねえ。。。」


「あると思いたいですか?」

「いや~。。。あるとは思いたくないねえ。」「そうだねえ。。。」

顔を見合わせた。


「いらないですか?」


「はい!いらないです!」

二人同時に言った。


その存在はにっこり笑った。

「では」

といって、う○こを手に取った瞬間、う○こもその存在も一瞬のうちに消えた。


「何?今何が起こった?」

「わっかんなーい!」



「。。。お腹すいたねえ。。」

「そうだねえ。。。今日はカレーだよ」

「わーい。やったあ!」


さっきまでのう○こ談義をすっかり忘れている二人であった。



私たちに罪という思いが入り込んだ瞬間、この世界を作った。だからこの世界は罪でできている。

けれどもその罪は思い込んだだけである。ということはこの世界も思い込んだだけである。


罪という架空のものを人に押し付けあっている間は、私たちは互いに違うものとして分離して見える。

しかしその罪というものがないと徐々に知るうちに、私たちの間にあった底なしの深い谷は、だんだん浅くなってくる。

そして人に押し付けていた罪は、実は自分のことをそう思っていたのだと知る。


怒りは、自分に罪があると信じていることを思い出させてくれる。

そしてそれを手放したいかと聞いてくるのだ。



「それはもともとないのです。

あると思っているから、あるかのごとく見えるのです。


手放したいですか?

そう思ったら、私に頼んでください。

一瞬にして消しますから。


ほーっほっほ」