2026年4月26日日曜日

あなたはそのままでいい

下絵付け。庭の草花を描いてみる


人はそのまんまを受け入れてもらえることがとても安心する。


でもいかんせん、この世はたいてい条件付きである。


いい子でいたらお母さんは嬉しい。

お手伝いしてくれたらお菓子あげる。


小さい時聞いた言葉が、大人になっても原動力になっている。


何もしていない時、どこか落ち着かない。

なんかせずにはいられない。

こんなんじゃダメだ、もっと生産的なことを。。。


そのままでいることは、

欠けている自分をそのままにしておくような心もとなさがある。



ある人に、そのままでいてくださいと言った時、

なぜか私の心が落ち着いた。

その人もまた心が嬉しく思っているのを感じた。




あなたはそのまんまでいい。

これは魔法の言葉だ。




そうだ。これは恋愛が始まった時と同じだ。

相手がそのまんまであることがとても嬉しい。

そのまんま、ただそこにいてくれることがとても嬉しい。

その人をそのまま丸ごと大好きなのだ。

何もしていなくても。


これは神の視点?

神は私を丸ごとそのまんまを大好きでいてくれている。

永遠に。無限大に。


でも私たちはすぐにあの始まりとは真逆に向かう。

あれさえ変わってくれたらいいのに。

ああ、もう嫌い!私の視界に入ってこないで!


いつの間にか条件付きの愛に変わっていく(笑)。


その人の行動を見始める。

その人のカタチを見始める。

判断し、解釈し、裁き始める。

いつの間にかその人と自分は分裂する。

しっしっ、あっち行ってと。



でも。。。

あの時。

そのままでいてくれるだけで嬉しかったその人の、

カタチを見てはいなかった。


私は確かにその人の、


存在の美しさを見ていたのだ。










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2026年4月19日日曜日

私は喜びである

「高尾の春」

 

ある夜。

いつものように庭に出て地面に素足をつけてボーッとする。


心は喜びを探していた。

暗闇の中、かすかに見える木々たちを眺めながら、

待てよ。外に喜びを見つける必要なんかないんじゃないかと思った。


外にある喜びはすぐ消えてなくなる。

それをいつまでも追い求めることって、いる?


ふと別の見方がやってきた。


喜びは今ここにないか?


何もしていなくても、

どこかに何かを見つけなくても

喜びは今、すでにここにあるんじゃないか?


そう思った時、

これが、喜びなんじゃないか。。。?


私はここにいる。


それこそが喜びなんじゃないか?


「存在しているということに喜びがある」


そんな言葉が頭に浮かんだ。


私=喜び

私=愛


喜びが歩く

愛が歩く


なんということだ。

私という存在じたいが喜びだったんだ!


喜びが外にあるわけでもなく、
手に入れるものでもなく、
その中に入るのでもなく、
私自身が喜びだと。


心がブワーッと広がる。




そんなふうに思ったことなかった。

私という厄介な存在、

いるだけで問題児、

厄介なカラダ、

仕事できない無能な存在、

貧乏な私、

歩く罪女、等々。

自分の嫌なこと言わせたら宇宙一じゃないか、、、

というほどのこの私が。


。。。


世界が遠くにあった。

世界情勢も最近の事件も遠くに。

そしてカラダも遠くに。


最近時々やってくるこの感覚。

世界がうすらボンヤリしてて気にならない。

自分の目下の問題も、ネットの向こうの問題も、

私とは関係ない絵空事になっている。


それよりもこの静けさと、

どこからか湧き上がってくるウキウキ感。



コースはいう。


「あなたの使命は実に簡単なものである。

あなたは自分が自我ではないと実証する生き方をするようにと頼まれている」


「癒すとは幸福にすることである。

私は、あなたに自分自身を喜ばせる機会が何度あったか、

そのうち何度、拒否したか考えてみるようにと言ったことがある。

これは自分自身を癒すのを拒否したのはあなただと言っているにひとしい。

あなたにふさわしい光は喜びの光そのもの。

光り輝く姿は悲しみとは結びつかない。

喜びはそれを進んで分かち合いたいと思う融和した気持ちを呼び起こし、

心が自然にはずんで一つになって応じるようにさせる。」


「聖霊は喜びの霊である」


今はコースのいう言葉の意味が

さらに深く理解できるようになってきた。


「思い出すように」というのは、このことだったのか。




こういう体験はやってきては消えていく。

また元の感覚に戻っている。

それでもその時の記憶は残る。


人の啓示体験は劇的なものなのだろうが、私の体験はちっちゃい。

ちょろっとやってきては消え、またちょろっとやってきては消えていく。

だけどそのおかげで浮き足立てない(笑)。


でもそれがヒントになってそっちの方向だと教えてくれる。




ずっと自我のいうことを真に受けてきた。

心の中で聞こえる声を「正しい」と信じてきた。

今はその声が苦悩の元凶だとわかる。


私という存在を否定することが自我の生きがいだったのだ。


だからこそ「あなたは自分が自我ではないと実証する生き方」を頼まれている。








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2026年4月11日土曜日

ごとごとと音を立てて変わり始めている

「山笑ふ」

 

「久しぶりに一緒に散歩に行こう」

「やだ。嫌だけど無理やり行ってやる」


前の日にケンカ。私はひきずっていた。

一緒に歩くのも嫌でだんだん距離が出る。

100メートル離れて歩く。

途中でダンナが振り返る。


「歩くの辛かったら引き返すよ」

「いい!先行って!」


山の中に入り川に降りてボーッとする。

思いっきり罵倒してやったらスッキリするんだろうかと思い、

大声で怒る。

どれだけ頭にきたか訴える。

山の中だから誰にも遠慮しない。


山歩きの人が私たちを覗く。

知り合いが声をかける。

「私たちは今ケンカしてるの!」

「そうは見えない」と笑った。


私が怒っている間、彼はニヤニヤしている。

それに余計腹がたつ。


川に渡された太い木を伝って彼が川の反対側から戻って来るとき、

「そこから落ちて頭打って死ね!」

とまで言ってやった。

「そんなことでは死なん」

と笑う。


帰り道、あんだけ心の中の思いを吐き出したからスッキリするかと思いきや、

全然スッキリしない。

「ふん、そんなもんか。。」

と、トボトボ歩く。

もちろん一緒には歩かない。




でも歩きながら、

彼のタフさに気がついた。

私が怒っても、笑っている。

前は一緒になって怒り返していた。


タフなところは心だけじゃない。体もタフだ。

しんどいしんどいと言いながらも仕事に行かないことはない。

寝込むこともない。

なんだ。ちっとも弱かねえじゃねえか。


この「弱くない彼」

というキーワードがなぜか私を揺り動かした。

私を安心させた。

つまり彼に気を回す必要がなかったということに気がついたのだ。


以前は彼が疲れていないか密かにチェックしたり、

機嫌悪くさせないようにしようとか、

やたらと気をまわしていた。

それが「ほっといてもこいつは大丈夫」という立ち位置に変わっていったのだ(笑)。


彼のすっとんきょうな行動にもびっくりしなくなった。

というよりも笑って受け入れられる。

「なんだそれ。おもろいやんけ」




すると今度は彼がおかしなことを言い始めた。

「俺、今まで欠乏ばかりを見てきたと気がついた。

それ、いくら眺めたって欠乏は埋まらないよなあ。

それよか、俺は今まで好きなことやれてきたよなあ。

好き勝手やらせてもらえてた~。

それって祝福されてるんだよなあ。ありがたや~」


こういう話は、他人がどんなに口すっぱくいっても理解できるもんじゃない。

理屈でわかったって、それは本当の理解には繋がらない。

自分で「わかる」ことでしか本当の理解にならないのだ。


一体どこでこんな風に変化が始まったのかわからない。

劇的な啓示があるわけでもなし。

何かのきっかけがあるでもなし。


ただゆっくりと、自然に、知らないうちに、

しかし明らかに、ごとごとと音を立てて、何かが変わり始めている。


毎日が愉快になっていく。








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