2026年8月30日日曜日

無駄の中に愛がある。。。?

 


今年の夏祭りで気になることがあった。


その日は午前11時から町内にある小さな祠で神主さんを呼び祝詞をあげてもらい、ご神事が行われる。

その後町会の会館に戻って直会(なおらい)が催される。


日頃あまり顔をあわせることもない町会の人々も、

その時だけは日常を忘れて和気藹々と食べて飲み、親睦を深める。


ところが今回は私がここにきて最も質素な直会だった。

テーブルに並べられたのは、のり弁当とビールやお茶だけだった。


コロナ前までは、揚げ物などのオードブル、お刺身、漬物、お赤飯、汁物、

時には自分ちの畑で採れたものを持ち寄って和え物などにもしてきた。


そして隣の町会にあるお豆腐屋さんのお豆腐などが用意されていた。

それはお祝いに花代とお酒も送られてくることへの返し返される、

お互いの連帯の意味でもあった。

正直言うと、私は当初それをうざいなと思っていた。



コロナが始まり、全てが中止になっていった。

そしてここ二、三年から徐々に直会も再開し、夜の部の夏祭りも再開され始めた。

同じ皿を分け合うのは良くないと、一人一個のお弁当になっていったのは仕方のないことだった。

もしものことがあったらという可能性のために全てが縮小していった。

そしてたどり着いたのがのり弁一個。

町会の人々は何も言わず受け入れた。



合理的といえば、合理的だ。

誰かが誰かのお皿を突っつくわけでもない。感染の心配もない。

しかし隣り合わせで喋り合う時の唾はどうなるんだろう(笑)。


正直そこまでコロナに関してもう心配していないようだが、

合理性が別方向へ一人歩きし始めた嫌いがある。

準備するのがめんどくさい、忙しいから無理。。。

そこに今の経済の問題も。

物価がどんどん高くなる、食材もかかる。そりゃそうだ。



だがどうしても私の心に引っかかった。

コースによれば、この世は幻だから、

直会の食事が豪華だろうがのり弁だろうが、幻想は幻想だ。

そこに執着する私は自我の誘惑に乗っ取られている。

そう思えば思うほど、苦しくなった。


ふと合理性って愛だろうかと思った。

時間の無駄を省く。経済の無駄を省く。一人一個のお弁当。


日本に住んで長い外国人が、ある動画で言っていた。

日本にはシェアする心がある。

一つのお皿をみんなで取り分けて食べる。

するとみんないろんなものがちょっとづつ食べられる。それが嬉しい。

西洋は一人一つのお皿だけで完結する。

母国から来た人に、みんなでシェアしようといっぱい頼んだら、

誰も食べてくれなくて自分一人で全部食べる羽目になったと笑っていた。

僕、日本人の感覚になっちゃってたと楽しそうだった。


日本には同じ釜の飯を食うという考えがある。

そこで心はひとつになっていったのかもしれない。

いやきっとそうだったのだろう。

ひとつの釜の飯を食って連帯感を持つ。

楽しいも悲しいも分け合う。

楽しさは分け合うことで拡大する。

悲しさは分け合うことで軽減する。


昔の直会は非合理的で無駄だらけだった。

余ったオードブルやお刺身やお赤飯がたくさんあった。

だけどそれをみんなで分けて持って帰ってその夜の晩御飯になった。

ご神事で備えられた鏡餅の一部ももらって帰る。

私はワクワクして嬉しかった。


無駄の中に愛がある。。。


のり弁は合理的で経済的だ。

今年の夏祭りは夜の部が雷と大雨で途中で中止になったにも関わらず、

蓋を開けてみれば黒字だった。


町会は会社ではない。

そりゃあなんかあった時のための蓄えは必要だが、

必死になって町会にお金を貯めていかなければいけないことはない。

いざとなったら助け合うだろうことは町会の人たちを見ればわかる。


合理的に無駄を省いていくことで、

町会の中から何かが消えていくとしたら。。。



「夏祭りはいつも儲からないものなのよ」

昔の人はつぶやいた。

その言葉の中に深い愛を感じる。


町会の行事はお金を貯めるためにやるのではない。


ご神事を開いて人々が集う。

神を賛歌するための準備は決して無駄ではない。


それは翻って言えば、

自分を賛歌することになる。

神と私はつながっているのだから。


直会をどう捉えるか。

直会にどう接するか。

それは自分に向けたものでもある。


直会はそのためにあるのだなあと、

今回のこときっかけにじんわりと思った次第であった。









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ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


2026年8月26日水曜日

こんなん出来ました〜。ありがとうございます〜。

「喜び」

 

昔、神と出会ったことがある。


って書くと、白いローブを羽織った後光が差す聖人と会ったとかイメージしちゃうけど、

そんなもんは何一つ見えなかった。


そこに物質的にあったのは、

何一つ遮るものがないものすごい広い空と、

ひたすら広がるひび割れた大地と、

完全なる無音の世界。


音がない世界にいたのは生まれて初めての経験。

鳥や虫などの生命の音がしない。

風の音すら飲み込んでしまうほどの無音の空間。


そこで私は神に出会った。

目の前には何にもないのに。

なぜ神と出会ったとわかるのか。


それは神の思いに満ち溢れていたからだ。

愛だ。


私は神にとてつもなく愛されていると、

これ以上ないくらい受け取っていた。


何もないのにはっきりと感じる神の思い。

受け取りきれないほどの愛の量。

愛は、その巨大な空間いっぱいに満ちていた。


私はひび割れた大地の上で喜びに耐えきれず、のたうちまわった。



コースを学び始めてそれが神の思いだと知る。

まったく形がない、抽象の世界。


だから私は神を形で想像することがない。

イエスでさえ、彼をイメージで捉えようとも思わない。


ずっと形を描いてきたからなのかもしれない。

その形の中にそれはいないことを知っている。

神はその背後にいる。


私は絵を描く。最近は器も作る。

しかし神は絵や器の中にいない。

だが喜びの反映としてそこに見えている。


絵を見たとき、器を手にした時、

そこに喜びがあれば、神がいる。





最近、私の絵を見て、心が癒されている人の話を聞いた。

その人は壁に私の絵をかけてなくて、ベッドのそばに置いてある。

眠りに落ちる前、


「意識がなくなる眠りの、、その前、、

夜と、朝の覚醒するまでの、

思考にあまりひきこまれない時間。

その時空の中で、

つくしさんの「喜び」を感じるのが、

情動に落ち着き、呼吸が深くゆっくりになって、

私には心地よい時間です。

包まれ、みちる体感。しあわせです」


それを聞いた時、心が震えた。

これはもう、、、私の仕業じゃない。


絵を描いたのは私なのかもしれないが、

絵が勝手に別のものになっている。

彼女が自分を導くきっかけになっている。

本当の自分自身を思い出すために。


絵とはこんな仕事をするものなのかと驚かされたし、

そんな仕事を請け負っていることがありがたい。



現代絵画って、投資の目的になっていたり、

小難しい論理で構築されていたり、

ちょっと眉間にしわを寄せて鑑賞したりするものとして捉えられがちな節がある。


私はもっと単純で、うわ!と思ったものを絵にしている。

いつも自然の中でそれを見つける。

そして出来上がったら、その絵をお山に見せる。

その時、ちょっと気恥ずかしい。

でも感謝とともに報告する。


「こんなん出来ました~。

ありがとうございます~」と。









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2026年8月20日木曜日

なんてこったこの世は自作自演

「花と宇宙」

 

自分が自分を怖がらせている。

自分が自分をいじめている。


この世は自作自演。。。

なんてこった。


「ちょっとお願いするわ~」

と兄弟に頼んで悪人を演じてもらっている。


そんでそのわざわざ演じてくれた人を「このやろう」と恨む。

そりゃ兄弟に失礼やろう。


でも兄弟はそれを喜んで引き受ける。

なんで?

愛があるから。


映画のエキストラでなんの役が一番楽しいか。

ゾンビなんだそう。

私もハロウィンのダンスでゾンビ踊りしたことがある。

めちゃおもしろかった。


本当の自分じゃないものになるっておもしろいんかも。


いやいやそんなことを言ってる場合ではない。

目の前で嫌味を言ってくる人を見て、

「うん。これはなかなかいい演技だ。アカデミー賞もんだ」

などど余裕を持って見られる人などいない。





自分が自分を怖がらせている?

マジですか。

そんなわけないじゃないですか。


私が好き好んでビンボーになって苦しんで。。。?

そんなわけないじゃないですかー。


自分の無能のせいでビンボーになった。。。

自分の無能のせいで。。。


と思うから、どうにかして無能をやめようとする。

しかしもともと無能なのだから、無能を有能になんてできるわけがない。

すったもんだしてみたが、どうにも無能は無能のままだ(苦笑)。



そこで考え方を変えてみる。

ひょっとしたら無能を欲しているんではないか?

演じてる。。。?

無能でありたい。

なんでや。

苦しみたいから。


よく考えたら、人はいつもなんらかのことで苦しんでいる。

経済、体、人間関係。だいたいその三大要素の中で苦しんでいる。


そう。私たちは苦しむためにこの世に生まれてきたのだ。


お釈迦様も言い放ったではないか。

「この世は苦である」


どんな金持ちもなんらかの苦悩がある。

どんなスポーツ選手もなんからの苦悩を抱えている。

ご近所さんも人知れず苦悩を抱えている。


苦悩があるからそれを解決するために悪戦苦闘する。

そうやって人生は終わっていく。

最後は死という慰め、もしくは救いを目指して。

それのどこが楽しいのだ?最後は死ぬ。

やっぱ「苦」だ。



本当は「苦」を欲しているだけだったとしら?


なんでか知らんが、私たちはただいるだけでオッケーにはならない。

どこか落ち着かなく、なんかしてないといられない。

ぼーっとしてたら、ぼーっとするな!と怒られたではないか。


美味しいもん食べて、山を眺めて、

あ~ホッとする~と思った次の瞬間、

さて今度は何やろう?と考え始めているではないか。


幸せ感は一瞬でさってしまい、

次の幸せ感を求めて心はさまよいだす。

それの繰り返し。

1%ホッとするのために、99%を悪戦苦闘する。

そんな馬鹿げた人生ってありなのか?


心の中をずーっと見ていると、ポンポンと恐れの考えが湧いてくる。

みごとに。一瞬のいとまもなく。

その自動的にやってくる恐れの考えに

「ああそうだった。こんなことしている場合じゃない」

と言って恐れから逃れる戦略を考え続けているんだ。


浮かんでくる恐れを助長するその考えをよく吟味してみよう。


その恐れに何の信憑性がある?

誰かから聞いたからそれはこうなるはずだと。

本当にそうなる保証はあるのか?

保証はないけど、もしそうなったら、、!

という未知数の恐ればかりじゃないか?


過去は罪を思い起こし、

未来は恐れを思い起こす。


恐れは何の脈略もなくふいにやってくる。

恐れさせるマシーンみたいに。


これって何?


これが私たちが自分自身に与えた「苦」なのだ。

お釈迦様はそれを見たのだ。


これが自分自身を怖がらせ、

自分自身を不幸に陥れ、

強いては自分自身をいじめているものなのだ。

だから自作自演。


本当の自分を見つけないように、

「苦」のアイディアを浮かび上がらせ、

それと格闘することで本当の自分を思い出せないようにする。


あっちは見ちゃいけない!そっちは闇!とんでもないことが起こる!と止めに入る。

だが、そっちが本当の私なのだ。


コースのいう「赦し」は、そんな自分を赦すことだった。

怖がらせ、本当の私を見ないようにさせてきた自分を。


自作自演を繰り返す自分自身を認めて、受け取り、

全面的にすべてを赦していく工程を教えてくれていたんだ。







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