今年の夏祭りで気になることがあった。
その日は午前11時から町内にある小さな祠で神主さんを呼び祝詞をあげてもらい、ご神事が行われる。
その後町会の会館に戻って直会(なおらい)が催される。
日頃あまり顔をあわせることもない町会の人々も、
その時だけは日常を忘れて和気藹々と食べて飲み、親睦を深める。
ところが今回は私がここにきて最も質素な直会だった。
テーブルに並べられたのは、のり弁当とビールやお茶だけだった。
コロナ前までは、揚げ物などのオードブル、お刺身、漬物、お赤飯、汁物、
時には自分ちの畑で採れたものを持ち寄って和え物などにもしてきた。
そして隣の町会にあるお豆腐屋さんのお豆腐などが用意されていた。
それはお祝いに花代とお酒も送られてくることへの返し返される、
お互いの連帯の意味でもあった。
正直言うと、私は当初それをうざいなと思っていた。
コロナが始まり、全てが中止になっていった。
そしてここ二、三年から徐々に直会も再開し、夜の部の夏祭りも再開され始めた。
同じ皿を分け合うのは良くないと、一人一個のお弁当になっていったのは仕方のないことだった。
もしものことがあったらという可能性のために全てが縮小していった。
そしてたどり着いたのがのり弁一個。
町会の人々は何も言わず受け入れた。
合理的といえば、合理的だ。
誰かが誰かのお皿を突っつくわけでもない。感染の心配もない。
しかし隣り合わせで喋り合う時の唾はどうなるんだろう(笑)。
正直そこまでコロナに関してもう心配していないようだが、
合理性が別方向へ一人歩きし始めた嫌いがある。
準備するのがめんどくさい、忙しいから無理。。。
そこに今の経済の問題も。
物価がどんどん高くなる、食材もかかる。そりゃそうだ。
だがどうしても私の心に引っかかった。
コースによれば、この世は幻だから、
直会の食事が豪華だろうがのり弁だろうが、幻想は幻想だ。
そこに執着する私は自我の誘惑に乗っ取られている。
そう思えば思うほど、苦しくなった。
ふと合理性って愛だろうかと思った。
時間の無駄を省く。経済の無駄を省く。一人一個のお弁当。
日本に住んで長い外国人が、ある動画で言っていた。
日本にはシェアする心がある。
一つのお皿をみんなで取り分けて食べる。
するとみんないろんなものがちょっとづつ食べられる。それが嬉しい。
西洋は一人一つのお皿だけで完結する。
母国から来た人に、みんなでシェアしようといっぱい頼んだら、
誰も食べてくれなくて自分一人で全部食べる羽目になったと笑っていた。
僕、日本人の感覚になっちゃってたと楽しそうだった。
日本には同じ釜の飯を食うという考えがある。
そこで心はひとつになっていったのかもしれない。
いやきっとそうだったのだろう。
ひとつの釜の飯を食って連帯感を持つ。
楽しいも悲しいも分け合う。
楽しさは分け合うことで拡大する。
悲しさは分け合うことで軽減する。
昔の直会は非合理的で無駄だらけだった。
余ったオードブルやお刺身やお赤飯がたくさんあった。
だけどそれをみんなで分けて持って帰ってその夜の晩御飯になった。
ご神事で備えられた鏡餅の一部ももらって帰る。
私はワクワクして嬉しかった。
無駄の中に愛がある。。。
のり弁は合理的で経済的だ。
今年の夏祭りは夜の部が雷と大雨で途中で中止になったにも関わらず、
蓋を開けてみれば黒字だった。
町会は会社ではない。
そりゃあなんかあった時のための蓄えは必要だが、
必死になって町会にお金を貯めていかなければいけないことはない。
いざとなったら助け合うだろうことは町会の人たちを見ればわかる。
合理的に無駄を省いていくことで、
町会の中から何かが消えていくとしたら。。。
「夏祭りはいつも儲からないものなのよ」
昔の人はつぶやいた。
その言葉の中に深い愛を感じる。
町会の行事はお金を貯めるためにやるのではない。
ご神事を開いて人々が集う。
神を賛歌するための準備は決して無駄ではない。
それは翻って言えば、
自分を賛歌することになる。
神と私はつながっているのだから。
直会をどう捉えるか。
直会にどう接するか。
それは自分に向けたものでもある。
直会はそのためにあるのだなあと、
今回のこときっかけにじんわりと思った次第であった。




