2026年10月24日土曜日

5%の罪

奇跡の3ショット!

 

香港さんが、大阪から高尾にやってきた!


本当は国家試験の準備に追われて私の展覧会には来ない予定だった。

が、なぜかそれまで満室だった高尾のドミトリーに空きができて、ひとベット開くことになり、


「そうか、新幹線の中で試験勉強すればいいや!」

というグッドアイディアを思いつき、急遽高尾にやってきた。

(実際は新幹線の中で爆睡とビール飲んで「ぷっは~」といい気分になってただけらしいが笑)


こうやってわざわざ遠くから足を運んでくれることのありがたさよ。

香港さんの兄貴に感謝!(兄貴=謎の存在)


今回は前回行けなかったジビエ料理の店『山籟』さんで

奇跡パパさんも招集してのコース三昧!

(料理のコースと、奇跡のコースを引っ掛けた)

鹿肉を堪能した後うちに帰って、なんと武史と4人で話すことに。

不思議だ~。こんなシーン見ることになるとは。


他責の人と自責の人の話題になった。

ざっくりくくると、香港さんと武史は他責組(笑)、

私と奇跡パパさんは自責組だ。


自責は自分が加害者的な意識になる。

他責は自分が被害者的な意識になる。


そんな話をしていたが、武史がボソッと切り出した。

「俺、車ぶつけられたんだ。。」

「え〜〜〜っ!」


まさに被害者だ~!



実はその日の夕方、私たちがジビエを堪能しているまさにその時間、

うちの車が、侵入したきた車にぶつけられていた。

幸い武史に怪我はなかったが、助手席側の二つのドアが凹んで傷跡がざっくり。


当初どう考えても相手側が100%悪いので修理費は全て相手側が支払う予定だった。

ところが数日経って相手の保険会社から、

そちら側にも前方不注意があったんじゃないかと切り出される。

95%はうちで払うから、5%はそっちで払ってくれと言ってきた。

いやいやあれはもう避けようがない状況だった。減速したが避けきれなかった。

なのになぜ俺が悪いんだ!なんで俺に非があるんだ!と抗議する。


たとえ5%でもこっちに非があると言われると、俄然腹がたつ。


被害者的な立場にあると、罪はあっち側にあるから安泰だ。

しかしほんの少しでもこちら側に非があると言われれば、

もう被害者ではいられなくなる。


これがこの世の仕組み。罪はある。という前提。

被害者意識も加害者意識も罪があるという信念に立つ。

だからいつでもひっくり返る。

「痛み分け」という言葉もある。互いに罪をかぶりあい、

ちょっと罪を軽くしましょうと。


てか、どっちにしたって罪はあるじゃん。


だから私みたいに自責組も、ひょんな事で被害者になる。

他責組の人も、ちょっとしたことで加害者になってあわてる(笑)。


罪はここにあって、それをどっちに渡すかでもめる。

誰も自分に罪を宣言されたくない。だからずっとウンコの投げ合いになる。

「俺のウンコじゃない!」

「いや、俺のウンコでもない!」


じゃあ、その言い分をはねつけたらどうなるのか。

裁判になりますねえ。弁護士をつけて裁判に持っていく。

そうなるとまあ軽く一年はかかる。その際の弁護士費用もある。

しかし車は修理出さないといけない。その費用は、、、、?結局自腹、、?

そういう手間を考えて、めんどくさいから5%払って終わりにする。。。?

という考えもなんか負けた気分で腑に落ちない。

という堂々巡り。



他責組だった武史は、ここで初めて罪というものを意識することになった。

それまで人や社会が悪いことになっていたので、被害者にあぐらをかいていられた。

ところがたった5%でも自分に罪を意識させられたのだ。

そこで新たに自分の罪悪感というものがぐっと迫ってきた。


コースを学ぶ前は、罪悪感なんてかけらも持ち合わせていなかったのが、

徐々にひょっとしたら持っているのかもしれないというところにいた。

でも自己否定感とか自己嫌悪の中で感じているものとして捉えていた。

それが今回の出来事で、初めて自分の中の罪の意識、罪悪感というものと面と向かったようだ。


出来事はその人に必要な時に必要に起こる。

それをどう捉えていくかでその先が決まる。


この世の仕組みの中でこの世のものの考え方の中で生きるのか。

それとも違う視点を持った場所に行こうとする意志を持つか。


彼はどっちを選んだのか。

5%の罪。

この世界での選択。

だが心はその先のことに視点を移した。



罪はない


というところ。


この世界の土台は「罪はある」で出来ている。

どこまでいっても罪は消えない。

たとえ100%相手が悪いといっても、罪があることに変わりはない。

罪は存在するというのが前提。

それはほんの一瞬で罪がこっちにやってくるという危うさを持っている。


でも罪はないというところは、

誰にも罪がない。


そこに立つ時、いや、そこに立とうという意志を持つ時、

みんなが同じ無罪の人になる。


誰も憎まず、誰も裁かず、全員が安心の中にいる。


罪はないところは、
みんな同じ心だったんだ!と思い出す場所なのだ。








オンラインショップ更新しました


2026年10月21日水曜日

展覧会最終日

 


展覧会最後の日。

私にとってはとても感慨深い1日だった。


この高尾駒木野庭園での私の展覧会は今年で4回目を迎えた。

当時の園長さんと知り合い交流が深まるほどに、

この場所を全部借り切って私の展覧会をやろう!と

三年がかりで話をすすめてくれて実現したものだった。

だがその園長さんも変わり、それも今回でおしまいになった。


歩いて行ける場所でもあり、

四回の展覧会の会期中は毎日出向いた。


この場所の面白いところは、

絵にはまるで関心のない人たちや、山帰りの人たちでごった返す。

ホワイトキューブのギャラリーとはまるで違う体験。

だがそんな中で私の絵に触れてとても感動してくれる瞬間もあった。


特に今年はそういうシーンをたくさん見ることができた。

絵と初めて対面して、それが心に響いていってるのを横で目撃するのは

なんとも得難い体験で、こっちの心まで広がり始める。

絵とはこんなにも人の心を打つものなのか。





人々は波のようにやってきて、そして凪に帰る。

静かな午後、枯山水を望む縁側のガラス戸を開けてひとり風を感じる。


心になんのイメージも持たない

なんの感覚も持たない

ただ縁側に座る


目の前に広がる自然の中に、絵の材料を探そうともしない

これからどうするのかという考えも持たない

心の中は真っ白に、透明に

なんの考えも計画もない

そこにとどまる


聞こえてくる鳥の声、虫の声、遠くで聞こえる電車の音、風の音、、、


心が空っぽでいることの心地よさ

何かを入れたとたん苦しくなる

この世界のことを考えると苦しくなる

その自覚

はっきりと見えるその違い


自我の救済計画はどうやってもうまくいかない

私はこういうことになったら救われる、

お金があったら救われる、

保険、保証、確実なもの、みんながやっていること、

そうやって65年やってきた。

でも救われなかった。

これからもそこで救われることはないだろう。


そういうものから離れる。

神の救済計画とはどういうものだろう。

自我の私が知る由もない。


でもそれしかうまくいかないのはわかる。

こうやって真っ白になるほどに、

そこにしか真理が見出せないことが垣間見えてくる。



そうして凪の時間の次に、

また波がやってきて、

にぎやかな最後の時間を過ごした。



今年の展覧会は本当にたくさんの方々が来てくれた。

同時開催の浅川市民センターでの展示も功を奏したようだった。

今まででいちばんの来場者数だった。


この静かな思いを持って次に進んでいこうと思う。



浅川市民センターおよび高尾駒木野庭園へ足をお運びくださった方々へ

厚く御礼申し上げます。












2026年10月14日水曜日

自我は詐欺師

「ももいろもり」和紙、水彩

 

私たちは、自分の中でわき起こった感情を、疑問も持たずに信じる。


イヤ~な気分になった時、それに気がつき、

あ、あいつがあんなことしたからこんなイヤ~な気分になったんだーと、

その気分の理由をすぐに見つけ出す。


私がこんなに苦しいのは、残高が少ないから。

私がこんなに悲しいのは仕事がないから。

ムカつくのは上司がイヤミを言ったから。


なぜならこう言う事情があったからこんな感情に見舞われたと信じる。


夜中にトイレに立って歩いている間、心が未来の不安でいっぱいになる。

真っ暗闇で何にも見えない。

何のきっかけもないはずなのに心が不安材料を思い出す。


私はそこに疑問を持つ。

何で?

この不安の感情はしょっちゅう起こる。

何で?



不安な気持ちがやってくると、

そうだこの不安をどうにか解消しなければ!といって考え始めて来た。

けれど、いっとき成功した気になったことはあっても、

また次の不安がやってきて、

それに関連した事柄がずーっと芋づる式に広がっていって、

嫌な気分はどん底にまで至る。

その繰り返しはもう嫌だ。。。。



そしてある実験を開始する。


罪悪感が襲ってくると、その罪悪感の理由はちゃんとあるけれど、

それとまともに付き合わず、あ、来たなといってほっておいてみた。

どんな感情も瞬時に気づき、

ネガティブなものには取り合わないようにしていった。


そうやって地味な作業をしていると、

わいて来た感情って本当は正しくはなかったことに気づく。

正しくなんかないのだ。

振り込め詐欺みたいなもんだ。

不安をあおっといて、その不安を解消するためにあらゆることをやらせる。

するとこの世は俄然リアルに迫ってくる。


ほれほれ、もっと苦しめ~。もっとなげけ~。もっと心配しろ~。

って、不安な感情を起こさせてくる。

これこそが自我の誘惑だったのだ。


自我は詐欺師だ。

晩御飯時のニュース番組みたいなもんだ。

恐怖のお知らせを立て続けに見せて民衆を恐れさせ、

自分で考える力を失わせ、マインドを一定方向にコントロールするアレだ。



そうすると、もともとどっちが先だったのかと思い始めた。

本当はその気分になりたい自分がいたんじゃないかと。


イヤ~な気分になりたかったから、上司のこう言う行動を見た。

苦しみたいから、残高を見た。

悲しみたいから仕事がないように見た。


何で苦しみたいのか。

苦しみという罰を受けようとしているのだ。

刑罰は何も刑務所に入ることばかりじゃない。

イヤ~な気分になるのも罰の一つだ。

苦労ばかりする人もいる。

それは無意識に自分に罰を与えている。


ではなぜ罰を与え続けるのか。

自分には罪があるという深いところでの信念があるからなのだ。

もともとこの世界に生まれていること自体が刑の中にいると言える。


人生って苦しみばかりじゃないですか。

それ、そういうことなのだ。


だから人生の中で苦労をすることがいいことのように思われている。

それは少しでも罰を受けることで、

死んだ時えんま様に情状酌量の余地を与えられると信じているからだ。


「私ってえ~、こんだけ苦労してきたんだからあ~、えんま様。よろしくねっ!」と。


でもどっちみち同じこと。

針のむしろが、つまようじのむしろに変わるぐらいのこと。

死んでも苦しむ刑なのは同じ。


だからこその、私には罪などないということを思い出すのだ。

苦しむ/罰を受ける必要などないことを思い出すのだ。




ふっと浮かぶイヤな思い、ふっと浮かぶ不安、

ふっと浮かぶ心配、ふっと浮かぶ寂しさ、

ふっと浮かぶ怒り。。。

それを地味に放っておいた。

相手にしないでいた。


だんだんそれが来なくなり始める。

夜中にトイレに起きても心に不安は立ち上らなくなっている。

心が静かになってくる。


そしてその反対に、忘れていたあの感覚が浮かび上がり始める。

心の底にウキウキするものが、あったかい想いが。。。


意味がわからないけれど、喜びで眠れない夜もやってくる。

ありがたさで胸がいっぱいになってくる。


見えているものに重さを感じなくなってくる。

心はこの世界に縛り付けられなくなってくる。


世界が遠くなってくる。。。





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