2026年5月26日火曜日

自然の化身

 

「杉林の小径」

蛇滝に向かう途中の道である男の人と出会った。

彼はずっと探求の道を歩んでいる。

仏教のあらゆる宗派を渡り歩き、

自給自足の生活に憧れ奄美や徳之島で師匠と出会い、

そこで一人生活をする。

今は東京のどこかで居を構え、時々こうして高尾山にやってくる。


夕食を食べながらその人の話をすると、

もういい加減にそういう世捨て人的な人と会うのはやめろ。

なぜそんな人ばかりと出会うのか、

そんな自分自身をしっかり見つめてみることだと旦那に言われる。


確かに世捨て人的な人には過去に二人会ったが、

そのぐらいで他に思い当たる人物は旦那しかいない。

私が出会う人は普通の人よりはるかに多いから、

そのタイプの人は全体の1%にも満たない。

だがこれも何かあるのだと思い、心の中を旅する。


私の中にある信念は、

私は何を考えても、何を感じても、何をしても間違っているという信念だ。

全面的に私が悪いという信念がある。

だから今回の出会いも、私が間違ってしまったのだと考えた。


これは小さい時に父親に殴られて育った時のあの感情を引き出して、

光の下に晒し、終わりにすることなのだと思った。

その感情を終わりにするために起こった出来事なのだと。


悲しみ怒り恐れ、それらの感情を表に浮上させ、

味わいながら聖霊にひたすら渡し続けた。

しかし一向にその苦しみは消えなかった。

ただ苦しみの中にいるだけでいいのだと思ったが、

どうにも苦しさに耐えられない。



コースを読んだ。

邪悪な夢を兄弟と分かちあわないことだという。


私の中に少し彼に対する怖さがあった。

旦那はそれに気づいて、それを終わりにしろと言いたかったのかもしれない。


兄弟を恐れない。

兄弟を恐れるとは、自分と兄弟を分離させていたがっているということ。


私はあまり人は怖くない。だから知り合いがたくさんいる。

それでも厳密にいうと恐れはある。

それを徹底的に根絶せよということなのか。

だからもう兄弟を恐れるのはやめようと思った。




すると森の中にいる彼が心に見えた。

杉林を背景に立っている。

彼は次第に後ろの杉たちに溶け始める。

彼の体はいく筋もの線になって、

ザーッとゆっくりと上に流れ始めた。

彼の姿はもう見えない。


その時、彼はこの森そのものだったんだと思った。


この蛇滝の森の思い。

この森にはずっとずっと長いこと歴史を刻んできた幾千万という思いが宿っている。

その思いが彼という形をとって私の前に現れたとしたら。


それは浄化のためであるのかもしれない。

私たちの、宗教への思い、悟りへの思い、神への思い。。。

自然の中に染み込んだ悲しみ、怒り、恐れ。。。
それは私の思いでもある。

それを取り除くために。。。


そう考えると、後の二人もまた森の人だ。

ミツバチや虫の妖精、もう一人は木の妖精。。。

彼らは自然の化身として私の前に現れたのかもしれない。


そう考えた時、やっと心が穏やかになった。













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2026年5月20日水曜日

うんこ投げつけ合戦

「庭草長いお皿」

 

喜びに満ち溢れている時があるかと思えば、

打ちひしがれて絶望の心になるときもある。

この極端な心はなんだ?


昨日の夜、恐れで起こされてじーっと座る。

真っ暗な部屋に恐れがあるわけでもない。

ただ心の中だけが恐れなのだ。


喜びに満ちているときもそうだ。

真っ暗な部屋には何の変わりもない。

ただ心だけが動いている。


私は今自我の誘惑に負けている。

「おまえは愚か者だ」

「人はおまえを見捨てる」


自分がやってしまったことに後悔をして恐ろしさの中にいる。

恥ずかしい。

なんてことをしてしまったのだ?

私は間違ってしまった。


これが自我の誘惑。

人はこれに魅了されて、自己否定の中に埋没。

あるいはそれを他人のせいにして他者批判へと埋没。


この世界で生きるとは、自我の誘惑に気がつかないまま、

どちらかが悪いという判断の中で絶えず翻弄される。

いっときは自分が正しいということに安堵するが、次の瞬間逆転する。


うんこが自分の手にあるときは、

相手にぶん投げて安心するが、

次の瞬間うんこはぶん投げ返される。

うんこ投げつけ合戦。


自我とともにいるといつも「うんこ」がある。

しかし聖霊とともにいると「うんこ」などない。


投げつけあうものがないのだ。

むしろ与え合うものだらけになる。

うんこじゃないよ。愛だ。


愛は勝手に広がっていく。

喜びは勝手に広がっていく。


真っ暗闇の山を見ながら、喜びでウキウキする謎のおばさん。

全身から喜びが膨れ上がってくる。

真っ暗な山は愛の表現。

カジカの声は愛の表現。

遠くで聞こえる電車の音も愛の表現。

愛が満ちてくる。


愛は形じゃない。

その形の先にあるものだ。

その形を抱きかかえている何かだ。


私たちは形にとらわれ、その形を判断し、一喜一憂する。

それが自我の目線。


その背後にあるものに心を向ける時、

形のないものに目を向ける時、

聖霊とともにいる。

それは静かで、幸せな時間。



私は絵を描く。器を作る。

形を作っている。

形にとらわれているとも言える。


だんだんわかってきたことは、

その形が重要じゃないってことだ。


その思い。

その思いが形として現れているということだった。


私は山や森や植物を見てそこに神を見る。

そしてその神と出会った思いを絵や器にする。


いただいた愛を、感謝で目に見える形にする。

自分の喜びが外に広がっていく。

おお〜、なんて素敵なんだ〜。


あれ。恐れはどこへ行った?






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2026年5月14日木曜日

陶芸の日々

 

トルコブルーの呉須にベンガラの絵付け。
織部の釉薬をかけたのに青い色が出た。不思議。

ここんところ陶芸三昧だ。

なんとなく週2のペースで陶芸教室に通い、

そのほかに素焼きや本焼きの窯入れだ窯出しだ、

ついでにスイッチ入れ係だと、なんだかずっと陶芸と関わっている。


おまけに旦那までやりだした。

彼は仕事に行く前にそして帰ってきてからも作りまくり完全にハマっている。

その量たるやハンパない。

うちの窯に入りきらないから、あっちこっちの窯に持っていくはめに。


庭の草花を絵付け。
ちょっと気に入ってる。



陶芸って道具だらけだ。

粘土と手さえあればいいってもんじゃない。

粘土置く板だの、こねる台だの、

削りのためのカキベラ、カンナ、

形を整えるためのコテ、ヘラ、しっぴき、なめし皮、

素焼した後は、釉薬、絵付けのための呉須、色絵の具、撥水剤、等々。。。

うちには今手回しろくろが大小4つもある。

そして玄関にはでかい電動ろくろ(どくろじゃないよ)。


教室の生徒さんが話してた。

「絵の教室に行くと、すごく疲れるんだけど、

なぜか陶芸の教室は疲れないんだよね。。。」


雲のような形の小さな器。



そうなのだ。

なぜか知らんが、私もそうだ。

早朝お弁当作って、

朝から晩まで陶芸やってヘトヘトになるけど、

その後は晩御飯作れるくらい回復する。

土ってなんかあるのかな。

コネコネ、ネリネリしてそしてろくろの回転に合わせて形を作っていく。

童心に帰る?その面白さのせいなのか、土という自然のものに触れているからなのか。

心は穏やか。

アーシングと似ているのかな。

大地に触れている安心感と似ているのかな。

だからリタイヤした人は土遊びする老人が多いんかな。


異常なくらい指を使うから筋トレになるし、

その指先の感覚が研ぎ澄まされてくるから、

ボケ防止にもなるんかも(笑)。


まあとにかく楽しい。

できたものを買ってくれる人まで出てくるから更に嬉しい。


おまけに奇跡パパからラーメンどんぶり作ってくれってリクエストまで来ちゃった。

大きいものになればなるほど難しいけど、挑戦してみるぜえ。






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2026年5月11日月曜日

自分で作ったお化け屋敷

ミステリーペーパーバック表紙イラスト


Aさん、Bさん、Cさん。

三人とも全く別の人物なのに、

三人がまぜこぜになって時々わからんなる。


ダンナに言わせたら「それは同一人物」だそうだ。


それを聞いた時大笑いしたが、

ひょっとしたらそうなのかもしれない(笑)。



かおりさんのブログで「自分で作ったお化け屋敷」というフレーズにハマった。

私たちは自分で作ったお化け屋敷にいる。

そしてそのことをすっかりコン忘れてきているのだ。

そうじゃなきゃお化け屋敷で本気で怖がれないではないか。


Aさん、Bさん、Cさんが、つくしが作ったモブキャラだったら、

似たようなキャラになっていてもおかしくはない。

だってそう簡単には多くのバリエーションが作れないから。


私が作った恐ろしいお化け屋敷。。。

想像してみる。


恐ろしい形相をしたエンマ様が私にこん棒で殴りつける。

あ、これトーチャンじゃねえか。


古いお屋敷の奥の奥に、

10ワットぐらいしかない電球の下にぼんやり浮かび上がる深みどり色の和式のトイレ。。。

恐る恐る覗けばそこに真っ暗な底なしの穴が。。。

あ、これババアちゃんの家だ。


周りを土葬の墓に囲まれた一軒家。。。

西の森には腰の曲がった墓守の老婆が住んでいる。。


その一軒家は私が幼い頃住んでいた家。

そこのぼっちゃんトイレは、

土葬のとき掘られた穴をそのまま使っているというもっぱらの噂。。。。


そのまんまお化け屋敷じゃねえか!

我ながら素晴らしい設定を作り上げたもんだ。


この世は恐ろしい人で溢れていて、

私は媚びて媚びて媚びまくらなければこの世で生きてはいけない。。。


あの夜、トーチャンの逆鱗に触れ、

裸足で外に放り出され全ての雨戸を閉められ、

「ごめんなさい!ごめんなさい!もうしません!」

と泣き叫びながら雨戸を叩きまくったあの夜。

何をもうしませんと言ったのか覚えてない。

たぶんご飯を全部食べられなかったか、靴が揃ってなかったか。


ご飯が全部食べられないことで大罪になってしまう私が、

力のあるものの下で生きるには、

泣いて懇願しなければ生きていけない。


なんと恐ろしいお化け屋敷設定ではないか。

私にはなんの力もなく、その自身の力を他人に渡していた。


考えたら、お化け屋敷って他人(お化け)に怖がらされる屋敷だもんね。


その時、自分の外にいる存在、力のある存在、

父や出版社やアートディレクターや画廊のオーナー等々の

権威にひれ伏して生きていかねばならないという信念が

私の中に深く根付いていたことに気づかされた。


こっ、これはあの時の体験からずっと続いている。。

気づかないまま、その信念の中で、

惨めな思いを抱えながら力のある存在に泣いて訴えていたのだ。


これを知るために私は何度もなんども同じ経験をして、

そこにその信念があるよと教えてもらっていたのだった。




だがそのお化け屋敷の中で、光は確かにあった。

そうでなければ私は今頃死んでいる。

だがその違いが私には自覚されていなかった。


その光とは、自分と他人は対等だということ。

力がどちらかにあるということではなく、どちらにもある。

そしてそのどちらも私だということだ。


私の中に分離したもう一つの自分を作って、その片方に力を与える。

ある時は他人に、またある時は私に。

そうやって力のシーソーを続け、この世界を実在させ、

お化け屋敷を長々と維持させていたんだ。


見る対象はお化けの姿じゃない。

お化けの心を見るんだ。

悲しくて、苦しくて、恐ろしくて、怒りにまみれたそのお化けの心を。

傷ついた自分の心が、お化けという形を作り出していたんだ。



外にあった力は、つまり権威という力、恐ろしいと思わせる力は、

私が原因だった。

私の中にある力の一部を外に放り出して、それと対峙していた。


それを今戻していく。

自分の元へ。


自分には力があった。

それを思い出していく。


微動だにしなかったお化け屋敷が、

今静かに解体を始めた。









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