2026年9月2日水曜日

今後の予定

写真どり、写真の切り抜き、合成、レイアウト、
全部一人でやったあ〜。誰かほめて。

 

9月に入った。

ここから本格的に忙しくなる。


10月の展覧会の準備だけでなく、

その前に9月の後半での陶芸教室への出展作品作りもある。

おまけにもう1箇所絵を展示するための準備と、

展覧会中、他の場所での陶器の出展もある。


絵の制作と作陶(なんかカッコいい言い方w)が頭の中でごっちゃになる。


最近どうも和紙脳と、陶芸脳の切り替えが難しくなってきている。


陶芸にハマってきているのだろうか。。。




2年前から入った陶芸教室の先生は、来年3月で90歳。

陶芸歴40年(もう少し長かったかな?)のキャリアを持つ。

教室を始めてから30年。


私が入ったころは、脊柱管なんちゃらかんちゃらで、

杖をついてヨボヨボとやっと歩いている感じだった。

教室は誰かに譲る方向で、

そして登り窯や電気窯などで埋め尽くされていた120坪あった陶芸の工房は

綺麗さっぱり処分した。

家も小さなアパートに引っ越して、

いわゆる終活に向かって進んでいってるところだった。


ところがそのうち

「先生!杖!杖!また忘れてる。持ってなかったら帰り道がキツイでしょう」

と生徒に言われることが度々。

ボケ始めたのかと思いきや、杖を忘れるぐらいに歩けるようになっていたのだった。


その頃はガリガリに痩せていたのが嘘のように朝はご飯とパンを食べる大食漢に戻り、

ガッチリした体つきになり、走り始めたバスを走って追いかけるまでになった(笑)。


教室は3箇所に分かれているが、

運転免許も返上したため、

重たい道具や陶器や粘土もキャリーカートに乗せて

電車とバスと徒歩でどこまでも行き来する。


陶芸家は本当に体力がいる。

重たい粘土を練ったり持ち上げたり降ろしたりするかと思えば、

指先の一瞬の繊細さも要求される。

剛と柔が入り交じる。

絵を描くのとはまるで違う技術と体力勝負。

似ているところは絵付けぐらいか。

それでも曲線に絵を描くという平面に描くのとは違う技術もいる。


土を練り、ろくろや手びねりで成形をし、そして削り。

この削りも難しい。先生曰く、削りが楽しくなったらしめたものだという。

私にゃ削りはまだ面白くねえ。


そうしてやっと形ができたら800度の素焼きの工程を経て、

絵付け、釉薬掛け。そして本焼きに至る。


今までは絵を描いたら額に入れてハイ終わりだったのが、そうは問屋が卸さない。

本焼きの1240度の火に焼かれるという工程が、

全く想像しなかった何かを生み出してくるこの面白さは何?


「あと3、4回は個展を開く予定だ」

総勢28人の生徒さんたちの面倒を見ながら、

先生は自身の制作も始めた。


先生から見たら、65歳の私なんてまだまだヒヨッコだ。

「まだ私までに25年もあるじゃないか!やりたい放題だ!」

とのこと。


まわりは終活に進んでいるというのに、今からだ!と言われる。

なぜかまわりは元気なジジイばっかりだ。

「こうなれよ」と見本を見せてくれているかのよう。


いっちょ、やったりますか。


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今後の予定です。


第31回八王子陶芸クラブ展(陶芸展)

2026年9月22日(火)~27日(日)

10:00~17:00

初日13:00~17:00

最終日10:00~16:00

八王子市中央図書館 地下展示室

八王子市千人町3-3-6 042-664-4321

作品は購入できますが、展覧会なので後で渡す形になります。




築紫作品展(和紙作品展示)

2026年10月1日(木)~15日(木)


浅川市民センター 2Fギャラリー

八王子市高尾長1652ー1

042-666-4700

9:00~17:00

最終日は15:00まで




築紫作品展(和紙作品展示)

2026年10月9日(金)~19日(月)


高尾駒木野庭園

八王子市裏高尾町268-1

042-663-3611

開演時間9:00~17:00

ギャラリー9:3ー~16:30

入場無料




八王子市民活動フェスティバル(陶芸出展)

2026年10月12日(祝)

東京多摩未来メッセ会場

八王子市明神町3-19ー2

042-697-0802

10:00~16:30

入場無料


ここは多く作品を出展しますが、

当日私は展覧会の方にいるのでそこにいませんが、

器は購入できます。


お待ちしておりま~す!









和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです

2026年8月30日日曜日

無駄の中に愛がある。。。?

 


今年の夏祭りで気になることがあった。


その日は午前11時から町内にある小さな祠で神主さんを呼び祝詞をあげてもらい、ご神事が行われる。

その後町会の会館に戻って直会(なおらい)が催される。


日頃あまり顔をあわせることもない町会の人々も、

その時だけは日常を忘れて和気藹々と食べて飲み、親睦を深める。


ところが今回は私がここにきて最も質素な直会だった。

テーブルに並べられたのは、のり弁当とビールやお茶だけだった。


コロナ前までは、揚げ物などのオードブル、お刺身、漬物、お赤飯、汁物、

時には自分ちの畑で採れたものを持ち寄って和え物などにもしてきた。


そして隣の町会にあるお豆腐屋さんのお豆腐などが用意されていた。

それはお祝いに花代とお酒も送られてくることへの返し返される、

お互いの連帯の意味でもあった。

正直言うと、私は当初それをうざいなと思っていた。



コロナが始まり、全てが中止になっていった。

そしてここ二、三年から徐々に直会も再開し、夜の部の夏祭りも再開され始めた。

同じ皿を分け合うのは良くないと、一人一個のお弁当になっていったのは仕方のないことだった。

もしものことがあったらという可能性のために全てが縮小していった。

そしてたどり着いたのがのり弁一個。

町会の人々は何も言わず受け入れた。



合理的といえば、合理的だ。

誰かが誰かのお皿を突っつくわけでもない。感染の心配もない。

しかし隣り合わせで喋り合う時の唾はどうなるんだろう(笑)。


正直そこまでコロナに関してもう心配していないようだが、

合理性が別方向へ一人歩きし始めた嫌いがある。

準備するのがめんどくさい、忙しいから無理。。。

そこに今の経済の問題も。

物価がどんどん高くなる、食材もかかる。そりゃそうだ。



だがどうしても私の心に引っかかった。

コースによれば、この世は幻だから、

直会の食事が豪華だろうがのり弁だろうが、幻想は幻想だ。

そこに執着する私は自我の誘惑に乗っ取られている。

そう思えば思うほど、苦しくなった。


ふと合理性って愛だろうかと思った。

時間の無駄を省く。経済の無駄を省く。一人一個のお弁当。


日本に住んで長い外国人が、ある動画で言っていた。

日本にはシェアする心がある。

一つのお皿をみんなで取り分けて食べる。

するとみんないろんなものがちょっとづつ食べられる。それが嬉しい。

西洋は一人一つのお皿だけで完結する。

母国から来た人に、みんなでシェアしようといっぱい頼んだら、

誰も食べてくれなくて自分一人で全部食べる羽目になったと笑っていた。

僕、日本人の感覚になっちゃってたと楽しそうだった。


日本には同じ釜の飯を食うという考えがある。

そこで心はひとつになっていったのかもしれない。

いやきっとそうだったのだろう。

ひとつの釜の飯を食って連帯感を持つ。

楽しいも悲しいも分け合う。

楽しさは分け合うことで拡大する。

悲しさは分け合うことで軽減する。


昔の直会は非合理的で無駄だらけだった。

余ったオードブルやお刺身やお赤飯がたくさんあった。

だけどそれをみんなで分けて持って帰ってその夜の晩御飯になった。

ご神事で備えられた鏡餅の一部ももらって帰る。

私はワクワクして嬉しかった。


無駄の中に愛がある。。。


のり弁は合理的で経済的だ。

今年の夏祭りは夜の部が雷と大雨で途中で中止になったにも関わらず、

蓋を開けてみれば黒字だった。


町会は会社ではない。

そりゃあなんかあった時のための蓄えは必要だが、

必死になって町会にお金を貯めていかなければいけないことはない。

いざとなったら助け合うだろうことは町会の人たちを見ればわかる。


合理的に無駄を省いていくことで、

町会の中から何かが消えていくとしたら。。。



「夏祭りはいつも儲からないものなのよ」

昔の人はつぶやいた。

その言葉の中に深い愛を感じる。


町会の行事はお金を貯めるためにやるのではない。


ご神事を開いて人々が集う。

神を賛歌するための準備は決して無駄ではない。


それは翻って言えば、

自分を賛歌することになる。

神と私はつながっているのだから。


直会をどう捉えるか。

直会にどう接するか。

それは自分に向けたものでもある。


直会はそのためにあるのだなあと、

今回のこときっかけにじんわりと思った次第であった。









和紙で制作した作品のオンラインショップができました

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2026年8月26日水曜日

こんなん出来ました〜。ありがとうございます〜。

「喜び」

 

昔、神と出会ったことがある。


って書くと、白いローブを羽織った後光が差す聖人と会ったとかイメージしちゃうけど、

そんなもんは何一つ見えなかった。


そこに物質的にあったのは、

何一つ遮るものがないものすごい広い空と、

ひたすら広がるひび割れた大地と、

完全なる無音の世界。


音がない世界にいたのは生まれて初めての経験。

鳥や虫などの生命の音がしない。

風の音すら飲み込んでしまうほどの無音の空間。


そこで私は神に出会った。

目の前には何にもないのに。

なぜ神と出会ったとわかるのか。


それは神の思いに満ち溢れていたからだ。

愛だ。


私は神にとてつもなく愛されていると、

これ以上ないくらい受け取っていた。


何もないのにはっきりと感じる神の思い。

受け取りきれないほどの愛の量。

愛は、その巨大な空間いっぱいに満ちていた。


私はひび割れた大地の上で喜びに耐えきれず、のたうちまわった。



コースを学び始めてそれが神の思いだと知る。

まったく形がない、抽象の世界。


だから私は神を形で想像することがない。

イエスでさえ、彼をイメージで捉えようとも思わない。


ずっと形を描いてきたからなのかもしれない。

その形の中にそれはいないことを知っている。

神はその背後にいる。


私は絵を描く。最近は器も作る。

しかし神は絵や器の中にいない。

だが喜びの反映としてそこに見えている。


絵を見たとき、器を手にした時、

そこに喜びがあれば、神がいる。





最近、私の絵を見て、心が癒されている人の話を聞いた。

その人は壁に私の絵をかけてなくて、ベッドのそばに置いてある。

眠りに落ちる前、


「意識がなくなる眠りの、、その前、、

夜と、朝の覚醒するまでの、

思考にあまりひきこまれない時間。

その時空の中で、

つくしさんの「喜び」を感じるのが、

情動に落ち着き、呼吸が深くゆっくりになって、

私には心地よい時間です。

包まれ、みちる体感。しあわせです」


それを聞いた時、心が震えた。

これはもう、、、私の仕業じゃない。


絵を描いたのは私なのかもしれないが、

絵が勝手に別のものになっている。

彼女が自分を導くきっかけになっている。

本当の自分自身を思い出すために。


絵とはこんな仕事をするものなのかと驚かされたし、

そんな仕事を請け負っていることがありがたい。



現代絵画って、投資の目的になっていたり、

小難しい論理で構築されていたり、

ちょっと眉間にしわを寄せて鑑賞したりするものとして捉えられがちな節がある。


私はもっと単純で、うわ!と思ったものを絵にしている。

いつも自然の中でそれを見つける。

そして出来上がったら、その絵をお山に見せる。

その時、ちょっと気恥ずかしい。

でも感謝とともに報告する。


「こんなん出来ました~。

ありがとうございます~」と。









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