2024年3月18日月曜日

面白い動画


 

面白い動画を見た。

ナオキマンが秦氏という日本の社会を影で支えていた一族のトップの人との対談。

ぞわぞわした。


歴史は謎に包まれている。

学校で習ったことがちっとも面白くなくて、

一人あやしい世界を探索していた時代があった。


エジプトに行った時、ギザのピラミッドの麓にある、ある石を見て、

「これ、粘土じゃね?石を柔らかくする技術でもあったんじゃね?」と感じてた。

「どうやってこの巨大な石を運んだのだ?

んー。音だな。音でも出して、石を浮かして運んだんだろう」

とか、テキトーなことを考えて一人ほくそ笑んでいた。


動画では、まさにそのことが語られていた。

巨大な石を1センチでも浮かせれば、そこに平らにした道は作る必要がない。どこへでも運んでいける。その技術が失われたのは産業革命が起こってからだと。重機を売るにはそんな技術があっては売れない。そういう技術はことごとく破壊されていったこと、そのころから私たちは機械に頼らざるを得なくなっていったことなど語られていた。全てはビジネスのためだと。

大阪城にある巨大な石など、今の重機では運べないという。

石工のあのう衆は密かにその技術を今も知っているのかもしれない。


また、エメラルドタブレットのことも話していた。

その文字はなんと日本の神代文字、アヒルクサ文字で日本語で読めるという(!)

ああっ、読んでみたい(笑)


などなど、私が密か数十年探求していて、その中で「実際こうなんじゃね?」と一人自説を唱えていたことが、その動画では次々に「はい。そーです」と、こともなげに語られていた。


巷で噂されている2025年問題も軽くこなす。

もう物質主義の時代じゃなくなってくるのだ。

今までは石器時代や鉄器時代だという(笑)

鉄や石の時代は、今頂点を迎え、崩壊してきている。

その転換期がここ2、3年のようだ。

そこから精神の世界へと向かうらしい。




私はいっとき猛烈に神代文字に惹かれていた。

日本の文字は中国から漢字で入ってきたものを略してひらがなやカタカナにしたと言われていることにどうにも納得がいかなかった。そして落合直澄が徹底的に研究していた古代文字に出会い驚愕した。日本には何十種類も文字があったのだ。(中にはツクシ文字というものもある)

一時は夢中になって古代文字があるところに出向いていったものだ。

その文字の一つでエメラルドタブレットが読める。。。悶絶。。。。


実はその落合直澄さん、私が町会の歴史を探っている時、

偶然にもその名前を見つけるのだ。


昔の甲州街道が、今の甲州街道に変わる分岐点に、

落合番所という地元の人が見張る関所の地元版のようなものがあった。

その一帯を守っているのが落合一族であった。

落合直澄は、その一族であったのだ。

そして彼が生まれ育ったところは、私の町会のとなり、駒木野(こまぎの)だったのだ!

ぞくっとした。

まさかニューヨークまで持っていって大事にしていたものが、

巡り巡って、彼の生まれた隣町にやって来ようとは。

これも町会の歴史をしらべなければ全くわからなかったことだった。


ちなみに今度のゴールデンウィーク中、その駒木野で展覧会をやります。



昔探し求めていたものが、今こうして答えとして帰ってくる。

それはある意味、昇華ではなかろうか。


ああでもない、こうでもないと、答えを探している間は、

そのわだかまりはずっと心に残り続ける。

だが、それが一度「そうですよ」と合意されれば、

それは自ずと昇華され、消えていくのだ。


私の過去が、私のこだわりが、こうして消えていく。

それは私をますます軽くしていく。



石器時代から、精神の時代へと向かう準備するぞー!



追記:

この文章を書いた後、駒木野の直澄さんのお家はどこ?と、うろうろする。
すると前に面白い昔話を昔話を語ってくれたオヤジと道で出逢う。


「落合さんのうちってどこですか?」

「う〜〜知らねえなあ」

と、話しているうちに、どんどん思い出してくるオヤジ。

「あれ?親戚に落合っていたなあ。。なんか、国に貢献したとかなんとか。。。」
え?まさか、親戚に直澄さん。。。?


なんとそのオヤジさんは関所守りを代々やっていた由緒ある家柄のオヤジだった。


「俺が小学生の頃、学校の校長先生が毎晩やってきて、

うちにある文献をいつも書き写してたなあ」

関所の記録をとっていた家柄だった。


うちに帰ってググる。出た。「小野崎家文書」これだ。。。

そしてさらにググると、、、。

なんと今の小仏関所の隣にある公園が落合直澄さんのお屋敷の跡地だったのだ。。!


なんか、おもろいなあ〜。




絵:絵本「はなたれさきち」より、天狗とさきち



2024年3月16日土曜日

麦汁の時間

麦汁と菜の花
 

私は夕方になると、ちょっとした酒の肴を作って縁側で一杯やるのが日課になっている。


長い冬が終わって、暖かくなってくるに従い、庭も色も少しずつ色づいてくる。

それを眺めながら麦汁(缶ビールのこと)か、

レモン汁(チューハイ)、ぶどう汁(ワイン)をチビチビやるのだ。




ルッコラと生ハム、枝豆



目の前はすぐ山。その下に川が流れている。人工物と言ったらお隣の倉庫ぐらい。

川と山の間に小道があって、登山客が歩いている姿を見るだけ。


一杯やりながら鳥の声を聞き、時折漂ってくる花の香り、草いきれ、川のせせらぎを聴いて過ごす。

その至福の時間といったらこの上ない。



たけのこの煮物とマグロ



でも正直言うと、お酒を飲んでホワンとすることに、どこか罪悪感があった。

ギシギシした心を癒してもらうことは、お酒を飲んで逃げているんじゃないか?と。


でもそうじゃなかった。このホワンこそが、本来の私なのだ。

見るものが優しく、出来事もどこか遠くのことのように思え、

さっきまでギシギシしていた出来事への反応も、全てが大したことないように思えてくる。


お酒を飲まない時でも、そのホワンとした感覚が日常の中で増えていくに従い、

あ、お酒のせいでそうなっていたわけじゃなかったんだ、

元々そうだったんだと思い出されていく。


その時の私は、でへーっとしてて、ニヤニヤして、

この世界では何もできない人、アホっぽくなる(笑)。

でも心は上機嫌なのだ。


この世界を近視眼的ではなく、遠くに無責任に見ている。

へえ~。そうなんだ~って。



どう生きていいかもわからない。

これからどうしたらいいかもわからない。

何をどうすればいいのかもわからない。

まったくの無計画。



これまで必死で考えてきたけど、思ったようにならなかった。

それがわかってきた今、さて、これから一体何をどうすればいいのだ?


うまくやってこれてるなら、とっくにそうなっていたはずだ。

だけどそうならなかったってことは、

やっぱり私はアホなのだ(笑)。


アホを認めて、アホなままでいよう。


麦汁も飲んでいないのに、

すでにホワンとしている朝のひと時。




デーツとくるみ




2024年3月12日火曜日

私が作ってました(笑)

 


「やばい。何も稼いでないのに、またお金使ってしまった」

「ちっとも痩せない」

「人に悪口を言われているかもしれない」

「私はとんでもない間違いを犯しているのかもしれない」



私は恐れ(問題、罪)探しをしてきた。

恐れが見つかったら、それを赦し、聖霊に渡す。

ずっとやってきたが、その恐れはちっとも減らない。

それでもかなり恐れは減ってきた。

だけどそれでもまだまだある。。。。


ある時、いつものように手に持った恐れを渡そうとした時、疑問が湧いた。

「この恐れはなんでここにあるの?」


「あ。。。私が作ってたんだ!」



すでにそこにあるものを見つけていたんじゃなかったんだ。

そんなものは最初っからない。

あるように思っていたのは、実は自分が作り出していたのだ。


心は強力だ。常に何かを作り続けている。

その方向が間違っていた。



「あなたは自分で作り出したものを信じる」とコースはいう。

まさに、私は私が作り出したものを信じ切っていた。


自分で作り出すものは、神と正反対のものを作る。

それは神に対抗しているからだ。

だから愛とは真逆の恐れを作り続ける。

恐れは人を分離する。一人の人間という幻想を作り出す。


そして一人ぼっちになった人間という自分を必死で生かそうと試みる。

その原動力は恐れだ。恐れはさらなる恐れを生んで、地獄巡りになる。




「つくしよ。すべて小芝居だ」

声が聞こえた(よーなきがする笑)


どんな不幸もすべて小芝居だとしたら。。。

それがありありと見えた瞬間、ニヤッと笑った。



そんないきさつもあったことから、

恐れは全部自分が作り上げたものなのだと気づいたのかもしれない。


恐れの世界は実在しない。

愛だけが実在する。


ということは、恐れは私が作り上げた気になっているだけで、存在しないのだ。

神が創ったものだけが実在する。


では私が思いつく恐れ、罪、すべてがでっちあげの小芝居。

オロオロ、ビクビク、ああなるかも、こうなるかも、、、。


すべて私が作出した私の小芝居、これが今までの人生だったんだ。

恐れに対処するだけの人生。


そう気がついてから、「もう罪は作らない!」と固く心に決めた。




あれから何一つ問題が見つからない。

出会う人すべてが優しい。

心も静かだ。


恐れに包まれて、ヒリヒリして見えていた世界が、

見えているものは同じなのに、安堵してみていられる。


どんな不安定なものも、実在しないことを知り始める。


その慣れていない状態に、心が戸惑う。

「問題がないことが問題だ!!!」と(笑)




心は常に躍動的に何かを作り出している。

自分のでっち上げをやめた時、

神と共に創り出す。


愛が創造され、拡張されていく。




絵:ミステリー表紙イラスト




2024年3月9日土曜日

高尾にある庭園で展覧会開きます。


 

今年のゴールデンウィーク中、

庭園の中にある古い日本家屋で展覧会を開きます。

おととしの晩秋、開いたところと同じ場所です。



『つくし作品展』


時:  4月29日(月)~5月8日(水)

場所: 高尾駒木野庭園

    東京都八王子市裏高尾町268-1 tel. 042-663-3611

時間: 9時~17時30分 入場無料




おととしは、初めてギャラリーでない場所で個展をやるということに、

一体どうなるかとドキドキしたものでした。

ところが実際は日本家屋にはえる私の絵にびっくりしました。

真っ白い壁しかないギャラリーに飾られるよりも、

この絵を自分の家に置いたらどう見えるのか?ということも想像できるし(笑)。


今回も思いっきり和紙を使って制作。

描いたり、塗ったり、切ったり、ちぎったり。


いつも歩く散歩道で出会う植物たちや、

森の奥にある何かの気配、

不思議な感覚、、、。

そんなものを描きます。


土佐和紙と出会ったこと、

そしてこの高尾と出会ったことで、

新たな世界を見つけてしまいそうです。


その世界を覗きに来てやってください。


またハガキができた頃、改めてお知らせします。



絵「いにしえ」和紙、水彩