2026年5月30日土曜日

絵のかけら


 

明け方不安で目が覚めた。

何が不安って、やっぱり未来。

もうすぐやってくる老い、病、死。

でもその前に経済。

未来はもう恐れしか見えない。

布団の中でいくらもがいても、

どう計画立てようとも、

その不安が全く解消されることはない。


そうだ。

形のないもののところへ。


この世界の背後にある、まったく形のない何か。

とてつもなく大きな何か。

今もそれに包まれている。

満ちている何か。

そこに意識を向けた。


すっと不安が消えた。


穏やかで優しく、満ち足りた静けさがそこにあった。


ああ、そうだった。

答えはここにあった。


何が答えかを知るための感覚は、

心が穏やかになる、喜びが広がる。

この感覚を覚えておくと便利。


そっちに向かっておくれというメッセージだ。


不安とはこの世界のもの。

人という形、社会という形、ルールという形、形、形、形。

その形をどう変えようともがいても、

絶対的安心はない。


そのことを知るために、私は苦しんできた。

この世界に生きる私の絶望を徹底的に味わい、

そこに解決の道筋はないとはっきりと知るために。




ここに一枚の絵があるとする。

それは神の子の心だとしよう。

神の子はそれを小さくちぎってバラバラにした。

その小さな絵のかけらの一つが自分だと思った。

かけらとかけらの間の隙間を「これは自分の体だ」とした。


その小さなかけらの中に、小さな心を入れて、

その心に「この小さなかけらが自分だ」と思わせることにした。


元は一つの心なのに、ちぎってバラバラにすることで、

「自分以外の体の心はわからない」ことにした。


そしてその小さなかけらは弱く限界があって老いて死ぬことにした。

その小さなかけらは病気にもなる。

病気になることでさらに他の存在とバラバラになっていった。


だがそのちぎったと思っていた絵は、ちぎられてはいなかった。

ちぎることさえできないものだ。

ちぎったという夢を見た。バラバラになったという夢を見た。

その夢がこの世界。

バラバラで心は不安に満ちて、

自分一人でサバイバルしなければ生きていけない、

この冷たい世界に一人置き去りにされた、

たった一人ぼっちの私という夢。


それは自分をずっといじめていたんだ。

小さな自分、弱い自分、ダメな自分、生きていくのが下手な自分

という設定にして。

このちぎられた小さなかけらが自分だと思うことにして。




「私は体ではない。

私は霊だ。

私は自由だ。

私は今でも神が創造したままの私だ。」


コース言葉は、最初はチンプンカンプン。

そしてある時、ふとその言葉を理解する。

そしてその感覚を忘れる。

そしてまたある時その言葉をさらに理解する。

そしてまた忘れる。

そしてまたある時、その言葉を以前よりもさらに理解する。

そして徐々に浸透し始めるけど、

また忘れてかけらに戻る。

そしてまた以前よりさらに深く理解する。

そしてそれを頻繁に思い出すようになる。

そこに至っていない自分を嘆く。

そしてある時、それが自分の事だったんだとはっきり理解する。











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2026年5月26日火曜日

自然の化身

 

「杉林の小径」

蛇滝に向かう途中の道である男の人と出会った。

彼はずっと探求の道を歩んでいる。

仏教のあらゆる宗派を渡り歩き、

自給自足の生活に憧れ奄美や徳之島で師匠と出会い、

そこで一人生活をする。

今は東京のどこかで居を構え、時々こうして高尾山にやってくる。


夕食を食べながらその人の話をすると、

もういい加減にそういう世捨て人的な人と会うのはやめろ。

なぜそんな人ばかりと出会うのか、

そんな自分自身をしっかり見つめてみることだと旦那に言われる。


確かに世捨て人的な人には過去に二人会ったが、

そのぐらいで他に思い当たる人物は旦那しかいない。

私が出会う人は普通の人よりはるかに多いから、

そのタイプの人は全体の1%にも満たない。

だがこれも何かあるのだと思い、心の中を旅する。


私の中にある信念は、

私は何を考えても、何を感じても、何をしても間違っているという信念だ。

全面的に私が悪いという信念がある。

だから今回の出会いも、私が間違ってしまったのだと考えた。


これは小さい時に父親に殴られて育った時のあの感情を引き出して、

光の下に晒し、終わりにすることなのだと思った。

その感情を終わりにするために起こった出来事なのだと。


悲しみ怒り恐れ、それらの感情を表に浮上させ、

味わいながら聖霊にひたすら渡し続けた。

しかし一向にその苦しみは消えなかった。

ただ苦しみの中にいるだけでいいのだと思ったが、

どうにも苦しさに耐えられない。



コースを読んだ。

邪悪な夢を兄弟と分かちあわないことだという。


私の中に少し彼に対する怖さがあった。

旦那はそれに気づいて、それを終わりにしろと言いたかったのかもしれない。


兄弟を恐れない。

兄弟を恐れるとは、自分と兄弟を分離させていたがっているということ。


私はあまり人は怖くない。だから知り合いがたくさんいる。

それでも厳密にいうと恐れはある。

それを徹底的に根絶せよということなのか。

だからもう兄弟を恐れるのはやめようと思った。




すると森の中にいる彼が心に見えた。

杉林を背景に立っている。

彼は次第に後ろの杉たちに溶け始める。

彼の体はいく筋もの線になって、

ザーッとゆっくりと上に流れ始めた。

彼の姿はもう見えない。


その時、彼はこの森そのものだったんだと思った。


この蛇滝の森の思い。

この森にはずっとずっと長いこと歴史を刻んできた幾千万という思いが宿っている。

その思いが彼という形をとって私の前に現れたとしたら。


それは浄化のためであるのかもしれない。

私たちの、宗教への思い、悟りへの思い、神への思い。。。

自然の中に染み込んだ悲しみ、怒り、恐れ。。。
それは私の思いでもある。

それを取り除くために。。。


そう考えると、後の二人もまた森の人だ。

ミツバチや虫の妖精、もう一人は木の妖精。。。

彼らは自然の化身として私の前に現れたのかもしれない。


そう考えた時、やっと心が穏やかになった。













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2026年5月20日水曜日

うんこ投げつけ合戦

「庭草長いお皿」

 

喜びに満ち溢れている時があるかと思えば、

打ちひしがれて絶望の心になるときもある。

この極端な心はなんだ?


昨日の夜、恐れで起こされてじーっと座る。

真っ暗な部屋に恐れがあるわけでもない。

ただ心の中だけが恐れなのだ。


喜びに満ちているときもそうだ。

真っ暗な部屋には何の変わりもない。

ただ心だけが動いている。


私は今自我の誘惑に負けている。

「おまえは愚か者だ」

「人はおまえを見捨てる」


自分がやってしまったことに後悔をして恐ろしさの中にいる。

恥ずかしい。

なんてことをしてしまったのだ?

私は間違ってしまった。


これが自我の誘惑。

人はこれに魅了されて、自己否定の中に埋没。

あるいはそれを他人のせいにして他者批判へと埋没。


この世界で生きるとは、自我の誘惑に気がつかないまま、

どちらかが悪いという判断の中で絶えず翻弄される。

いっときは自分が正しいということに安堵するが、次の瞬間逆転する。


うんこが自分の手にあるときは、

相手にぶん投げて安心するが、

次の瞬間うんこはぶん投げ返される。

うんこ投げつけ合戦。


自我とともにいるといつも「うんこ」がある。

しかし聖霊とともにいると「うんこ」などない。


投げつけあうものがないのだ。

むしろ与え合うものだらけになる。

うんこじゃないよ。愛だ。


愛は勝手に広がっていく。

喜びは勝手に広がっていく。


真っ暗闇の山を見ながら、喜びでウキウキする謎のおばさん。

全身から喜びが膨れ上がってくる。

真っ暗な山は愛の表現。

カジカの声は愛の表現。

遠くで聞こえる電車の音も愛の表現。

愛が満ちてくる。


愛は形じゃない。

その形の先にあるものだ。

その形を抱きかかえている何かだ。


私たちは形にとらわれ、その形を判断し、一喜一憂する。

それが自我の目線。


その背後にあるものに心を向ける時、

形のないものに目を向ける時、

聖霊とともにいる。

それは静かで、幸せな時間。



私は絵を描く。器を作る。

形を作っている。

形にとらわれているとも言える。


だんだんわかってきたことは、

その形が重要じゃないってことだ。


その思い。

その思いが形として現れているということだった。


私は山や森や植物を見てそこに神を見る。

そしてその神と出会った思いを絵や器にする。


いただいた愛を、感謝で目に見える形にする。

自分の喜びが外に広がっていく。

おお〜、なんて素敵なんだ〜。


あれ。恐れはどこへ行った?






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