2017年2月27日月曜日

「お金、使って下さい」


昨日はなんか、変な所のつぼにハマった。夜、思いだしちゃあ、へらへら笑うわたし。

あるお金持ちさんが、お金が黙っててもわんさか入ってくる。経理の人に「お金、使って下さい」と言われ続けるらしい。しかし使えと言われても、そう簡単にお金は使えるものでなし。お金を使うのに苦労しているらしい(笑)。

たとえば、毎日1万円使ってくださいと言われると(お金持ちさんは、その10倍以上なんだとおもうけど)、はたして毎日使えるもんなんだろうか。

そりゃ最初は、ウホウホ使うに決まってる。
だけどウチにないものはなし。冷蔵庫もコタツもストーブもある。(あたりまえかw)スーパーに行ったって、いっぱい買ってもせいぜい5000円ぐらいだし。
それを毎日使うってなあ。。。想像しているだけでなんだかおなかいっぱいになる。

ホント言うと、昔はそのくらいふつうに使ってた。だけどこの年になってくると、そんなに必要なもんなんてなくなっている自分にも気がつく。毎日1万円は使えないなー。

ないないっていって、苦労する事もあるけど、使え使えって言われて苦悩することもあるんだなあ~って、おもっちゃって。

それにお金持ちになると、寄ってくる人、寄ってくる人を全部を疑ってかかる事になるそーだ。事実色々あるらしい。
なんだかなー。

「ビンボーって、気楽でいーなー!」

そんな話しをラーメン屋さんで聞いて、込み合った店の中で、思わず大声で言っちまった(笑)。

2017年2月25日土曜日

海沼武史 Takeshi Kainuma / ヒカリの庭へ





ことのはじまりは、中村明博店長と海沼武史が、うちのキッチンで二人並んで写真や表現について、ああだこうだとよく会話をしていたことからだった。

「そんなこと、ここでしゃべってるだけじゃつまらんやん。それ動画でとったら?」
ふたりの状況を引いて見ていたわたしは、そうつぶやいた。

「え~~~。それ撮ってどうするの?」
「それとって、編集して、ユーチューブにアップしたらえいやん」
「自分で編集するのか?」
「あたりまえやん!あんたがせんで、だれがやるん」
「え~~~。自分が映ってる動画を、自分が編集するんか?かっこわるい~~。」
「かっこわるうたってえいやん!」
と、はじまったのであった。

では撮影するには、カメラマンがいて、音響さんがいて、、、と、スタッフや機材を調達しようと店長が試みてくれたが、だーれもいない。
結局、言い出しっぺのわたしが生まれてはじめてビデオを回し、店長がタケシにインタビューするというシンプルな形になった。

2月5日の寒ーい日、雨と雪の気配を感じつつ、3人のあやしい大人が裏高尾の田舎をウロウロしながら撮影を開始。6時間かけて動画をとった。

その後、タケシが動画を編集。自分の話し方、自分のしぐさ、自分の癖。。。あらゆるものを引いてみることのきつさを体験したようだ。

自分の姿を外から見る?写真ならまだしも、動いている状態を、他人の視点で見ることの残酷さは、やってみなければ、わからんもんやろうなあ。
わたしにゃあ、できないw(おまえがいいだしたんやろが!)。

こうして七転八倒、阿鼻叫喚、四苦八苦の末、20分ほどの動画が出来上がりました。
彼、海沼武史の世界感が現れていると思います。

一度見終わったあと、試しに音だけを聞いてみてください。
言葉と、音と、音楽が織りなす、不思議なここちよさを感じてもらえるかもしれません。


音は見るものです。
カレーは飲みものです。


2017年2月24日金曜日

山の声




「こんちわ~」
「おーっ。きれいになったなあ~」

近所に住む女子大生と久しぶりに道でばったり。きれいにお化粧をして、今流行のファッションに身を包み、何を聴いているのか、耳にイヤホン。

随分変わったなあ。。。
感慨にふける。
あれが「山の声」を聞く少女だったとはとてもおもえない。

彼女がまだ小学校に入ったか入らなかったかの頃。女の子とも、男のことも区別がつかない、不思議にとぼけた彼女と話しをするのが大好きだった。

ある日のこと、道でいつものように二人でいると、彼女が山の声のことを話しはじめた。
「え?山ってしゃべるの?」と、私。
「うんっ!え?つくしちゃんは聞こえないの?」と彼女。

目の前の山を見つめて、山の声を聞いて見る。だけどわたしの耳にはうんともすんとも聞こえない。
「え~~~。聞こえないよお~~」
「そう?どれどれ」

そういって彼女は、地面に腰を下ろした。足を大きく開いて膝を立て、ピラミッドのような格好になって、じーっと山の声を聞いている。自分も山とおなじカタチになって、山と会話しているようだ。
そしてこっちをみて、にこっとわらった。
「ほらあ~~、きこえるじゃーん」
「なんていってる?」
「おおおおおおおおおおおお~~~~~~~~~~って!」

わたしはその声に感動した。
彼女は山の声を聞いている。確かに聴いている。
その事実に心が震えた。


あれから高校生になった彼女に山の声はまだ聞こえるか?と聞いたことがあった。
彼女はぽかんとした。
「なんのこと?」
「ほらー。あんた、山の声聞いていたじゃ~ん」
その時の彼女の顔が忘れられない。まるでお化けでも見るかのようにわたしを見たのだ。
「このおばさん。きもい。。。」とでもいわんばかりに。

聞いてたのは君だ。わたしじゃない!(笑)

黒いハイヒールを履いた今の彼女に、山はもう話しかけないのだろう。そのイヤホンから聞こえる声は、山から遠くはなれたところにある声なのだろう。
今も私たち二人の目の前には、昔と変わらぬ山があるのに。


この村で年に2回のご神事がある。ふもとの小さなほこらの前で、神主さんは祝詞をあげる。祝詞をあげるその始まりと終りに、「おおおおお~~~~~っ」という声を発するが、その声が彼女が山の声をマネしてくれた音によく似ている。
毎回、山を背にこの音を聴くのがわたしの楽しみになっている。



かつてわたしも彼女のように、山の声を聞いていたのだろうか。
彼女もわたしも、人間の世界にどっぷりはまっていくにしたがい、山の声がだんだん聞こえなくなっていったのかもしれない。

思えばずいぶんと人間のルールという服を重ね着してきたもんだ。
そろそろ一枚一枚脱いで行くとするか。

そのうち、山の声も聞けるかも知れない。
きっと今も山は話しているのだ。


絵:「じゅ」/和紙、洋紙、オイルパステル、水彩


2017年2月18日土曜日

あの頃に戻りた。。。くないw


「ああ、あの頃に戻りたいなあ~。。」
っていうのがない。
「二十歳の頃のわたしに戻りたい。あの頃のわたしはキレイかったなあ~」
とか、おもったことがない。

じじつ、きれいでもなんでもなかったわけだが、それでも今よりはマシであった。

幼稚園の時から、老け役で舞台に立つほど、すでにばばあだった。先日もダンナといると、親子と間違えられた(もちろんわたしが親)。これで3回目だ。
ダンナが見た目が若く見えるのと、わたしが見た目が老けて見えるのが、ちょうどいい感じにブレンドされて、母と息子に見えるらしい。

なんでかしらんが、ちっちゃい時から、早く年をとりたいとおもっていた。だからおかあさんの役や、おばあさんの役をもらうと、うれしかった。
今まさに、その憧れの年齢に突入しはじめている。しかも見た目は実年齢より、15歳ほど上だ。大成功だ。

だからなのかどうか、マイナス5歳肌にも興味がないし、化粧もしないし、昔に返りたいともおもわない。

だいたい20ぐらいの時は、ひたすら苦しかった。一般的に言われる「若い=しあわせ=楽しい」というような方程式はなかった。
若くて楽しい毎日があったなんて、思いだせない。
みんなは本当にあの頃に帰りたいんだろうか。いい思い出だけ残してるんじゃないか?じっさいのところ、いろんな苦悩があったはずだ。しかも若いが故に犯した罪など、思いだしただけで落ち込むことがいっぱい。

「青春時代が夢なんて、あとからほのぼの、思うもの~。
青春時代の真ん中は、胸に刺さす、ことばかり~」
って、森田公一とトップギャランがうたってたけど(古っ!)、わたしにとっちゃあまさにあれが本音。
あの頃に戻りたいなんて、ムリムリ!むしろパス!

だから、20の頃よりも、30。
30の頃よりも、40。
40の頃よりも、50の今の方が、生き方も、姿形もすき。

ちまたにあふれている情報は、
「若いことは正しいことで、老いることはいけないこと」
みたいな考えを植え付ける広告や番組ばかり。
人は平等に年をとり、じょじょに衰えて、死にいたる。
それこそ自然の摂理。
それに抵抗することは、エネルギーをそれにそそぎつづけ、どれだけだいじな力を失っていることか!

「あるがまま」ってことばがはやってるけど、これは簡単に言える言葉じゃない。
その自然の摂理を真正面から受け取ることなのだ。

昔、日本人は老いることは誇りに思うことだったし、みな老人を尊重していた。今はどうだ。まるでアメリカ人のようだ。
アメリカに住みはじめた頃、老人が「老いていてすみません。。。」というような雰囲気を出していて、それを見た時ショックだった。
今、日本にもそんなムードがあふれている。

過去なんて、とっくに過ぎ去ったもの。
追いかけたって、帰ってきやしない。
そこにエネルギーを必要以上に注ぐから、より老化が早くなるのだ。

老化?
ほっちょけほっちょけ。

そんなもなあ、あなたの存在価値の中のびびたるものよ。


絵:「北条政子」の似顔絵(うそw)


2017年2月15日水曜日

「この可能性が目に入らぬかーっ!」の恐怖


何%の確率で、何々になる可能性があります。
何%の確率で、何々がおこる可能性があります。

可能性。。。。
よい可能性だったら、うれしいけれど、たいてい人は悪い可能性のことを注視する。
どこかに悪い事が起こる可能性を発見し、「あーーっ!それ問題!」といって、それを避ける方法を見出す。

可能性って、くせもんだよなあ。
99%は可能性だろうけど、
1%だって、可能性だもんなあ。

1%なら、「へへへっ」って、わらってすごせるけど、
37%とか言われると、「な、なんかびみょ~~~」だよな。

人はその可能性の中でびびる。
1%はわらけるけど、37%はびびる。
だけど、実際は、「起こる」か「起こらない」かのどっちかだ。

ところがその起こる可能性の出来事も、期限がなければ、
「ほーら、起こらなかったじゃないか!」
とも言えなくなる。
何十年もたって、それが「起こった」なら、
「フフフ。やはり起こりましたね。だから言ったじゃないですか。37%の可能性があるって!」
とかいわれることになるのだ。それってどうよ!

いつ起こるかわからない可能性を、日々ビビりながら生きる。
「問題」さえ見つければ、「解決」さえ見つければ、私たちは幸せになれる。
問題を見つけて、解決法を見つけて、ホッとしたのもつかの間、またある日、新たな問題が浮上する。そしてまた新たな解決方法を見つけて行くのだ。

そうやって問題を見つけ続けてはたして、しあわせになれるのだろうか。この世はとんでもない量の「問題」に満ち満ちているのに。。。

ある日ひとつの事件が起こると、その「可能性」を示唆して、その回避システムを作る。そうやって次から次に回避システムを作るうちに、何だか歩ける所も少なくなり、動く範囲も心なしか小さくなり、行動する自由度が減って行く。
「ええ〜〜?」とかいうと、
「だけどそれが必要なのよ!なぜなら。。。」と、「可能性」について語られはじめる。

「可能性」はいわば、一種の印籠だ。
「この可能性が目に入らぬか!」
「ははあ〜〜っ!おでえかんさま。おっしゃるとおりでごぜえやすう〜〜」
と、みんな黙る。

外を変えればわたしたちはしあわせになれると思っている。外のシステムを変えれば、いつかしあわせになれると思っている。完璧な政治システム、完璧な経済システム、完璧なエネルギーシステム、完璧な医療システム、完璧な教育システム、、、、。
そんなもんかね。


そんなもなあねえよ。
その完璧さを求める、その心が「問題」なのさ。
心が、問題を生み出す。
いや、心は「問題」がお好き。
問題を求めて飽くなき戦いをするのがお仕事。
そじゃないと、「自分」がいられなくなるから。

お日さん浴びながら、
「ほえ〜〜〜、いいおてんき〜〜〜」
なんていってたら、心さんの仕事がなくなってしまうじゃないか!
だから、
「いやいや。そんなほげっとしているばあいではない。なんかしなかれば!」
と、自動的に働かされるのである。

そーゆーふうに、心さんにあやつられているのが、今のわしらなんである。
すっかり、しっかり心のワナにはまってるのである。

不幸は、苦悩は、心の中にしかないのだ。

外ではない、超個人的なその心そのものにフォーカスする時代が来ているな。




絵:「成毛眞の超訳・君主論」表紙イラスト

2017年2月11日土曜日

今、その触っている紙を感じる


切り絵の教室をやっている。

生徒さんが、時間内に制作を仕上げようとあせっている。

あせる手がもつれて、作品が荒くなっていく。

わたしが「時間は少しオーバーしても大丈夫ですから、ゆっくりやってください」
と言っても、あわてている気持ちは止まらない。

理屈ではわかっているけれど、早くやらねば!というおもいでいっぱいになっていた。

「今、そのもっている紙、ノリをつけていること、貼ること、いまやっているそのことだけ見て下さい。その今もっている紙の触覚、ノリをもって、塗っている触覚。その感覚の中に入って下さい。。」
思わずそんな言葉がでる。

ほんの1分ほどで、彼女の焦る気持ちが消えているのに気がついた。今、この瞬間に、彼女はあった。

静かな時間が流れた。
かなりかかるかなと思われた作品は、10分オーバーしただけで出来上がった。

紙を切って貼るという行為は、指先に直接的にかかわる。
紙の柔らかさ、繊細に扱う指の感覚、カッターの鋭利さの神経の使い方、ノリを扱う時の俊敏さ、丁寧さ。。。
すべてにダイレクトに今の感覚をとぎすます。
まさに、今、ここにいる感覚を、直接感じることが出来る手法だということを、あらためて知る。

現代人はいつも頭の中に住んでいる。
目の前に起こっていることよりも、ちょっと先に心がいる。
その時、目の前のものは見ていない。

感覚に還る。

今、目の前のものが見え始める。


2017年2月9日木曜日

「つくし紙絵展vol.3」楽しく終りました!





遅くなりましたが、裏高尾の小さな喫茶店で開いた「つくし紙絵展vol.3ー小品」の展覧会が無事終わりました。

この寒い時期、不便な場所にもかかわらず、予想以上にたくさんの方々に来ていただき、ビックリしています。
わざわざお越し下さったみなさま、まことにありがとうございました。

うれしかったのは、ブログ上で知り合いになった方に見に来ていただけたり、一度見に来てくれたあと、またお友達を連れてきてくださったり、いろんな場所で宣伝してくださり、その方たちまで来てくれたことです。不思議なご縁が広がります。



今回は、今までの作品とはちょっと違う心持ちで作りました。それが思わぬ評価を頂き、ああ、これで良かったんだと安堵しました。

特に山歩きをいつもされている方々に共感をしてもらい、うれしかったなあ。
「ああ!まさにそう!このかんじ!わかる~~!」
そういってもらえたときの、「よっしゃあーっ!」感。

わたしがその風景に出会って、感動したまんまを作品に定着させられたよろこび。そのよろこびを、他人と分け合えること。これが表現の醍醐味なんだなあ。。。と、じーんとしました。


このごろ、自分で自分にオッケーを出します。
いつもなら、あれもダメ、これもダメというダメだしする自分。
それに向かって、意志的にオッケーを出します。
「それもいいよ」「あれもいいよ」
ぎゅーっと凝り固まっていたからだと心のどこかが、だんだんゆるみはじめ、
そのゆるんだ奥にあたたかいものがあふれてくる。
そんなものが作品に乗っかっているのかもしれません。

また春がやってきます。
どんな風景と出会うんだろうか。
心が動いたとき、それを定着させようと思っています。

またみなさまにお目にかかる時を楽しみに。

ありがとうございました。


絵:「方丈記」/和紙、洋紙、オイルパステル、水彩
  「つくし紙絵展vol.3」より


2017年2月8日水曜日

収入と支出の数字があるだけやったんやな。



確定申告の時期がやって来た。
毎年この時期になると、心が重ーくなる。

「ああ、あれ、やんなきゃ。。。えーと、今日は何日だ?あ、まだ2月8日だ。まだまだダイジョーブ」
「あー、だんだんせまってくる。。。そろそろやんなきゃ。。。」
「うっ。。。やばいやばい。いかんいかん。もうやらんとやばいぞ。。。!」
とか言って、どんどん先延ばしにし、ギリギリになって、必死こいてやる。いつもこのパターン。

しかし。
今回はなんだかちがうぞ。
いつものように領収書を整理しはじめた。

これは消耗品費、これは交通費、これは、、、とやっていく心の中に恐怖がない。

今までは心は常に
「あー、こんなところにこんなに使ってしまった。。。」
「あー、こんなに使ってるのにこんなに収入が少ない。。。。」

使ってしまった恐怖と、
入ってくるのが少ない恐怖。
この二つが行ったり来たりして、心が乱れまくっていた。

だが実際は、
そこに領収書があり、出版社からの源泉票があるだけ。
支出と収入の数字があるだけなのだ。

なのに、心はそれを見て乱れまくる。
それは、わたしの頭の中に、
「お金を使うことは悪いこと」と、
「お金は多ければ多いほどよろしい。少ないことは悪いこと」
という観念があったからだ。



わたしはこのあいだまで、スーパーでお金を使ったあと、罪悪感におそわれていた。
「ああ、どうしよう。こんなに使ってしまった。。」
その言葉のあとに、「いやいや、これは買わねばいけないものなのだ。なぜなら。。。」と、たくさんの言い訳が続いた。

こういう言葉が、自分の動揺する感情を見ないため、言い訳の言葉で埋め尽くしていることに気がついた。自分の心を納得させようとしていたのだ。だがそれは虚しい努力でしかなかった。

「お金」とは、実に人を呪縛するものだ。「お金」と聞くと、人は無意識の中に入り込む。なぜなら、この世のほとんどのものは「お金」で解決するから。だからあえて入信したわけでもないのにいつのまにか「お金教」の信者になっている(笑)。

入信した自覚がないあまり、お金さえあればしあわせになれると思い、そのお金が及ぼす心への影響については考えない。わたしもそのひとりだった。




わたしは自分がお金に対して無意識であることに気がつきはじめた。
そこでお金を使ったあと、いつもの罪悪感がやってくるのを受け入れた。
ただ心に罪悪感が渦巻くのをそのままにした。心で言い訳もしなかった。
「ああ、今罪の意識を感じて、心がざわざわしているなあ~。。。」
で、終わりにする。
それは今までとまるでちがう感覚だった。
罪悪感の苦しさは、ものの2分もしないうちに消えていく。心が言い訳をしていたころは、10分、20分、苦しさは続いていた。

そうしていくうちに、買っても心が動かないようになっていった。動かない心の自分に驚く。
おもわぬ別の効果も生まれた。
必要以上に買いまくらなくなっているのだ。前は、買っちゃいけない!と思えば思うほど、なぜかいろんなものを買いあさっていたのだ。。。。


たぶん、そんないきさつもあるのだろうな。
今こうやって確定申告のために作業をする自分が、前とはちがう心もちでやれるのは。
ただ淡々と、静かにすすんでいく。

太陽の光がうちの中に差し込んだ。
ここは目の前が山にさえぎられて、冬のあいだは日が射さない。
太陽がじょじょに上がって来たようだ。

ウチに春が入って来た。



絵:「金太郎、、じゃなくて、ゴールデンエンジェルw」/お金の特集のカットイラスト