2009年12月31日木曜日

暮れのテイコー




今回くらい、「お正月」にテイコーした時はない。

もう、なにもかもがいやんなった。暮れの大掃除、年賀状作り、おせち作り!
あれを何日にしなければ、これをいつまでにおわらせなければ、あれができない。うんぬんかんぬん。。。もうたくさんだー!

その「しなければいけない症候群」はなぜ発病するのか。わしは考えた。なんで、単に年が入れ替わるだけなのに、そこまで「しなければいけない」のか?
この日(1月1日)が一年の始まりだとだれが言っているのだ?たかがグレゴリオさんがかってに決めたカレンダーじゃないか。地球が太陽の周りを回り始める出発点でもあるのか?
と、子供のようにだだをこねた。
それでストライキを起こす。もうやめた!

だがそんなだだをこねる心の後ろに潜んでいる、ある心理に気がつく。それは「恐怖」だ。一年の計は元旦にあり。元旦に行う行為、状況がその一年を左右する。すなわち「ちゃんとしていないと、いい事はやってこない」という教えだ。
掃除はくまなくやる。年賀状は25日までに出す。おせちは、豪華においしく、上手に作る。お重には美しく詰める。そして神様に出すお供えや、飾り物は美しく。ああ、そうそう、年越しそばもつくらないと。
というお仕事。ちょっとちょっと、おおすぎるじゃないの?!それをやるのは、わしだ!一人で背負うには重すぎる。
で、結局できないと、自己嫌悪に陥る。そしてそれをやらないから、仕事が来ないのだとか、悪いことが起こるのだとかネガティブな考えが渦巻き始める。

そしてとうとう、手も足も出なくなった。
そう、恐怖で押しつぶされそうになったのだ。すべては私の暮れの仕事次第。私の来年の結果は、その前の年の暮れの行為次第で決まってしまうという恐怖。。。

しかしアメリカ人はそうは考えなかった。「ハッピーニューイヤー!キャー!」と、飲んで大騒ぎして、ハイ次の日からお仕事、だ。この違いは何だ!
彼らは、ただそういう教育は受けてこなかっただけのことなのだ。そういう文化ではないだけの事だ。だから暮れに恐怖で押しつぶされそうになる事もない。

だが私は日本人で、暮れのプレッシャーの中にいる。恐怖の中で、私は自分がどうしたらいいのかわからなくなった。


おそるおそる玄関脇のバラの花の枝を切り始めた。おそるおそる駐車場の落ち葉を集め始めた。すると行為の中で言葉が浮かんだ。
「美を追求する」
そうだ。お正月は日本人にとって、もっとも「美」が表現されるときだ。床の間の掛け軸を美しく飾り、神棚を美しく飾り、料理も極めつけに美しい。そのためには玄関も、部屋の中もすべて掃き清める。きっとこの文化ができた頃は、みんな、それぞれに美を競い合っていたのではないだろうか。今のように、鏡餅はああしてこうして、お飾りはあれでなくてはいけない、などと決まり事はなかったに違いない。黒豆は一年まめまめしく。。。などの語呂合わせは、きっと遊びだったにちがいない。きっと豆しかなくて、それを煮たら
「あ、それって、一年をまめまめしく、なんちゃって」」というと、
「あっ!それや!それでいこう」などとげらげらウケアって、そうやって楽しんで、美を競い合っていたに違いない。それが今ではならわしになり、それをしないと。。。。という強迫観念になったのではないのか。

そして、冷蔵庫を磨き始めたとき、こう思った。
「これは感謝ではないのか?」
冷蔵庫さんが一年がんばってくれたおかげで、おいしい新鮮なものを食べる事ができた。その事への感謝をこめて、きれいにするのではないか?
それは「こうしなければいけない」というプレッシャーとは全く違う視点になる。そう思えば、トイレ掃除も何もかもが意味のある事になってくる。それはきっと自分ができる範囲の事でいいのだ。「一年、どうもありがとう」という気持ちさえあれば、それはきっと冷蔵庫さんにもおトイレさんにも通じるのだ。

つまりお正月のありかたは、ひょっとしたら「美」と「感謝」の表現なのではないだろうか。だとしたら、人それぞれでいいのだ。私はこうして飾る、俺はこうして感謝するのだと、ひとそれぞれがおもう日常への感謝、それがその日にあらわされる。
気がつけば、なーんだ、そんなことか、とおもえてくる。プレッシャーなんてどこにもいらないのだ。いつのまにか私の中からプレッシャーが消えていた。

遊んでしまおう。できる限り、お金をかけない私なりのやり方で。

で、山に行って、檜の枝をダンナに落としてもらう。裏白のシダがないから、別の種類のシダを使う。友達の庭から真っ赤なナンテンの実をもらい、ヒノキとシダとナンテンでお飾りをつくる。それだけで玄関がなんだか豪華に見える。感謝のきもちになると、どこをやってても楽しい。前はイヤイヤやっていたのに。おせちもあるモノだけを使う。あれ買わなきゃ、きゃーこれが足りない!などとスーパーに走り回らなくても良い。だから忙しくもない。やれることだけやる。年賀状ももうやめてしまった。それで仕事が来る来ないが決まる、なんて法律はない。

考えたら、あたりまえのことだった。でも一回ぜんぶテイコーしたから、気がつく事がある。
いつもはバタバタした暮れだが、なんだかのんびりしたお正月をすごせそうな気がする。


絵:けんぽ「冬景色」さぎりき〜ゆるみ〜なとへの〜、のうたです。おぼえてる?

2009年12月24日木曜日

見えるもの見えないもの




催眠術師が、ある男に催眠術をかけた。その男には娘がいた。術師は娘が見えないように術をかけた。すると、娘が数センチ前に立っているにもかかわらず、男には娘が見えなかった。
ここまではいつもの催眠術。さて、そこで術師は時計を手に持って、娘さんの後ろにまわした。当然、彼からはその手は娘さんの背に隠れて見えないはずである。
そこで術師は「さて、ここに時計があるのが見えますか?」と聞く。「ハイ見えます」と男。「では、今何時か教えてください」そういうと、男はその時計の針を正確に読んだのだ。

つまり、この男にとって娘は本当に透明になって見えなかったということだ。ここで疑問が生じる。大根を食べてリンゴの味がしたり、男が女に見えて、ちゅーしたりするのまではわかる。単なる「気のせい」で片付けられる。しかし、時計の文字盤が見えてしまったのだ。娘さんという物質はどこへ行ったのだ?
現代の量子力学ではすでに証明されている「物質はない」ということ。そうはいっても頭でわかっていても、現に物質があるから見えるじゃないかという。しかしこの催眠術は人が知覚するものが、いったいなんであるのか?という疑問を真正面からぶつけてくる。人はそこに、ある、と思うから存在する。そして、ない、と思えば存在しないのだ。
ペリー総督率いる黒船がやってきたときも、目の前の巨大な船が見える人もいれば、見えない人もいたのだという。つまり人それぞれによって知覚するものが違えば、見えないということだ。それはお化けが見える人もいれば、見えない人もいるように。

科学は、見えるものだけを徹底検証して証明に証明を繰り返して出来上がってきた。しかしここにきて科学が揺らいでいる。物質という万物共通のあるはずのものが、実は存在しないという矛盾につきあたったからだ。そして人によってそれは見えたり見えなかったりするという曖昧さに気がつき始めたからだ。

考えてほしい。すべて目に見えるものだけを追求してきたのだ。それは絶対的に存在するものとして。科学も医療も先端技術も。でも私たちが見えている世界は、0.5パーセントしかないという結論に達した論文もあるのだ。まあ、控えめに見て50パーセントだとしよう。それでもその残りの50パーセントは見えていないのだ。その50パーセント見えていないというおもいっきり欠落した状態で、何を科学するのだろうか。これは太陽が地球の周りを回っているという前提で宇宙に飛び出すようなもんだ。あぶなっかしいったら、ありゃしない。

ひょっとしたら、現代人は、巨大な催眠術にかけられているのではないか。テレビや新聞マスメディアによって。「きみきみ、目に見えないものは存在しないのだよ」そしてもっといえば「娘さんはあなたには見えないよ」と、本当は見えるものまで操作されているとしたら?



昔の人は言った。「見を弱く、観を強く」
目に見えるのもに惑わされるな、物事の本筋を内側から観ろという意味だ。それはまさに、目に見えるものはあいまいで惑わすもの、そういうことを日本の昔の人はわかっていたのではないだろうか。それが、戦後、物質主義の中で、その大事な言葉は忘れられ、ひたすら目に見えるものへの絶対的な信仰のようなものを植え付けられた。

私もそういう催眠術をかけられているにちがいない。それを一つ一つ取り除いていく作業が必要な時期に入っている気がする。


絵:コージーミステリー表紙

2009年12月18日金曜日

小松菜の独り言




近所の畑に生えている小松菜を見てほげーっと思う。
「やっぱ、そうなのかなあ…」
濃い緑色に光った小松菜さんたちは、穴ぼこだらけ。虫にしっかり食べられている。こういうのを、
「わしんとこの野菜は、虫が食うほどうまいんじゃ」というのだろう。

うちの小松菜は濃い緑色はしていない。むしろ若葉の色のようで、そこらの雑草とほとんど変わらない色をしている。しかし虫に食べられてはいない。常識で考えると、これはまずいはずだ。雑草に栄養を取られて、色も薄い。しかも虫も食べない小松菜。
ところが、とって湯がいてみると見事な濃い色になり、その甘さはすごい。
「ああっ…」うまさでおもわずよろけてしまう。えぐみもなく、なんともいえないこくのある味がする。そのまま食べてもいいくらい。

自然栽培をする人々は言う。
植物たちは大地に入った毒素を自ら吸い上げて大地を浄化しているのだ。そしてそれをまた虫が食べて浄化する。そうやって彼らは常に大地を正常に保とうとしているのだと。

普通は生えない雑草を畑に生やしていると、季節ごとに次々と植生が変化しているのに気がつく。庭の土もそうだ。毎年同じところに同じ草は生えてこない。常に変化している。
夏の草は上に上に伸びようとする。一見草に覆われて見えるが、足下は案外隙間だらけだったりする。それは大地をひんやりさせる効果があるのではないだろうか。冬の草は地面にべったりとへばりつくようにして身を低くする。それは大地を覆い、地面を冷えきらないように暖めているように見える。

草一本ない畑は、今はなんだか寒そうに見える。でも草ぼうぼうだと、地面は暖められているように感じるのは、わたしが素人だから?

でも本当はもっと複雑で、私たちが全く知らないことを彼らはひたひたともくもくともっと大事な仕事をとり行っているのかもしれない。だからこそ、すべては必要があってそこに存在するのではないだろうか。わたしたちニンゲンが、まったく推し量れない方法で、ゆっくりと確実に。

先日の母の小指の一件もそうだし、こうやって畑を触っていても思うのは、ニンゲンが見ているのは、本当にほんの一部で、その一部しか見てないで、すっかり知った気になっちゃって、よけいなことばっかりやっている。でも心の広い自然さんは黙ってそのおろかな私たちにすべてを与えてくれる。

野菜を育てたいと思うあまり、肥料を与える。しかしその肥料が大地にとって不自然なものになるから、それを野菜が必死で吸い上げ、そしてそれを虫たちが食べて浄化する。ところがそれを見たニンゲンは、この虫がいけない、この草がいけないと、とりのぞくために農薬をかける、草を抜く、虫を殺す。しかし、それが大地にとってまた不自然なものであるから、また草はその薬にまけないような新たな品種に代わり、虫も新たな形で出現する。そこでまたニンゲンたちは「こっ...この草が….」とはじまる。でもそんな状態の野菜さんを食べているのは誰?

石けんもそうだ。ここまでアレルギーが増えたのも、私たちが菌はいけないものと判断し、おなかの中まで悪玉菌、善玉菌と分類し、これはいいけどあれは悪いと始まったところから、何かのバランスが崩れ始めたんじゃないだろうか。
私は石けん使わなくなって8ヶ月たつけど、石けんいらないもんね〜。乾燥した部屋でも喉の痛みもなく、快適。

おなかが痛くなる。するとこれはなにか異常事態だ!と、病院にいってお薬をもらう。でもおなかが痛いのは、その体の中に入った異物を取り除くために体が働いている状態なのだとしたら、体は困ってしまわないだろうか。彼らはその痛みで、何かを動かしているのだとしたら、それを薬で止めてしまうことは、また新たなアンバランスを生んでいくのではないだろうか。
「だから、今治しているところなのにい〜」って。

今の時代はそれがぐちゃぐちゃになった状態なのではないだろうか。
もういっぺん最初に戻ってみる時なんじゃないかとおもう。すべてのものは、必要があって存在するんじゃないだろうか。あらゆる「常識」といわれている観念もふくめて。それになんか、あれしちゃいけない、これしちゃいけないと、めんどーじゃない?

自然農の川口さんの言葉がこういうときはしみる。
「困ったときは、そのままにしておけ」
それは単に受け身とか、なげやりという意味ではない。もっと勇気のいることなのだ。受け身どころか、能動的な行為ともおもえてくる。すべてをゆだねてしまえる強さ、明け渡す決断力。

はあ〜、わたしにゃ、ほど遠い石力だ。(あれ?意思力か。同じ意味かも)



絵:コージーミステリー表紙

2009年12月17日木曜日

肉体の神秘




母が1週間前、ドアに小指を挟んだ。重いドアを開けると、小指が外向きに曲がっていた。曲がったところは肉片が見え、血が噴き出している。
母は、
「こんなもん、お医者にいかんでも治らあね」
と、血が噴き出しているところを親指で押さえて止め、曲がった指をぐいっとまっすぐにした。しばらく押さえていると血は止まり、母は水仕事があるからとそこに絆創膏を貼って、すっかり忘れていた。
今日、なんだか小指が痛いことに気づき、小指に貼ってある絆創膏を開いた。肉片が見えていたところには傷跡一つ残っていなかった。かろうじて痛みがすることで、「ああ、この前ドアに指を挟んじょったねえ」と、思い出させるぐらいであった。
今日母は電話で「あの指は外向けに曲がっちょったけんど、ひょっとしたら折れちょったがかもしれんねえ」とけたけた笑った。
母はそういうことに関しては、お茶の子さいさいなようである。例の「背骨事件」といい。

人の体とは面白いもんだ。これが私だったら、おおさわぎして、病院にかけこんでしまう。そうすると、レントゲンを撮って、折れてるだの、ひびが入ってるだのとまた輪をかけて大騒ぎをし、やれ痛み止めの注射だの、お薬だの、通院だのといろんなことをするのだろう。ホータイをぐるぐる巻きにされた小指は、おでんの卵のようになり、家に帰れば痛い痛いと夜中に泣いてダンナを困らし、夕食の支度もちゃっかり休んじゃうんだろうな。

昨日の「ある男の話」じゃないけれど、人の思い方一つでこうも状況が変わるものなのか。
「そんなもん、治らあね」と軽く考える。
「大変だー!」と大仰に考える。
その結果はなんだか違いがありそうに見える。

今日もダンナがこういう。
「痛みがあると、こうやって今治してくれてんだなあ〜と思い、ジッと淡々と痛みを観察していると、そのうち痛みは消えていくんだ。前は大騒ぎしていた。痛い!どうしよう!って。こんな風に考え方一つで痛みも変わるんだ」

そのほんのちょっとの思いの違いが、状況を大きく変えていくのだとしたら、この世は不思議に満ちている。いや、本当はそこにヒントがあるのかもしれない。不思議でもなんでもなくて、この世は心次第でなんとでも変わるのではないのか。


絵:「COOPけんぽ」表紙/ワカサギ釣り

2009年12月16日水曜日

ある男の話





ある男が、アリゾナのサボテン広がる荒野を歩いていた。とつぜん足下にちくりと痛みを感じる。
男があわてて足を見ると、ふくらはぎのところに二つ穴があいている。
男はびっくりした。ここは毒蛇がうようよいる場所だった。

「こっ….これは毒蛇の牙のあとだ!お….俺は死んでしまう!!!」

男はパニックに陥り、必死で助けを求める。ちょうどとおりすがりの車に拾われて、病院に担ぎ込まれた。そのときすでに男の体は毒蛇の毒が全身に広がり、体中がふくれあがっていた。男は自分の死を感じて、息も絶え絶えに、医者の言葉を待った。
そしてその医者はこういった。

「これはサボテンのトゲのあとですね」



人というものはへんな生き物である。サボテンはうまいこと2つ穴をあけてくれた。だもんで男はてっきり「これはヘビの牙だ」と思い込んだ。すると心はありとあらゆることを妄想して、それを体にまでおよぼしていく。彼の体は思いで全身に毒を回らせたのだ。いや単に膨らませただけなのかもしれない。どっちにしろ、思いだけで体を変化させることができるのだ。

これは実際あったことらしい。
思いは、いかに体に影響を与えていくかということだ。たとえ思い違いであっても。



さて、その医者の言葉を聞いて、男の体の腫れが引いたのは言うまでもない。


絵:コージーミステリー表紙

2009年12月11日金曜日

不安〜〜〜〜っ!






はて、親にあやまってもらったものの、なんだかすっきりしない。
こんな性格になっちゃったのはあんたのせいだーっ!っていってみたけど、よく考えてみれば、もうその性格になっちゃんたんだから、あやまってもらっても、その性格が変わる訳じゃないんだ。アタシってばか。

こういう風に不安の固まりになっちゃった私は、この固まりを自分で取り除かない限り、不安は消えない。自分以外、ほかに誰がやってくれる?

と、いうことは、不安の材料をメディアがくれようと、政府がくれようと、自分で取り除かなくてはいけない、というスンポウになってくる。ここで間違っちゃいけないのは、取り除くものを、親を取り除いたり、メディアを取り除いたり、政府を取り除く(どーやって?)ということではないのだ。ここでさらっとすり替えが行われるからご注意。ほら、よく気に入らないやつがいるから排除しちゃえって無視するでしょ?あのパターン。そんなことしても根本的なところを見ていないから、また新たな気に入らないやつが目の前をうろちょろする。

そのすり替えは薬に似ている。対処療法というもの。痛いところがあると、それを感じなくさせるペインキラー。それは痛みの原因と関係ない気がする。でも最近はもっと進化して、頭が痛くなるのは、血管が狭くなるから。で、その血管を広げましょうというお薬があったりする。でもそれも、じゃあなんで血管が狭くなったのか?という原因までいってない。単に広げるという役目をするだけだ。
そもそもなんで血管が狭くなるのか?という最初の発祥を見ていない。

だからものすごーく飛んだことを言うと、ムーア監督がいくら資本主義は悪だ、それを取り除けといってたくさん映画を作ってみたところで、彼の根本的な不安は解消されないと思うんだな。え?別にムーア監督は自分が不安だなんていってないって?そうです。でも自分で不安というものを知っていない限り、「人々の心に不安がある」と気がつかないと思う。
ムーア監督は子供の頃、GM全盛期の頃の町に生まれ育ち、豊かさを謳歌し、その後会社経営の破綻によって、町が見る見るうちに衰退していく様を見てきた監督だ。その自身の経験から社会のあやうさ、矛盾をずっと見つめ続けてきたのだ。だから彼は、その矛盾の行き着いた場所が資本主義で、それは悪だと断言する。だから資本主義を変えろと。

たしかに資本主義は、搾取する側、される側と2分割してしまい、悪い部分はたくさんある。しかしこれじゃ、対処療法と同じ発想だ。ペインキラーを飲むようなもんだ。彼の不安は多分消えないだろう。まあ、それが起爆剤になってたくさん映画を作ることになるとも言えるが、彼自身の人生はつらいもんじゃないだろうか。



不安とは反応なのだ。
人々のそれぞれの記憶の中にあるものが、目の前に展開する出来事をきっかけに、プチプチとそのとき味わった反応を繰り返しているだけなのだ。

誰かが机をバンッとたたく。すると条件反射のように、昔父親が机をたたいたことを思い出す。そしてそれは父が暴れることを意味し、その後の精神的、肉体的苦痛までも思い出す。それは一瞬にして反応として体がびくっとするという現象として起こる。朝起きたとき、ヤバい!と思ってがばっと飛び起きる。それは昔寝坊して遅刻して怒られたことを再現している。誰かがちょっと嫌な顔を見せる。すると、昔自分はいじめられっこで、みんなに総スカン食らわされたあのつらさを思い出している。

それはほんの一瞬にして起こる。映像が浮かぶ訳でもない。そしてそれは意識されない。ただ、似たようなことが起こるたびに、ずっと同じ反応を繰り返しているだけなのだ。
こんど何かで自分の感情が動いたとき、その反応を観察してみるとおもしろいことがわかる。どこかで似たようなことはなかったかい?ずっとずっと昔に最初に味わったあの頃のことを。

厄介なことに、その不安や恐怖などの感情は増幅する。そこに集中すればするほど巨大化する。誰かが自分の悪口を言っているんじゃないかと疑う。すると心はその疑えるだけの証拠を無意識に求める。
最近、近所のおばちゃんが、いつも愛想よくしているのに、その日に限ってちゃんと挨拶をしてくれなかった。いじめられっこの私は「私のこと嫌っているんじゃないかしら?きっとそうだ。そういえば、先週もそんな風につっけんどんな挨拶をした。やっぱりそうだ…..。ああっ!私はこの村から村八分にされる!!!!」と、頭を抱える。でも後日、また愛想のいいおばちゃんに出会う。そのとき単にその人はほかのこと考えていただけなのだ。

そういう風に、絶えず人は何かに「反応」をしている。おばちゃんは、愛想よくしてくれた。で、そのときホッとする。でもそれだけだ。また別の機会に、今度はおじちゃんにつっけんどんにされる。するとまた「あああ~~っ、あのおじちゃんに何か悪いことしたかしらあたし?」となって、また悶々とする(ヒマなんか)。

実は、ひっきりなしに外に反応している習慣があるだけなのだ。それは人によって違う反応になる。おじちゃん無愛想にされると、私の場合は「何か気に入らないことしたかしら?」と思い、また別の人の場合「あのやろ、俺に挨拶もしねえ、ふてえ野郎だ」となるかもしれない。この人の場合は、敵対心になる。
ムーア監督は、社会で低い立場の人を見ると、自分の子供時代のことを連想してしまうのかもしれない。そしていてもたってもいられなくなり、映画を作る。しかしその不安はぬぐえない。

まずその心のパターンに気がつくことだ。
外の出来事にいちいち反応をするから、心が不安になるという仕組みを知ることだ。心とは複雑なように見えて実はとても単純だったりする。自分がいつも反応しているものは何か?と探ってみるべきだ。

例えば会社で給料が減る。すると不安が押し寄せる。家のローンは払えるのか?子供の教育費はどうなる?その思いの奥には過去、お金に苦労して苦しい思いをした経験があるのかもしれないし、または親が苦しんでいるのを見たのかもしれないし、はたまた同僚が自殺したことを思い出すのかもしれない。その状況に置かれたとき、似たような過去を思い出し、未来を憂うのだ。心はいつも過去と未来を行ったり来たりしている。過去のつらいことを思い出し、未来を憂う。このパターンってよくあることじゃない?
しかしその考えている瞬間、自分は家の中にいて、ストーブがぬくぬくあって、子供たちが楽しそうに笑っているかもしれないじゃないか。その瞬間、今、本当に苦しいのだろうか?あなたはその瞬間、お金がないことで苦しんでいる?まさにその瞬間。
目の前に展開されている幸福なシーンを見ないで、心は不安をつのらせていく。その無意識に作られた苦しさは、やがて家族に八つ当たりの形であらわされ、家の雰囲気をだんだん暗いものにし、子供たちまで暗くさせていくのだ。そこに本当に苦しさがある。だが、それを作ったのは誰だ?会社じゃない。



私が危惧してしまうのは、無造作に無自覚に垂れ流しにされているその感情なのだ。
今の世の中に、こんなに不安が蔓延しているのは、無意識に勝手に増幅させていく心のクセなのだ。
なぜだか知らないが、この世の情報は、不安に駆り立てるようにもっていく。もっと警戒しろ、もっと心配しろ、もっと縮こまって暮らせ!と言っているように見える。そのオドシに乗ってはいけない。不安の感情を無造作に膨張させるな。
「私は無害です」というような顔を作って「地球にやさしく」と呪文をとなえて満足している場合じゃないのだ。それじゃ外の反応を気にして、いい子に見せておいて、自分で安心しようとしているにすぎない。一人一人が本当に自分の内面の状態を見つけることだ。怯えおののいている姿が見えないか?(自慢じゃないが、私もだ!)


不安になる材料を考え続けていてもそこに答えは見つからない。不安の始まりは心の中からだからだ。外の現象はたんなるきっかけにすぎない。ということは不安を解消するものは、ものではなく、自分自身の中にあるものなのだ。本当の答えは外にあるものではない。
不安なとき、心や頭はものすごい数の言葉で埋め尽くされている。それはたいていどこかで聞いたことのあるフレーズたちだ。あなたのオリジナルの考えではない。そんな時、頭の中は突貫工事の大音響が鳴り響いている。
その人に一番大事なヒントは、心の奥からそっとやってくる。本当に小さな小さな声。
工事現場の中ででホントに大事な答えは聞こえない。その言葉が聞こえるときは、ふとした瞬間に、何気なく、さらっとやってくる。あれっ?いまのは?って。

だから心を鎮めるのだ。静かにさせるのだ。そうすると聞こえてくるのだ。答えは自分の胸の奥深くからやってくる。
心、考え、想念、すべて頭のなかの脳みそがやっている。しかしもう一つの脳みそがある。それは胸の奥だ。それは宇宙とつながっている。そしてそれは英知への入り口なのだ。



不安になろうがなるまいが、人生は進んでいく。
だが不安になるほどに不幸な気分になる。それは家族も巻き込み、自分もつらく、果ては病気になってしまうかもしれない。いいことなし。
不安を解消しようと、あの手この手を考えるが、だいたいにおいて悲壮感漂うアイディアしか浮かばない。どんどん縮小型の生活になり、守りの体制が度を越えて、縮こまって生きることになる。いいことなし。

だから私は黙ることにした。心の中で一人歩きをする想念、考え、思い、習慣になっている感情、すべてのことを黙らせる訓練をしている。一分黙らせることができるだろうか?できない。じゃあ、30秒は?いんや。はっきりいって、1秒くらいしか心を黙らせられない。ということは、私たちはひっきりなしに絶えず考えているということなのだ。

インスピレーションはふっと舞い降りてくる。それは理屈を連ねた結果でてくるものだろうか。たいていは、突然ふってわいたようにやってこないか?会議中にうんうんいいながら、いいアイディアって出るのだろうか。絞り出すように出てきたものは、つまらない保守的などこにでもあるような案ぐらいだ。そんなものは後でどんどん変えられてしまう。ところが、唐突にぽっとやってきたものは、大胆不敵で、え〜〜〜っ!ていうくらいびっくりさせる。でも後で冷静になって考えると、すごく理にかなっていたりする。そのアイディアがいったいどこからくる?
そう、きっと想念と想念の間の、ほんの一瞬心が黙ったとき、その隙間から、しゅるしゅる〜っとやってくるのだ。私はその沈黙の時間を少しでも多く持とうと思っている。そうすると、体の奥から何かがわいて出てくるのを感じるのだ。

高知県人がよく使う言葉で「お日さん、西西(にしにし)」というのがある。つらいことがあっても、お日さんが西に沈んだら、すべてハイおしまい、というアホチンな思想。でもこれには深い意味があったのだなと最近思う。一日が終わればすべて過ぎ去ったこととして後を振り返らない。家族はアホなこと言ってバカ笑い。そんな家には病気神もやってこないだろう。
たしかに高知は台風が多くて、家なんかあっという間に吹っ飛んじゃう。そんな状況を悶々と考えていると神経がもたない。それはその地で住む人間の知恵なのだ。それは返して言えば、人間の心の厄介さを身をもって知っていたからなんじゃないだろうか。昔の人があまり多くを語らなかったのは、心が一人歩きして、爆走するということを知っていたからなんじゃないだろうか。
今の人は、爆走させっぱなしだ(笑)。

さて、あなたは1分心を黙らせることができる?



絵:「セクシイ古文」のための表紙イラスト/メディアファクトリーより来年発売

2009年12月9日水曜日

壬生菜のじゅんぐり収穫

不安について書こうとしていたら、自分がどんどん不安になっちゃった。
ぼーぜんとしちゃったので、ちょっと一息入れて、畑のことでも書くことにする。

うちは自然農もどき、ほったらかし農。
近所の農家のおばちゃんに言わせると「あれ、まあ〜」状態なんだけど、いいこともある。
壬生菜やチンゲンサイなど、夏の終わり頃種をおろして、その後双葉を片っ端からコオロギやヨトウムシに食べられた。なさけな〜い姿になっちゃった壬生菜やチンゲンサイ。普通の農家の人なら、きっと全部刈り捨ててしまうだろう。でも「これ、ほっておいたらどうなる?」という好奇心の方がうわまわってしまい、そっと育つままにしておいた。
んで、大きくなったものから摘み取っていると、その後ろに隠れていた2番めに育っていた壬生菜が次に大きくなり、それを収穫すると、またその後に残っていた種が芽を吹き大きくなってくる。いつのまにか、彼らは勝手に順繰りにどんどん大きく育ってくれて、おいしい壬生菜は途切れることなく我が家の食卓に並ぶ。チンゲンサイもいつの間にかどんどん領土をひろげていた。

これがきれいな草のない畑なら、一気に同時に出来上がり、一気に消費するということになるのだろう。でも草だらけの土はその場所場所によって土の栄養の条件が異なる。だから野菜の生長もいろいろ。白菜もなんだか育ち方がバラバラ。そういうわけで、白菜も一個食べてる間にまた別のが育っていくのだろう。

農家というプロのお仕事にこれは向かないが、この方法は家庭で食べるにはかえって好都合な気がする。

それにしても、何でも甘くなって、踊りたくなるくらいみんなおいしいのだな〜、これが。

2009年12月5日土曜日

不安はどこから?




さっきNHKのクローズアップ現代でマイケルムーア監督のインタビューを見た。
彼はアメリカ社会の矛盾をついて次々に映画にしてきた監督だ。その彼が言うには、人々の心には不安がある。その不安は資本主義社会が作り上げたものだ。その不安を取り除くために、もうそろそろみんな立ち上がろうと。

おお、そりゃあいい考えだ。みんな立ち上がろうぜ!政府に向かって戦いを挑むんだ!
...で、どっから?

そりゃムーア監督はいいさ。映画というメディアを使って社会の矛盾をうったえることができるんだもん。でも私たちは、どこでその矛盾を訴えればいいんだ?国会議事堂の前にたって、ちょっくらメガフォンでうったえるか。
「われわれは、今不安を抱えている。その不安のもとは政府の仕組みだ。だからその政府の仕組みを変えろ!」と。
でもどうやって?
そんな方法は今までさんざん反対運動の人がやってくれている。裁判にもかけた。でも何年も何十年もそのことを繰り返しているのに、世の中はいっこうに変わらないどころか、なおのこと不安に陥っている。

ムーア監督は言う。
「メディアが不安に陥れたのだ」
そう、あなたは正しい。
しかし、だからといって、
「メディアさん、あなたが不安をあおったんだから、あやまりなさい。生き方をただしなさい」といってみたところで、生き方ただせるのか。

私の偉大なる屁理屈によると、不安はガキの頃から始まっている。

犬のうんこをつんつんしていて、親に怒られる。ヘビをなでなでしていて、母親にきぜつされる。玄関先の下駄がそろってないといって、なぐられる。
あれしちゃいけない、これしちゃいけない、ああしろ、こうしろ、こんなことしたから、こうなるんだ、もううちの子じゃありません、などなど。自由奔放に生きてみたら、親に殴られ、だんだん萎縮していく。この世は厳しい。何気なくやった行為が、とんでもない間違いを起こし、どこかで怒られるんじゃないか、なぐられるんじゃないかと不安になってくる。いつもなんとなくつきまとう不安な気持ちは、ガキのときから芽生え始めていたんじゃないか?

じゃあ、おかあさん、あなたが私に不安をあおったんだから、あやまりなさいと、いってみる。
そこでおかあさんはいう。
「あなたに不安を作ったのは、このわたしよ。ごめんなさい」と。
さあ、これで不安は解消だ〜〜〜っ!ばんざーい!

実はこの論法で母に詰め寄ったのは、この私。母はしっかり謝ってくれた。
しかし、その不安は解消はされなかったのだ。

なぜ?

つづく。。。。


絵:ミステリー「マモ•マーダース」の表紙のためのイラスト/東京創元社より来年発売予定