2024年7月24日水曜日

へそ天からの〜癒し

 

「ハヤトウリ」和紙、洋紙

「癒し」を受け入れることをしてから、

癒しというものがどんなものなのかを徐々に知り始める。


猫のヘソ天を見て「癒される~」というように、

癒しとは、自分でやるものではないようだ(そこ?w)。


私は自分で自分を癒します!と宣言しても癒えない。

何かを見て、何かに触れて、癒されるもののようなのだ。

だから「癒し」を受け入れる。


その言葉があえて書かれているということは、どうも私たちは癒されたくないのだ。


その「癒し」とは、サウナに入って整う癒しとか、自然の中に入って癒される癒しとか、猫のヘソ天からくる癒しとか、私たちが知っている癒しなら受け入れるという程度の話ではなさそうだ。


「癒し」を受け入れることは自分が無罪であるということを贖罪を受け入れることなんだと思う。

神に赦されたと完全に感じられる時、きっと心底安堵し、心底癒されるであろう。


私は先日それを受け入れた時、ほんの少し罪の影が薄らいだようだ。そのせいで前よりも物の見方が広がっている。それを体験した時、これをさらに受け入れていくとどうなるのだろうと、俄然興味を持った。




先日飲み会があって、楽しい時間を過ごした。家に帰り着いて気分が悪くなり、うわあ~飲みすぎたと後悔する。トイレで吐こうとしたがもう出てこない。諦めて布団で大の字になって寝る。


「あの最後のワインの一杯がいけなかった。あれさえ飲んでいなかったら。。。」

グジグジとやったことを後悔する言葉が次々出てくる。


あれ?後悔ばっかりしている。これ、自分に罪があるって言いまくってるよなあ。。。

と気がついた。


飲みすぎた→罪

食べすぎた→罪

気分が悪い→罪

自分は肉体だと信じている→罪



今、私の心は癒されていない。罪の意識の中でもがいている。

そうかあ~。癒されていない時、私は罪悪感の中にいるんだ。

ああ、癒されたい!

聖霊さん、私を癒してください!癒しを今、受け入れます!



飲みすぎたという後悔を使って、自我は私をこの世界に縛り付ける。

それは罪があるという前提から来る苦しみという罰を実感させることによって。


私は罰を欲している。なぜなら罪があるから。

だから苦しむ。


自我の目的は苦しむことだ。

自我は私が苦しみさえしてくれれば、

飲み過ぎでも屁をこいたでもなんでも使う。


そういう自我の仕組みが見えてくる。

自我の目的は苦しみ。



私はずっと今まで苦しみを握っていた。

なぜならそれが「自分」というものを実感させてくれるアイテムだったからだ。

だがその実感はこれからも必要か?

そんな小さなものにしがみついて私は私を実感し続けたいのか?


その罪は持ち続けていたいのか?

それは本当に実在しているのか?


私にはもう苦しみは必要ない。

なぜなら私に罪などないのだから!

心の中で叫んでいた。




朝になっていた。

何一つ不快なものは残っていなかった。



「癒し」を受け入れるとは、

自分は無罪だということを受け入れるということなのだ。


抽象的で漠然としたこの言葉。


知識は体験に変わっていく。


苦しみは喜びへと交換されていく。








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ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです




2024年7月19日金曜日

心の中はとてつもなく大きい

「夏の草」和紙
 

相手に罪を見ているということは、自分もまた罪びとだ。

このことに気がつかない限り、争いは永遠に続く。



自我の考えは、罪はどっちか片方にしかないから、

相手が罪があるということは、私には罪はないと教える。

だから言い争う。だがその言葉は互いに傷つけ合うだけで、何の幸せも生み出さない。


片方が黙ることでしか決着はない。

しかしそれは決着でも何でもなく、一時休戦するだけ。

きっかけがあれば、いつでも爆発できる。



こんな争いをもう何十年もやってきた。

もううんざりだ。もう無理だ。こんなことこれから先もやっていられない。

神様、どうにかしてくれ!

死んだほうがマシだと思うほどの絶望感の中、コースのテキストを開く。

そこにあった文章は、まさに私がやっている矛盾を突いていた。



「兄弟よ、あなたは私を傷つけた。しかし二人の中では私の方が善人なので、私が受けた傷についてあなたを赦すことができる」などと、誰が本気で言えるだろう。彼の赦しとあなたの傷は共存できない。


罪を証言しながらそれを赦すというのは、理性が理解することのできない矛盾(パラドックス)である。


赦しは、それがあなたの兄弟とあなた自身に癒しをもたらさない限り、本当のものではない。彼の罪が実在しないことを実証するためには、あなたはそれが自分にいかなる結果ももたらしていないことを証言しなければならない。


結果が取り消される時、罪は単なる誤りであることが証明される。あなたが赦す者となり、兄弟と自分自身に救いを差し出せるようになるために、自分に癒しを受け入れなさい。


「奇跡講座」テキスト第27章「癒しに対する恐れ」




「自分に癒しを受け入れなさい」

この言葉に私は強烈に惹かれた。


兄弟に罪を見ながら、その罪を赦すことなどできない。

罪がないということを知るためには、癒されなければならない。

自分で自分を癒すことなどできない。

常に与えられている愛で癒されることでしか。


私は癒しを受け入れていなかったのだ。

罪を兄弟に見続けることで癒されようとしていたのだ。


心の中で叫んだ。

「私は自分に癒しを受け入れます!」




それからしばらくして、何かがパタパタと紐解け始めた。

何故あのような言動になっていたのか、

何故私があのような反応をしていたのか、

そしてどうすればその恐れが癒されていくのか、

次々に明確になってくる。

そこに罪など生じていなかった。


それまで分厚い壁が立ちはだかっていたかのように見えていたのに、

それがあっさりと消えてしまっていた。



これらのことは、とてもじゃないが私だけの考えで浮かぶものではない。


心の中はとんでもなく大きい。

その中で一体何が起こっているのか全くわからない。


だが私の心の中は、

私一人がいるわけではないことを、

こうやって教えられる。







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2024年7月17日水曜日

感じようそして癒されよう



恐れることはいけない。

きっと小さい時からそう教わってきたことだろう。


だから私たちは自分に感じる恐れを隠蔽する。


怒りは恐れを隠蔽するためにしょっちゅう使われる。

また理論武装するもの常套手段だ。

誰かのせいでこうなった、社会のここが悪いからこうなったんだと、

社会や誰かのせいにして、自分が恐れていることをうやむやにする。


でもいくら怒っても、誰かのせいにしても、

元にある「恐れ」は消えることはない。


恐れは、ただそれを見るためにある。



自分が今恐れを感じていることに抵抗するのではなく受け入れる。

恐れている自分と寄り添う。


「ああ、今私は恐れているんだ」と、

否定するのではなく肯定する。

その恐れをじっと感じる。


恐れは感じるためにある。

不安、心配、見捨てられる、破棄される、拒絶される、存在をなきものにされる、、

そんな思いが浮上するのを見る。


自我は「恐れを見るな!見たらお前は破壊されてしまうぞ!」と訴えてくる。

だから感じることには勇気がいる。



でもそれを感じ続けていると、

やがて神を感じることに移行し始める。


私たちは、この世界の何かによって恐れさせられていると信じている。

誰かに見捨てられる、拒絶されると信じている。


しかしその恐れの元は、神への恐れ。

神に見放される、見捨てられる、拒絶されるという思いに行き当たる。


しかし神は私たちを拒絶するだろうか。

もし拒絶するなら、それは作り上げられた神だ。

本当の神は、私たちを愛している。


拒絶したのは私たちなのだ。

私たちが神を拒絶したから、神を恐れている。

怒られるのではないか、見捨てられるのではないかと。


神は見捨てない。拒絶など考えたこともない。

ただひたすら私たちを愛している。



だから

恐れが来た時、実は私たちは神に近づいている。


恐れを正直に受け取って、感じる。


その時、その恐れは光の元に渡されて消えていく。

神の元に恐れなど存在しないから。



恐れを苦しみを悲しみを感じよう。

そして癒されよう。


そのさきに天国への入口がある。

それは神へと続く道だから。


素敵な動画がありました。


2024年11月3日,4日 in東京

ACIMティーチャーであり、

プロの歌手でもあるNeda Boinさんが来日されるそうです。

ご興味のある方は是非!






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