2021年12月30日木曜日

比較の人生



最近、心にわけもなく訪れる大きな喜びと、
いきなり苦しみの中に落とされるような感覚が交互にやってくる。


これもまた心の訓練だと粛々と受け止めて、

ごまかすことなく取り組む。

先日も母の強烈な美意識と、旦那の強烈な美学論の間に挟まって、私は苦しかった。


二人の美の巨塔の間の谷底に小さく丸まって、それとは比べ物にならないほど情けない自分の力量に罪悪と恐れの中で自分を呪っていた。


思えばその感覚はずっと昔からあった。

圧倒的に暴力的な世界の中でたった一人、誰にも頼れず、ズタボロになりながら必死で生きていく。

このなんとも心細い惨めな気持ち。


差異の世界。優劣の世界。比較の世界。特別性の世界。

もうやめたい。こんな人生。。。


いつも誰かと自分を比較して足りない自分を呪い、そして束の間の優越感に浸る。

すべてのことは自分一人で解決せねばならず、泣きながら必死でやる。


掃除も料理も洗濯も仕事も、自分の頭の中で罵倒し続ける声に泣きながらやってきた。

「だらしないやつ!能無し!ウスノロ!ばか!そんな味付けでどうする!」

こんなむき出しの自我の罵倒の中で、今までよく生きてこれたと思う。



名もなき二人の巨匠に挟まれてこれだけ苦悩するのに、

誰もが認める巨匠の下に生まれ落ちた人たちの苦悩はいかばかりのものか。

先日他界された沙也加さんの心はどれほどのものだっただろう。


まわりがどう認めてくれようが、「親の七光り」のせいだと自分で思い続ける。

自分でその能力を認められないのだ。

目の前に置いた親を超えるという目標はどれほど高いものだっただろう。




寒い布団の中で私は身を縮こまらせてますます小さくなった。

怖い。。。こんな世界で生きていけない。。。

幼いときから怯えて生きてきた自分を走馬灯を見るように眺めていた。たった一人でこの襲いかかってくる比較だらけの恐ろしい世界を乗り越えていかなければならない。。。。


だが聞こえてくるその声は、私の声ではなかった。


確かになじみ深い声だ。

ずっとその声が私を苦しめてきた。


母と比べ、旦那の評価に怯えていたのは、

「もっと怯えろ。もっと惨めになれ」

と後ろから声援を送ってきたその声だった。


そうして私はその声に促されて同意し、

「そうだ。惨めにならなければ!もっと怯えなければ!そうでないと私は死んでしまう!」

と、訳のわからない法則で生きてきたのだった。


この声は私を破壊する。

沙也加さんの心に聞こえていた声も同じものだろう。

「私が採用されたのは、私の才能じゃない。私に才能なんかない!全部母のおかげなのだ!」と。


しかし本当は母のせいでも旦那のせいでもないのだ。

自我はなんでも利用する。

この宿り主を破壊するためならば、どんなものでも使って苦しませるのだ。


あろうことか、一番近くで囁いていた声は、一番の自分の敵だった。。。




しかしここに朗報がある。

その声に同意したということは、それに同意しないという選択があること。


そう。今、私には、もう一つの選択がある。


他人と比較させ、違いを見せつけ自分を惨めにさせる声、

すなわち自我の声に同意することを選ばず、


他者も自分も同じでたった一つの心。

比較がなく、何一つ欠乏するものを持たず、完璧であることを思い出させてくれること。

すなわち聖霊を選ぶという選択。



私は過去の苦しかったおもいの一つ一つを聖霊に捧げていった。


「私を長いこと信じ込ませてきたこの信念はもう私には必要ありません。

聖霊さん、これを取り消してください」





心がたった一つであるならば、

この思いは、

同じように苦しむ人たちの信念さえも取り消されていくだろう。




絵:ミステリー表紙イラスト




2021年12月25日土曜日

大きな着ぐるみ

 


「いつか歩けるようになったら、私は幸せになれる」

母の言葉がふいに思い出された。


未来のどこかに幸せを設定する私たち。

それは希望の言葉のように聞こえる。

いつかこうなったら、私は幸せ。。。


「これ、私もやっている。。。」

母と同じように私も心のどこかでそう望んでいる自分に気がついた。

いつかこうなってくれたら、私の人生は完璧。


いつかって、いつだろう。。。?


それはある意味、心の平安の保険になる。いつかこうなるだろう。だから今は我慢我慢。

そのかすかな望みを支えに日々苦しみの中で生きる。




時間はいつも今しかない。

未来のどこかに想定することは、一生来ないことを意味している。そしてこうなったら幸せだという信念は、今は幸せではないと宣言していることでもある。


つまり母も私も一生来ない幸せを待ち続けるということになるのだ。。。

それに気づいた時ショックだった。



同時に私は形にとらわれていることに気がついた。

こういう形が幸せの印。

今はこうでない。つまりは今は不幸せだと。


やってこない時間と、叶えられない形。私は二重の不幸のなかにいる。

形を追い求める限り、私に幸せはやってこない。



私は形の中に完璧さを求めていた。

そうじゃなかった。


形の中に答えはないのだ。形は常に変化する。一瞬その形が留められたとしても、次の瞬間また別の形に変わっていく。そうして私はまた不幸の中に埋没していく。この繰り返し。


形などなんの意味もない。

形を追いかけていたから苦しんでいたんだ。


形じゃない。形じゃない。形を見るな!

私はすでに完璧の中にいる、、、!



目の前のものは、ただ流れて変化しているだけのもの。

そこにアイデンティティを持つんじゃない。


この世界には、何の価値もないただ目の前を通り過ぎる変化があるだけだ。


それをただ見ている時、私の中に罪の意識が消えていた。

この罪の意識こそが、この世界にいる人間なのだと思わせるトリックだった。


だから絶えず心に罪を思い起こさせる考えが浮かんでいたのだ。

この世界が絶えず本物だと思い込ませる誘惑。


そして人はその中の主人公になって参加し続ける。


だが私はこの空間の中にいない。

私は人ではなかった。



目の前の形は実在するものではなく、

心に浮かぶ罪を思い起こさせる思考も嘘八百。

その思考によって呼び起こされる感情もまた全くのデタラメ。


それを知るのはとても愉快だ。


この世界を含んだ大きな着ぐるみを脱いだ瞬間があった。







絵:ミステリー表紙イラスト







2021年12月21日火曜日

ゆるキャラ聖霊

 



電車の中で辺りを見渡しながら思う。

「これ、夢なんだ。。。。」


そう思うと、さっきまでの恐れが消えていることに気づく。


日々の生活の中で、無意識に恐れと格闘しながら、恐れと共に考え生きている時、私は夢の主人公になっている。

しかしその恐れに気づきそれを赦した時、私は夢の中に住む一人の住人ではなく、それを引いてみている、夢を見ているものになる。


明るい日差しが車内を照らす。

ガタゴト揺れながら、目の前を流れていく風景を眺めていた。



改札を出て目的地に向かう途中でも、ここが夢であることを意識しながら歩いていた。


すると視線の先にゆるいキャラがいた。パチンコ屋さんのキャラクターのようだ。


猫のような恐竜のような、よく正体がわからないゆるキャラが、

まあるい体をユッサユッサと揺らしてリズミカルに動いている。

巨体から突き出たちっちゃな足を右、左と交互に出しながら踊っている。


その姿を見た時、私は衝撃を受けた。

いきなり嬉しくなったのだ。心がぱあっと明るくなった。


「きゃあ~~~!楽しい!めっちゃ嬉しい!」


たくさんの人が行き交う中で、私の心は喜びで広がった。なんて素敵なんだ!なんて楽しいんだ!

興奮のあまり走っていって、そのゆるキャラをむぎゅ~ッと抱きしめたくなった。


そうか!これなんだ!これが真実なのだ。

この幻想の夢の世界の中で、唯一の真実がそこにある。それをあのキャラは教えてくれた。


いや、そのゆるキャラが真実ってな話じゃない。

その思いだ。

それは軽く、明るく、楽しく、嬉しい。

それこそが事実なのだ。



夢の中の主人公には、この世界は深刻だ。いつも取り掛からなければいけない問題を抱え奔走する。

そして自分がその夢の中にいる主人公であるとさえ気がつかない。


だが苦しみの中でふと気がつく。これは本当の苦しみなのだろうかと。この苦は実在するのかと。いつまでそれを追いかけ続けなければいけないのかと。

そこで初めて疑問がわく。一体この世界はなんなのだ?


そして視点は夢の中の主人公の視点から、この世界が実在していないことを知識で知り、やがて夢を見ているものの視点に移る。


これは無なのだと知ることによって、しばらくはその視点で安心できるかもしれない。

だけどその夢からいつ覚めることができるのだろうか。


それは真実はどこにあるかを教えてもらうしかない。

どこに向かっていけばいいのかを。


そしてその夢から出る出口を教えてもらう。


「こっちこっち~。こっちだよ~ん」


聖霊がかぶりものをして呼んでいた。





絵/ミステリー表紙イラスト

2021年12月16日木曜日

形がこわい

 


形象がどれだけ怖いか、意識させられる。


先日ロースイロースイ楽し~な~🎵

と心が軽くなった。


しかし自我はドッキリがお好き。

私をあっというまに奈落の底に突き落とす。




ある日頼んでおいたままになっている業者さんがうちの家の前にいたので声をかけた。

「あの~どおなりました?結構あれから漏れているんですが。。。」


彼は今すごく忙しいらしく時間が取れないが、今ちょっと見てみましょうと、

サクッとスコップで土を掘り起こし、水道管の場所を探し始めた。


その矢先、スコップ、サクッ、プッシュー!と、見事な噴水が飛び出した。

「あっ。。。」

業者さん、慌てて水道の元を締めに走った。。。。


やっちゃいました。見事に水道管サクッちゃいました(笑)。


「今日はお水。。使えませんかね。。。?」

「いや。直しておきます。。。」


うちの家は古く、業者さんの持ち合わせのパイプの中に同じものが見つからず、ホームセンターに走る業者さん。そのうち冷たい雨は本降りになり、、、、


罪悪感が浮上してきた。

あの時私が声かけなければこんなことにならなかったと。


仮に水道管が治ったとしても、肝心の漏水は治ったわけではない。ただ余計な仕事が増えただけだ。それに今日は寒い。これでむき出しになった水道管が凍って破裂したら最悪の状態になる。

恐れのイメージはどんどん膨らみ、心はドンドン自分を責め始めた。




いかに知覚に囚われているかを思い知らされる。

水が漏れているところをイメージし心は震え

どうにかして漏水が完全に治ることを求める。

形が治ることを欲する。


お金が少ないことはいけないことで、お金が多いことは正しいこと。

老けて見えることはいけないことで、若く見えることが正しいこと。

形象の中にいい悪いがある。

恐れはほとんどが形の中で起こっていることに気づかされる。



形への恐れの始まりはいつだったか思い出した。

それは幼稚園の頃、夜寝る前に見ていた襖に描かれた花瓶の絵。

母は「今日はどれが怖いの?」と聞いてくれる。

「これ。。。。」

「そう、この花瓶が怖いのね」

と言って、その絵の上に四角く切った障子紙を貼り付けてくれた。


しかし明かりが消えた真っ暗な部屋の隅にかけられた濃紺の着物が、

歪んだ大きな顔に見えて、幼い私は布団の中で恐怖に震えていた。




形にはそこに必ずそれに関する観念/解釈/判断がくっついている。

だからそれを見た瞬間、いい悪いという判断が瞬時に下される。


何かを見たとき、ほんの一瞬でも心がちくっとすれば、私はそれに判断を下している。

それだけ形の中で、私はいつも判断して恐怖に震えているのだ。


いくらこの世は幻だと口で言ったところで、

気に入らない出来事が起これば即座に心は自我に引き戻される。

そしてその現象と格闘するのだ。


だが答えは、漏水を直してホッとすることではない。

形の上で解決しても、それが真の解放とは関係がない。


その漏水という現象を通して、

いかに自分がこの幻想の中でそれを本気で信じてそこで深刻に生きており、

この世界をリアルにさせているかに気づくことだ。



それを乗り越えていくのは、私一人ではできない。

自分でやろうとすることは、同じ形象の中で戦うことでしかないのだから。




静けさの中でじっとする。


目の前に手が現れた。

私はその手をとる。


私を あなたの元に 連れて行ってください





絵:ミステリー表紙イラスト


2021年12月14日火曜日

あの時の声は自分だった

 


ある動画を見たとき、ハッとした。


それはある人が誘導瞑想で、三年前の自分に向かって語りかけていたら、

その声は三年前に心に聞こえていた自分を励ます声で、

そのまさに今語りかけている自分だったと気がついたという。
(動画の1:15あたりから彼女の話が始まる。誘導瞑想の話は1:21あたりから)


こんな話は木内鶴彦さんの不思議な話の中で聞いたことがあった。

幼い頃「あぶないっ!」って声が聞こえて一命をとりとめたその声が、未来の自分の声だったと。

記憶が曖昧だがそんな話だったように思う。


私にもそんな体験があった。

幼い頃、一人寂しく祠で遊んでいた時に、優しく見守ってくれ、

「大丈夫だよ。愛してるよ。つくしちゃん。。。」

と聞こえていたその声は、50年後の私だったことに気がついた時、心が震えた。


その動画を見た時、あらためてそのことを思い起こした。



時間はない。

つまり時間はリニア式に流れていくのではなく、すべてが同時にここにある。50年前のつくしちゃんも、今のつくしおばばも、10年後のつくし大婆も、今ここにすべてが重なってここにある。


だからいつでもいつの自分にもアクセスできるのだ。

あの時、いつも誰かから見守られている気分だったのは、私が私を見守っていたのだろう。


ならば、悲惨な感情を呼び起こしたあの瞬間に戻って、私は幼い私に癒しを与えられる。

「大丈夫。あなたは間違っていない。そして誰も悪くない。お父さんも、お母さんも、あなたも。誰にも罪はないよ。」

そう言って慰めてあげられるのだ。


ひょっとしたら、その「罪はない」というアイディアは、その時の私の心に入り、未来は変わっていくのかもしれない。今ここにいる私にさえ影響を与えていくのかもしれない。


あるいは先日いきなり入ってきた「罪はなかったんだ!」というアイディアは、いつかどこかで私が私にささやいた言葉だったのかもしれない。


過去は変えられない。

確かに起こったことは変えられないかもしれない。


だけどそのことに対する心のあり方は変えられる。

その心のあり方を変えるために出来事が起こっているのだとすれば、

私たちがなぜそれを体験するのかという目的が見えてくる。



私たちは心。

心が原因で、外に見えるものは結果。


原因である心に戻って、私を癒していこう。

それはきっとまわりにも広がっていくことだろう。


なぜなら私たちは同じひとつの心なのだから。







絵:ミステリー表紙イラスト




2021年12月12日日曜日

まっくろくろすけ

 


コースをやっていて、何が一番辛いかというと、

一番隠しておきたい自分の内面を見なきゃいけないことだ。


そこにはまったく妥協などない。

自分をいかに綺麗事でごまかそうと、

「はい。これを見ましょうね~」という出来事が起こる。


その出来事を通して、自分の中にどんな信念があるのかをおもい出させられ、

そしてまたその信念の正しさを全うできない自分を見せられることになる。

これはもう、罪の意識がどーんと浮上する。


ある人はそれを目の前にいる兄弟のせいにし、

ある人は自分のせいにして、

感情がお祭り騒ぎする。


そういうことが次々にあからさまになっていくので、

それに耐えきれず、あの分厚い本を「はい。さようなら」と言って本棚の肥やしにする人、ドアのストッパーにする人、別のものに変えてしまう人、枕にして寝ながらにしてあの形而上学が頭に自動的に入ってこないかと画策する人、思いっきりぶん投げる人が続出。(え?私のこと?)


それでも数パーセントの人々が、ぶつぶつ文句を言いながらも帰ってくる。


あらゆる書物の中で、これほど「罪、罪悪感、恐れ」に事細かく言及している書物はない。これを書いた存在は、よほど人間のことをわかっていらっしゃるご様子。これでもかと私たちの心の動きをあからさまに説明してくれる。(余計なお世話だよ!と誰かさんは言う)



コースは「世界はない。罪はない」と言う。

罪が実は存在していないという確固たる教えがその基盤にあるにも関わらず、ここまでそのないはずの罪を徹底的に説明してくるのは、それほどまでに私たちは罪の意識をひた隠しにしているからだ。


その自分が持っている罪悪感を暗~い押し入れの中から引っ張り出してきて、お日様の下に天日干ししないといけない。そうするとあら不思議。闇など光の中であっという間に消える。


だけどなかなかその押入れから出したがらないのは、

私たちはものすごくその罪に魅了されているからなのだ。


小説やお話には必ず闇がある。その闇がなければ物語は始まらないんだもの。


「あるところに王子様とお姫様が住んでいました。二人は仲良く暮らしましたとさ」となったら、

「ハイおしまい」ってなって、物語がまったく続かない。

そこに意地の悪い姑か魔女が出てこない限り、お話は始まらないのだ。


この世界も同じ。闇/罪を見つけてそれに取り組むことで、いつまでもこの世界にいることができる。


だからここから出たいと本気で思うなら、その押入れの中を覗かなきゃならない。

ほんとはそこには何にもないということを知るために。

そのための意志力がいる。


でもその押入れを一人で見なくてもいい。聖霊という心強い助っ人がいる。

頼めばいつでもそこにいる。



トトロの映画のワンシーン。

メイちゃんが暗い部屋の中でうごめくまっくろくろすけを見つけ、両手でパッと捕まえる。

明るい中で両手を開くと、そこには真っ黒いススがあるだけ。


罪とはそんなもの。

無意識の押入れの中に忍ばせてそれを使い続けるのをやめ、

押入れの襖を開け、その中を陽の光にさらせば、

罪は存在していないことに気がつく。


だけど一気に開けるのは怖い。聖霊はそこんところちゃんと分かってる。


日々の出来事の中で小さな赦しを行いつつ、

少しづつ押入れの中に光を入れていこう。






 絵:ペーパーバックミステリー表紙イラスト