このあいだ、部屋の中で思いっきりコケた。
なんでもないものにつんのめって、そのまま前にどっかん。
手をついたけど、治りかけてた左膝と右膝もしたたかに打った。
倒れたままじっとして動かないこと10分。
やっちまったという思いと、妙な思いがごちゃまぜになっていた。
妙な思いとは「これは、愛?神の愛がやってきた?」と。(笑)
なんか妙に嬉しくなった。
部屋の片隅でコケたおばさんがじっとしたままニヤニヤ笑っているおぞましい光景。。。
頭の中で「神の愛がこんな攻撃的なことするかい!」という思いと、
神の愛がドカンとやってきたことの衝撃をこんなふうに私は受け止めたのか?
とか、わけのわからんことをもぞもぞ考えていた。
じと~~~っとしばらく倒れ込んで気が済んだ頃、ゆっくりと起き上がった。
痛い。やばい。もっとひどくなった?
そうだ、湿布。
こないだ整形外科でもらっておいた痛み止めの湿布を手首と両膝にペタペタ貼った。
ゆっくり動きながら、晩御飯を作る。
その日の朝のことを思い出した。
車を運転してプールに行く途中、猛烈に怖くなった。
運転するのも、これからのことも、何もかもが猛烈に恐ろしくなった。
その絶賛恐怖中に、変なことを思った。
この恐れ、、、ひょっとしたら、愛なんじゃね。。。?と。
なんでそう思ったのかわからない。だけど私は神の愛が私に投げかけられている時、それを受け止めきれないあまりに、それを「恐れ」として変換してしまっているのではないか?と思ってしまったのだ。
自我と一緒になっている私は、愛を恐れとして変換して受け止めている?
自我と一緒になっている時、私には罪があると信じ込んでいる。
その罪悪感がある限り、必ず罰を欲する。
だから、神の愛を、罰として受け止めるとしたら、それは恐れ以外の何物でもない。
愛は恐れに変換されてしまうのか!
じゃあ、今痛いという思いも、愛を恐れとして捉えているとしたら、、、、
さっきのコケたことも、愛がやってきた!ことを、
コケるという「いけないこと」として変換しているとしたら、、、
とかわけのわからんことを考えているうちに、なんだか嬉しくなってきた。
すると足と手首は痛いのに、幸せな感覚が広がっていった。
この時、状況と感情は一致しないことがあると知る。
通常、体が痛いと人は嫌な気分になる。
痛いのやだ。なんとかこの痛さを消したいと。
その時からだと感覚は「私」と一体になっている。
でも一体とならない時があるのだ。
体の痛さと「私」は別物。。。
「私」って何?
恐れって何?
愛って何?
なんじゃこりゃ~!
絵:マリーゴールド