2023年12月29日金曜日

大切なことを思い出させてくれた絵


 

内田くんにちっちゃい頃のことを思い出したほうがいいんじゃないか?と言われていた。


ちっちゃい頃のことを思い出せと言われれば、トラウマのことしか出てこない。

「え~。またアレを思い出して消して行けってこと?」

憂鬱になった。


そうじゃなかった。

ちっちゃい頃、本当はどんなことを感じていたのか。

どんなことに心踊っていたのかを思い出すことだった。


そして思い出したのだ。

それは幼稚園か小学低学年ごろのこと。


祖母の家に画集があった。

ダヴィンチ、ラファエロ、レンブラント、ルノアール、セザンヌ、ゴーギャン、シャガール、、、、そうそうたる画家たちの画集。

その中でダントツ強烈に私の心をつかんだのがゴッホだった。心が震えた。

ひまわりはもちろん、麦畑の上を舞うカラス、糸杉のざわめき、分厚い本、馬鈴薯を食う人々、、、。


完全にロックオンされた。

だがそれに酔う暇もなく、次のショックが待っていた。


その頃漢字は読めないが、説明文のひらがなを追って理解したのか、

叔母に吹聴されたのか忘れたが、この男は気が狂ったのだと知った。

自分の耳を切り落として、愛する女にそれをプレゼントまでして。。。。


感動の次にショックが来た。


その時一つの法則ができた。

絵描きになる=気が狂う。

その時から私の中で何かが封印されたのだった。



元々絵を描く衝動があったらしい私は、

大人になっても絵を描くところからは離れられなかったようだ。

しかしそれは自分のためではなく人のために。


自らのパッションから描くと耳を切り落として気が狂うだろうから、

人のために描いたら気は狂わないだろうと思ったのか思わなかったのか。

ともかくそのおかげでお金が手に入った。

人のために描くと狂わないし、しかもお金が手に入った。

描きたいという衝動が、こういう形で身を結ぶとは(笑)。


しかしそれも限界があった。だから苦しくなっていたのだ。

はっきりと自分の心に気づいた。

自分のために描きたい。。。!

自分が描きたいものを描きたい!


ゴッホは死ぬまでにたった一個の絵しか売れなかった。


絵を描く=気が狂う=絵は売れない

人のために絵を描く=気は狂わない=仕事になる


だがその法則はいつでも変えられる。

自分が勝手にそうインプットしただけなのだ。


絵を描くことと、気が狂うこと、そして絵が売れないことは、

イコールでもなんでもなかったのだ。

繋がってなどいなかった!


好きにやっていいのだ!

私の中で封印が解けた瞬間だった。




そのことを思い出させてくれたのがこの絵。


散歩の途中、いつも見かけるこの木。

梅の木だったか桜の木だったか覚えてないほど、この古木の大きな太い幹に心惹かれた。

苔にびっしり覆われたくさんの種類の植物たちが共存している。目から伝わってくる触覚はベルベットのようであり、ゴブラン織りのようだ。この宝石のような木を絵にしながら思い出したのだ、あの時の喜びを。


そのことを気づかしてくれた内田くんに感謝する。





絵:「惹かれて」



2023年12月25日月曜日

「イヤイヤよ〜」


 

自分自身に正直になる。


言葉ではもちろん知っている。

大事なことだとも知っている。

自慢じゃないがこの私、割と自分の心をよく見ている方だから、

正直な方だと思っていた。


ところがどっこい。

その下に隠れていたものがあった。

それは「いや!」と言えないことだった。


女に二言はない。

一度「イエス」と言ってしまえば、

その後「無理です。できません」などもってのほか。

もし言おうものなら、即刻この世界から出て行くべし!とまで思っていた。


スパルタの両親から鞭打たれながら育ったせいなのか、

「巨人の星」や「あしたのジョー」を見ていたせいなのか。


さらに「妖怪人間」を見て、自分と同一化し

「早く人間になりたい~」と、呪いまでかけてしまう始末。


自分で鞭打って血みどろになりながら

「早く人間になろう」としてきた私に、ある日宇宙人が現れた。


「つくしさん、それ、『いやです』って言いましょう」

「へ?。。。言えません!」


町会の年表作りが一年以上かかっている。

ご長老たちに聞き取り調査をし、原稿を書き、手直しをし、

それぞれの意見の食い違いにどっちを立てていいのかわからずオロオロし、

あれはどうなった?これを入れるならあれも必要だろ。

プレッシャーの中、原稿を書き書き。

そしてちょっと見通しができたころ、

お願いされた長老が出来上がりを見ないまま亡くなった。


悔やんでいる暇はない。

大体の原稿が書きあがったら今度はレイアウト。

写真をいただき、文字組みをし、一から版下を作る。

途中から新たな写真が見つかり、レイアウトもやり直し。

参考資料の掲載の仕方、年表の言葉の書き方、

地図の制作等々、ほぼ一人でやっている。


夜中に恐れで起こされる。

コース的なやり方で色々心を癒すことをやってきた。

しかし一向に楽にはならない。

そんななかで、宇宙人に言われたのだ。


「もう限界なんでしょ?

そりゃ、大人なんだから、できません!って放り投げることはまず無理でしょう。

だからこそ言うんです。

『も~~~~嫌になっちゃいました!大変ですう~~~~!』って!

その言葉だけでいいんです。言いましょう、皆さんに。

それが言えるようになったら、つくしさんの中の何かが変わるでしょう」


次の日から、つくしは町会の出会う人出会う人に言いだした。

「もう大変なんですう~~~~~」と。


変な解決法である。

「嫌なんです~~~。大変なんですう~~~~」と言い歩くやつ。


最初は「こんなこと言ったら、絶対嫌われる!」と恐ろしかった。

やっぱり嫌われるのが怖いのだ。だから言えなかった。

でもその怖がっている私を受け入れる。

「怖いよね。いいんだよ、怖いまんまで」


散歩するとたいてい町会の人に会う。

「今度はこの人か!」と、チャレンジを迫られる(笑)


でも思いの外、みんなは優しかった。

「そうだよね~。本当に大変だわ。よくやっているよ」


なんだか嬉しくなっていった。

夜中に恐怖で起きることがなくなった。



だんだん自分にかけていた呪いに気が付き始めていた。

自分自身でいるという言葉もあちこちで聞こえ、

「そうか。自分自身でいるって、いやと言えることであるし、

思っていることを正直に伝えることであるんだ。」


こう言えばきっと相手は不機嫌になるだろうなと思うことは

できるだけ言わないようにしてきたが、

それをいうことも大切だと思った。


ひょっとしたら間違いを言っているかもしれない。

だけど間違ったっていいんだ。

私だけは正しいことを言わねば人間になれないのだ、などという規則はない。

間違っても、心に思ったことは相手に言おう。

それが礼儀ってもんだ。


ってな具合で、なんだか心が楽になってきた。

心に貯めないってこういうことなのかな。


これは自分を大切にするということなんだな。

今まで犠牲の精神だったのか。

それはちっとも自分を大切にしてない。

自分を大切にしてないってことは、

当たり障りのいい言葉で言ったところで、

実は相手も大切になんかしてはいないのだ。


「いや」を押さえ込んだ愛は、本当の愛じゃなかったんだ。

「いや」を「いや」と言えることが、愛に繋がるんだな。






2023年12月15日金曜日

言葉の向こう側に


 

心の内側を見れば、そこに罪がないことがわかるというが、

私には内側を見ればみるほど罪を見つけてしまう。

ほんの少しのことでもそこに罪を見て、地獄のような苦しみが起こる。


一体これをどう見ればいいのか、どう愛せばいいのか。

苦悩のどん底から助けを求める。



散歩をしているとご近所さんに出会った。

少し会話をする。

そこで心が和む。

また別のご近所さんと出会う。

またそこで心が和む。


そしていつもの原っぱに行き、おひさんを浴びながら感じた。

「これが、、、、奇跡?」


さっきまでの苦痛は消えている。

あの人と会い、会話をし、そしてあの人とも会話をし、、、。

そして今、太陽を浴びながら、ほっこりする。

隣には誰かが落としていった乾いたフン。

それさえも愛おしく、一緒に相席させてもらう喜びがある。


そこには言葉がなかった。


もしもその会話の中で私が自分の罪を見つけていたら、こうはならなかっただろう。

その罪に執着し、どうにかそれを変えようとしたり、消そうとしたりしただろう。


罪には形がある。

その形は言葉で作られる。

形は人と人を分ける。

そこに分離の苦しみがあった。


しかしどういうわけか、さっきの会話で私は一つも罪を見ず、

そして今、フンと一緒にいても、そこに嫌悪は抱けない。


形のないところに愛があった。

言葉のないところに愛があった。

昔私が作った言葉のない絵本3冊。

その視線には愛があった。

きっと私の無意識はそれを知っている。



言葉が消えた時、そこには愛があった。

満ち満ちている愛があった。

これが奇跡?


そしたら、奇跡はそこかしこにある。

あのご近所さん、このご近所さん、この目の前の風景、あの山、このフン。


言葉の向こう側に愛が実在している。

教義の向こう側に愛が実在している。

この形の向こう側に真実がある。




絵:MF新書表紙イラスト



2023年12月2日土曜日

「愛しなさい」




膝が痛いことをどう見ればいいのかわからなかった。

そしてずっとずっと聖霊に聞いていた。


「聖霊さん、この膝の痛みをどう見ればいいのですか?あなたの見方を教えてください」


そしてある時答えが返ってきた。


「愛しなさい」


え?

体を愛するってこと、、、?


コースはこの物理的な世界に具体的に関わることを無意味なことだとしている。。。ように私の解釈では捉えている。


それを愛するってどういうことだろうと考えた。


膝が痛いと考えるとき、私は膝を嫌っている。

「こっ、、、この膝さえ治ってくれれば、、、。

この膝のやろう、、、!」


他の部分が痛い時でもそうだ。

私はこの体を嫌っている。いや、呪っていると言ってもいいほどだ。


これは愛でもなんでもない。この体を否定しまくって、攻撃しているのだ。

ブスだとか太っているとか衰えたとか言って。

イヤイヤ、それは最近に始まったことじゃない。大昔から!


否定している。。。この体がいやだ!

いやなもんがあるってことは、この肉体を実在させ続けていたのだ。


「愛する」とは、この体に固執しろということではなかった。

そこに存在しているように見えているものを慈しみなさいと言っているように聞こえた。



先日、力を外に与えているということに気づいた。

この体がどうにかなってくれれば私は幸せになれると信じていた。

私は力を体に与えていたのだ。


私にとっては体も対象物。お金でも同じ。

体が健康になってくれれば私は幸せ。

お金がたくさん入ってくれれば私は幸せ。


でもそれは常に外のものに自分の幸せを依存している。

幸せのために、外を変え続けることになる。

そしてそれがこの世界を持続させ続ける。



どこに力がある?

私だ。私の心に力を取り戻す。

その心で体を愛する。


さて、ここで困った。

愛するとはどうすればいいのか?

愛し方を忘れているのだ。


この体をどう愛する、、、?

今まで嫌ったことはあっても、一瞬好きになったことはあっても、愛したことなどなかった。


夜、窓を開けてじっと聞く。

これをどう愛する、、、?


すると触覚が鋭い自分に気づく。ああ、触る感覚が鋭いよな。。。

耳も、そういやいい。

目も、見え方は悪くない、そりゃそうか、それを職業にしているくらいだもんな。ははは。

舌も悪い方じゃない。ああ、そういや鼻もきく。。。


って、そういうことじゃないのか。優れているから愛するってことじゃあないよな。


と思いつつ、そうか、それは事実であることだ。


この世でのこの五感の感覚の事実を認めることではある。

その与えられた道具(体)をちゃんと見定める意味はある。


そこで気づく。

私は自分の容姿を気にしているだけだ。それと運動が下手とか。


いい部分もあれば悪い部分もある。

人はほぼ自分の悪い部分しか見ない。だから嫌う。

でもそれがなんだ。


猫、可愛いよな。

どんなブスでも、なんだか可愛いよな。

その感覚に近いんかな?


全部ひっくるめて愛おしく思う心。


きっと膝を愛おしく思うと、膝さんは喜んでいるだろう。

それは神が自分を愛してくれていると思うんじゃないか?


これは私という心が、この体を自分の中で見ている感じ。

小さなものを慈しむように。



この心を養っていこうということなのか。


それは神の愛が大きすぎて受け止めきれない私のための、前段階の訓練。


愛されていることに気づくための、愛する訓練。




絵:「金木犀」