2022年1月20日木曜日

雪の日の風景


 

先日雪が降った。

南国育ちの私はちょっとの雪でもワクワクする。


長野育ちのダンナは「そんなもの雪ではない」

とコタツの中で本/奇跡講座に夢中。外を見向きもしない。


だから一人でいつもの場所に出向く。

傘をたたんで、雪の中で佇む。

肩に腕に雪が降り積もる。

自分のカラダがまわりに同化していく。消えて行くみたいで気持ちがいい。


目の前に美しい風景を見た。

絵にしたくなった。


上の絵は、和紙で制作した「雪の梅林」。


アメリカのミステリーの仕事はパソコンでやるが、

自分の作品は和紙で、めいっぱいアナログで作る。


手で味わう和紙の感触がたまらない。

意図せずして出来上がる不思議な風景にいつも驚かされる。


しかしパソコンのイラレではそうはいかない。

触覚はマウスのみ。手の作業と、それを作る目の位置が違う。

これはパソコンならではの現象(笑)。

そして全てを計算しつくす。いわば偶然性がない。


このまったく違う二刀流のやり方に、昔はどっちが本当の私だ?と引き裂かれていたが、

今は一人ほくそ笑む。

どっちも私じゃ。




さてそれに近い感覚なのか、最近私はかなり無責任になってきた。


あおい青年期は4周ぐらい回った還暦過ぎたおばさんが、

社会に反旗をひるがえすわけでもなく、

密かに非社会人的になりつつある。。。。w


以前はものすごく世の中のことを深刻に受け止め、

自分の行為に対して全責任をかぶって生きていくのが正しい在り方だと思ってきた。。。

(ケーサツ官の娘っぽいやろ?)


んが、この頃どんどんアホになっていく。

そもそも私は何にも知らなかったのだ、何もわからなかったのだとわかってきたのだ。

アホの確信!


だから何かを決定しなければいけない時、

「私は何もわかりません」と心の中で言う。

それが実に爽快なのだ。


わからないことが恐ろしいことではなくなった。

むしろわからないことが、とても楽しい(笑)。


どゆこと?


長くなるかもしれんので、続きはまたのお楽しみ。




絵:「雪の梅林」/和紙



2022年1月17日月曜日

逆筋トレ

 


晴れたお昼、気持ちのいい原っぱで、絵描きの友達とおしゃべり。


私:最近の私がやっていること。何もしない!

これがねえ。めっちゃ難しいのよ。

何もしないでいられないのよ~


友達:あはは。それって、逆筋トレだね!


私:逆筋トレ!それだ。言えてる!


友達:それにしてもなんで何かやろうとするんかねえ、私たち。。。

あれだあれ。『路頭に迷う』

ボケーっとしてると、路頭に迷うから、ボケーっとしててはいけないって思っちゃう。


私:路頭に迷う~~~。その恐れ、思いっきりある!


友達:けど、そもそもそんな人いたっけ?


私:いない~~


路頭に迷う人はどこにもいない。ホームレスさんでさえ迷ってはいない。なのに私たちの心の中に深く刻まれた恐れはそんな言葉の中にも表れている。


友達:他にもあったよね。こんな言葉。


私:働かざる者食うべからず!


友達:それだあ~~っ!


私&友達:苦労は買ってでもしろ!!!(爆笑)


友達:これ、日本人しか言わないかも〜〜w




先日、近所のおじさんと道端トーク。


70過ぎのかれは、今も現役フルタイムで仕事をしているが、休みの土日は畑と釣りに行く。今は冬だからもっぱら野良仕事。2年前、畑のやり過ぎで首の神経をやられて大手術をしたが、後遺症がいまでも残っている。腰と手を痛そうに揉む彼を見て、そんなに頑張らなくても、、というと、

「いやいや。無趣味なんでね。家でぼーっとしているわけにもいかんでしょう」と答えた。


フルタイムで働いて、たまの休みも何かをやって埋める。

みんなどこかギリギリのところで体をだましだまし使いながら、常に何かをやるということに追い立てられている。

何かをしなければいけないという焦燥感は、老いてもなお続いているのだ。


それほどまでに私たちに深く埋め込まれた信念。私の中にもしっかり備わっていた。

だからじっとしていられないのだ。




コースを学び始めてもまだまだ心にあった不安感。

何もしないことは大きな罪のように感じて、常に何かをしようと考えていた。

絵を描くことも「いつかどこかでこの絵がお金になったら、、、」

そんな思いで描いていた。


「私は肉体ではない。この世は幻想だ」と言いつつ、

自分は肉体だからお金を稼いでこの大事な体を生かしていかねばならないのだとしっかり考えていた。


それでも未来への不安は消えてきている。

計画などいらなかったと、心は安堵している。



今24時間自分のために使える日々を過ごしている。

一見かっこいい言い方だが、なんのこっちゃ、仕事がないだけである。


だからこそこれを使わない手はない。

逆筋トレをやるのだ(笑)。



しかしなんだな。

何もしないをやるって、無茶だな。

それって、瞑想しようと思って思考を力づくで止めようとすることと同じだ。

思考は止めようと思って止められない。

自然と止まるものだ。


何もしないことは、やることではなくて、

自然と起こることなのだろうな。




絵:ミステリー表紙イラスト




2022年1月15日土曜日

なんか妖怪?

 


思えば私は「歩く罪悪感女」だった。


自分の作品に罪を見、自分の通帳に罪を見、自分の無名さに罪を見、部屋の汚さに罪を見、自分の体に罪を見、自分の行動に罪を見、自分の考えに罪を見てきた。


歩くほどに罪が私にのしかかってきて、生きていること自体が罪にしか思えなかった。


コースに出会って、その苦悩の正体を知る。

頭の中で大声で訴える、私を罪びとにする声は、「私」からのものではなかった。


この世界を作り上げた張本人である狂った心/自我からのものだった。


では、その心の中でささやく声を聞くものは誰だ?

その声を受け取って、その気になるものは誰だ?

その声がいつの間にか自分の考えだと思い込む、その「私」とは誰だ?


私はその「聞いている側」に立ち、心に聞こえるその声を聞いた。


改めて冷静にその声を聞くと、ほとんどが自分を責め立てる声だった。

自分を責める苦しさのあまり、今度は他人を責め立てる。

そしてその他人を責め立てる自分をまた呪う。。。

ずっとその声は正しいと思い続けて来た。

結果、歩く罪悪感女になったのだった。



それは後から作られたもの。後からペタペタと塗り重ねられたもの。

ではその元は一体なんなのだ?聞いている側とは一体なんなのだ?



私は罪というペンキで塗り固められた、原形が何かわからないものから、

少しづつ罪のペンキを剥がしていった。

ペンキが一色一色剥がされると、それに伴って別の風景が見え始めた。

この世界が重く固く動かしがたいものではなくなっていく。

徐々に消えていく罪悪感。

それに反して軽くなっていくこの世界。。。


出来事は、

「ほら。この世はあるだろう?こういうひどい世界が実在するのだ」

というふうに、狂った心が証明したがるが、


正しい心は、

「それが必要かい?そんな世界が君が求めるものなのかい?」

と、そこからの脱却へのきっかけとして使う。


不快感を感じた時、そこには必ず隠し持っている信念がある。

こうであるべきという信念だ。

私は自問する。

「その考えは私に必要?その信念があるから、私はこんなに苦しんじゃないの?

ならそれを今聖霊に渡して、訂正してもらおう」


私は自我を選択せず、この世界を超えたものを知っている叡智である、正しい心/聖霊の考えを選択していった。

それはどんな叡智かわからない。それでももう自我とともに生きるのはイヤだ。



罪のペンキが剥がされていくと、

だんだん見えてきたものは、形のないものだった。


自我の声を聞いていた「私」には形がなかった。


その自由ときたら!




今も肉眼で見えているこの世界。

けれども「どうだ!この世界があるだろう!」

と、迫ってこなくなった。


未来も過去も気にせず、

今にのんびりする妖怪「形のない私」(どんな妖怪やねん)。



え。見えてるって?



絵:お金を湯水のように生む妖怪(女神?)


2022年1月13日木曜日

私はマヌケ

 


先日の続きになるが、


私たちは形象にずっとフォーカスしている。

物の形であったり、人の行為であったり、考えであったり。

現れてきたものに捕らえられている。


だから自分の中に苦痛があるなら、その苦痛の原因を見つけ、それを取り除いて楽になろうとする。

それは形もそうだが、人の行為でさえも、コントロールしようとする。




先日、旦那が運転中にちょっとアホなことをした。

「あ~あ。またマヌケな事して~」

と言った瞬間、気がついた。


「あれ。あたし、あんたがマヌケなやつだと思ってる。

マヌケな奴はどんなことをしでかすかわからないからちゃんと見張ってないとって!」


「それって、自分がマヌケな奴だ。ちゃんと見張ってないとって、思ってるってことだ!」

と、車の中でふたりで同時に言って笑いあった。




どんなささいな苦痛でも、どんな大きな苦痛でも同じことが言える。

人に苦痛を感じて責めた時、実は自分を責めている。


自分はこういう人間なのかもしれないと密かに信じた時、それを認めるのは苦しい。だからそれを人に見るのだ。人のマヌケを見て、その人を責めることによって、自分はマヌケじゃないと考える。

だって私は人のマヌケを見つけることができるんだもんっ♪と。


ちょっとここをじっくり検証してみると、マヌケを見つけて成敗したいと思っているその心は、

「私はマヌケであってはいけない!」という信念(オキテ)があるからだ。


ところがよ。

マヌケを気にもとめない人がいたら、マヌケな人を見つけることもないのだ。


つまりマヌケであってはいけないと思っているということは、

裏を返せば、「私はマヌケだ」と密かに信じているということなのだ(笑)。


だからそうであってはいけない私は、ひたすらマヌケな奴をみつけ、

「ピピピー!そこのマヌケ!レッドカード!」

と、ひたすらマヌケを見つけ続け、

「ふふふ。私は違うわよ」

と心の底でほくそ笑むというドラマを繰り広げる。




では、そのドラマはいつになったら終わるのか。

臭い匂いはもとから立たなきゃダメ!


結果を、つまりマヌケを外に見るというところから、

原因、つまり本当のマヌケはどこにいるのか?を探るのだ。


それはもう私しかいないだろ!(爆)



ではその「私はマヌケ」という信念は正しいのか。

ええ!もちろん正しいですとも!

なぜならあの時私はああいうマヌケなことをしでかして、

こういうマヌケなことをしでかして。。。


「証拠はもうとっくに出揃っているんだ!」

と、取調室で刑事は机をバンと叩く。


そこで問う。

それは誰が証明した?

私!

他に誰かいる?

えーと。。。

いやいや!私が証明したんだから絶対正しい!



この世界は私が信じたものを見る。

だからマヌケな私という信念があれば、

そのマヌケな私は信じた通りにマヌケをやってくれ、

それを見た私はそれを証明したことになり、

確固たる確信になっていく。


しかしそれはただ信じただけだったとしたら。



私たちは罪を見たい。

それを人に見たり、自分に見たりして。

そして人に、自分に罰を与える。


そういうことを繰り返してきた。


私もたんまりそういうことをやってきた。

でもその罪を見ることの意味は、この世界で分離していたいという思いだった。

自分と他人は違うと、言いつづけたがっていた。

だがそこには苦痛しかなかった。


そして本当は罪などないことを知る。

マヌケという罪は存在すらしない。

だから私の中にマヌケはいないし、そもそもマヌケという言葉もない。

旦那はマヌケじゃなかったんだよ。
私がかけていたマヌケ発見眼鏡で、この世界を見ていただけだったんだ。


まったくの幻想を、そのもともとなかったところに戻そう。

私の中の「マヌケ」を聖霊さんに捧げた。


自分の中の荷物(信念)がひとつ軽くなった。



絵:ミステリー表紙イラスト



2022年1月11日火曜日

具象から抽象へ

 


雨の音で目が覚めた。


うす暗がりの中で、頭に浮かぶもの、、

これは布団、これは天井、あれは雨、雨の音、時計、時間、、、。


頭にそれらが浮かんだ時、とてもきつく感じた。


布団が布団であるべきは、床との違いがないと布団と言えない。

雨は晴れの日がないと、雨とは呼べない。

互いが否定し合うことでそれが独立して成り立っている。


この、すべてに名前がついた、分離したものを

受け入れることがとても苦しくなったのだった。


心を静かにして、それらの名前とその物体をそっとしておく。

名前のない、物体のない世界が広がる。

雨は音として聞こえるが、そこに名前はなかった。




名前は判断だ。

そしてその判断されたものには、あらゆる解釈が詰まっている。


雨には、雨の日のいろんな物語があり、

そこに喜び以外に悲しみも、苦しみもまとわりついている。

布団だって、いろんな解釈が芋づる式に引っ張り出されてくる。

時間もまた、起きなければいけない、あれしてこれして、、、

とあらゆる行動の計画をねりはじめる。

その言葉や物体から引っ張り出されてくる自我の活動が苦しい。



自分で判断をしないということをやっている。

とは言っても全部判断しないことはできない。

気がついたらあっという間に判断して行動している。


だけど「これはどっち?」

と迷う時はすかさず、

「私にはわかりません。判断できません。聖霊さんに委ねます」

とお願いする。

そうはいっても「はい。こっちです」とは言ってくれない。

あいかわらずだんまりを決め込む聖霊さん。


しかし自分は知っているという程で、

自我と一緒に判断していることが苦しみに向かうことはわかってきた。

だからこそ、私にはわからない何かに委ねていくことは大事だ。


今朝のひとときは、そんな一連のこととつながっているのかもしれない。


形を形たらしめているのは私の判断。

この世界を作り上げている原因がそこにあった。


思いという原因から、形という結果へ。

その結果の苦しみは、原因を放棄することで開放される。


すべてが溶けてひとつになる。

すべてが赦されて広がっていく。


具象から抽象への道筋をほんの少し教えてもらった。





絵:「ささやき」和紙


2022年1月9日日曜日

ひとつの心

 


友達が我が家に遊びに来てくれた。


気の置けない友達、本音で喋られる友達。


楽しい時間を味わいながら、

私たちは分離しているように見えるけれど、たったひとつの心なのだと実感した。



たったひとつの心が、四つの意識になって語り合ってる。

四つのキャラになって、楽しんでいる。


聖霊が見ている世界を垣間見せてもらったのだな。

こんな風にいつも笑っているのだよ、と。





最近ますます思う。

人の悩みってみんな同じやなあって。


仕事、お金、名声、健康、、、。

その表れ方はまったく違うように見えるけど、よく見たらみーんな同じ悩みのパターン。

ドラマや映画を見たって、ぜんぶ同じ内容だ。


自分は体の中にいて、自分と他人は別々の存在。

その別々の存在がくっついたり離れたり。

お金、仕事、名声、健康の悩みも、元はぜんぶ自分は体だって思っているところからくる苦悩だ。


人の悩みが全部同じってことは、それはひとつの心だからじゃないのか?

たったひとつの心が考えることはみんな同じだから、

だから悩みも同じ。

求めるものも同じ。



人の気持ちがわからないってのは、わからないことにしているだけなのかもね。

それはちょこんと現れてくるキャラの姿だけを見ているから、

相手の気持ちがわからないように感じる。


でもそのすぐ下には、大きなひとつの心。

自分の心を掘り下げてのぞけば、相手の心も見える。


みんな同じように愛を求めて生きている。

体を持った自分は孤独感と欠乏感で苦しむ。


だけど愛を求めてくっ付き合いたい衝動は、

もともと同じ心だってどっかで覚えているからなのだ。


これ、なんかちゃう!

なんかちゃうぞ!って(笑)。




丸いテーブルを四人で囲みながら次々に話題が出てくる。

トラがぐるぐる回って、バターになったイメージが浮かんだ。


二人は寅年。あとの二人は丑年。


バターとミルクで何作りましょ。




絵:ミステリー表紙イラスト