2022年4月28日木曜日

チャッカマン

 


幸せは、形によってもたらされるものではない。


それに気づくために、まずは形によって幸せがどんなものかを体験する。

でないと私たちは完全に忘れているのだ、幸せを。


ああ、これが幸せだった。

ああ、これが喜びだった。

そうだったそうだったと。


心の中にその火種があることに気づく。

いつでも着火できるチャッカマンがそこにいる。


でもそのチャッカマンの存在をすっかり忘れてきたのだ。

いや。忘れるためにこの世界に来たのだった。


その火種は神からのもの。神そのもの。

それを持ったまま、だけど忘れて、この世界に降りてきた。


神の子は、神様のまねごとをして、神様の代替えの形をいっぱい作ったけれど、

その形に溺れてしまって、笑うことを忘れた。



だけど神様からもらったチャッカマンはちゃんとそこにある。

だから形の中で笑うことを覚えた。

形によって幸せが得られると信じた。


そうやって形で得ることでやってくるのが幸せだと思ってきたんだ。


でも本当は反対だった。

もともとあるものを思い出していただけだったんだ。




ある時、友達から美味しそうな料理の写真が送られてきた。


コース料理が次々と。

美味しすぎて、食べる前に写メするのを忘れて、

ほとんど食べ終わったものの写メも送ってくる(笑)。


「あのね、めちゃくちゃ美味しい!」

と書かれたラインのコメントに、私の心はいきなり開いた。


彼女の幸せな最高の喜びが私の中に入ってきたのだ。

あふれんばかりの喜びが私を包み込んだ。

私は全身で彼女の喜びを感じていた。



その喜びは、写真によるものでも、

いつかそれを私も食べたいという思いでもなかった。


彼女の思いが私の中に入ってきた時、

心はひとつだ。。!と実感した。

私の中に彼女がいて、彼女の中に私がいる。


聖霊はこの経験を通して、兄弟はひとつだと私に教えてくれた。

その体験を与えてくれた友達に密かに感謝した。


神の子である私たちは、この世界に形をいっぱい作ってきた。

だから形の中に幸せがあると信じてきた。

でもこうして形とは全く関係のないところで起こる喜びを知っていくほどに、

もともと私たちは喜びの塊なんじゃないかと思い始めてきたんだ。


形はきっかけに過ぎない。

思い出すためのきっかけ。


私たちはそのもともとある喜びを遮っているものを見極め、

それが実在しないことを学び始めるだろう。


チャッカマンはいつでも準備万端だ。




絵:天狗湯/裏高尾の不思議な仲間たちより




2022年4月25日月曜日

お江戸のお殿様よりすごいんだけど。。。

 


いつもどっかが欠けている感じがする。

いつも何かが足りない感じがする。


心を静かに見ていると、手探りで何かを探そうとしている心に気がつく。

それは問題を探して、その問題に取り組んで、解決させて、ホッとすること。


私たちは絶えず、ホッとすること、幸せな安堵感を求めている。


求めているのは幸せ。

正しさを求めるのも、実はその正しい行いをすることによって得られる幸せ感。

やっぱり幸せなのだ。



誰かの幸せそうな姿を見て、自分も幸せな気持ちになる。

幸せなシーンを見て、自分も幸せになる。

この仕事が終わったら、解放されて幸せになる。

幸せな食べ物を食べて、幸せな行為をして、

そして幸せを得る。



だから私たちは絶えず、幸せになるためにはどうしたら良いかと探している。


その心の前提にあるのは欠乏感。

今ここに幸せがないと信じている、その心。


ないと信じて疑っていないのだ。




考えを反転させる。


幸せなものを得るから、幸せになるのではない。


幸せなシーンを見て、私たちが幸せになるのは、

もともと私たちが幸せそのものだったことを思い出している。


だから幸せなシーンを見て幸せになるのではなく、

あふれんばかりの幸せが自分にあったことを、

思い出すきっかけになっているだけなのだ。



幸せになった時を思い出してみよう。

その時恐れが消えていないか?



私たちは絶えず恐れの中にいる。

プルプルと震えるような緊張感の中で生きている。


ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、

そうならないために、あれをやってこれをやってと、

恐れによって行動している。

恐れがその行為の原動力になっている。


それが一瞬消える。その恐れによる行為が一瞬消える。

恐れの膜で覆われた心に、穴が開く。


その時、思い出す。

もともとあった幸せな感覚を。




外にある幸せにさせてくれるものを求めても、

その幸せは一瞬で終わる。

その一瞬のために探し続けてもキリがなかった。


そうではなく、そのもともとあった幸せな感覚をさえぎっている、恐れの膜を見る。

その膜は、見ないことには、それが本当は実在してないことを見破れない。


だからこそ、自分の中にある恐れに気づいていく。


物理的に満たして幸福を得ようとして戦ってきた長い時代から、

今は江戸時代のお殿様でも手に入れられなかったものを庶民が手にしている時代。


しかしそこに(物理的に)本当の幸せは見つからなかったと、

どこかで気づいている。


内側の、目に見えないけれど、

確かに感じているもの(思考、感情)にフォーカスしていく時代に入った。



しかし私たちは心に関してはまだ幼稚園児。

これからその未知の領域に足を踏み込むことになるだろう。


その未知の領域、例えば、テレパシーで会話をする時代が来るとしたら、

私たちの心の中は、あまりにぐちゃぐちゃだ。

そのぐちゃぐちゃな心をそのまま相手に見せることになる。


それがまだできないのは、まだそこまで心が成長していない配慮からなのだろう。


例えばイメージで、別の世界にワープすることも、

心が定まってない状態でテレポーテーションしたら、

とんでもないところに行くかもしれないし、

そもそもその体は、五体満足にその場所に全部移動できるかどうかもわからない。


私たちはまだそんな程度。


でもこの世界を作って、物質を作り上げることまで成し遂げた私たち。

そこに本当の幸せは存在しないとわかり始めている。


心を使って、目に見えるものを超えていくぜ。


待ってろよ、テレポーテーション!

(幸せの話しやったんちゃうんかい)





絵:MF新書表紙イラスト


2022年4月23日土曜日

濡れ落ち葉じゃないぜ

 



「私が見ているものについての責任は、私自身にある。


私が経験する感情を選択するのは私自身であり、

私が達成したいゴールを決めるのも私自身である」


(奇跡講座テキスト第21章理性と知覚 2視覚に対する責任 2段落目3、4)




コースのこの言葉がグイグイ私をついてくる。

「ただ起こることが起こっているだけ」とは言わせてくれない。


その起こってくるものを見ている、そのあなたの責任だと。

そしてその出来事にともなう感情も、あなたの選択なのだと。


それは逆に言うと、あなたが作り出しているのだから、

あなたが消すこともできると言っているのだ。


ただ出来事(風)に振り回され、

翻弄される(川に流される/雨に打たれる)はかない濡れ落ち葉じゃない。(男じゃないけど)


つまり私にはその力があるとコースは教えている。




私はいつもメールを見るのが怖い。

私のエージェントピーターからのメールで、

出版社のアートディレクターからのスケッチの直しのメールが来ないかと怯えているのだ。


その日もビクビクしながらメールを開ける。

開くまでの時間が苦しい。


待ちながら思った。

「待てよ。なんで私は毎回こんなに怯えているのだ?

この恐れを選ばないこともできるんじゃないか?」


その時、恐れが消えた。


「え?消えるの?」


開いたメールには、ピーターからのメール。

そこにはアートディレクターから直しのメールが添付されていた(爆)。


その時私は初めてこう考えた。

「私のスケッチに直しが来たからといって、私の存在が抹消されるわけではない」


そうなのだ。

私はずっと、デザイナーやアートディレクターからの直しが来るとは、

水戸黄門様の印籠を見せられるように、

セーラームーンに決め台詞はかれるように、


「おまえは能無しだ!」

とレッテルが貼られることだと信じてきたのだ。。。!


ちっこい心臓の持ち主のつくしちゃんはずっとこの言葉に怯えてきたのだった。


しかしその考え、信念があっただけだったのだ。

ただ、そう信じていただけだったのだ。どこからか拾ってきて。

そのことに気づかされる。


この考えは私にとって有効か?

いやいや。持っていたって、その考えは私を苦しめるだけだろう。

もう必要ない。

これを聖霊さんにお渡しして訂正してもらおう。




先日書いたエアー物差しの秤りごと、

この出来事には恐れるのが普通で、

この出来事には喜ぶのが普通で、

この出来事には悲しむのが普通で、

この出来事にはブチ切れるのが普通。。。


エアー物差しは、一旦その意味が暴露され、

その有効性が徐々に消え始めると、

それによってともなう感情さえも選択だと知り始める。



こうしてアートディレクターの直しの注文が来ても、

恐れなくして淡々とこなせる、

心臓に毛が生え始めたつくしちゃんがいましたとさ。

めでたしめでたし。

(って、日本昔ばなしか!)




恐れはそれを実在させる。

ガッチガチの硬い、ドリルで穴開けないと壊れないコンクリートの世界から、

恐れを選ばないことによって、

柔らかなレースのような、ふわふわした世界になっていく。


心の中の微妙な変化にフォーカスしていくと、

ほんの少しの選択によって、

世界の見え方が変わることに驚き始める。



「見えるものについての責任は私にある。」


私にはそれができる力がある。

濡れ落ち葉じゃないのだ。




絵:きつねえさん/展覧会「裏高尾の不思議な仲間たち」より




2022年4月20日水曜日

エアー物差し

 


私たちは、自分が恐れていることに気がつかない。


あれこれ画策を練るのは、

問題を見つけて、その問題を解決すれば幸せになれると思い、

あれこれ画策を練るのだ。


これをほとんど自動的にやっている。

「あっ、まずい!」

「あっ、やばい!」

「なんとかしなきゃ!」


問題を見つけた瞬間、動揺する。

恐れ発動。


問題が見つかるとは、ふつうこうであらねばならないのに、

そうでない事態が起こった!と見つけること。


その「こうであらねばならない」が、元々の物差しなのだ。


その物差しで測るから、

「あっ!短い!」とか「あっ!長すぎる!」

とか言って、大慌てする。


長年使ってきて、そして誰もがそれが基準だと教えてやまない物差しだ。


息するようにそれでいちいち計るから、問題が見つかる。

短くても問題だし、長すぎても問題だ。




私たちはいつの間にか、

その問題を解決することが自分の幸せだと信じるようになった。


そして「どこかに悪い子はいねえが~~~」と、探し続けるのだ。


だがそれこそが恐れなのだった。


恐れの物差しで測り、

その物差しではかられたものに取り組み、

それを解決させて一瞬幸せな気分になる。

だけどまたやってくる恐れ(問題)。


恐れを見つけ、恐れで解決し、恐れが一瞬消える。


という繰り返しをやっているが、

一向に恐れが消えることはない。


そうやってあっちこっちで取り組んで、ゼーゼー言って、

精魂尽き果てて、ボロボロになって、

ちっとも問題(恐れ)消えないじゃん!


そして

「ちょっと待てよ。。。?」と気がつく。


この「物差し」って何?




元々の、この物差し自体が「恐れ仕様」だったのだ。


その自分が手に持っっている物差し。

これが恐れを生み出す装置だった。


だってそれで全部測っていたんだもん。

ずっとそれが幸せの基準だって思っていたんだもん。



それが恐れを生み出す装置だったと知った時、

その物差しをじっと眺めてみる。


そうすると、その物差しは、時と場合によって、

長くもなりゃ、短くもなって、

とんでもなくいーかげんな物差しだった。。!もう矛盾だらけ。


そんなものに私は必死で長いこと頼ってきたのかと。

それは恐れしか生み出さなかったのだと。




その時その物差しが、

実は実在せず、エアー物差しだったことに気づく。


しかし「もう、こんなものいらない!」

と、思ってはみるものの、存在しないものをあると思って、

長年それが基準になってそれにすがって生きてきたのだ。

火曜日の可燃ごみの日にポイっとは、簡単に捨てられない。



そこでじわじわと捨てていく。


「それは短すぎる。。。」

とエアー物差しが言ってくることを

「本当にそうか。。?」

と疑っていく。


あるいは、「ふ。。もう信じねえぜ」

と相手にしなくなっていく。


そうすると、もう一つ別のものが見え始める。

それは物差しのない世界。

はかりごとがない世界。

(測りと、謀をかけた。うまいっ!)




いい、悪いという判断がない世界がある。


これまで物差しでこの世界を測ってきた。

恐れによって測られた世界は、恐れを実在させてきた。


物差しのない世界は、恐れがない。

いい悪いという判断がない。


すべてよし!だ。


それは愛とともにある。


測らない世界は、愛の反映。

物差しのある世界は、恐れの投影。




恐れを作り出す物差しは徐々に消え始め、

代わりに愛が、浮かび上がり始める。




絵:MF新書イラスト




2022年4月18日月曜日

ココロのスキマ


 

先日、鯛が空を飛んでいた。

おお~。もっと自由に飛ぶのだあ~というと、

もっと自由に飛んで行った。


夢の話なんですけどね。


パソコンから目を離し、左の窓を見ると、山の木々の若葉の緑が眩しい。

すげえ。。。

生き物の気配がムンムンムンムン私に迫ってくる。

生きてるぜえ~~っ!



さて、この頃の私は心に隙間ができ始めている。


「あなたのココロのスキマをお埋めします。。。」

という怪しい文言があったなあ。


隙間というよりも空間というか。

何もない空間。まっちろ。

その空間は静かで穏やか。


心にそれを思い出し、その中に浸る。

自我の声はピタリと止んでシーンとしている。

やがてその中に私は包まれていく。


これが神なんかなあ~?と思いながら、その心地よさにただじっとする。




日常、いつも心にフォーカスしているから、

ほんの些細なことで心が動揺することにすぐ気付く。

未来のことを考えていると、チクリと恐れがやってくる。

過去を思い出すと、チクリと後悔が襲う。


過去と未来はこんなにも私を恐れさせているのかっ!


過去と未来は時間の象徴。

それは頭で思い描くものであって、実在してはいない。

頭の中の妄想らしい(笑)。


過去に手を加えられるだろうか。未来に手を加えられるだろうか。

どちらにも手は加えられない。

どうにもしようがないことに私は恐る。


じゃあ今って?

時間が存在していない、確かにここにあるもの。


だから今に戻る。


今ここにあるものとは、見えている景色のことではない。

肉体も風景も形象。

それをいくら見てもそこに答えは見つからない。


今ここにあるものとは、この、私はここにいるという、肉体感覚ではない感覚。


確かに私はいる。。。!という実感。


体も五感も思考も感情も通り越して、その先にあるものだ。



心はいつも言葉で埋め尽くされている。

その大量の言葉が、私たちを恐れさせ続けている。

意識にも登らないほどの無限の言葉で。


その言葉だらけの心の中に気づくと、本当にびっくりする。

ありゃま~!なにこれ!って。


それが次第に静かになっていくほどに、

今までどれだけその恐れという重荷を背負ってきたのか。

荷は降ろされた後、その大きさに気づく。

背負っている間は気づかない。



まっちろで静かな抽象の中で、

何かに触れて、思い出そうとしている。


私の正体を。。。

(やはり妖怪か!)