幸せは、形によってもたらされるものではない。
それに気づくために、まずは形によって幸せがどんなものかを体験する。
でないと私たちは完全に忘れているのだ、幸せを。
ああ、これが幸せだった。
ああ、これが喜びだった。
そうだったそうだったと。
心の中にその火種があることに気づく。
いつでも着火できるチャッカマンがそこにいる。
でもそのチャッカマンの存在をすっかり忘れてきたのだ。
いや。忘れるためにこの世界に来たのだった。
その火種は神からのもの。神そのもの。
それを持ったまま、だけど忘れて、この世界に降りてきた。
神の子は、神様のまねごとをして、神様の代替えの形をいっぱい作ったけれど、
その形に溺れてしまって、笑うことを忘れた。
だけど神様からもらったチャッカマンはちゃんとそこにある。
だから形の中で笑うことを覚えた。
形によって幸せが得られると信じた。
そうやって形で得ることでやってくるのが幸せだと思ってきたんだ。
でも本当は反対だった。
もともとあるものを思い出していただけだったんだ。
ある時、友達から美味しそうな料理の写真が送られてきた。
コース料理が次々と。
美味しすぎて、食べる前に写メするのを忘れて、
ほとんど食べ終わったものの写メも送ってくる(笑)。
「あのね、めちゃくちゃ美味しい!」
と書かれたラインのコメントに、私の心はいきなり開いた。
彼女の幸せな最高の喜びが私の中に入ってきたのだ。
あふれんばかりの喜びが私を包み込んだ。
私は全身で彼女の喜びを感じていた。
その喜びは、写真によるものでも、
いつかそれを私も食べたいという思いでもなかった。
彼女の思いが私の中に入ってきた時、
心はひとつだ。。!と実感した。
私の中に彼女がいて、彼女の中に私がいる。
聖霊はこの経験を通して、兄弟はひとつだと私に教えてくれた。
その体験を与えてくれた友達に密かに感謝した。
神の子である私たちは、この世界に形をいっぱい作ってきた。
だから形の中に幸せがあると信じてきた。
でもこうして形とは全く関係のないところで起こる喜びを知っていくほどに、
もともと私たちは喜びの塊なんじゃないかと思い始めてきたんだ。
形はきっかけに過ぎない。
思い出すためのきっかけ。
私たちはそのもともとある喜びを遮っているものを見極め、
それが実在しないことを学び始めるだろう。
チャッカマンはいつでも準備万端だ。
絵:天狗湯/裏高尾の不思議な仲間たちより