2017年7月29日土曜日

肩書き「自分」


「自分になるために学びは必要ですか」
ムージの言葉だ。
ドキッとする。

自分になるために。。?

私はずっと自分に「私はイラストレーターだ。私は女だ。私は56歳だ。私は日本人だ。。。」と、いっぱい肩書きをはって来た。

肩書きとは、外にあるイメージだ。
イラストレーターのイメージ、女というイメージ、56歳のイメージ、日本人のイメージ。。。
その外のイメージに、自分を当てはめる。そうすると自動的にそうでない自分を見つけてしまう。

イラストレーターは、こういうイメージだよな。
今の自分は?
え!じぇんじぇんちゃうやんけ!
じゃあ、そのイメージになるために、こーやって、あーやって。。。と。

女はこういうイメージ。。。
自分は?いや、じぇんじぇんちゃうやんけ!
そのイメージに合わせるためには、あーやって、こーやって。。。と。

そーやって、自分が勝手につけた肩書きに、あわせよう、あわせようとしてきたのだ。

それ、自分?

自分じゃないものに、そう、自分じゃない型に、自分をはめ込もうとしていたんだ。
「イラストレーター型」、「女型」、「56歳型」、「日本人型」「ナンチャら型」

そもそもなんで「型」にはまらなきゃいけないんだ?
そう教わったから?
そのほうが、気持ちが安心するから?
人を安心させるから?
社会を安心させるから?

だけどその型って、すっごく抽象的。しかもそれに資格などあるわけもなく。
「あなたはみごとにイラストレーター型にはまりました。おめでとうございます!」
と、賞賛されるわけもなく。


その漠然とした抽象的な、おばけのような「型」に、無意識に振り回されている自分を発見する。

小さいとき、「何になりたい?」ときかれて、
一瞬、どうして外の何かにならないといけないのだろう?とおもった。だけど私は母の思いをくんで「看護婦さんになりたい!」と答えたものだ。

そういう問いに対して、
「自分になりたい!」と答えた、ある子供の話しを思いだす。


冒頭の言葉「自分になるために学びは必要ですか?」


自分って何やろ。
それまで自分じゃないものに、無理矢理自分を押し込めようとしていた。
でも、自分になるためって、、、、まさに今のこの状態やんけ。
それって何の型もない。
型は、まさにわたしそのものだ。

何の型もないものだとしたら、無理矢理その中に入る事もない。
そのまま、今ここで出発できる。
しかもどうあろうと、それが自分、そのままなのだ。

そこに学びはあるのか。
自分自身であるなら、外に教えを乞う必要もない。
そして発見がある。
どんどん掘り下げて、どんどん発見して行く。


「大きくなったら、なにになりたい?」
「大きくなったら、大きな自分になりたい!」

名刺にこう書くのだ。

肩書き:自分
名前:つくし


来年の確定申告の職業欄にこう書いちゃおうか。



絵:「炎」

2017年7月23日日曜日

言葉という魔法


言葉にすると、それはリアルになります。

それまで、ぼよぼよふわふわぼよーんとしていたものが、
「これは○○です」
という名前を付けた瞬間、ぼよーんとしか見えていなかったものが、ゆっくり、急速に形を持ちはじめ、それが○○になります。

「これは○○という出来事です」
と、何かの動きの連続性をみつけ、「出来事」として言った瞬間、それが○○という出来事になります。

わしらの目の前には、最初っから独立して物体が存在していたのではなく、それを誰かが個別の存在としてみつけ、それに名付けたから、みんなはそこを注目しはじめ、リアルなカタチに見え始め、定着し、だれもがそれを
「これは○○です。あたりまえじゃ」
となっていきました。



生まれてまもない頃、目の前のぼよーんとした存在が、こちらに向けてくりかえし、同じ音を発しつづけているので、こっちにあるものは、「つくしちゃん」というものなのだとおもいはじめる。
んで、あっちにあるものが、「おかあさん」というものなのだとおもいはじめる。そうしてこっちとあっちに分れ、その音を出す存在が、カタチとしてくっきりと見え始め、それが、あれは○○、これは○○と、独立した個別の物体を教えてくれる。

そうやってわしらは、音という言葉とともに、この世の「リアル」を作り続けて来たのだ。


今日も新しい言葉/名前が生まれる。
きのうまでなかったものが、今日突然存在しはじめる。
言葉という魔法によって。



絵:表紙イラスト『M1戦国史』

2017年7月21日金曜日

アーシングの威力



庭ではだしになる。
畑ではだしになる。
ついでに畑ではだしで歩いてみる。
ついでにはだしで野良仕事してみる。

こんなに心地よいとは思わんかった。

ふわふわした土の感触。
さらさらした草の感触。
でこぼこした石の感触。
ちくちくした刈ったばかりの草の根元の感触。

むき出しの足の裏が、あらゆる物体の存在を教えてくれる。
いや、そんなことよりも、なんとも言えぬ、なんだろう、ずいぶん忘れていた感覚。。。子供の頃に知っていた感覚。
大地と、この世と、直接触れているという実感と安心感。。。

その感覚にひたろうとすると、大人になった疑い深い心がさわぐ。
「汚い。危ない。破傷風になる。。」


アーシングという言葉を聞いたのは、つい最近だった。
エハンデラヴィという冒険家が教えてくれた。

地面に直接足をつけることは、じつはわたしは昔から知っていた。
身体に電磁波がたまるから、大地に足をつけて放電しなさいと母に言われていたことがあったので、ときどき地面に足と手をつけて四つん這いになって、
「ほうで~~ん!」
と叫んでいたから。

それを徹底してやったことはなかったが、ここに来て、この「ほうで~ん!」がいかに身体に良いか、いかに私たちが常日頃電気まみれになっていて、それを放電する機会がないかを知る。

さすがに夏の虫が多い時期に、畑ではだしで野良仕事もできないので、黒足袋を履いて作業をしていた。

地下足袋はゴム底なので絶縁する。だから普通の綿素材の黒足袋を着用。


ある日、足の裏に異変を感じた。
「あれ?魚の目が。。。。?」

それはかれこれ10年以上は持っている持病の魚の目。
さながら活火山のように、カルデラがぱっくりと深い口を開け、カルデラのフチは毎年のように高くなって行く。歩くとフチがあたって痛いので、ときどきカッターで削ぎ落とすが、ほどなくしてまたカルデラのフチは高くなる。それをカッターで削ぎ落とし。。。
そうやって10数年、この魚の目火山と戦って来たのだ。

それがある日。
「か、カルデラが消えてる。。!」
ぱっくりと深い底なしの穴を見せていたはずのカルデラが平らになっている。
「えーーー。なんでえーーー?」


頭をぐるぐるめぐらせる。最近何か変わった事をしなかったか?
ある!あれしかない!アーシング!

1ヶ月前から畑と庭でやっているアーシングだ。
調子がいい、野良作業が疲れない、などの効果は実感をしていたが、魚の目まで治すとはしらなんだ。恐るべし!アーシング!



おもしろいので、写真を撮ってみた。
お見苦しい写真を失礼いたします。

これが6月20日、最初に発見した、消えていくカルデラの様子。
元の姿をお見せできないのが残念。(そんなもん、いらん)
なんともいえぬひどいカルデラであった。


それから20日後/7月10日。
そこに何かがあった足跡はあるが、これがかつて活火山だったとは夢にも思うまい。


そして、10日後/7月20日。
もはや大きな指紋の一部のようにしか見えない、かつての魚の目火山。



アーシングは、私たちの身体にたまった電磁波を放出して、自然体に戻してくれるというだけではなかった。

植物が根を張るために大地を必要とするように、人間もその根のごとく、大地を必要としていたのではないか。それが60年代に靴の底にゴムを貼るという画期的な文明のせいで、大地との交流が絶縁状態になった。そこからありとあらゆる病いや問題があふれて来たのではないだろうか。


眼に見えない根っこが大地と私たちを結んでいる。大地も私たちの皮膚の一部ではないか。いや、私たちこそが大地の一部なのだ。

魚の目事件をとおして、大地とのつながりをじかに実感させてもらったいい体験だった。

大地さん、ありがとうーーっ!
魚の目さん、ありがとうーーーっ!


2017年7月20日木曜日

何のための畑?


先日、畑で野菜が消えていた。

大きく育ちつつあったトウモロコシも、ズッキーニも、キュウリも、ジャガイモも、トマトも消えていた。ついでにジャガイモの横に生えていたカンケーないインゲンも根こそぎ。

山のすぐ横にあるこの畑は、いつも野生の脅威に脅かされる。毎度の事ながら、そのたびに驚き、がっくりする。

何のために野菜作ってんだろう。。。わたしはサルやタヌキを育てるために野菜作ってんのか?と、自問自答する。

木陰で素足になり草の上に座り、呆然と畑をながめる。バックには高尾山の美しい山並み。すずしい風がほほにあたり、荒れた気持ちを流して行く。


人が行動するとき目的がある。
おいしい野菜を作るためや、無肥料無農薬で野菜が作れるのかという実験をするという目的。
ところが夏は夏野菜を、冬は冬野菜を、ことごとく野生動物にもっていかれると、その目的は覆される。ネットを掛けたりするが、それもサル知恵にかかっちゃ、おてあげ。
残るは電気仕掛け。でもここまで広い畑だと、逆にお金がかかってしょうがない。それに何だかそういう手段に抵抗がある。


早朝ズッキーニのめしべにおしべを交配させる事をやっている。きれいに咲いたメスの花の芯に、オスの花のおしべをちょんちょんとくっつけると、核分裂をおこして一気にズッキーニの実が大きくなって行く。その変化がおもしろい。
ああ、こうやって子供が育つんだあ~って、感心する。


ふとおもう。
ただそういうことを見ているだけで嬉しいんじゃないか、わたし?
食べる事も好きだけど、かれらのたくましさや変化やその過程の美しさ。。。そういうものを味わわせてもらっているんじゃないだろうか。。。
命のダイナミックさを、じかに堪能させてもらっている。
植物だけでなく、野生動物の命の営みささえも。
そういうことのための畑なんじゃないか?


トウモロコシが消えた朝、呆然とするも、
「うまかったやろうなあ~。。」
と想像して、自分が食べたような気になっているのに少し驚く。まるで子供が食べている姿を見て嬉しい母のように。



今朝も畑に出かけると、サルの親子が畑のすぐ横の木の上にいた。

ズッキーニの畝でおしべとめしべを交配させる。同じ畝で大きくなりつつあるズッキーニも食べられちゃうんだろうなあ~とおもう。でもそこまで心ががっかりしていないわたしがいる。
立ち上がって、
「私らの分は残しておいてよ」
と、サルの親子に向かって言う。

大きくするためでも、たくさん取るためでもない、不思議な畑。

この理解不可能な現象の中で、畑8年目の夏が過ぎて行く。

2017年7月13日木曜日

怒ることが起こっている


非二元の勉強するうちに、どうしてもひっかかることがある。
それを書いてみる。

起こることが起こっている。ただそれだけ。
感情も起こることが起こっている。
思考も起こることが起こっている。
ただそれだけ。
その言葉は、うまく使える。

怒りが起こるとする。

するとこういう。
「怒ることが起こっている。ただそれだけ。」

自分が怒っていても、
「それはほら、単に起こっただけだから。」
って使える。

その怒りにまかせて、ものを蹴飛ばしても、
「ほら。それがただ起こっただけ」
って、肩をすくめて舌をぺろっと出せる。

これが非二元?
なんだかなー。

すべての現象は、現れては消えていく。諸行無常。すべては移り変わって行く。
感情も起こっては消えていくものだ。

だけど人はその自分に起こった感情に執着する。
「これは私の怒りだ」と。

そしてその怒らせた相手にも執着する。
「お前が私を怒らせたのだ!」と。

そして自分がいかに正しいかを主張する。相手の間違いを訴える。
それは口に出して言わなくても、たいてい心の中でやっている。
(これをエアー演説というw)

次にその怒りがまたやって来ないように、相手をコントロールしようとする。ところが人などコントロールできるはずもない。あの手この手を考え、最終的に、いやときどき、力づくでのコントロールになることも。。。

こうして単に怒りが現れただけなのに、消えるどころかますます盛り上げて、延々とその怒りを制作し続けて行く。



これ、「起こることが起こってる」だけで済むもんかね。
これじゃ、有史以前から続くありがたい教えの意味がない。

この言葉のほんとうのニュアンスは、
怒りが起こる。
「あ、怒りがあるのね」
と怒りに気づき、その感情に係わらない。

現れては流れて行く雲のように、その感情も外からながめているだけで、ほんとうは消えていくものなのだ。ものの数分のうちに。場合によっちゃ、何秒単位。
これが本来の「起こることが起こっている、ただそれだけだ」の意味やとおもう。

けど現状の私たちは、怒りが来ると、それを自分の怒りだととらえ、怒りは悪いものだという観念によって、それをなんとかとりのぞこうと躍起になるので、先程書いたパターンにはまって、怒りを制作し続けてしまうのだ。




怒りを分解してみようか。

まず、なんで怒りが来るのかってことだ。
そんなの怒るに決まってんだろ!って言っては、また同じ所にはまるので、もう少し掘り下げてみる。

人が怒るには、何かをきっかけにしている。
怒りは反応だ。反応するということは、そこにジャッジがある。もし、いいも悪いもなければ、ジャッジというものは存在しない。わたしたちはそこで起きるできごとに「悪い/いけない」という判断を下すわけだ。

たとえば超個人的な話しをすると、ウチのダンナがあくびをすると、私はイラっとする。人のあくびに反応している。ということは、私はあくびに対して「いいわるい」という観念を持っていることがわかる。自分であくびするのは気にしないくせに、人が目の前であくびをするのに腹を立てているのだ。(勝手なお人)

まずあげられるのは、人前であくびをするのはお行儀が悪いという判断。
ここで「あー、お行儀が悪いんやと思ってるんやー私ー。」と気がついても、いっこうに怒りはおさまらなかった。
まだ何かその怒りを支えている信念があるなと気づく。
しかしなかなか見つけられない。

あくび=退屈。
あいつは退屈してるんや。。。
なんで退屈してるねん!ムカつくなあ~。。。

あれ?まてよ。
なんで人が退屈しているのを見てムカつくねん、私。。。。

退屈はいけないこと。。?
ほんとに?
自分の中に深く入って行った。

私が、、あいつを。。。退屈。。させてる。。。?
ふと、そういう考えがよぎる。

いやいや、人を退屈させるなんて、おこがましい。。。

そのとき、小さな時の記憶がよみがえった。
身体の不調を訴えたり、機嫌が悪かったりする母に、私はその場でおどけて見せたり、踊ってみたり、素敵なものを見せたりして、母を笑わせ、母の機嫌を取っていた自分を思いだした。


人を退屈させてはいけない。

この観念は、あの小さな私があのとき持ったものだった。
なんとか母を元気にしたいというやさしくて母思いの子でもあるが、反面母の機嫌を取ることで、自分の身の安全を確保しようとする試みがあった。子は自分の存続のために、ありとあらゆる手を駆使するのだ。

そういう心のパターンは、大人になっても続いていた。人の顔色をうかがったり、空気を読んでみたり、時には必要以上に人の機嫌を取ったり。。。

パターンは気がつかない限り消えない。日の光に当てて、真正面からそれを見ない限りは自然消滅はしないらしい。

あくびをするダンナは、まさに私が彼を楽しませることができない(変な意味じゃなくてえ~w)という結果を突きつけられたかのように、錯覚していたからなのだった。

そういう自分の心の流れ方に気がついてから、ダンナがどれだけ大あくびしても、めっちゃ退屈そうでも、何のイラつきも起こらなくなった。
心がそれに反応しなくなったのだ。




起こることが起こっている。
怒りが起こっただけ。それだけ。
というままにしていたら、ダンナのあくびへの怒りは、ずっと続いていたことだろう。

非二元の言葉は、徹底的な自己認識ののちに(簡単な道のりではない)、自然とわき上がることであって、聞いたことばをそのままお題目のように、ただとなえていればいいものではないとおもう。というか、それを口にする意味もないのかもしれない。


単に知識を入れることと、それを本当に知ることは、まったくちがう。
私たちはあまりにも、ただ知識を入れることだけをしてきた気がする。


絵:MOON DEER


2017年7月12日水曜日

「止まれ」


夢を見た。

両脇を建物や壁や岩などで囲われた、まがりくねった道を歩いていた。向こうから車が来る。それをよけながら前に前に歩いていた。脇道はない。この道の先にきっと開けた場所があるはずだ。。。という確信の元にずっとずっと歩いて行く。

何度も折れ曲がりながら、そのつど道がすこしずつ狭くなる。はたと気がつく。こんな道をあの対向車は通って来たのか?
この先に本当に開けた場所などあるのだろうか。。。

道はいよいよ狭くなり、ところどころ開き戸まである。足元にむきだしの和式の白い便器があちこちに。。。よくみたら、半分壁に埋まっているものまである。いよいよ怪しくなって来た。

部屋の中のような道を歩きながら、この先には開けた場所などない、と確信する。後戻りしようか。あのもう少し広い道に戻って。。。。
だけど、歩いて来た道を戻ってもしかたがない。かといって、前に進めば進むほど、もっと狭くなるだろう。。。

進退窮まったとき、これは進むことでも、戻ることでもないというインスピレーションが。


目が覚めた。


布団の上で、ぼうぜんとする。さっきまで見ていた夢を思いだす。
あれはまさに私の探求の姿。ひたすら前に前に進んで、開けた場所、つまり解放や悟りを探して歩いてきた。だけどこの先、歩いても歩いても解放はない。それどころか、もっと狭くなって行くだけなのだと教えられた。
これは動くことではない。
つまり「止まれ」ということだ。

「止まれ」かあ。。。

人はじっとしていられない。じっとしていると不安になる。不安になるから動く。動く動機を探す。動くきっかけを探す。
悟りは、ぼーっとしてては悟れない。動いていれば、探していれば、歩いていれば、なにかいいことさえしていれば、いつかきっとそこにたどり着くはずだと信じて来た。
それは自我の主張だったのかも知れない。動けば自我は満足する。その声に心も身体もあわせて来たのだ。


だがあの夢は、それをやる意味のなさをはっきりと教えている。
もう、止まれと。

止まるとはどういうことか。
その場にとどまるってこと。

動くことは、その場を離れようとすることだ。その場とは今。今のここが、どこか居心地が悪いから、どこかに移動しようとする衝動。その衝動を真っ向から断ち切る。
その今の居心地の悪いこと、もの、状態を、そのまんま受け入れろ。とどまりつづけろ。
その意識はその状態に巻き込まれてはいない。その不快を見ている意識だ。

そうはいっても、その止まることに慣れていない。

どうやって止まったらいーの?
カンタンじゃん、止まるだけだよ。
えーーーー、止まり方、わかんない。

小学校の頃、ぼーっとしてて、怒られたことを思いだす。
あの時は、止まっていた。今にいた。
でも止まっていて、怒られた。
それでつねに動くことをじぶんに課した。長年の訓練の結果、それが空気すうように自然になってしまった。じっとしていられない。何か常にしようとする意識。ぼーっとしてたら、怒られる。ぼーっとしてたら、ろくな人生にならない。(って、もうなっとるがな)

でも「止まる」ことはぼーっとすることじゃないことはわかる。

人間歴長くなると、止まり方を忘れてしもた。


絵:「MAYHEM&MASS」ミステリーペーパーバック表紙
   新たなミステリーシリーズ始まりました。

2017年7月6日木曜日

エンヤではんにゃ


紙絵の教室が細々と続いている(笑)。

先日、初老の男性が生徒さんとして入って来られた。
教室で絵の素材は、だいたい花や季節ごとの風情だが、男性に花の絵もなんだかなあ。。。

ふと能面はどうかな?とおもった。

「能面か。いいなあ」
と気に入られ、小面と、翁と、般若の写真を見せる。

「どれがやってみたいですか?」
と聞くと、
「般若!」と、即答。
「は、はんにゃっすか。。。w」

彼に下書きからはじめてもらったが、線画とちがい、紙で切ることを前提にする下書きは、ちと難し過ぎた。
それでも面で構成することを念頭に入れてもらいながら、私が手直しし下書きができた。
それを元に紙を切りはじめる。
どこにどんな色を置くか、影はどうつけるか。
はじめて紙で切るには、かなり難しい素材を選んでしまった。
時間内にはおさまりきれないので、次の教室で続きを制作してもらうことに。

お手本なしでは彼もイメージがわかないので、彼の下書きを元に、センセーの私は般若を仕上げて行く。

さっき般若の絵が出来上がった。

「エンヤ聞きながら、般若かい」
ダンナが二階から降りて来てつぶやいた。

エンヤを聞きながら、般若の絵を作っていた私。
全然気がつかなかった。

「やっぱ、エンヤの音は植物だよなー〜〜〜!」
とか感心しながら聞いていた。

じぇんじぇん合わない?

エンヤではんにゃつくりました。

どお?




2017年7月2日日曜日

人の数だけ真実がある。


Aさんに、ある事件が起こった。AさんはXさんに濡れ衣を着せられたという。犯罪者にさせられそうないきおい。聴くからにたいへんそう。

Aさんが帰ったあと、Bさんはいう。
「あの話、ホントかね?」

私もちょっと疑う。ほんとかね?

Aさんにとったら、濡れ衣をきせられたという話は真実。
Xさんにとっても、Aさんがやったと思うのもまた真実。

じつはどっちにしても、お互いの視点からの意見。
そう思うんだから、それが事実。
どっちも主観でしか見ていないので、どっちも自分が正しいと思う。

じゃあ、客観的な真実は?
かりに、その現場を第三者が見ていたとしよう。
それは客観的な意見として成立するか。

一般的に考えると成り立つ。

しかし厳密に言うと、それも主観でしかない。
それは第三者が、「その人」の立ち位置で判断してしまうから。

つまり「客観的なもの」というものはないんだな。

人がいる限り、主観でしかみれない。
そしてそこに人がいないと、
そこには何も存在しない。

人の数だけ、真実がある。
ほんとうの、ほんとうのところは、誰にもわからない。


そしてこの世は主観しか存在していない。



2017年7月1日土曜日

あの時のショック




あるとき、世界がみんなハリボテに見えた。
立体的でなく、ペラッペラ。ウラなんてない。

しかも世界は自分が見るからそこに世界が存在するだけで、
見てない所には何もない。。。

とゆーことは、この世はみんなウソ???

という衝撃があってから、この世らしきものを受け取りきれず、小学校の授業もまともに聴けず、つねにぼーっとした子供だった。

この世の象徴でもある身体もうまく使いこなせず、もてあますしまつ。
この体に入らなきゃ、早く入らなきゃ、と心は焦るばかり。

でも努力のかいあって、ある日、無事「入りました」となった。その時の爽快感は今でも覚えている。指の先まで、うまく使いこなせるまでになれたのだ。

しかしあの衝撃から50年間、あのショックがこの人生の基盤になっていて、表向きは人らしき生活は営んではいるものの、ひそかにこの世を疑ってきた。

人にはお見せできないほど、怪しー本を読みあさり、だんだんこの世のほころびが見えて来たものの、まだこの世を捨てるほどの勇気はない(笑)。

この世には、達観した方々がおられて、いろんなことを教えてくれる。
あの幼かったころの衝撃(ハリボテ)は、達観した方々がすでに経験されていて、見るからそこに存在するって言う話は、量子力学で100年前に証明されている。

そして自分は身体だと思っていたものさえ、自分ではないという。
この思考も、この感情でさえも。

良く考えてみりゃ、あのとき自分が身体に入った感があったってことは、自分は身体じゃないって、その当時は知ってたってことだ。(使わせてもらってる道具?)

ところがアレから50年。「おとーさん、おとーさん、あたしはからだそのものなのよ。おとーさん!(きみまろ風)」となっちまったけど。


自分は身体じゃない。って知ってた私はだ~れ?



絵:夕方犬のななと一緒に毎日歩いた浜。目の前にサンフラワー号。浜に流れついたワカメをとって、お味噌汁にした。
あのころは、毎日アーシング(笑)。

一子相伝の秘術。。。


トウモロコシを植えた。

毎年収穫しようとする前日に必ず、どなたさまか存じませぬが、まるごとお持ちになられて、ちっともやまんばの口に入らぬ。

ふてくされてここ何年か作ってなかったが、ある人から、一子相伝の秘術を教わり、今年ばかりはイソイソと育てている。

なんでもとうもろこしの実に、ギャングの変装用のストッキングをかぶせるのだそうな。(ばらしとるやないか)

さてそのトウモロコシ。ある一角だけが、えらく元気がいい。
やまんばは考える。はて。。?
その目の前に、大きなススキのカブが。

やまんばは思いだした。
この畑を開拓した年、爆発的に野菜が育ったのを。
そしてこの場所は、山のようなススキで覆われていたのだ。
ススキの根っこは、土に栄養を供給している。。。?

うーん。
畑の謎は深まるばかり。。。