2017年7月13日木曜日

怒ることが起こっている


非二元の勉強するうちに、どうしてもひっかかることがある。
それを書いてみる。

起こることが起こっている。ただそれだけ。
感情も起こることが起こっている。
思考も起こることが起こっている。
ただそれだけ。
その言葉は、うまく使える。

怒りが起こるとする。

するとこういう。
「怒ることが起こっている。ただそれだけ。」

自分が怒っていても、
「それはほら、単に起こっただけだから。」
って使える。

その怒りにまかせて、ものを蹴飛ばしても、
「ほら。それがただ起こっただけ」
って、肩をすくめて舌をぺろっと出せる。

これが非二元?
なんだかなー。

すべての現象は、現れては消えていく。諸行無常。すべては移り変わって行く。
感情も起こっては消えていくものだ。

だけど人はその自分に起こった感情に執着する。
「これは私の怒りだ」と。

そしてその怒らせた相手にも執着する。
「お前が私を怒らせたのだ!」と。

そして自分がいかに正しいかを主張する。相手の間違いを訴える。
それは口に出して言わなくても、たいてい心の中でやっている。
(これをエアー演説というw)

次にその怒りがまたやって来ないように、相手をコントロールしようとする。ところが人などコントロールできるはずもない。あの手この手を考え、最終的に、いやときどき、力づくでのコントロールになることも。。。

こうして単に怒りが現れただけなのに、消えるどころかますます盛り上げて、延々とその怒りを制作し続けて行く。



これ、「起こることが起こってる」だけで済むもんかね。
これじゃ、有史以前から続くありがたい教えの意味がない。

この言葉のほんとうのニュアンスは、
怒りが起こる。
「あ、怒りがあるのね」
と怒りに気づき、その感情に係わらない。

現れては流れて行く雲のように、その感情も外からながめているだけで、ほんとうは消えていくものなのだ。ものの数分のうちに。場合によっちゃ、何秒単位。
これが本来の「起こることが起こっている、ただそれだけだ」の意味やとおもう。

けど現状の私たちは、怒りが来ると、それを自分の怒りだととらえ、怒りは悪いものだという観念によって、それをなんとかとりのぞこうと躍起になるので、先程書いたパターンにはまって、怒りを制作し続けてしまうのだ。




怒りを分解してみようか。

まず、なんで怒りが来るのかってことだ。
そんなの怒るに決まってんだろ!って言っては、また同じ所にはまるので、もう少し掘り下げてみる。

人が怒るには、何かをきっかけにしている。
怒りは反応だ。反応するということは、そこにジャッジがある。もし、いいも悪いもなければ、ジャッジというものは存在しない。わたしたちはそこで起きるできごとに「悪い/いけない」という判断を下すわけだ。

たとえば超個人的な話しをすると、ウチのダンナがあくびをすると、私はイラっとする。人のあくびに反応している。ということは、私はあくびに対して「いいわるい」という観念を持っていることがわかる。自分であくびするのは気にしないくせに、人が目の前であくびをするのに腹を立てているのだ。(勝手なお人)

まずあげられるのは、人前であくびをするのはお行儀が悪いという判断。
ここで「あー、お行儀が悪いんやと思ってるんやー私ー。」と気がついても、いっこうに怒りはおさまらなかった。
まだ何かその怒りを支えている信念があるなと気づく。
しかしなかなか見つけられない。

あくび=退屈。
あいつは退屈してるんや。。。
なんで退屈してるねん!ムカつくなあ~。。。

あれ?まてよ。
なんで人が退屈しているのを見てムカつくねん、私。。。。

退屈はいけないこと。。?
ほんとに?
自分の中に深く入って行った。

私が、、あいつを。。。退屈。。させてる。。。?
ふと、そういう考えがよぎる。

いやいや、人を退屈させるなんて、おこがましい。。。

そのとき、小さな時の記憶がよみがえった。
身体の不調を訴えたり、機嫌が悪かったりする母に、私はその場でおどけて見せたり、踊ってみたり、素敵なものを見せたりして、母を笑わせ、母の機嫌を取っていた自分を思いだした。


人を退屈させてはいけない。

この観念は、あの小さな私があのとき持ったものだった。
なんとか母を元気にしたいというやさしくて母思いの子でもあるが、反面母の機嫌を取ることで、自分の身の安全を確保しようとする試みがあった。子は自分の存続のために、ありとあらゆる手を駆使するのだ。

そういう心のパターンは、大人になっても続いていた。人の顔色をうかがったり、空気を読んでみたり、時には必要以上に人の機嫌を取ったり。。。

パターンは気がつかない限り消えない。日の光に当てて、真正面からそれを見ない限りは自然消滅はしないらしい。

あくびをするダンナは、まさに私が彼を楽しませることができない(変な意味じゃなくてえ~w)という結果を突きつけられたかのように、錯覚していたからなのだった。

そういう自分の心の流れ方に気がついてから、ダンナがどれだけ大あくびしても、めっちゃ退屈そうでも、何のイラつきも起こらなくなった。
心がそれに反応しなくなったのだ。




起こることが起こっている。
怒りが起こっただけ。それだけ。
というままにしていたら、ダンナのあくびへの怒りは、ずっと続いていたことだろう。

非二元の言葉は、徹底的な自己認識ののちに(簡単な道のりではない)、自然とわき上がることであって、聞いたことばをそのままお題目のように、ただとなえていればいいものではないとおもう。というか、それを口にする意味もないのかもしれない。


単に知識を入れることと、それを本当に知ることは、まったくちがう。
私たちはあまりにも、ただ知識を入れることだけをしてきた気がする。


絵:MOON DEER


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