2014年12月30日火曜日

自分で作るお正月



お正月は究極の日本人文化が集約されている。
そしてまた、日本人の固定観念の集大成といっても過言ではない(おおげさだな)。

お正月は神様を家にむかえるために、きれいでなければいけない、うつくしくなければいけない、掃除しなければいけない、飾り物をしなければいけない、おせち料理はこれこれこーゆー物を入れておかねばならない、云々。

いいかえれば、もしそれをおこたると、その一年ろくな年にならないという法則(オドシ)が隠れている。
だから人々はこのクソ寒い中を掃除し、買い物に走り、大騒ぎで新年に向けてフンソーする。

このやまんばもごたぶんにもれず、そのオドシにのっかって、おととしクソ寒い中を風呂掃除をしてぎっくり腰になった。
もうそのオドシには乗らないのだ。


ことのはじまりは「こーやったら、たのしいから!」だったんじゃないか。
たのしかったもんだから、「去年のあれ、またやろう!」ってことになった。

日本人は工夫が大好きだから、
「じゃあこれは?」
「うん、いいね!」
と、次々にいろんな物を考案し、ついにダジャレもどきの料理(マメマメしくとか、よろ昆布とか、おふざけもここまでくれば、たいしたもんである)が出現し、それが膨大な量になってえんえんと続いてしまった。

いつのまにかそのダジャレが「伝統」などとゆー、おもくるしーもんになり、形ばかりを重んじるよーになってくる。

するとそうなってないと、「いいお正月がむかえられない=ろくな年にならない」法則を生む。
それ、勝手にシンドバッドでね?

どこのだれがお正月が
「きれい=いい年」
「きたない=悪い年」
と決めたのか。神様が決めたのか?宇宙の法則か?

ではどこからどこまでが「きれい」で、
どこからどこまでが「きたない」のか。

これだって、線引きしようがないではないか。
宇宙の法則はなんてむずかしーのだ!

とかなんとか。

よーするに、自分で自分の首絞めてんだな、とやまんばは考える。

もとの「たのしいから!」に戻せばいーだけの話だ。
神様だって、苦しんで自分のために準備されるよりは、おもしろがってやっている人のおうちにやってくるほーが、うれしいにきまっている。

自分で楽しんで、自分でオリジナルな伝統をつくっちゃえばいーのだ。



んじゃあ、やまんばのお正月の準備は?
たとえば風呂掃除。
11月頃からすこしずーつ、あそこのかべ、ここの洗面台、って、お風呂に入りながら洗ってた。
ひとかべつづだから、気が楽。化学薬品使わないので、はだかでできる。お湯だけでたいてい落とせる。これは石けんなし生活になってからかもしれない。かべのヨゴレは、石けん垢じゃねえか?

あとの掃除は、気が向いたら。やりたいっておもうときにやる。できなかったら、それでよし。自分の直感に従う。したがわなくてもそれでよし。
料理ももちろん、きぶん。作りたいなら作るし、作りたくないなら作らない。

「やらなきゃ」をもうやめにしたら、下から少しずつ小さな「なんか、やりたいな~」がわいてくる。
それが本来の衝動なのではないだろうか。

「ねばならない」に隠れて見えない、ほんとの自分の気持ちを見つけていこう。




2014年12月27日土曜日

なにかしないと価値がない?



私たちの葛藤のほとんどは、自分への無価値観から来ているんではないか。

私たちは、ただそこにいることを許されていない。
ただそこになんにもしないでいるということは、無価値であると。
何もしないことは、「あなたには価値がない」といわれていることといっしょだ。

仕事があるということは、その人に価値があるということだ。
仕事がないということは、その人に価値がないということだ。
クライアントにクレームをもらうということは、能力がないということだ。
能力がないということは、その人に価値がないということだ。
お金がないということは、その人に価値がないということのことだ。
成績が上がらないということは、その人には価値がないこということだ。
子どもができないということは、その人に価値がないということだ。

なんという暴力的な価値判断なのだ!!!
私たちはこんな価値基準で人や自分を測っているのだ。
それも意識にものぼらないほど瞬時にジャッジして、おびえ、いかり、かなしむ。


ぼーっとしていると、はっと我にかえって、
「いけない。なにかしなければ」
と、なにかすることを探す。
そして一日の終わりに、
「あ~。きょうはこれこれができた。私には価値がある」
と、ひそかに自分をほめる。

すると、何もできなかった日は、
「ああ、今日は何もできなかった。そんな私には価値がない」
と自分をしかったり、自己嫌悪したり、あせったり、もっともっとやらなきゃと、自分に切迫感をあたえつづけるのだ。

その根底に「なにかしないと価値がない」がネッコロがっている。


ある小学生の話。
学校で先生に将来何になりたいですか?と聞かれ、きょとんとする。
せんせ~、何になりたいかって?
ぼくじゃ~ん!ぼくになりたいに決まってんじゃ~ン!
いったい誰になるっていうの?


人はつねに何かになろうとする。
アナと雪の女王の日本語主題歌があそこまで受けたのは、ありのままの自分でいたい!という心のさけびじゃないか?女の人がカラオケで熱唱するのは、ずっと自分でない、何かにならなければいけないと思い込まされていたことからの解放宣言ではないのか。

ただそこにいるだけで価値がある。
小学生の彼は、自分の価値を認めている。
そこから行動することはゼロからの出発なので、何かをするとは、「自分への挑戦」だ。結果なんか気にしない。やりたいからやる。根拠なく、やりたい。
そこに他人に認めてもらいたいから、という動機がない。

自分に価値がないと思えば、つまりマイナス出発で行動する動機は、人に認めてもらうことが大前提だ。純粋な挑戦ではないので、結果を気にする。結果が良いことによって認めてくれると思っているからだ。
ところがそれではマイナスをゼロにはできない。人は認めてくれ続けないもの。
だから延々と認めてもらいたがって行動しつづけることになる。
それは底なし沼のような展開をする。


私たちはずいぶん長いあいだ無価値観を刷り込んでしまって、その小学生の彼のようにはなれない。しかし私たちには意志力という才能がある。

今この瞬間に、自分はただここにいるだけで価値があると、自分で自分に宣言するのだ。
そしてそうであるかのようにふるまい続ける。

本当の価値は、あなたそのものだ。


2014年12月23日火曜日

やまんば、サルと目が合う



きのう畑に向かっている途中で、何かと目が合った。
いっしゅん「はっ」とした。
おそるおそるも一回見直すと、サルが人の畑でお食事中であった。
しかもあっちゃこっちゃにいる。。
げ!

うちの畑に来て現実を知る。
レタスは根元を食い散らかされて全滅。
ダイコンもほぼ全滅。
三浦ダイコンは引き抜けないらしく、地面すれすれまで食われて、白い断面を見せている。
白菜は頭からかじられて、完食。
スティックセニョ~ルも全滅。
サトイモの残ったものも消えていた。
おそらくかろうじて残ってたであろうジャガイモも消えているだろう。

やまんばは、かじられたダイコンを引っこ抜き、かじりかけの白菜を収穫し、根元を食われてそこらに転がっているレタスの一部をひろい、サルさんからのおこぼれをもらう。

一番近くの畑も凄まじい状態であった。きっと畑のぬしがみたら、なげくだろうな。


不思議と心は静かだった。
ここまでヤラレると力が抜けるのだろうか。
それとも別の理由だろうか。

食べているところはやはり根元のあたり。きっと植物のエネルギーが充満しているところなのだろう。野菜をうんとたべて、かれらもあったかく冬を越せるといいな。。。

などと、マジでそう思った自分がこわい。

2014年12月20日土曜日

小さな心のちがいは、じつは月とスッポンほどちがう



小保方サンの研究が、残念な結果に終わった。
彼女は一連の巨大なプレッシャーの中で戦っていたに違いない。
できなきゃいけない、証明できなきゃいけない。でなきゃ、わたしはつぶされる。。。
そう思えば思うほど、皮肉なことにそうなっていく。

それまでは、「あ、できちゃった!またできるかな?うん!できた!るんるる~ん」って、つくってきたんだろうな。

でも彼女の「できちゃった」ことが、あまりにもすべての土台をひっくり返すよーなことだったので、あたまのかたいおっさんたちに嫉妬された。そこで人々は彼女のアラを探すよーになる。

するとまあ、でてくるわでてくるわ、破壊的なノートの数々。つっこみどころ満載の彼女スタイル。そりゃ、おっさんもメディアもおいしいわな。本題よりも、そこツッコミをしていれば、人々は彼女を疑いはじめ、存在自体が怪しーものに見えてくる。

このあいだまで、国民的英雄持ちあげだったのが、いきなり全世界を敵にまわしてしまった。
その重圧は、あの若い彼女にはとんでもなく重くのしかかる。いや、若くなくたって、心臓に剛毛が生えた政治家さんだって。

自分の全存在をかけた実験だっただろう。
今の彼女の心境は、とてもじゃないが推し量れ切れない。
影ながら応援していたやまんばは、彼女の今の状況を本当に気の毒に思う。


私らが目で見ているマクロの世界よりも微細なミクロの世界は、ダイレクトに心の影響を受けるようだ。それはあると本当に確信した瞬間、出現する。しかし実験者の心に疑いが生じれば、それは出現しない。
証明できなきゃいけないというおもいは、確実にその存在に疑いをもって臨んでいる。
ないかもしれない。。。は、ないを生みつづける。

最初の「できちゃった!るんるる~ん」と、
後半の「証明しなきゃいけない」のちがいは、
月とスッポンぐらいのちがいがあるようだ。
 
彼女の一連のことは、私たちが日常何気なくくりかえしていることを、端的に表してくれている。
「できちゃった!」と「できなければいけない」のちがいを、心は調節できるのだろうか。

「できちゃった!」は、「できるかな?どお?」って、ワクワクしながら臨んだ結果ではないか。
それは軽くて明るい。

「できなければいけない」は、「できないと私は終わる。。」と、悲壮感漂わせ臨んだ結果ではないか。それは重くて暗い。


前者にドラマはないが、後者にはドラマがたっぷりある。
どっちをえらぶかはあなたしだい。
決まった運命なんてないのかもしれない。







2014年12月16日火曜日

頭は「ない」「ない」「ない」といいつづける



モーニングノートは、あれからときどきやっている。
けさおもしろいことに気づいた。

思考は言葉だ。いわゆる知られているいくつかの感情も、言葉に触発されてやってくる。
だから頭で考えていること=言葉。
なのでモーニングノートにかかれるということは、自分の頭の中を”みる”ことができる。自分の頭が日頃どんなパターンの中にいるのか視覚化できるのだ。

そーすると、自分がいつも「ないもの」に集中していることに気づく。
「あるもの」にはちっとも心がいかない。

「あ~、カラダがあったらなあ~」
とはいわない。なぜか。あたり前だ。カラダはすでにここにあるからだ。

けれども、
「あ~、やせてたらなあ~」
という。なぜか。やせてない、とおもっているからだ。

「あ~、お金がもっとあったらなあ~」
という。なぜか。お金がない、とおもっているからだ。

「お金があるなあ~」
という人はいない。
なぜか。
お金がある人が、「ある」とは、いちいちいわないからだ。

だが、お金をとられるかもしれないと思う人はやっぱり悩む。どろぼうにはいられないためにはどーするか、だまされないよーにするにはどーするか。

心というか、頭というか、考えは、「(お金が)あること」にはむかわず、「(取られ)ないこと」に向かう。

心は、「ない」「ない「ない」といいつづける。すると量子力学でいくと、「ない」ことが現象化される。

「ない」→「ないことを制作する」
「ない」→「ないことを創造する」
「ない」→「ないことを作り上げる」

あははっ。これってどーよ。
ないことを前提にすれば、必ず「これは問題だ。ナントカせねば」と解決策を練る。そこで心はアーダ、コーダと考えつづける。

しかし頭で考えつくものは、すでに知られているものからしか引っ張って来れない。君の頭のパターンはすでに出尽くしているのだよ、ワトソン君。

しかも「ない」が前提だから、現象はひたすら「ない」ことを作りあげ続けてくれる。それを目の当たりにして、
「いかん!これではいかん!なんとかせねば!あーだ、こーだ。。。」
というドラマが、朝の連続テレビ小説のよーに延々と続く。

だ、か、ら、
無心になれとか、
無我の境地とか、
考えるな!感じろ!とか、
手放せとか、
サレンダーとか、
今に生きろ!とかいうんだあ~。


それ、やっててもきりないよ。
それ、やってても解決なんかしないよ。
それ、やってても苦しいだけだよ。
って、いう意味だったんだな。



考えて出た答えはたいてい消極的なものになる。
へとへとになって、「もう、だめ。。」って、ちからぬけたとき、今までとぜんぜんちがうアイディアがふと浮かぶ。
その瞬間「あ。。。。?」とおもう。

でもそれは今まで考えたこともないアイディアなので、すぐ、
「それって、こわい。。。」とおもうだろう。未知なのだ。未知だからこわいのだ。
しかしその未知は、あなたをいつも回っているサイクルから脱出させるカギになっている。


道はいくらでも四方八方に広がっている。
あなたもやまんばも、思考によって同じ道をぐるぐるまわっている。自分の思考のパターンを知り、それを外から見た時、あなたはすでに別の場所に立っていて、いつもとちがう風景がみえている。



2014年12月15日月曜日

助けつづけること



人を助けることは大切なことだと思うけど、助けつづけることは、その助けられている人を生かすことになるのだろうか。


母が言う。
「あのねえ。きのう市役所の人が来て、びっくりされた」
「なんで?」
「あんたは病院をムリヤリ退院して、わたしらはその後てっきり施設おくりになる状態になっていると思って今日やってきたのに、全然違うじゃないのって」
母はひとりで料理も洗濯もしている。


人は人生の途中で色んな事件があって、その時人に助けてもらうことはとても大切なことだとおもう。
でもその助けは一時的でいいのではないだろうか。
そこから先は自力で生きる。それが人として生きることかもしれない。

母は病院の中で、母より後あとに入院した、最初は「お父さん」と呼んでいた人たちが、どんどん身内が誰かもわからない、言葉もしゃべられない状態になっていくのを見ていたと言う。そして彼女はこうはなりたくないと心底思ったと言う。

助けてもらうと生きた心地がする。ああ、よかったって。で、次は自分で生きることを選択することが、その人がその人らしく生きることじゃないだろうか。

やまんばもふくめて、みんなあったかいところがいいし、手取り足取りやってもらうことは気持ちいい。でもそれを続けていると、不思議なことに、人のカラダも心もその環境の中でそれに見合ったカタチになっていく。

薬も一生飲みつづけるものもあるよね。一時的に必要なものはあると思うけど、ずっとそれを飲まなきゃいけないようなカラダなのだろうか、人類って。そんな軟弱なカラダでありながら、何万年も生きてこれたんだろうか。
それはそう教えられたからではないのか。
そうおもえば、そういうカラダになっていくのではないだろうか。

年はいくと衰えるもの、だから介護されるもの、薬は一生飲みつづけるもの、そういうアイディアにあまり明るい未来ではなさそうだ。される側もする側も、いつか何かしらの矛盾をはらみはじめるんじゃないだろうか。

最近介護疲れで事件が起こるのも、そういうアイディアに対するメッセージのような気がする。





2014年12月11日木曜日

言葉にならないものは言葉にしない



人と会えば、いろんなおもいがあるのをしる。
色んな考えを色んなふうに。
やまんばはそんなおもいを聞きながら、色んなふうに感じる。

家に帰って、今日あったことを思い出す。
するとそこから言葉が生まれようとする。言葉は限定的だ。

言葉の色に乗って、感情が生まれはじめる。
その感情はとっても限定的だ。
怒り、悲しみ、惨めさ、苦しみ。。。せいぜいあって、5、6個の感情の種類。

いや、ここにあるおもいは、そんな6種の数で数えられるような、単純なものではないと感じる。

そこで心の中のいろんなおもいを、言葉に乗せず、ただおもいがあると、感じていようと思った。

すると心の中は、万華鏡のように、色鮮やかな幾何学模様の風景が繰り広げられていた。
やまんばはそれを、何にひとつ言葉に置き換えず、ながめているのだ。そうやって味わっていると、やがてどこかで消化されて消えていった。。。。


不思議な体験だった。
人の心の中は、言葉にならないおもいをいっぱいもっているのだとおもう。
それは言葉にしなくていいのだ。
言葉はあまりにも限定的だ。
言葉にすれば、そこに善悪の2元性を生み、直後に必ず感情を引き起こしてくる。

今度はその感情にカラダが反応し、左脳は「これをなんとかしなきゃ」と対策を練りはじめる。
そこから混乱が生まれる。
そうやって人類は傾向と対策に明け暮れてきたのだろう。


初めに感覚がある。
感覚は、ただ感覚としてそのまま味わう。

それが今に生きているってことじゃないだろうか。
そこにはエゴの関与するところがない。



2014年12月7日日曜日

やっぱりね。あれのせいだわ。



近所のお姉さんがめずらしく私を呼び止める。
「ねえ、こないだウチの庭にサルが来たのよ!」
「え~~~っ、お宅にも?うちにも来たよ!」
「え~~~っ!お宅にも!?」

そーなのだ。今年はサルがけっこう行き交う。
家の前は川。その向こうが遊歩道。そこを移動するサルの軍団を見かけたのは先日で2回目。

たまーに川向こうの遊歩道をそこらのものを食いながら移動するサルたちを見かけるが、あっても年に一回ぐらい。それが日を置かずにまた見るのはめずらしい。畑側にもきたし。

ぼーっとながめていると、すぐ近くにサルが。
なんと川に面した庭のフェンスの上を歩いているではないか!げげげっ。
やまんばは開いていた窓を、そーっと音を立てないよー閉める。真っ赤なお顔をした立派なサルだった。ボスざるがまわりを探索しにきたか?

「やっぱりね。やっぱり圏央道だわ」
え?そこ?
彼女は納得したかのごとく言った。
彼女に言わせれば、圏央道がサルの出没原因なのだ。山にエサがない。だから里にサルたちが下りてくる。それはひとえに圏央道ができて自然が破壊されたからなのだ。

確かに高尾周辺の滝はその姿を消した。自然破壊は相当なもんだ。そのせいで樹々が倒されて野生動物のエサが少なくなったのはたしかだろう。そしてサルがエサを求めて里に降りて来ても不思議ではない。だから彼女の確信はある意味で正しいのだろう。




人は不愉快なことが起こると、何かのせいにする。
キホン自分の感心ごとの範囲以外のことは見えないので、もっぱらマイブームなことの中からその原因をみつけだしてくるようだ。
彼女の言葉の端々に、彼女が関心を持っているアイテムが浮かび上がってくる。権力、政府、政治家、システム、自然破壊、環境問題、町内会。。。。

彼女ひとりの力で解決できる問題ではないことを一生懸命考えている。一生懸命考えて頑張っている姿は、ある方向から見るといきいきとしていて美しい。
問題を見つけ、消し去るべき敵を見つけ、戦うことは、生きている実感が持てる。

しかし、「これがだめなのよ!これが!これさえなくなれば世界は平和なのよ!」という意識は、そのダメなものを彼女の中で存在させつづけるという現象が起こる。
それは問題メガネで世界を見るからだ。

だからサルが自分ちの庭に来ただけで、
「やっぱりアレのせいよ」ということになっちゃうのだ。
現象が起こると、自分のパターンの中で「解釈」をする。

サルが庭にやって来る=圏央道問題なのだろうか。
ひょっとしたら、今年の厳しい寒さが理由かもしれないではないか。
本当のところは、人間の頭では考え切れないのではないだろうか。大自然の摂理は、結局のところちっともわからないのは、このところの自然現象を見てもわかるじゃないの。



やまんばが、いわゆるインボー論ものをもういいやっておもうのも、敵を見つけてそれを取り除こうとしているあいだは、その敵は存在しつづけるんだとわかったからなのであーる。
わしらは世界は自分の外にあるっておもってるけど、ほんとはその人の中に展開されている世界でしかないのだ。

心の中にある自分自身の世界に向かって「敵があそこにいる!あいつをやっつけろ!」っておもっているだけなんだ。いるいると「解釈」し続けているから存在しつづける。


これ、きりがないのよ。
盛り上がれるけど、エンドレス。

彼女も延々と悩みつづけるだけなのだろう。それで彼女自身がしあわせになれるのか。それより、その問題定義を聞かされる家族や子どもが、彼女の言葉を通してどんなふうに世界を見るのか。その影響の方が問題な気がする。。。
 


サルが庭に来て、
「ほお。風流だ。。。」
とかんじるか、
「ぎっ、、、ぎょえあ〜〜〜〜ッ!」
とかんじるかは、あなたしだいなのであーる。
(やまんばは後者だけど)





2014年12月6日土曜日

お天気雪

高尾、お天気雪だあ〜。
晴れてるところと、雪が降ってるところ。
おもろい。

2014年12月4日木曜日

主人公の心の声はほとんどネガティブ



「今日会社休みます」とゆードラマがおもしろい。
主人公が心の中でしゃべっている声がおかしい。
「ぷぷ~っ。ある、ある、それ」
「わかる~。あたしもそー思っちゃう」
「ああ~っ、そこまで考えちゃう~。ダメでしょそこまで行っちゃったら。。。」
などなど共感したり、同情したりする視聴者は多いとおもう。

「素敵に選タクシー」も同じよーに、主人公がぶつぶつしゃべっている。
やっぱり彼の言葉に共感したり同情したりウケたりしているんではないか。

小説も映画もドラマも、いつのまにかその主人公の気分になって、いっしょにドラマにのっかるのが醍醐味なのだ。


ところで、「今日会社休みます」の主人公の心の声は、ほとんどネガティブ。
自分の失敗を見つけては右往左往する。または人の態度をネガティブにとらえる。そしてその結果を悪い方に悪い方に展開させて、最悪の状態までもっていき、ひえ~~~っと、おびえる。
ところが現実はそこまでのことはなく、淡々と進んでいく。それでほっと胸をなで下ろす。

過剰なまでに反応する主人公を見て、「わらえる〜」とウケるそこのあなた。
これ、実際やってね?

心はいつもぴくぴくおろおろビクビクしている。
どこかで自分がまちがっていないかチェックしている。
あるときそれを見つけては「ヤッちまったアー!」と心が大騒ぎし、その結果を妄想し、どーしよー、どーしよーと連呼し、アーダコーだと解決策を練り色々試みる。または心だけが爆走して一歩もうごけない。
しかし時間は淡々と過ぎ、何事もなかったかのように過ぎていることをひそかに確認し、ほっと胸をなで下ろす。。。それをずっとくりかえしている。。。

心の中はほぼネガティブなことを連呼しているのを、よくあらわしてくれているドラマだなあとおもう。

そーゆー、くちゃくちゃになっている主人公を見てウケるよーに、自分の状態も
「ああ、しっちゃかめっちゃかになってる〜。ウケる〜」
と、他人事のよーに見れたら、人生はそこから本格的に味わえるよね。




2014年12月1日月曜日

うちの雑草、アブラナ科だから。



今年はダイコンが失敗こいちまった。
源の助ダイコン、ウチの畑で5代目。もともと短い品種が、今年はちょー短っ!なんだこれ。カブじゃないんだから。
三浦ダイコンもひっこぬくと、やっぱりカブのごとく短っ!やべえ。

去年はじめて蒔いた国富という聖護院ダイコン系のヤツと交配しちゃったのか?国富影響力強し!
お互いを離して植えたんだけどなあ。。ダイコンは自家採種するなら、1つの畑に一種類が鉄則か?


白菜が巻いてくれた。。。のはいいが、虫にわんさか食われた。先日近所のオヤジの虫とりの悪口いってたら、うちにもいきなり来た(!)泣く泣く虫さんを疎開させる(畑の向こうにポイする)。
畑をながめると、あるホーソクを見つける。

白菜は3種類。
A:ホームセンターで買った苗
B:個人が作っている苗屋さんで買った苗
C:やまんばが種から育てた苗&直播きしたもの

Aの白菜はどんどん大きくなり、虫も来ず順調に巻いてくれたが、あるときからいきなりおもいっくそ虫にたかられた。
Bも虫にやられはじめたが、3割だけ。今やっと巻きはじめよーとしている。
Cは、虫まったく来ず。なぜか1苗だけに来るが、たいしたやられかたではない。
Cはいきおいは遅かった。今はBとほとんど変わらないくらいの大きさではあるが、育ち方はまちまち。巻いたり巻かなかったり。

やまんばの畑は、肥料というものがないので、追肥はまったくしない。だからホームセンターで使われた肥料が切れたら途中で自力でふんばってもらう事になる。その途中の息切れで「あたし、もうムリ。。。」ってときの虫さんの集中攻撃だったのか。

じつはキャベツの苗もそうだった。買ってきたものは育ちが早いが、ある時から虫に食われはじめた。しかし種から育てたものは虫はいっさい来ない。
やはり虫と肥料は関係があるようだ。


今年はなんだか土があったかいように思える。
春頃、アブラナ科の野菜を種ができるまでほっぽっといて、それをわざとそこら中にまき散らした。それが今頃になって、雑草のように畑中にはえだしたのだ。
ミズナ、壬生菜、チンゲンサイ、タアサイ、フユナ、カブ、小松菜、白菜がいろいろすきかってに交配した、ありとあらゆる不思議な葉っぱをした植物たち。

人が人為的に秋野菜の種を蒔くのは9月頃。それなのに自然界の自然児たちは、今頃になって育つことを選んだようだ。今どんどん芽を出して大きくなっている。しかもそのスピードたるや、速い!もちろん虫はまったくつかない。瑞々しい若草色をした完璧な姿をした美しい野菜だ。

やまんばはそれを収穫してゆでてたべる。それだけでおいしい。濃厚な味がする。


しかしなんだな。
やまんばが種蒔いて育てたのより、勝手に育った野菜のほーがデカくってうまいのは、どーゆーことやねん!蒔く意味がないではないか!

欲かくなっていわれても。。。
そもそも欲があるから種蒔くんであって。。。。
そもそも食いたいから、畑が存在するんであって。。。

うー。

2014年11月30日日曜日

だめよ〜ん、だめだめ。ネガティブじゃなきゃ。



やまんばは、自分のへんなところに気がついた。
わし、ひょっとして自分を演出していない。。。?

まちがったことをしている自分
罪深い自分
失敗する自分
惨めになる自分。。。。

心はいつも「私何かまちがったこと、してね?」
と、自分が「まちがった行為」をしているアイテムをさがしているのだ。

心はいつも「なんか罪を犯してね?」
と、さがしているのだ。

心はいつも「とんでもない失敗をしでかしてんじゃないか?」
と、おろおろしている。

そんでその罪を犯した自分が、人々にいじめられて道ばたで転んで泥だらけになり、涙を流しながら、
「あ”、、あ”、、あ”だじっで。。。。。」
と、オヨヨと泣く姿を妄想しているのだ。(ここらあたりカオナシに近い)

ヘンタイか?
わし、ヘンタイか?

だから、そういう自分を味わえるよーに、そーゆー役者も配置する。
やまんばをいたぶってくれる役者を。
やまんばに罪を犯したよーに見せかけてくれる役者を。
やまんばをめいっぱい惨めにさせてくれる役者を!!!
(おんどりゃああああ~~~~っ!なめとんのかあーーっ!)

君、ばかじゃないの?


ところが、こーゆーヘンタイは、そこら中にいることを知る。
たとえば、いつもトラブルを抱えて戦っている人。
たとえば、いつもだれかにだまされて、怒りまくっている人。
たとえば、いつもやってくる上司が問題児ばかりな人。
たとえば、いつも悲しい物語を抱えている人。

みんなその中でドラマを演じている。
まさか自分が演出したとも知らずに。

やまんばもきのうまで、しーらなかった。
そりゃ、薄々は感づいていたよ、でもまさかここまでてってーてきに演出しているとは。。。
あきれちゃったよん。はずかしーやら。おかしーやら。



つまり自我が、自我を実感したいのだ。
自我さんはあほやから、一回味わったヘンタイ的な経験を「これって面白い!」って思っちゃったら最後、延々とやりつづける。気がつかない限り。徹底的に飽きない限り。

しかもネガティブなことが多い。それは問題定義をして、えんえんと問題に取り組んでいられるからだ。
ポジティブだと「ああ~すてき」って、すぐ終わってしまうではないか!
だめよ~ん。だめだめ。ネガティブじゃなきゃ。

何か問題的なことが起こったとき、からだがぞわっ、とする。
その瞬間、「生きてる!」という実感がしないか?すると次は「これはたいへんなことがおこったぞ。なんとかしなければ。なんとか。うーん、どうしよう。。。」と、心はえんえんとそれに取り組める。

やまんばはそのとき、「あれ、、?」っておもったんだ。
これって、、、これってひょっとして、快楽?
スリリングはワクワクとほぼ同じではないのか。
わしはただ、そのスリリングを味わっているんじゃないかと。



小説もそうじゃないか。
最初っから最後までハッピーだと、ちっとも面白くない。苦悩やどろどろがうずまいてこそ、文学が極まる。そのヘンタイ的などろどろに読者は同調していっしょにバーチャルで味わっているではないか。

それをリアルに味わっているのだよ、ワトソン君。
じつにすばらしいじゃないか(笑)。



2014年11月29日土曜日

自分で自分をほどく



生活の不摂生が病気を生むっていうけれど、やまんばは別のことを考える。

気持ちがむしゃくしゃして酒を飲む。
イライラしてお菓子を食う。
不安がチョー点に達して夜通しおどりまくる。
その結果が病気だという。
するとお酒がいけないので、お菓子がいけないので、むちゃぶりがいけないので、それらをヤメなきゃいけないという。
そこ、途中じゃね?

そもそもなんでむしゃくしゃするかってところだ。そもそもなんでイライラするのかってところだ。そもそもなんで不安になるかってところだ。
そもそも不摂生にしなくちゃいけない理由があるわけだ。

うつだってそーだ。
それがカラダに出る人と、心に出る人のちがいだけだ。

きっと、みんな心の中でむちゃくちゃ考えている。
心の中が、言い訳や、正当化や、他人や自分をなじる言葉でパンパンに膨らんでいるはずだ。
「ったく、なんであたしが。。。」
「おいおい。かんべんしてくれよー」
「ああ、またやってしまった。。。おれはばかだ。。。」
「$%&”~%#%$&!!!!!」
エアー演説しまくり。

そんなとき自分の感情に気がつく。怒ってたり、不安がってたり、寂しがってたり。。。
するとだいたいは「あっ、おれ怒ってる!」と思った瞬間、「これはイケナイんだ!」といって、怒りや不安を封じ込める。寂しさを何かで紛らわす。
酒、友だち、ばか騒ぎ、スマホでつながる。。。

問題は怒りなのだ、問題はお酒なのだ、問題はむちゃぶりなのだ、だからそれをヤメるのだ。
これが今までの方法論。
でもそれだけじゃ、どーにも解決になっていない。



感情は自然なものだ。
その自然なものが生まれてくることを、なかったことにするから苦しいのだ。むちゃをやっちゃうのは、それを上から押さえつけているからなのだ。
じゃあ、発散しろというのか!人迷惑じゃないか!って?

発散じゃないんだ。酒飲んで発散するのでもない。酒飲んで発散できるとおもっているけど、じつは発散なんかしていない。一時的に忘れるという手法を使っているだけ。

自分から自然に出てくる感情に正直に気づいて、それを自分でがっちりうけとめる。
これがすべてといっていいんではないかとやまんばはおもう。

わしらは生まれてから、あらゆる観念をしょい込む。
『正しい』『まちがっている』の観念。
その基準で人や世界を見ると、たいていまちがっているものを発見する。そのとき感情が生まれる。たまに正しいものを見つけては感情が生まれる。

これがこの世の醍醐味だ。感情体験をしにきているようだ。
それが目的でもあったのだが、いつのまにかその体験がおもしろ過ぎて夢中になり、旅の途中だったのをすっかり忘れて、その中にどっぷりはまりこんで抜けられなくなっているのがわしらのようだ。
苦しむのは醍醐味のはずだったのが、「そんなの聞いてない!」といっておこる。

自分の中で起こってくる感情をジッと観察してみると、それが波のようにうねりがあるのを見る。それをただ観察すると、やがて消えていく。感情はつねに動き回るエネルギー。一瞬たりとも止まっていない。

「ああ。。。おれ、今怒ってるんだな。。。」
とじっと自分を見つめる。
次の瞬間、言い訳が始まる。誰にどう怒らされたのか。
だけど、それもほっておく。ただ自分の怒りだけを見つめる。

わしら現代人にないのは、この静けさだ。
電車に乗ると、ただ座っている人がいない。寝ている人以外は、みんなスマホを見ているか、本を読んでいる。心の中がつねに言葉で満たされている。言葉は次の感情を生む。その感情に乗りはするが、それを見つめることはしない。


自分に起こっている感情だけを見つめると、自分がどんな観念をもっているのかがわかってくる。
「ああ、この観念があるから、今までおれはこれに怒ってばかりいたんだ。。。」
と気がつくだろう。
「あたり前だろ!そんなことに怒らないヤツなんているか!?」と、またその怒りに乗っかるのとはちがう、何かがあなたに起こっている。
するとあなたはその観念の「正しい」「まちがっている」のどっちか片方に振れるのではなく、どちらにも立たないところにいる。
そのとき、小さな鎖がほどける感覚になる。

わしらは自分にいっぱい制限をかけている。
自由になりたいという衝動は、その目に見えない制限をつねに感じているからだろう。だけどそれは、環境や社会やシステムが変わってくれれば、勝手にほどけてくれるものでなく、自分で自分をほどくことだったのだ。



2014年11月26日水曜日

ダイコンのホラー



きのう畑から帰る途中、山道のわきにダイコンがはえているのを見つける。
「聖護院ダイコンだ。どーしてこんなところにりっぱなのが。。?」

葉っぱをにぎったら、かるくもちあがった。はは~ん、サルめ。こんなところにダイコン落としやがった。
先日サルの軍団に襲われたここいらの地区。この聖護院ダイコンは、すぐ目の前の畑からかっぱらってきて食ったらしい。
 
持ち上げたダイコンのあったところが白くなっている。よく見ると、ダイコンの一部が落ちてドロドロになっていた。
やまんばはおそるおそるダイコンの匂いをかぐ。。。
「うっ。。。」
糞尿のにおいがした。
その近くに転がっていた青首ダイコンも同じように腐っている。匂いをかいでみると、やはり同じ糞尿の匂いが。
まるでホラー映画のよーだ。。。



やまんばの畑のサルに食われたあとのダイコンにはこんな匂いはない。それに腐ってドロドロに溶けることはない。やはり植物は土の状態をそのまま吸い上げるのだ。

まだ畑をはじめて1、2年の頃、ダイコンをそのまま放っておいたら、春先に溶けはじめ、なんとも言えない匂いを放っていたのを思い出した。そこらあたりは、昔牛糞が積まれていたところだ。化学肥料は抜けるのが早いが、有機肥料は抜けるのが遅いらしい。

今の畑の状態はだいぶ肥料分が抜けてきたのだと思う。ダイコンは土の中にそのままいても、腐って溶けたりしない。ほっぽっとくと、ダイコンのカタチをした「かご」になる。ダイコンのまわりの繊維がそのまんま残り、中が枯れて空っぽになるのだ。
銀座の画廊にでも展示すれば、ちょっとしたアート作品にも見える(笑)。


家庭菜園は、ある意味危険をはらんでいるのかもしれない。
人は無意識にまわりの畑の野菜との出来を競争する。やまんばもその心に取り憑かれていたからわかる。
それはひとえに、大きくすれば、成績を良くすれば、ここにいていいのだと、許しをえたいという幼い時からの衝動でもある。

しかしおとなりさんよりもっと大きく、もっと早く、もっとたくさん。。。と競い合ううちに、入れる堆肥も肥料も次第に多くなる。制限なく入れられたものを野菜が吸い上げて、不自然にどんどん大きくなる。そのうち土は飽和状態になるのだろう。

そもそもサルに食われて2週間ぐらいで、ダイコンはあんなふうに腐っていくものだろうか。プロの農家は肥料をどのくらい入れたらいいか知っているのだと思う。スーパーのダイコンは、腐ったり、あんな匂いはしない。それを農薬のせいで腐らないのだと言われてしまえばおしまいなのだが。

だが肥料を入れて大きくして、腐るのが早くてもいいとするか、腐らせてはいけないからと農薬を入れるかを吟味するような土俵に立ちたくはない。

やまんばは、山の木や原っぱの草のような、のびのびとした野菜が食べたい。




2014年11月25日火曜日

これ、自然栽培っていうんでしょ?



秋に入ってトマトが赤くならなくなった。青いまま、わんさかついている。

やまんばは青いトマトを収穫して、家の暖かいところに転がしておく。しばらくすると色づいてくる。真っ赤になった頃を見計らって、トマトソースを作るのだ。青いまま料理できるけど、あまり味がしない。だけどしばらくおいて赤くなって調理すると甘いコクが出る。なんでだろーね。

真っ青いままだと赤くなるの時間がかかるけど、すこーし黄色くなりかけた頃だと、赤くなるのも早い。ただ赤くなるのを待つうちにときどき腐ってくるものあるから、よく吟味しないといけない。



きのう畑で小麦を脱穀していると、近所で畑をやっているおばちゃんたちが来た。
「ちょっと畑を見させてもらうわよ」
「どーぞ、どーぞ」とやまんば。

ひとりはすぐ近くで有機肥料でひとりで畑をやっているAさん、もうひとりは、その向こうで化学肥料と有機肥料と農薬で美しい畑をやっているオヤジの奥さん、Bさん。

Aさんは座り込んで土をいじっている。
「あら、玉ねぎできてるじゃないの」
と、Aさん。
「あ、そーっすか?」
「でもこれじゃ土が寒いわ。何か敷かなきゃ冬が越せないじゃないの」
と、Bさん。
「だいじょーぶ。草が守ってくれるから、あったかいのよ。敷くものなんていらないわ。」
と、やまんばが言った、、、、わけではない。
なんとAさんがやまんばのかわりに言ったのだ。。。!
。。。え?

「これ、機械なしでやってるんでしょ?ひとりで耕すの大変でしょう」
と、Bさん。
「うん。でも今はほとんど耕してないの」とやまんば。
すると、
「草がね。土を柔らかくしてくれるのよ。ほら、この畑ふかふかじゃないの」
と、Aさんが言うではないか。

ここらで畑をやっているオヤジもおばはんも、うんちくたれ。このAさんは自信家。いつも自慢話を聞かされる。そのAさんがそんなことを言うなんて。。。

Aさんは立ち上がって、ひとり言のように言った。
「ほんとうに肥料なくても野菜ができるんだ。。。。」

「これ、『自然栽培』っていうんでしょ?」
にっこり笑ってBさんは言った。


啓蒙しようなんてしなくていーのだ。
説得しようなんてしなくていーのだ。
お互いの立ち位置をそのまんま受け入れていれば、勝手に向こうも理解しようとしてくれている。

なんだか胸が熱くなっちゃった。



2014年11月24日月曜日

大スタアの死を通して



高倉健さんが逝った。
このところのテレビでは、健さん主演の映画が目白押し。昭和の匂いがする。テレビが昭和の匂いを放つ。

大スタアがなくなると、いつも繰り広げられるお決まりのドラマがある。
だが今回は、亡き人を偲んで泣き崩れる役者さんたちがいない。インタビューに応じる大俳優さんたちは、どこか清々しく健さんを語る。死亡発表もずいぶんあとになってからだったから、そのドラマはすでに終わらせていたのだろう。


もともとそうだったのだろうが、近年特にメディアは感情に訴える演出をする。公平な立場にたつ(と、される)ニュースでさえも、あからさまに誰が悪者であるかを演出するくらいだ。当然悲劇とされるものは、おおいに、何度も、畳み掛けるぐらい、連続放送する。それを見た一般庶民は同じように泣き、同じようにフンガイする。

だから今回は人々は泣き崩れることもなく、清々しく健さんを見送ることだろう。


死とは本来そのようなものだったのかもしれない。
誕生はよろこびで、死は悲しみ。
そう思ってきたが、アチャラの世界では、誕生はとてつもない苦しみと努力の連続の結果らしく、死は服を脱ぐようにあっけらかんとしたものだという。

わしらが持っている生と死のイメージは、本人をおもってのそれではなく、それを見た他人からの視点なのではないか。
死を忌むべきものとみるのは、残されたものの勝手な解釈なのではないか。その解釈は人から人へと伝えられ、それがとーぜんのことのよーになっていく。

今回のテレビやニュースの演出を通して、もののとらえ方というものは、解釈次第でいくらでも変わることができるものだということを教えられた。



2014年11月20日木曜日

私自我は、あなたの問題を解決します!



朝おきると、思考も動き出す。
あーだこーだと考えをめぐらす内容が、ネガティブなことばかりなのに気がつく。

さむい。布団からでたくない。でも出なきゃいけない。エーと、部屋を暖めるには、まずストーブをつける。げ、ストーブつけるには、布団から出なきゃいけないじゃん。瞬間芸で、パッとはんてんを羽織る。んで、ストーブをつける、と。んで、部屋があったまるまで、も一回布団に入ってえ。。。。

「チュンチュン」
鳥の鳴く声が聞こえる。
ああ、いい声だなあ~。。。
寒い。これから寒い冬がくる。ああ、いやだなあ。もっと寒くなったらカラダ追いついていくんだろうか。床暖房があったらなあ~。夜はもう雨戸も閉めはじめるか。。。

鳥の声には一瞬反応する。いい声だなあと。
しかし思考はそこでストップする。そしてまた先程のネガティブな内容に入っていく。

これはなんだ?

思考君は、ポジティブな内容には感心がない。なぜか。それで終わりだから。感動は言葉がない。「ああ。。。。」で終わってしまう。それでは思考君が存在できないではないか。

だがネガティブな内容は、思考を維持することができる。なぜか。それは「問題をみつけて解決すること」という重要任務を請け負っているからだ!
だいたい思考は、思考しないと存在できない。(あたりまえだ)
ポジティブじゃ、思考できないじゃないかー!(えーーーっ!)
だから自我は必死で思考を使って、自分の居場所を確保しようとするのだ。


これはまるで選挙のポスターだ。
自我さんの顔が全面にドドーンとあり、にっこり笑ってこういうのだ。
『私くし、自我は、あなたの問題を解決します!』

すると有権者(つまりあなた)は、そのポスターを見て、
「フフーン、なるほど。なかなかたのもしいではないか。ではこいつに投票するか」
と、清き一票を投じる。

それはまさに問題を見つけてきては、
「これが問題なのです!これがいけないんです!私がこれを解決します!」
といっては、会議を重ねて大騒ぎし、根本的な解決も見つからないまま(いや、もっとこんがらがって)、そのまんま放置し、そのうち時間が解決して、
「ほーら!解決できたでしょう!私がやりました!」
と言ってる、だれかさんに似ている。

有権者自身が、だんだん政治家の存在をあやし~く感じはじめているよーに、自我が訴える「問題定義」も、そのまんま鵜呑みにしないほーがいいかもしんない。


2014年11月19日水曜日

ムダなテイコーはヤメろ


6日ぶりに畑に行くと、ジャガイモ、サツマイモ、ダイコンがサルに食われていた。サツマイモは跡形もなく。ジャガイモは食い散らかしてある。だいこんにいたっては、ひっこぬいて、ちょこっとかじってポイだ。
こっ、、このやろー。。。。

大豆は、完全に乾くまでそのままにしておいたのだが、6日ぶりに見るとやさが弾けて豆がない。飛び散ったのかと探すが1つもない。。。
ハトに全部食われたようだ。orz。

えええ~~~ん。あのチョーうまかった枝豆!来年は食えないのかなあ。。。
ダイコンも、ゆずダイコンしたかったのにい。。
あとからあとからわいてくる、「あれも食いたかった、これも食いたかった」のオンパレード。

だかしかーし!
ムダなテイコーはヤメろ。
あるがまま、
なすがまま、
キューリがパパ。


テイコーで思い出した。
大阪に入って次の日の早朝、ホテルの部屋でぐあいが悪くなった。
やばい。さむけがする。はきそー。。。
どーすればいい?あったかいお茶を飲むか?
色々模索したが、ムダなテイコーはヤメろというお告げが来て(思いついただけだろ)、そのまんま味わうことにした。

おお、寒気か。どんなかんじ?
おお、そんなかんじか。
おえー、はきそー。吐きそうとはどんなかんじ?
おお、おお、こーんなかんじか。

テイコーするからよけいに苦しくなる。
その状況を味わうと、一山、二山が来るけど、それを「おお~、来た来た!」と、遊び心で受け入れた瞬間、ぱたっと消えた。
あれっ?寒気は?吐き気は?

どっかいっちまった。

前、怒りについて書いたことがある。味わうと消えていくのだ。怒っちゃいけないと思うから、ずっと存在しつづける。これ、状況についても同じことだったりしてね。

だから畑の状況も味わうのだ。
ああ~、サル君、さつまいも、うまかったかい?
ハト君、大豆、うまかったかい?
よかったねえ~。。。。。。。。
!%$#’&0&$%#$#”!!!(←言葉にならないショージキな心の声)



ふと畝を見ると、うんこが3つ転がっていた。

「ねえさん、さつまいもうまかったよ。ここに駄賃をおいておくぜ」(←サル君の声)




2014年11月17日月曜日

アートで村おこし



展覧会を終え、次の日アーティストの友だちに誘われて、兵庫県の船坂ビエンナーレにいく。

ここは過疎化の波が襲う集落のひとつであったが、最近2年に一度、村の廃校になった学校や、空き家になった藁葺き屋根の家などを使ってアートを展開し、村おこしを行なっている。今回で3回目だという。

展示場所は、まわりの風景を額代わりにしたインスタレーションや、壊れた土壁までアートにしてしまう作品、古い井戸、古い道具小屋、棚田、などなど、日頃ギャラリーで白い壁を背景とした私の作品とはまるで違う環境で見る作品群を興味深く見せてもらった。

その次の日は奈良まで南下して、飛鳥の奥にある棚田の中にあるカカシアートも見る。

過疎化が進む村おこし、休耕田が進む村おこし。アートで村おこし。
やまんばは少し複雑になってしまった。

見学者としてアートを楽しむぶんにはいい。だけど本当に村おこしになっているんだろうか。休耕田に参加してお米を作りはじめる人もいるらしいが、これが本当に根付いていくのだろうか。村おこしのアートだって、村人がすごい大変なわりに、期待する成果は出ているんだろうか。


やまんばの地域でもしアートで村おこしをしたらどーなるんだろうか。
ああなって、こーなって。。。とそうぞうする。
最初はいいだろう。村のあちこちにアートがあって、外から人々もわんさかやって来る。村が一丸となってもてなしをする。お金もいくらか落ちる。
だけどそのうち雨風にあたってアートも汚くなって、人もそんなにこなくなる。お赤飯たいて、食事の準備して。。。人はそんなに来ない。。。村人だって疲れ果てる。なにやってんだろうって。

休耕田の棚田も物珍しさで都会から人も来るだろう。だけどそんなに毎年来れるかな?村だってその人たちのために色々準備しないといけないし。
棚田は魅力的だけど、やまんばにはできない。そもそも農法がちがいすぎる。



よろこびを外から与えてもらうためにやることは、限界があるんじゃないだろうか。
村の人々が内側に個人個人自らのよろこびがあってこそ、すべてははじまるものなんだろうなあ。

きっと「結果」や「期待」なんて考えてもいないのだ。それがおのずと「美しさ」を生んでいく。それこそが本当の芸術なんだろうなあ。