2020年12月24日木曜日

展覧会のお知らせ「つくし作品展」




 

久しぶりに小さな展覧会を開きます。

高尾山の麓にある、自家焙煎をしている小さな珈琲店です。

来年2021年1月8日(金)〜1月31日(日)


ふじだな珈琲
東京都八王子市裏高尾町1254

042-661-0798

10時〜17時

最終日は16時まで


私の毎日の散歩、日々眺める何気ない景色を描きました。

ちょこちょこ制作していた小品で、ときおりSNSにアップしていた作品ですが、

和紙の風合いなど、デジタルでは見れない直接の感覚を味わっていただければと思っています。

もしご興味があれば、高尾の小さな珈琲店にお越しください。

私は日曜日、朝10時から午後3時までお店にいます。

それ以外の日は、ご連絡もらえれば、出向きます。


追伸:後日直接送りますDMの中の地図にはミスがあり、

ここにアップされた地図が正しいものです。

こちらを参考にしてください。





2020年12月12日土曜日

幸せベタ

 


来月、いつものふじだな珈琲店で、

和紙の小さな作品で展覧会をさせてもらうことになった。


その準備も進み、

穏やかな気持ちで散歩していると、


「あれはあれでよかったんだろうか。。。」

と心配事が持ち上がってきた。


「じゃあ、そうでなかったら、、、、」

と、心はその思いに続いていく。


そこでハッとした。

「ああ、私。幸せ慣れしてないんだ」


さっきまで静かな幸せの中にいた自分が、

ふいに湧いた言葉につられて、気分が落ち込み始める。

浮かんだ言葉は恐れだ。


私は恐れを探している。

さっきまでの幸せを打ち消そうとしていた。



私たちは幸せ上手ではないのだと思う。幸せベタ。


自分は幸せになってはいけないのではないか?

そんな権利はあるのか?

もっと不幸な人がいる。

私が幸せになっている場合ではない。

不幸なままでいなくてはいけない。。。


そんな思いが横たわっていた。






幸せや喜びは、何かをやって、何かを得て、何かを与えて、やってくるものだと思っている。

一瞬それにとても喜びを感じて、ひとしきり味わった後、

「さて。次の幸せは。。?」と探している。


幸せは外からやってくるものだという信念がある。

だからこそ、ただ何もしないでいる時に感じる幸せに、恐れを抱く。
なんとも言えず座りごこちが悪く、

心は恐れる材料を探そうとしてしまう。。。





私たちの本質は、本当は幸せなのではないだろうか。

存在自体が幸せ。大いなる幸せの塊。


その大前提を隠すために、自我が大騒ぎしているのだとしたら。

本質をすっかり忘れて、幸せ感に慣れてない私たちが探そうとする恐れに自我はつけこむ。

「これは問題だ」「もっと他にやるべきことがある!」


自我は、私たちが幸せの塊であることに気づかれてはまずいのだ。

大騒ぎして、

「こっちを見ろ!こっちこっち!」

手を振って、そっちに向かせようとしてる。


それは自我という存在自体が実在しないものだから。

常に自我の考えを信じてもらっていないと、自我が消えてしまうから。



私たちに恐れを植え付ける自我こそが、一番恐れている。


巨大な私たちがスヤスヤと寝ている耳元で、

消えかかりそうな小さな闇が、


「お前は罪人だ。罪悪感を感じろ。恐れろ!」

と、必死に大声で訴えている姿。。。w



そんなイメージを微笑ましく思い浮かべながら、

私はこれから幸せ上手になろうと思った。




年明け1月に開く予定の展覧会のご報告、

追っていたします。


高尾に来られることがありましたら。





絵:「秋の音」/和紙


2020年12月11日金曜日

漬物石

 


どうしていいかわからない時がある。

どっちに決めた方がいいかわからない時がある。


こんな時私は立ち止まる。


「私には、何にもわかりません」


と、そっと宣言する。





それまでは、

どうしていいかわからない自分はいけないのだと思い、必死で策を練った。

どっちに決めた方がいいかわからない自分は能力がないとして、

どっちが一番正しいか必死で考えた。



その元になっている考えは

「私は自分で決めることができる」

という法則であり、

自分で決められる「はずだ」

という暗黙のプレッシャーであった。



それはこの世は能力主義で、能力がある方が正しく、

能力がないものは間違っているという重たい漬物石が、私の上に乗っかっていたからだ。


私はその漬物石であらゆる水分を放出してしまい、完全にひしゃげてしまった。




そこで初めて私は自分の上にある重たい石に気がついた。

その石の表面には、「無能」とか「罪悪感」とか「恐怖」とか「罪」という文字が書かれてあった。


その漬物石は、自我の教えでできていた。


こうしないといけない、ああでなければいけない。世の中はこういうものだ。お前は小さく弱い生き物だ。この世で生きていくためには勝ち抜いていかなければいけない、云々。

私を怯えさせ、小さい体をますます小さくさせる教えでできていた。


私はこの先生に長い間教わってきた。

この先生を信じて疑わなかったけど、その先生のおかげでペシャンコになった。




そんな時、他にもう一人の先生がいることに気づいた。

その先生は、違うところからこの世界を見ている。

その先生は、漬物石など存在しないと教えてくれた。

あなたは小さきものではない、無限の力を持っていると。



長いこと漬物石があると信じ続けていたので、いきなりそれがないと言われても戸惑う。

けれどもすこしづつ、その石が自分に何を仕掛けていたのかを知り始めるうちに、

石はだんだん軽くなっていった。

それと同時に、私に水分が戻ってきた。


ぎゅっと詰まって重たかった石は、密度が薄くなって穴が開き始め、

空気が入り、軽石になっていった。





「私には何もわかりません」というとき、

私の心は軽くなる。


知っていなければならない、わかっていなければならない。

この言葉がいかに私に重荷/重石を与えていたことか。




本当は何も知らないんだ。

何もわかっていないんだ。

そう思った時、私の上には何も乗っかっていない。


そうしてこの世界で通用しているかに見える自我の先生を放棄し、

別の視点にいる聖霊を先生に招き入れる。




この先生は教えを押し付けない。

何も言わない。ただ一緒に見てくれる。

一緒に静かに見ている間に、今までと違う視点がやってくる。



最初は何かのメッセージとしていろんなことを与えてくれていた。

今はただその先生といるだけで安堵する。

それだけでこの世界が違って見えてくる。

勝手にことが進んでいく。

これで良かったのだと、幸せな気持ちの中を進める。




現れてくる現象にフォーカスし続けていたが、それは心の結果。

私の思いが目の前に現れていた。


不快を感じた時や不安を感じた時、何かをしなければと行動に出そうになる。

その時私はその衝動をやめる。


そしてそっとつぶやく。

「私は何もわかっていないのだ」と。


正そうとすることもなく、判断することもなく、

私には何もわからないとして預ける。

もう一人の先生とともにこれを見る。


その時、私の知らないところで何かが動いている。

パタパタと見えない何かが動き、

そして心の中に変化が起こる。



ある時は考えが浮かび、

ある時はただ心が落ち着く。


どちらにしろ、ギュッと凝縮する考えではなく、

さあ~っと、目の前が広がる感覚になる。



穏やかさがもどり、そこで私は一歩踏み出す。









2020年12月7日月曜日

ギフト


 

いつも行く金毘羅さん、

昨日は月一度あるピクニックの日。


結構な坂道に、最後に心臓破りの階段。

鳥居をくぐると、汗だくで息もゼーゼー。


まだ息があらいまま、竹箒で落ち葉を掃除する。

冬も深まってきて、汗ビッチョリの背中が冷えてくる。

「風邪、引く?」とチョチョ心配しながらも、

黙々とビールケースを運んでピクニックのテーブル作りに勤しむ。


神社の中では、神主さんがお知り合いの合格祈願のお祓いをズームを通してやっている。

時代だなあ~。


もう一人の神主さんが、長い階段を重たい食材を背負って登ってきた。

途中まで迎えに行く。


寒い中、鍋を囲んでピクニックが始まった。

皆和気あいあい、話がはずむ。

汗はいつの間にか消えていた。


ここはいろんなバックボーンを持った人たちが来る。

オヤジ率高いが、上も下もなくみんな対等。


電気は来ているが、水道はない。貴重な水は大事に使う。

ピクニックの準備も、後片付けも、みんなさっさと慣れた手つきで終わらせていく。

最後は何事もなかったかのように、綺麗になった。




私はまた何かを受け取っていた。


何を受け取ったのかわからないまま下山、美しい時間が流れていった感覚だけが残る。


夜、お風呂の中で、今日出会った人々を思い出す。

一人一人を光で見ていると、あの場所全体が光に包まれた。


隣で話していたオヤジが、とても愛おしく感じる。

一人いつもおかしなことを言うオヤジも愛おしい。

「ああ、みんな同じなんだ。。。」

なんの肩書きもなんのアイデンティティもない、たったひとつの光。

全ては対等で、同じ。






私は何をもらったのだろう。

例えていうなら、一つの真っ白い箱をもらった感じだろうか。

開けてみると、何も入っていない。

でも入っていないがゆえに、それは何かで満たされている。


私たちはそこにケーキが入っていたり、何かが入っていることを喜ぶ。

でもそんなものは限りがある。食べれば消えてなくなる。


もうそんなものにフォーカスする必要はないのだなあ。

物質がすべてと思う必要はないんだ。



それがとても嬉しくて、嬉しくて、踊り出したい気分。

「私はこんな素晴らしいものを受け取った!」

と、声を出して宣言したいくらい。


その箱の中には、何も見えないが、喜びが詰まっていた。



喜びは、数多くある感情の中の、単なる感情の一つだと思っていた。

でもそうではないのではないか?


喜びはとんでもないパワーを持っている。



2020年12月4日金曜日

罪の魅力

 


ずっと罪を見てきた。


自分の罪悪感の中でもがいていた。

自分の体への罪から、仕事への罪まで。

小さなことから大きなことまで全てに罪を見ることをしてきた。


それは自分が生きるに値しない生き物だと信じていたから、

生きるに値するには、自分をとことんまで罰しつづけ、

その結果やっと手に入れられる、

つまりここで生きていい権利だと思ってきた。


だが同時に人にも罪を見ていた。

自分に厳しいものは他人にも厳しくなる。


人の罪も見続け、その罪によって私は被害者になる。

それもまた、自分の罪への罰だと受けとっていた。


そしてその罰を受けている自分を哀れんでいた。


罪がゆえに、雨の中を道端に放り出された哀れな乞食だと嘆き、

またそんな姿の自分を愛していた。


これが狂気でなくてなんなのだろう。

私はこうやって自分を蔑み、忌み嫌い、

その苦しさを紛らわすために、

この社会を呪っていた。




コースによって、自分が何をしていたのかを教えられた。

私は罪の魅力にとりつかれていたのだった。

罪の魅力とはすなわち分離の魅力。

自分と他人を分けて見たいという欲求。


それは別の言い方をすれば、人とは違う、特別であろうという意識。



それは他人に罪があると見ようが、自分に罪があると見ようが、

同じことだった。


ここに罪がある

と宣言しているのだ。


だがコースは罪などないと宣言する。

そんなものはもともとなかったのだ。そして今もそれはない。





私は自我がささやく言葉に騙され、

「私に(あなたに)罪がある」と信じてきた。


この罪(問題)さえなくなれば、私は解放される。

私はこの世界で生きていいと言ってもらえるのだ!と。


だがその問題は、解決しても解決してもなくなりはしなかった。

いつまでもそれを発見し続けた。


まだある、まだある、まだ問題も罪悪感もあり続ける、一体どうしたらいいんだ。。。!

と、苦しみの中でもがいている時、

ふと、私は罪を見たがっているんだ!と気がついた。


昨日の話の聖霊の視点に立った瞬間だった。

罪の世界を、罪だけを見てきた私を、外から見たのだった。



その時私は初めて、罪にどれだけ魅了されてきたのかを知る。


自分の身体的問題から、親の問題、他人の問題、社会の問題、、、。

自分が見るあらゆるものの中に、問題という対象を見つけることに忙しくしていたのだ、、、!


あらゆるものとは、物理的に見えているものはもちろん、

自分の思考、それによって立ち現れてくる感情。

全ては対象。対象とは自分の外に見ている現象。


その見えてくるものたちの中に、

常に罪/問題を見つけ、

それを解決することが、

私が解放される唯一の手段だと信じてきたのだ。



だがそれこそが自我が用いる手段だった。

ずっとこの世界に注目させ続けたいのだ。

なぜなら、この世界自体が自我によって作られたものだから。


社会に常に問題が生じるのも、その問題を見つけ、解決するために取り組んでほしいから。

そうやっていつまでもこの世界を維持させ続けることが狙い。


だからブッダは、この世界に注目するなと言った。これは夢でしかない。幻なのだと。



問題に取り組んで、問題を解決した瞬間、私たちは開放感を味わう。

その開放感が喜びにつながるので、私たちはそれを追い求める。


だからこそ、罪を探す。


でもそうじゃなかった。

一瞬の解放による喜びは、自我が与える飴と鞭。

99%の努力に、1%のご褒美をもらえるような、

そんな小さな喜びを得るために努力することではなかった。


この世界には、苦痛を何一つ解決できるものはない。

自我はこう言う。


「探せよ。されど見つけることなかれ」




私は罪を見ることをもうやめようと決めた。


罪や問題に気がつくたびに、今、自分は自我の視点に立っていることに気づき、

立ち止まり、

これを聖霊と共に見たいという意欲をそっと持つ。


問題を解決しようとしている自分に気づき、

「私には何もわからない」と、一歩退き、

聖霊の視点を教えてほしいと頼む。


教えてほしいと頼むと、答えてくれるかどうかは問題ではない。

言葉で帰ってくることは滅多にない。

けれども違う視点が起こり始める。


自我と共に、自我と一緒に考えてきた私が、

別の視点を知りたいと切に願い始めた。




この頃光でものを見るようにしている。

山や高速道路の巨大な柱を光で見る。


それまで重たい感覚だった山やコンクリートの塊である柱が、

急に軽く見える。


それは今まで物理的にものを見ているから、重さを感じていたのだと知った。


自分も兄弟も光で見る。

それが聖霊の見ている視点だと知る。


喜びが満ちてくる。

罪を見ている頃は感じもしなかった喜び。


ただ何もしないでそこにいるだけで、

喜びが溢れてくる。





絵:「秋山」