来月、いつものふじだな珈琲店で、
和紙の小さな作品で展覧会をさせてもらうことになった。
その準備も進み、
穏やかな気持ちで散歩していると、
「あれはあれでよかったんだろうか。。。」
と心配事が持ち上がってきた。
「じゃあ、そうでなかったら、、、、」
と、心はその思いに続いていく。
そこでハッとした。
「ああ、私。幸せ慣れしてないんだ」
さっきまで静かな幸せの中にいた自分が、
ふいに湧いた言葉につられて、気分が落ち込み始める。
浮かんだ言葉は恐れだ。
私は恐れを探している。
さっきまでの幸せを打ち消そうとしていた。
私たちは幸せ上手ではないのだと思う。幸せベタ。
自分は幸せになってはいけないのではないか?
そんな権利はあるのか?
もっと不幸な人がいる。
私が幸せになっている場合ではない。
不幸なままでいなくてはいけない。。。
そんな思いが横たわっていた。
幸せや喜びは、何かをやって、何かを得て、何かを与えて、やってくるものだと思っている。
一瞬それにとても喜びを感じて、ひとしきり味わった後、
「さて。次の幸せは。。?」と探している。
幸せは外からやってくるものだという信念がある。
だからこそ、ただ何もしないでいる時に感じる幸せに、恐れを抱く。
なんとも言えず座りごこちが悪く、
心は恐れる材料を探そうとしてしまう。。。
私たちの本質は、本当は幸せなのではないだろうか。
存在自体が幸せ。大いなる幸せの塊。
その大前提を隠すために、自我が大騒ぎしているのだとしたら。
本質をすっかり忘れて、幸せ感に慣れてない私たちが探そうとする恐れに自我はつけこむ。
「これは問題だ」「もっと他にやるべきことがある!」
自我は、私たちが幸せの塊であることに気づかれてはまずいのだ。
大騒ぎして、
「こっちを見ろ!こっちこっち!」
手を振って、そっちに向かせようとしてる。
それは自我という存在自体が実在しないものだから。
常に自我の考えを信じてもらっていないと、自我が消えてしまうから。
私たちに恐れを植え付ける自我こそが、一番恐れている。
巨大な私たちがスヤスヤと寝ている耳元で、
消えかかりそうな小さな闇が、
「お前は罪人だ。罪悪感を感じろ。恐れろ!」
と、必死に大声で訴えている姿。。。w
そんなイメージを微笑ましく思い浮かべながら、
私はこれから幸せ上手になろうと思った。
年明け1月に開く予定の展覧会のご報告、
追っていたします。
高尾に来られることがありましたら。
絵:「秋の音」/和紙
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