状況が変われば、私は幸せになれると思ってきた。
だけどそうではないことに気づかされる。
状況がどんな状況であろうと、心とは関係ないのだ。
それは、「この状況さえ変わってくれれば、、、、」
という心の葛藤が、
何の変化もないのに、瞬時に平安へと変わる体験をするたびに思う。
話には聞くが、やっぱりそうなのかとおずおずと信じ始めた。
この世界の中の問題の解決は、この世界の中ではできない。
例えば、二次元の平面で生きている生き物は、二次元の世界しか知らない。
そこには点と線しか見えない。それが長くなったり短くなったりするのを見ているだけだ。
しかし三次元の視点から見ると、点は一本の柱で、線は四角や丸と見えているのかもしれない。
二次元では、線が長くなったり短くなったりする理由がわからないが、その平面から脱出し、三次元の視点に立つと、長方形が回転しているから線が長くなったり短くなったりしているからだとわかる。
私たちがこの世界を見ている視点は、まさに二次元の平面を生きている生き物と同じ。
これは四次元とか五次元の話ではなく、単なるたとえ話だけど。
この世界の問題の解決はこの世界の中で見つけることではできない。
一見解決したかに見えようと、やがてそれもまた別の問題が現れてくる。
私はこれを聖霊と共にみようとする。
聖霊の視点とは、たとえて言えば、二次元を超えたところから見ている視点。
私たちが日頃、平面の中で自我と共に考え、翻弄され、その世界しかないと思っている自我目線の視点を、全く違うところから導いてくれる。
線が伸び縮みしているのは、聖霊の視点から見れば長方形が回転しているからなのだと。
平面の上で自分がいくら考えても考えても考えつかなくて、ほとほと疲れ切った時、
そもそもそこで問題は解決されないのだと気付いた。
今思えばそれが聖霊の視点であったのだろう。
そこに答えなど見つからなかった。
問題は常に自我の世界の中にあり、その答えは聖霊の中にある。
私はイメージで光の中に入り、
その真っ白な眩しい光の中に、一本の美しい光り輝く針葉樹を見る。
私はその前にひざまずく。
光の中で心が平安になった時、私を苦しくさせている観念に気づく。
その観念を持っている限り、私から苦しみは消えないことを知る。
私はその観念や言葉を、その木の前に差し出す。
「私にはこの言葉はもう必要ありません。
聖霊さん、あなたに捧げます。取り消してください」
捧げられた言葉は、光の粒になって浮かび上がり、
静かに上昇して光の中に消えていった。
私がイメージする光など、本当の光とは程遠いのだろうけれど、
その光により私は理解を深めることができていく。
きょうだいを自分と全くひとしく同一であると、
光の中で思い出していくのだ。
絵:ケヤキの道
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