2018年3月18日日曜日

山を感じる


近所の高台から、高尾山脈が見渡せる場所がある。

満開の梅林の向こうに、すこし霞んだ高尾山脈。
見上げるでもなく、見下げるでもないちょうどいい位置に向かい合える。

ぼーっと立って、目の前の山を全身で感じる。
山を身近に感じる。
かといってお友だち感覚ではない。圧倒的にあっちの方が優位。威厳と風格と知性と微動だにしない安定感で、圧倒される。

腕と胸とカラダがジーンとする。

大きいって、なんてすごいんだ。。。などとおもいながら、
圏央道の橋の下をくぐった。
その橋も大きい。

「大きいって、なんてすごいんだ。。。」
と、さっきの山のように感じようとした。

しかし、それは頭だけだった。
頭が「これは大きい」というだけで、
カラダも腕もジーンとこない。
ましてや胸のあたりに、えもいわれぬ感動が襲って来ない。

自然がもつ圧倒的な力と、
人工物がもつ力の違いを見た気がした。



2018年3月14日水曜日

ずっとずっと誰かに言い訳していた


ずっとずっと、誰かに言い訳してた。

これじゃないからね、私の実力はこんなもんじゃないからね。
次!そう、この次だよ!
この次に作る作品が最高!
だから待ってて、今、作るから!
だから待ってて、次、作るから!
だから待ってて、こんど作るから!
だから待ってて、いつか作るから!


これは、今私がもっているすべてを否定することになるんじゃないか?
過去のやって来たすべての作品を「あれはもう終わったこと。ゴミ。」と言わんばかりに。

「ごめんなさい!ごめんなさい!もうしません!もうしませんから許して~~!」
夜、家から放り出されて、雨戸も玄関も閉められ、裸足で家のまわりを走り回って許しを乞うていた幼い私を思いだす。

過去はごめんなさい。
未来にがんばるから許して。

過去の作品はごめんなさい。
未来にすごいのを作るから許して。

作品作りに過去の幼いときの記憶がだぶることにぞっとする。
こんな所にも無意識に過去の法則の中でしばられていた私。

今ここにないものを、次作ることによって許されると思い続けていた。
それはすでにもっているものをなきものにしてしまうまでの自己否定。



これが自我/思考の動きだ。
自我は今ここにあるものを否定する。
ここじゃないどこかに行こうとする。
これじゃない何かを常に求め続けている。

私の場合は、制作にその渇望が現れていた。一見その衝動は、建設的な動きのようにみえるが、その実、心の中はほとんど破壊的といってもいいほどに強いものだ。

これじゃない!それでもない!ちがう!ちがう!もっと!もっと!
自我によって、その衝動は止められない。



知識で知っていても、それを自分自身に応用するのはむずかしい。
それが自分に浸透するまでに時間もかかるようだ。

そしてあるときその自分自身の自我の構造/クセに気がついた。つねに「次の作品」ばかり意識がむいて、前のめりになっている自分に気がついた。そのとき何かが入って来た。



もう、私はすでにもっているじゃないか。
ここに。

どこにも行かなくていい。次の作品を探さなくていい。作らなくていい。
ただここにいるだけで、すべてはある。

ここにいることに満ちる。

私のバックに、私のまわりに、私の存在に、そのすべてが満ちている。
私はそれとともにいる。
ただ何もしないでいるだけで、そこにあふれている。



過去を嫌い、未来に恋してばかりいた私は、

今に恋をし始めている。







2018年3月10日土曜日

山が好きだ



私は山が好きだ。
だからといって、登山もしないし、山に分け入って山遊びもしない。

目の前の高尾山に向かって「山は眺めるものだ」とかいって、仁王立ちして腕を組んで、エラそーに眺めているだけだ。


そんな私でも人と違うことをひそかにやっている。
それは山と一体になること(笑)。


以前近所に住んでる女の子が「山の声」を聞くのを驚きと尊敬の眼差しで見た。
あれから12年。山の声を聞いていたあの子は、今はガンガンに化粧をして、ガンガンにお洒落をして、とても大地に座り込んで山の声を聞いた本人だとは想像もできない。

「あんた、ちっちゃいとき山の声聴いてたやん」
と言っても、怪しいおばさんを見るような目で私を見る。

きっと世の大人たちは、昔自分がやっていた事をかけらも思いださないのだろう。


だが私は今でも昔の感覚を覚えている。
しかし昔のようにはいかない自分も知っている。
あの開放される感覚、すべてが一体になる感覚は、何度トライしてみてもできない。そんな自分を嘆くことしか出来なかった。


ところが最近、その感覚が戻って来たのだ。
私の思い描く山は、低山。富士山とかエベレスト山とかそんなりっぱなものではない。きっとちっちゃい頃見ていた禿げ山だ。だから目の前の高尾山はちょうどいい。
しかも山は見ていなくてもいい。ただ浮かんでくる山と一体となるのだ。


その時の心の安心感と安らぎと至福はなんともいえない。
山がもつ安定感。その上に豊かに生きる植物や、動物や、昆虫や、名もなき存在たちを、がーっとぜーん部ひっくるめて抱きかかえている山。すべてが自分の上や中にあっていいと許している。何万年と言う長ーい時間を「ふおっふおっふお。。。」とか、笑いながら受けとめるおおらかさ。
それがこのちっこい私のカラダにしみ込んでくる。

私は山の上を駆け巡る風となり、
大地の下をぬける素粒子となり、
転がり、飛び出し、
天狗のような気分になり、
ものでなくなり、
やがてすべてとなる。


その時、私は一個の人ではなくなる。
ただそこにある、なにか、になる。

それはどこかずーっと奥にひそんでいて、
「いつでもここにいるよ」と、告げているなにか。

ちっちゃい頃の私はいつもそれとともにいた。
そしてそれは、今もここにあるのを感じている。





2018年3月4日日曜日

オルゴールの中にいる私


自分の中にわき起こる思考をじーっと観察していると、あることに気づいた。
同じ言葉しかしゃべっていないのだ。

朝ふと目が覚めて、あたまが言い出す言葉。
ストーブがスイッチオンになる時に、感じる感情。
布団をあげる時に、言いはじめる言葉。
起き上がってトイレに入った時にいう言葉。
仕事している時に出てくる言葉。
買い物に出かけた時にいう言葉。
レジでお金を支払いながら出てくる感情。
晩ご飯の用意を考えている言葉。
風呂に入った時に言う言葉。
寝る前に言う言葉。
夜中にトイレに起きた時出てくる言葉。
そして朝目が覚めた時に、言いはじめる言葉。。。。

まるでオルゴールか、カセットテープが自動的に動き出すみたいに、
まったく同じ言葉を呟いている私がいた。

さらに聞いていると、一言一言はまったく同じなのだ。

がくぜんとした。
いやいや。私は曲がりなりにもクリエイターだぜ。新しいものを生み出す仕事の人が、同じ言葉しかしゃべってないだなんて。
どっかで新しいことを言っているはずだ。新しい、聞いた事もないような内容を、日々の中で発見しているはずだ。。。

しかし意識的に聞けば聞くほど、クリエイティブのひとつもない。
いつも同じ言葉を吐き、それを聞いたら、同じ感情をわき上がらせ、いつも同じ結末を憂う自分を見ただけだった。。。




心と見ている世界は同じものだ。なので、同じ考えの中にいては、同じ世界しか見れない。たとえ場所を変えて新しい所に出かけてみたところで、見たものに同じように反応するので、またおなじようなモノを見る事になる。
いわば、ひとつの箱の中で、ぐるぐるぐるぐるまわっているだけ。角度を変えてみたって、結局の所、同じ箱の中でしかない。


思考に乗らない、思考と同一化しないとは、こういうことだったのか。
理屈では判っていたし、だからこそ思考観察をつづけていたが、ここに来て、どうしてそうなのかと言うことを、別の視点から見たような気がした。




あたまが言うことをそのまんま聞く、鵜呑みにすると、わたしはいつまでたっても箱の中だ。その箱の中は、同じ思考で出来ているからだ。そしてずっと同じ世界を見続ける。

思考はある種、みえない牢獄の壁なのかもしれない。限られた思考の中で、限られた世界を見続けさせられる、透明な牢獄。。。

それは歳をおうごとに、固くなっていく。
世間はこういうもの、人はこういうもの、年がいったらああしなければいけないもの、こうでなければいけないもの。

歳がいくほどに、そういう言葉を友だちから聞きはじめる。そうやって、頭もカラダも固くなっていくのか。
お年寄りがどこか頑ななのは、「そうあるべき」が沢山増えて、かれらの見る世界は、より固く、狭くなっているのかもしれない。透明な壁は、ますます頑丈でびくともしないのかもしれない。


自分で自分を牢獄にはめている。
小さなオルゴールの箱の中で、同じ声を聞き、
それを鵜呑みにして同じ世界を見ている自分。
ここから出たい!と思いながら、
そのオルゴールの音に耳を傾け続けている自分。

小さなおとぎ話の中にいる私をみた瞬間だった。