「○○ちゃんなんて、だいっきらいだあーっ!」
って、子供っていうよね。
で、ひとしきり大泣きしたあとで、ケロッとまたそのだいっきらいなはずの○○ちゃんと遊んでいる。
子供は人を好きだったりきらいだったりする。
それって、オトナになったら消えるんだろうか。
同僚に「○○さんなんて、だいっきらいですっ!」
って、面と向かっていったら、ドン引きされちゃって、しかもその場で大泣きしちゃったら、
「どこかおかしいんじゃないか?」とおもわれちゃう。
とゆーことは、オトナになったら、
好きは好きのままで、きらいはきらいのままでいるんだろうか。ぱっちりと分かれたままで、その好ききらいの感情は動かないままなんだろうか。
そじゃないよね。オトナになってもコロコロ変わる。特に一番身近な人に対しては。
だけど、だいっきらい!なんて大人になったらいえなくなるんだよね。許されなくなるんだよね。ほんとはだいっきらいでも、にこにこして。
子供時代はそのだいっきらいっ!という感情をそのままストレートに出せるので、後に残らない。だけどオトナになると、その感情をストレートに出せないから、ずっとあとにまで引きずる。
うちの家の前の川にやって来るカモは、自分の縄張りに他のカモがいると、ガーガー鳴いてケチらす。んでそのあとは何ごともなかったかのように自然体だ。
だけどそのガーガーをやらないでいたら、きっと「あのやろう。おれ様の縄張りに入りやがって。。。どうやってとっちめてやろう。。。」なんてぐじぐじ考えるのかもしれない。
オトナとして出せないというルールがあるんなら、それをどーやってだそうか。
やまんばの方法。
そんな自分を愛するのだ!
「○○がだいっきらいな私を愛する!」
と宣言する。
バカみたい?そや!バカみたいや!だけどこれが効くのに気がついた。
まず、自分が○○をきらっているということを、自覚しているということ、
そしてそのきらっているということを「愛する」ことで、受け入れている。
冒頭の子供は、何気ないことをしているように見えるが、非常に理にかなったことをしている。
「○○ちゃんなんてだいっきらいだ!」
という自分から出た感情を自覚し、
そして口に出して自分でその感情を受けとっているのだ。
泣いてその感情を消化し、すべて終わらすという過程をふんでいる。
だからまた遊べる。カモとおなじ。
という自分から出た感情を自覚し、
そして口に出して自分でその感情を受けとっているのだ。
泣いてその感情を消化し、すべて終わらすという過程をふんでいる。
だからまた遊べる。カモとおなじ。
オトナは、罪悪感が走る。
人を嫌いな感情が起こると、瞬時に「きらってはいけない」という判断がおこる。だからほとんど無意識にその感情を出さないように押し込める。その感情をブツブツと根に持つ。そしてまたやって来るかもしれないその感情におそれおののく。
だからその感情を受け入れる。愛すると宣言することによって。
「だいっきらい!」と思った瞬間、
「だめだ!」というのと、
「愛する!」というのでは、胸の奥がちがう感覚をもつ。
「だめだ!」と、胸がぎゅっと締まってくる感じがして苦しくなる。自分が固まるような、カラダがこわばるような息苦しい感じ。
でも「愛する!」といってみると、胸の奥がふにゃっとするような、ほどけるような、どっか笑いがこみ上げてくるような、カラダがこわばるのとはちがう、緩んでくるし、あったかくなる感じがする。
きのうブログで書いた、前者のジャンルのこともそうだ。
怖がっている自分を愛する!というのだ。
「今、私はお金がないことを怖がっていることを愛する!」
「すごく悲しい自分を愛する!」
「嫉妬に狂っている私を愛する!」と。
ネガティブなおもいを抱く自分をはっきりと自覚し、受け止める。
これはどんな自分でも自分を愛することができるかってことなのだ。どんなに意地汚い自分でもそのまんま自分で受け止められるかどうか。
あるがまま、とはどんな自分でもそのまんまでいられるか、受け止めているかということだった。。。
やってて思ったのは、やまんばは、ほんとーーーーーーに、意地悪で、意地汚くて、根性が悪くて、人に冷たい、自分勝手な考えをもっているってことだ。それはどこかで知っていたが、「愛する」といいまくったおかげで、その闇の部分がどんどん見え始めている。
朝方、自分のイヤな部分を見て、それも愛する、これも愛するっていちいち言ってると、バケツをひっくり返した様に、いっぱいスンゲー闇の部分が出てきたんだ。呆れるくらい。そこまでひどい?ってくらい。
多分もっと知る(笑)。それがおもしろい。
ジャッジしない自分がいる。
ただ言葉で受け入れただけなのに。。。