2011年7月28日木曜日

親のしつけ





先日、あるお母さんがなげいていた。
「息子がぜんぜん朝起きないのよ~」

「もう、がんがんに怒って怒鳴ってやっと起きてくるの。朝からたいへんよ~。こないだなんか、あまりに起きてくるのが遅いから、私のパートまで遅刻しちゃって。。」
「そんなの『じゃ、お母さん先いくからね』ってほっぽっといたらえいやん。」
と私。
「だめよ~、そんなことしたら。学校ずる休みしてたんだから!」

学校から電話があって発覚。彼一日中、なにしてたんだろな。
彼はなかなかいい子なのだ。近所のおばさん(やまんばにも)にもぶっきらぼうながら挨拶する。最近は、大人を無視する子が多いのに、大人の存在をちゃんと尊重している。それはとーちゃんかーちゃんが厳しく育てたからなんだろうな。まだ彼がちっちゃかった頃、よく彼女に頭小突かれてたのを思い出す。

入学した中学校には、知らない生徒がいっぱいいて、戸惑っている様子。こっちから声をかけても気のない返事をされたりして落ち込んでいるそうな。だから学校には行きたくない。だけど母ちゃんとしては、「そんな事でこれからの人生どう渡って行くの!」という熱い思いがあふれているから、「早く行きなさい!」となる。わかるわかる。私もそうやってハッパかけられて育って来た。


多感な少年時代、ちょっとした事で傷つくもんだ。自分の事に興味がないんだ。。。と思い込んで、奮起して声をかける勇気がない。自分に自信がないのだ。そりゃそーだ。単純に考えて、学校で友だちに無視されるわ、家ではいつも怒られるわ。お前はだめだだめだと言われ続けるし。
そーゆー状況にいて、自分に自信が持てるだろうか?
「かーちゃん、友だちに無視されるよ~」
「だからお前はダメなんだよ」
「。。。。」

子は親を見て育つ。子には親しかいない。親を離れるということは、即、死につながっている。だから必死で親のいう事を聞く。
「お前はダメだ」
と言われると、そうかオレはダメなんだ、とおもう。親は愛情のつもりでハッパをかけるが、子供はその言葉をそのまま受け取る。
「オレはダメなんだ」
最初のそのインプットは、いろんな場面で確信につながる。友だちに無視される、遅刻する、ずる休みする。ほら。やっぱりオレってダメな人間じゃん!とね。

彼の目の動かし方を見ているとわかる。おどおどしている。人の顔色をいつも見ている。けっこう大きな身体をしているが、それに似合わず格好は小さくなっている。

親は親で大きくなる息子に脅威を感じている。今でこんなに問題があるんだからこれからどんなことが起るかも分らない。。。と。だから息子に気を使いつつ、怒る。


「そんなふうにいつもダメだダメだっていうから、自信なくすんじゃないの?」というと、
「だって、それ言ってないと、何しでかすかわかんないじゃない。朝起きる事さえうまくできないヤツは何やってもダメじゃん」という。

朝うまく起きられないことが、人生のダメモードの始まりだと言っている。だけどやまんばがおもうに、そもそもなぜ起きられないかと言うと、学校がイヤなわけで、その理由は、友だちに無視された事で、それを大きくとらえてしまう心があるわけだ。それは、自分がひょっとしたら、ほんとにダメなニンゲンなんじゃないか?という結論に導かれてしまうという怖れがあるわけだ。だからそれを導きだしてしまうかも知れない学校にいきたくないのはトーゼンだ。そもそも学校とは公の社会であって、今その彼の資質を試されている!ともいえるからだ。ほんとはそんなことでその人の資質が決まるわけでもないのに。

ところが彼女の頭は、遅刻するのは人生の脱落者という構図が出来上がっている。自分の息子を人生の脱落者にするわけにはいかぬ。親の責任として言って聞かせるべきなのだ。「そんなことでどーするの!」
この言葉は、彼が遅刻を止めるまで、言い続けなければいけないのだ。なぜなら、「言わないととんでもないことになるから」
とんでもない事とは、学校休んじゃうし、勉強はできなくなるし、成績落ちてグレるし、そのうち悪い奴らに捕まっちゃうし、犯罪なんか侵しちゃうし、そーなったら、もうここには住めなくなる!
ちょっと待っておくれ。それって自分の事心配してね?


そんなことでどーする、と息子に言い続けるのは、じつは「これ言い続けているうちはまだマシ」と思う彼女の心の保証であって、彼の保証ではないのだ。
反対に、そんな事でどーすると言われれば言われるほど、彼はますます自信をなくし、ますます学校に行けなくなる。だって、友だちに声をかけて無視された事にぐじぐじ悩むのは、自分が「オレっていけてねえし」と思ってるからでしょ。そのいけてねえしを作ったのは、親の言葉なのだ。その親の言葉が容赦なく降り掛かる。「そんなことでどーする!」

親は、子供に常にそう言ってないと、何しでかすか分らんと思って言い続ける。しかし子は親の言葉によって「おれいけてねえし」という確信に向かう。
するってえとどーなるかっちゅうと、学校休んじゃうし、勉強はできなくなるし、成績落ちてグレるし、そのうち悪い奴らに捕まっちゃうし、犯罪なんか侵しちゃうし、そーなったら、もうここには住めなくなる!
ほーら。親の思った通りの子になるのだ。
そーゆーのを今ハヤリの言葉で言うと、負の連鎖ってことかいの。なんかいやだね、この言葉。

どっちもなんとか頑張っていい親でありたいと思うし、いい子でありたいと思っている。昔は厳しく育てて立派な大人に成ったという歴史がある。だから子は厳しく育てろと。そーやって、厳しく育てられたもんだ。たいていどこの親も厳し〜く育てた。んで、この世の中さ。りっぱじゃん?りっぱな世の中じゃん?


「ほめなよ」と私。
「へ?どこほめるところがある。」と彼女。
「あるじゃん、いっぱい」
「どこよ」
「お肌」
「なんじゃそりゃ。。。」
「何でもいーから朝一発ほめる。『あ〜ら、今日はお肌つやつやね〜』と」
「え〜〜〜〜、そんなことお?」

『おれ、ほめられて育つタイプだから』がはやったのは、ある意味真理をついている。
誰が彼を育てるのだ?ほめる事は何よりも彼にエネルギーを与える。ほっぺのひとつでも、プチって触ってあげればいい。「やめてよ〜かあちゃん」って言うかもしれない。でも心のどこかがウフッてよろこぶ彼がいる。ほんのささいなことで、朝から少し空気が和む。
言葉は諸刃の剣だ。それで人を斬る事も出来るし、生かす事も出来る。今の時代は阿吽の呼吸なんてえもんは、もはや存在しない。言葉をフルに使って人を生かすのだ。

「オレ、肌きれいなんだな。。。」
と思いながら学校にいくはずだ。彼の心にエネルギーの明かりがポットともる。身体が暖かくなっている。かあちゃんはすかさず、次の一手を打つ。弁当残さず食った事、ちょっと筋肉がついて来た事、玄関の靴がそろっていた事。。。。
きっと彼の反応は、「フン」だ。でもそれが確実に彼の心にはいってくる。

エネルギーをつくろう。そのささいなことがいつのかにかその人のパワーになる。
そのパワーは、友だちにもう一度声をかける勇気を与える。すると友だちからの反応に対する彼の反応にも変化があるはずだ。気のない返事をされても、「あ、今忙しいんだな」という解釈になるかもしれない。不思議な事に、こっちにエネルギーがあると、向こうもそれなりの反応を示してくる。学校にいくのが楽しくなる。朝起きるのがおっくうでなくなる。遅刻しなくなる。

かーちゃん、あんた次第で家庭は変わる。家庭が明るくなると、とーちゃんも仕事で明るい。仕事場が明るくなると、従業員も明るくなる。営業マンも明るくなると、その得意先も明るくなる。そーやってこの世は連鎖していくのだ。


絵:似顔絵「ドクター中松」

2011年7月25日月曜日

ウチの雑草、大根だから。




こないだの巨大カイワレ大根さん。アレから白くなって虫が出て消えつつある。やはりちょいと早すぎたのかいの。
ところが今度はべつのところからわらわら出始めた。こぼれ種で勝手に育って勝手に花咲いた南西の隅の大根。そこらあたりいったいが草がすごかったので、先日思いっきり刈り倒した。ついでにさやのついた大根も刈り倒した。今そこからカイワレがわらわらと。。。足の踏み場もない。
大根様、おみそれいたしました。「さやと一緒にすき込む」なんてニンゲンのこしゃくなマネは必要なかったのでございますね。ほんとは種もまいちゃいけないのかも?

それにしてもこんなに大根が元気だとは知らなかった。これが果たして私の足のように大きく育ってくれるのかどうかはわからんが、その土地にあっちゃったものは、雑草のように育ってしまうのかもしれん。

そーいえば、ジャガイモ。去年は一個の種芋に一個しか実らなかったが、今年植えてない場所からもわらわらと芽が出る。昔植えていたところだ。ちっちゃな種芋でも残っていたのだろう、と思いつつひっこぬいてみると、でてくるでてくるりっぱなジャガイモちゃん。あっという間にバケツ一杯に。今年はジャガイモの当たり年なのか?
ジャガイモも大根も仕込まなくって出てくるってどーゆーこと?つまりウチの畑は大根とジャガイモの雑草がはえるってこと?
どっちもいったんここで実になったものばかりだ。ということは、ここにあっちゃえば、ほっぽっといても出るってことか?イヌコロ草のように。

いまんところ、この二つしかそんな気配はない。でも。。ぐふ。。ひょっとしたら小松菜もレタスもナスもキュウリも雑草のように出てくるのかもしれん。そーすると、笑いが止まらんではないか。

「うち?ええ、キュウリやナスが雑草のように出て来て、そりゃーもーたいへーんでごじゃいますのよ〜。ほーっほっほ」
と、声高らかに近所の口うるさいオヤジどもを制する事が出来るかもしれん。(そこかい)

去年イノちゃんにみごとにぜーんぶ食べられた里芋。その畝から新たな里芋の芽がでて来た。下に何かしら残っていたようだ。今、キュウリと一緒に共存している。
見渡せば、ものすごい量のイネ科の雑草でおおわれた畑。あまりの草の勢いにぼーぜんとする。しかしその土の中では、わしらの考えの及ばないところで、いろんな存在たちが粛々とお仕事をなさっているのだ。


絵:MF新書「セックス嫌いな若者たち」いやよーするに、妄想の方が大きな存在になっているということでしょうなあ。

2011年7月20日水曜日

腐敗を好んで食べるヤツ





カラカラに乾いた畑に、久々に大量の雨が降った。
近所の畑には水たまりが出来ている。やまんばの畑にはもう水がたまらなくなった。草さんのおかげで土の中に変化があるようだ。水はけがいい。

それまでアリがビッチリついていたインゲンのツル。雨の後、アリさん、ほとんどいなくなっている。心なしか元気そうなインゲン。炭素循環農法の林さん風にいうと、野菜が元気になると、虫が「こいつは食えねえな」といって退散した、ということか。

虫は腐敗するものを好んで食べると言う。食物は腐敗か発酵に向かう。発酵に向かうものはニンゲンが食べ、腐敗に向かうものは虫が食べる。虫にとって食べた後、からだの中で発酵するものは、命取りのようだ。だから食べない。
一方、ニンゲンにとっては、腐敗するものより発酵するものを食べる方が生きられる。道に転がったフンには虫はつくが、人が好んでフンは食べない。(いや、一部愛好家の方もいらっしゃるが)Dr.スランプに出てくるハエブンブ星からやってきたブビビンマンは、地球でうんちのおいしさを知る。人の姿をしながらも、やはりキホン虫であった。

腐敗に向かう野菜は虫さんに食べてもらい、発酵に向かう元気な野菜は我らニンゲンが食べる。ほら。虫さんとわしらニンゲンは共存できるのだ。害虫といわれるのは、ニンゲンが「これわしが食いたいのに、お前らが食いやがって。。。。」という目先の欲にとらわれた勝手な解釈であった。ほんとは虫さんは「あっ!これ、腐ってく!腐ってくもんはわしらが処分するのだ」とお仕事に取りかかっているだけの事なのだ。

ということは、虫さんがたかっている野菜は、食わん方がいい、ということになる。だが雨が降って野菜の苗が元気になり、もりもり育ち始めると、虫はつかなくなる。じゃあ、野菜が元気になると、虫さんの食べるもんがないじゃあないかとおもうだろ?ちゃんと隣の草を食んでいる。インゲンの葉の横にある葛の葉を食べている。虫さんは虫さんで生きてらっしゃるのだ。
そういう自然の法則を知っておくことはなんだか大事な気がする。

実は草にもそれがいえるような気がしている。
野菜が元気に育っているところの畝には、イヌコロ草(エノコロ草のこと)がちょろちょろしか生えない。だけど、ひとたび「この野菜、ダメね」と、草さんが見下したら、がぜん草さんの勢いは増す。だもんで、畝によって草の勢いが違っているのだ。同じエダマメの畝でも、草におおい尽くされている畝と、ちゃんとエダマメが太陽を浴びるに十分なお日様をくれる草の高さとがある。この二つは撒いた時期も違っていた。そして畝の中身(土の内容)にもよるのかもしれない。どっちにしろ、虫と草は、その野菜の今の状態をよく教えてくれている。

わしらニンゲンはどーも目先の事ばっかりに気をとられる傾向があるらしい。確かに物質的に目に見えると、「あ〜〜〜っ!」とおもう。だけどその時反対の側から眺めると違ったものが見えてくる。ほら、よく相手の立場になってモノを考えなさいっていうじゃない?これって、たぶん何でもいえる事なんじゃないかなあ。やまんばもいっつも自分の立場でしかモノを考えない。欲にまみれてモノが見えない。林さんの視点は自分がやっている事を気づかしてくれる。いつも向こうの立場になってモノを考える習慣を身につけたいなあ。。。。

みょ〜な動きをする今回の台風さん。きっと何かお考えがあっての事なのだろう。日本を洗濯しているのかもしれない。。。


絵:MF新書「田舎の家のたたみ方」トーキョにいる田舎人にささげます。うち?家無いし。

2011年7月17日日曜日

我らは退屈している




人々は退屈している。
朝決まった時間に起こされ、母はバタバタと朝の支度をする。子供たちにお弁当を作り、朝ご飯を作り、決まった時間にダンナを送り出し、決まった時間に子供たちを送り出す。決まった時間にパートに行き、決まった時間にお昼ご飯を食べる。決まった時間に子供たちを迎えに行き、決まった時間に夕飯を作る。明日の事があるからと、ゲームに夢中になる子供たちを怒り風呂にいれ、一息ついて家計簿つけている頃にダンナがご帰宅。明日があるからと無理矢理寝床に入り、眠れないまま朝を迎える。決まった時間に目覚ましで起こされ。。。。

奥さんの怒鳴り声で重い身体を起こし、寝ぼけ眼で朝飯をかき込む。頭はきのうの仕事の事で一杯。奥さんの言葉も聞いてない。「ねえ、だから今度の日曜日はあけておいてよ。ねえ、ちょっと聞いてるの!」という言葉で現実に戻される。満員電車にゆられながら、心は今日の午前の会議に気をもみ、込み合った電車で自分の前に立つお姉ちゃんのからだに出来るだけ触らないようにと気をもむ。会社で上司に気を使い、最近は部下にも気を使う。決まった居酒屋でうっぷんを晴らし、飲み過ぎたと言いながら、また次の日も飲む。いかん、朝起きられないからもう寝なきゃ。。。奥さんの怒鳴り声で起こされる。。。「パパ!早く起きてよ!」

人々はちょー忙しい。いそがしーのに、心は退屈している。決まりきった事を繰り返しているだけだからだ。身体はでろでろに疲れてる。身体が疲れりゃ、心もそれに引っ張られる。だから何かの刺激がやってくると、ウホっとなる。奥さんはパート先の若いお兄ちゃんとちょっといい感じだし、パパは得意先の秘書と不倫する。ひと時のアバンチュールで心は活性化し、元気玉をもらう。だがその不倫相手とゴールインしたところで、また元の木阿弥。「ちょっとパパ!聞いてるの!」となる。


心は常に刺激を求めている。日々の生活にほとほと退屈しているのだ。それをなぜ続けるのか。子供のため、将来のため、定年まで、ローン払い終えるまで。。。頭でいい聞かせながら続ける。ほとんど奴隷状態。強制的に入れられたわけでもなく、自分で入った監獄。

テレビで被災者がインタビューに答えていう。
「早く元の生活に戻りたい」
「むかしと同じように仕事がしたい。。」
泣ける話だ。ウンウン、そうだよね、元の生活がどんなにステキだったか。。。

でも私の知人が仕事で被災地に心のケアをしに行ったら、そのケアは震災にあったわが家の話ではなく、近所の人やダンナがひどい人だという被災とは関係ない日常的な悩みで満ちあふれていたのだそうだ。元の生活に戻れば救われる話でもなさそうだ。じっさい、元の生活はやっぱり苦しいものなのだろう。

なくなればそれが恋しくなり、あればあったでうざい。一瞬一瞬を生きるのが人生、今を大事に生きろとは言うけれど、そんなの頭で言い聞かせているだけ。生活の中にどっぷり入れば、ステテコ一枚でケツをボリボリかくダンナの姿にうんざりする。



するとテレビではやらせメールのニュースが。するとネットでは「原発反対!」とデモする俳優が。心はちょっとウキッとする。退屈な生活にちょっと刺激がある。おかあさんは、子供たちのために放射能を気にする。するとどこそこの場所がホットスポットになっていると言う。なんてことなの。それって近所じゃない。うちだって危ないじゃないの。いつどこで放射能がたまっているか分らない。
お母さんはネットで調べる。するとでてくるでてくるいろんな情報。身体がだるいのも放射能のせいのようだし、気分が落ち込むのも放射能のせいのよう。脳が冒されるらしいのだ。
「パパ!ここでは子供は育てられないわ。」
「そんな事言ったって、オレは仕事があるし、この家のローンだってある」
「パパ、子供たちと仕事とどっちが大事なの!」

おかあさんは、パパのその言葉に「うらぎられた」とおもう。
「あの時あんな風に彼は言ったのよ。それってどうなの。やっぱり彼は私たちより仕事の方が大事なのね」
だんだん関係がぎくしゃくなる。
パパの態度に反発するかのようにお母さんは動き始める。ネットで調べに調べる。それまでだるい日々を過ごしていたが、彼女はがぜん生き始める。反対運動にも参加する。原発のシステム、放射能の種類、いろんな事に詳しくなる。内部被爆を気にして食物を探して全国から取り寄せる。



先日も放射能を憂う人が言っていた。
「何も言えないわ。だって、何年後かに孫がどうにかなっちゃったら、『ほら、あのときおかあさんが行くなって言ったから子供がこうなっちゃったじゃないの!』と言われるのはつらいわ」
だから息子家族は大阪に引っ越し、息子は東京で仕事して週末大阪に帰るのだと言う。一見、聞き分けのいいおばあちゃんのようだが、よく考えると、本人の保身である。それはそれで悪い事ではない。しかしそれが保身である事を自覚する必要がある。

みんな自分の未来を案じている。自分の人生を憂いている。それまで漠然とした不安のまま生活していたのが、今回の放射能で一気に「不安」が増大した。
未来の見えないこの国への憤りや不安があふれている。しかしホントにこの国を憂いているのだろうか。ホントは自分を憂いているのではないのか。この世で誰よりも泣きたいのは自分じゃないのか。その悲しみや怒りをどこかにぶつけたいのじゃないのか。
その矛先が原発だったのかもしれない。それは時代が違えば、戦争反対だったのかもしれない。。。。


やまんばは憂う。
放射能や原発よりも心配なのは、このとてつもない不安の固まりはどこへ行くんだろうか、お母さんの頭の中だけで消化できるものなのだろうか、ということなのだ。
福島の放射能はチェルノブイリの100分の1だと発表された。しかし今はもう誰も信じない。目標は限りなくゼロに近い数値をという。しかし福島は今もだらだらともれてはいる。それを危ないと言い続けることはできる。そして不安はずっと膨らみ続ける。何年後かに突然襲ってくるかもしれない我が子への仕打ち。それを想像するだけでお母さんは身の毛がよだつ。
今、情報は考えられる事すべてが出そろった。あとはその中でどれを「選択する」かになってしまった。

心は暴走する。退屈した心は何か目的をもった瞬間、走り始める。「子供のため」という誰よりも正統な目的のため、巨大な大義名分のため、これからもっと加速して行くのだろう。


私は「放射能は脳を冒す」という情報を読んだ瞬間、来てしまったとおもった。これが正しいかどうかは知らない。しかしこういう情報が出るという事は、それを聞く人がいるという事だ。これはどんな状態になっても、すべて放射能のせいにできるのだ。つまり自分を正当化できる。心はうまく自分を守る事ができる。

何かしなければいけないと思い込んでいるけれど、道路でセシウムを見つけても除去する事は出来ない。測っても測っても消えない。そのかわり不安は大きくなる。それをやり続ける意味は何なのか。それは「なにかしなきゃ」という思いがそうさせる。ほんとうは、何かしていないと不安なのではないか。

しかし何かすればするほど、ますます不安を大きくする。大きな矛盾を心が抱えることになる。大義名分と不安のはざまで揺れうごき、自分で調整できなくなる。するとその先は。。。


心に振り回されるな。なにもするな。

今自分が何をどう感じているかを自覚していて欲しい。「考えるな!感じろ!」という言葉がもてはやされているけれど、その先がある。何を感じているか、どんな感情を今かかえているのか、常に知っていておくれでないかい。感じるままにしていると、洗濯機の中にいてぐるぐる回されているだけだ。その洗濯機を外から見ていておくれ。その感情をイケナイことだと思わず、何の非難もせず、ただしずかに観察していておくれ。心を洗濯機の中に入れておくと、まわされ続けて巨大になる。しかし外から見ていると、やがて渦は消えて行く。

心は刺激を求めるという厄介な代物である。その暴れ馬をうまく乗りこなす事がホントに必要な時代になった。昔からいわれている事だったが、今はそれを忘れてしまっている。

感情を持つ事は素晴らしい事だ。その感情を避難も正当化もしないで、ただ眺めて欲しい。
そののち、やがてやってくる静けさの中には、ニンゲンのあらゆる可能性が埋まっているのだ。


絵:「こんなに厳しい!世界の校則」MF新書 おもろいで〜。

2011年7月13日水曜日

悪ガキじじいと少女なばばあ




トーキョのど田舎に来て、よくジジババとお付き合いする。み〜んな60過ぎのジジババ。むかし60過ぎたら、カンペキ老人だった。しかし今の60代は若い。いやショージキ言うと幼い。

高尾のふもとのカフェでだらだらと珈琲を飲みながら、意味もなくくっちゃべる。話す内容は、ただの少年である。
車に乗って道歩く若いネエちゃんに「ひゅ〜」と口笛をならすだの、あんなくそじじいんとこの畑にゃ、うんこまき散らしてやったらいいんだとか(だいたいうんこの話で盛り上がるな)、勝手に人の話を膨らませて、物語にしちゃったりとか、「うん、今度宗教立ち上げよう」などとやりもしないのに、妄想ばっかり膨らませてその場を盛り上げる。

なまじっか、世の中の事をそれなりに経験して来たオヤジどもだからこそ、そこまで遊べるのかもしれん。その内容たるや、単なる悪ガキである。いや、世の中を渡って来たからこそ、ぎゃくにたちが悪いのかもしれん。ほんきでやっちゃうかもしれん。

やまんばがいたいけな少女だったころは、60のじじいは、人生の終盤を向かえる静かな人々だと思っていた。ところがどっこい、ここに来て60過ぎのジジババ集団にあうと、じぇんじぇん違うことがわかる。

ほんとはじじいもばばあも、年はいかないのだ。
人は身体が年いくと、勝手に心も年がいくと思い込んでいる。それは幻想だ。心はいつまでたっても変わらないのだ。自分の経験から「世の中はこうだ」とか「世間とはこういうもんだ」と物知り顔でいうけれど、ホントは「世間はこういうもんだが、くそくらえだ」と思っている。だから「こいつにはなに言ってもヘーキだな」と思うヤツがいると(つまりやまんばのこと)、「オウオウ」ってな感じで悪ガキに戻るのだ。

ばばあはばばあで、これまた永遠の少女なのだ。
その話す内容たるや、いつもお肌の曲がり角を気にする(いつ曲がったんや?)し、近所のじじいにイヤミいわれたとフンガイしているし、お気に入りの○流スターの追っかけをやっているし、ハヤリのものには目がない。情報源は、むかしの雑誌「それいゆ」から「テレビユ」に変わっただけだ。

ここらあたりのひとはみ〜んな「○○ちゃん」と、呼び合う。じじいとばばあが、さっちゃん、としちゃん、なー坊、と呼び合う。そーすると必然的に心は、いたいけなあの頃のままなのだ。外見はずいぶん変わったが。

子供は純粋でかわいい。その心は大きな夢を持って膨らんでいるというけれど、そうかなあ。ジジババのほうが、よっぽど純粋でかわいい。なまじっかこの世を渡る術を身につけているが故に、そのファンタジー力は銀河系をも駆け巡っているように見える。そのまま突き進んで欲しい。ニンゲンの底力を見せて欲しい。
老人よ、大志を抱け!


絵:メディアファクトリー新書「なぜ人妻はそそるのか」表紙イラストきゃ〜、えっちい。

2011年7月7日木曜日

巨大かいわれだいこ〜ん!




大根のさやってどんな形か知ってる?
浅草にあるうんこビルを思い出してもらうと、いっちゃんはやい。アサヒビール吾妻箸ビルの上に乗っかっている金色のアレ。ほんとはうんこじゃないそうだ(あたりまえだろ)。炎のオブジェクトとも、ビールホップのつもりとも。
いんや。やまんばにとっちゃ、大根のさや、そっくり!

大根はそのままほっぽっとくと、とうがたち始め、うすむらさき色の可憐な花が咲き、ほんでもって、そこにうんこができる。(ちがうだろ)見事に広がった大根の枝という枝に、うんこがびっちりぶらさがる。その姿は圧巻。千成ひょうたんのよう。

さて、ふつーは、これを干して、さやから種を出す。しかし正直なところ、このさやが固い。いちいちさやからはずすのは指が痛くてメンドーくさい。

ある日、枯れたさやのついた大根を山積みしてある畝に、ピロッと双葉が出ているのに気がついた。
「あれ?大根の芽がでてる。。。」
茶色くなったうんこ型のさやの中から、大根の双葉がにょきっと顔を出していたのだ。
はは~ん。。。。

やまんばはおもむろにくわを小屋からもちだして、大根のさやを枝から手でぶちぶちとひきちぎり、畝にばらまき、そのまますき込んだ!
手抜きもいいところである。乾かす→種をさやから取り出す→畑に蒔く、を一気にやっちまった。
しかし自然の摂理は意味があって大根にあのようなぶあついさやを作ったのだ。アレを突き破らん事には子孫は繁栄しないのだ。ほら、だって大根の種撒く時も2、3粒一緒に入れるでしょ?アレはさやの数に他ならんじゃないの。と勝手に憶測をし、そのままほっぽっといた。


それから3日もしないあいだに、わらわらと緑色の双葉が顔を出し始めた。見る見るでかくなり、あっという間に幅3センチもある双葉が畝をおおい尽くした。
「わちゃー。こりゃ、どーいたらえいぜよ」

一本ゆっくり引き抜く。隙間なく芽がでているので、徒長をしている。まっしろい首がぬーっとでてきた。こりゃまるででっかいカイワレ大根じゃないか。食ってみる。ぴりっとから~いカイワレ大根!
やまんばはウホウホしながら、間引きする。いや間引きと言うより、5、6本束にしてゆ〜っくり引き抜く。あっという間にスーパーにあるカイワレ大根のように収穫できた。それから毎日カイワレ大根の束を収穫する。次々と下から新しいカイワレ大根が出てくる。本葉も出てくるが、まだまだ生でいける。

最近ひたすら草刈りをする。刈っても刈っても草が出てくる。草刈りをしながら、「いつまでやるんだろ。。。」と心がいう。カイワレ大根が出た畝を見る。草がほとんど生えていない。なんでやろ。大根の双葉の量で他の草が圧倒されたのか?いや、ちがう。すき込んだからだ。あの時地表をクワでかき回した。よく見たら草が生えていないところはみんなそうやっている。自然農はかき回しちゃいけない。耕してはいけないという。でもこの草刈りにおわれるのはつらい。

最近知った炭素循環農法によると、自然農は自然猿真似農法だとぶったぎられた。ちろちろと怖がって、自然のような振りをするな、どんどんいどんでいけ!という。
カイワレ大根の畝も自然農ではあり得ないやり方をした。しかしそれによって、なんだかちょこっと知った。

やまんばは怖がっていたのかもしれん。あれもしちゃいけない、これもしちゃいけないと。そっと自然の姿に似せておくのがいーのだと。
いんや。失敗こいてなんぼなのだ。いろんなことをやってみるだ。
直径3センチのかいわれ大根のピリ辛がそれを教えてくれていた。

2011年7月4日月曜日

野草料理!




ふえ~、あつい。畑でセミが鳴き出した。はやくね?これからぶっちぎりあぢー夏がやってくるんだろーか。

先週、ウチで「野草を食べるかい?」を開いていただいた。あこがれのしと、われらがはっちい隊長のおでましである。その風貌はごっついオヤジなんだけど、ウチにくるときは、いつでもそこらの草を採取して、おフランスで繊細なフルコースの料理を作ってくれるのだー。

今回はフラワーコーディネーターのお姉ちゃんをお呼びしての饗宴。何でも彼女、野草を生けてみたい!のだという。
野草を料理するオヤジと、野草を生けたいおねえちゃん。花と団子が一緒になったような贅沢な時間。

使った野草、木いちご、シオデ、カンゾウの花のつぼみ、カキドオシ、そしてなんとかというキノコ(名前忘れた)。アンチョビやガーリックやオリーブオイルや生クリームで味付けされた、よだれじゅるじゅるな、そしてゲージツ家をびんびん刺激するようなクリエイティブな野草料理でありました。ごちそーさまでした。


ところで、むかしの日本人は何食ってたんだろ。
最近見つけた「北鎌倉の無肥料自然農法の畑から:」さんのブログに書いてあった。
戦国末期から江戸初期にかけて書かれたという日本最古の農業書「清良記ー親民観月集」によると。。。

例えば2月
芹、薺、夏菜、土筆(つくし)、おばこ、韮、わらびな、防風、ちさ、よめがはぎ、 雉の尾(きじのお)、榎葉(えのき)、藤葉、はきぎ、葱、千根、 菘菜 (すずな)、田びらこ、仏の座、田にし、すぎな、子持菜、たんぽぽ、よもぎな、あさつき、野蒜(のびる)、かづらな、けしは、三葉芹、高野菽菜(まめ な)、椎茸、蓮根、仙大黄、いびら、河ちさ、ぜんまひ、ほど、野老、やまいも、ゆり、葛根、蕨根、独活(うど)、三月大根、芋の子、くこの葉、つくり人参

よくわからん名前もあるけれど、だいたいにおいて、今いわゆる雑草といわれているものがふつーに食べられている。大声で言っちゃなんだけど、今の野菜作りの人にとっちゃ、「畑にハヤカしちゃあなんねえ雑草」が目白押し。それが畑にありゃ恥の象徴のような、よもぎやスギナやタンポポやホトケノザが、「食ってたじゃん!」なのだ。なんということだ。むかしの人が大事に食べていたものを今の専門家は悪だとする。

「北鎌倉」さんは、その雑草、もとい、野草さんたちの栄養価も教えてくれた。

ほうれん草:
カルシウム(mg/100g)
98(1963年)
55(1980)
49(2004)


3、3(1963)
3、3(1980)
2、0(2004)

ビタミンC
100(1963)
65(1980)
35(2004)

ナズナ:
カルシウム(mg/100g)
300(1963)
300(1980)
290(2004)


2、5(1963)
2、5(1980)
2、4(2004)

ビタミンC
40(1963)
40(1980)
110(2004)

他、小松菜やヨメナ、よもぎなども表してある。だいたいにおいて、野菜は栄養価大きく減少。野草はだいたい変わらずの栄養価。これは畑で育つか、自然に育つかの違いなのではないだろうか。畑にはいろんな物が投入され栄養価が変わり、野草は自然のままに育つので変わらない。
確か山菜などは栄養価なし、繊維ばかりである。と言うふうに教わって来たと思ったが、ドーダあ。カルシウムなんか、ほうれん草よりナズナの方がぶっちぎりではないか。
今の野菜をスーパーで買いしめ、アホほど食べるよりは、山に入ってそこらの食べられる野草をちょいとつまんだ方が、よっぽど健康になるやも知れぬ。
ちなみに畑の近所の野草は食わぬがマシ。そこらの土に何が入っているか分らない。なるだけ人の手が入ってない場所で育った季節の野草を食うべし。(というか、野草は季節のものでしかない。これが自然)

「北鎌倉」さんは、実際野草を食される。今の季節、ツユクサ、オオバコ、ヤブガラシが畑にはびこる。ゆがいて食されておった。自然農はいやでも野草がはびこる。まずは野草を育てて、おいしく頂いた上で、野菜を育てるかあ〜。
負け惜しみ?
いやいや、こんな時代、まさしく野草は底力をつけてくれるような気がしてならんのだ。

ニンゲンって勝手な存在だよな。同じように生えてくるのに、「こっちはいるけど、こっちはいらない」と、好き嫌いを言ってるのだ。だけど植物さんはだま〜って、「えーよ、すきにすれば」という。勝手ですんません。
勝手だけど、やまんばは、野菜も野草のようにたくましく育てるのだ。(の、予定)



絵:MF新書表紙 
世界一いやしい日本人、どこへいく!。。とは書いてない。でも食物の外交を前向きにとらえた一冊です。新刊でたよ〜。