2022年2月26日土曜日

すべてが等しく同じ

 



ある日、ヒヨドリがミツバチを食べているのを見た。


「え!?」


それまで原っぱでのんびりしていた心が、一気に動揺する。


「やばい。ミツバチが全部ヒヨドリに食べられちゃう~!」




二年前までやっていた畑のことを思い出していた。

この時期になると、大勢のヒヨドリがやってきて、

ブロッコリーや白菜などの葉っぱという葉っぱを見事に食べ尽くしてくれる。

ブロッコリーの蕾は食べないが、スケルトンになった葉っぱの周りにはフンだらけ。

白菜も芯まで食い尽くす。


ミツバチたちも全滅させられたらどうしよう。

怖くなった。



私の中に、これは大事で、これはどうでもいい、

という優先順位があった。

大事なものを守るために、網を張ったりネットを被せたり。


ありとあらゆることをやって、

その「大事なもの」を守ってきた過去がある。

しかし健闘むなしく、自然界は私をあざ笑うかのように、

その「私の特別なもの」を根こそぎ持っていった。


その戦いに疲れて畑をやめたのに、今目の前の出来事に同じ動揺が走る。


起こる動揺は、私に何かを伝えようとしている。

この時が最大のチャンスだ。



その二、三日後、ミツバチの巣箱にネットや網がかけられた。


人間という営みには、必ず搾取が行われる。

畑で野菜を育てるために草を抜く。

ミツバチを守るためにネットをかける。

あの網は目が小さいから、ミツバチたちが出入りに困ってる。

もっと大きな網目にしないと。。。


複雑な心が沸き起こる。

ああ、まただ。


大きく息を深く吸い込んで、ゆっくり吐く。

そして静かにその映像を観る。



私たちはミツバチから蜂蜜をいただく。

野菜をいただく。

それはヒヨドリも同じ。


そこに解釈を与え、差異を作り出し、優先順位を与えるという判断をしているから、

それを実在させ、そして苦しむ。



私も、ヒヨドリも、ミツバチも、同じ一つの心でできている。


私の考えが、今見ている世界を作っているのなら、それは夢。

ほんとうは何も存在していない。



それが見えた時、すべてが等しく同じになった。




絵:もくれん

2022年2月24日木曜日

袖振り合うも他生の縁

 


「こんにちわ~」


山すそを縫うように続く遊歩道を散歩する。


すれ違うハイカーの人たちとごあいさつ。

狭い道なので互いにゆずり合う。


道の脇で待っていると、

「あ。すいません。」

と、少し急ぎ足になるハイカーたち。


「どうぞどうぞ。ごゆっくりお通りください」


袖振り合うも他生の縁。

あなたとはきっとどこかでお会いしたことがありますね。


一瞬のふれあいにすべてを託す。

互いが互いを思いやって、世界が収められていく。

ひとつずつ、過去が消えていく。


長かった冬の山に、春のほころびが感じられ始めた。




絵:「樹」/和紙


2022年2月22日火曜日

またお会いしましたね

ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。。。


暖かい陽射し。

ビルの間からのぞく真っ白い頭の富士山。


電車にゆられて、私は小さな旅をする。


改札を出るとたくさんの人々。

みんな私の知り合いだ。


おじいさん、おばあさん、若いお姉ちゃん、お兄ちゃん、中年のおじさん。

パチンコ屋さんの前で並ぶたくさんの人々。

改札の前で人待ち顔の人々。

みんなきっとどこかで一度は会ってる人々。


お名前は存じあげませんが、またお会いしましたね。


どうか今日も良い一日を。


絵:MF新書表紙イラスト


2022年2月20日日曜日

幸せの中にひたる


 

カウンターだけの小さなお店に行った。


そこは何気ないお店なんだけど、

この世界の大物たちが出入りしていたお店。

一緒に切り盛りしていたおかみさんが亡くなり、

今は大将一人で開いている。


久しぶりに行ったら、

カウンターから見える壁に、小さなおかみさんの写真が貼ってあった。


お任せで出てくる料理。

素朴だけど美味しい。大将の心が入っていた。

私たちへの愛情と、そして寂しさ。

私はそれも一緒に味わう。


目の前に現れている風景と大将と私たち。

そこにはいっぱい物語がある。

その物語について語れば語るほど、切ない。


だけどそれじゃなかった。

その映像について語ってもキリがなかったんだ。


その向こうにあるものが見え始める。

それはいつでも暖かい。大きくて頼り甲斐がある。

それに触れていると幸せになる。


私はその幸せの中にひたっていた。



目の前の物語に答えはないけれど、

形を見過ごしたその向こうにあるもの。

それがすべてに答えてくれていた。

今も。ずっと昔も。




その夜夢を見た。


ピンポン玉みたいなものが空間を漂っている。

よく見ると、いろんな色や形の粘土がぎゅーっと固まって、一つの球体になっていた。


私はそれを見ながらしみじみ思った。


私はこの球体の中をずっとのぞいていたんだ。

真剣に。深刻に。

こんな小さきものの中を。


だけどそれが漂っているもののまわりはなんと大きいのだろう。


そっちが本当の私だった。



絵:MF新書表紙イラスト




2022年2月15日火曜日

正しい分離


 

誰かと話をしている時、

相手が、こう考えているのではないか、

きっとこう反応するだろう、、、

と考えていている自分に気がつく。


相手の反応を推測しているのだ。


自分が相手の反応に判断や解釈を加えて、

判断メガネをかけてみている自分に気がつく。




だいたい判断というものは、悪いようにしか判断しない。

ということは、その悪い反応を見ることになる。


相手を判断して、きっとこう来るだろうと推測し、


「ほーらやっぱり!私って正しかったんだあ~」

と、密かにほくそ笑む。



事実は、私はその「正しさ」を見たがっていただけだったのだ。


その正しさとは、自分と誰かは分離しているという証明。


そんな「正しい分離」を証明しまくっていたのだった。

人は分離してて当然!と。


これ、じぇんじぇん楽しくなかった。


「しょせんこの世はこんなもの。」

と、ワケ知り顔になり、

せいぜいニヤリと笑うだけだった。


こういう経験を何十年もやってきたので、もういいや。

違う見方をするべ。




話を聞きながら、判断を停止する。

目の前の存在の神聖さを見る。

時には白いユリを敬愛を込めてイメージで渡す。


それでおしまい。

相手の反応なんか確認することない。



だけど判断しないでいると、

気がついたらそこに苦悩は見当たらなかった。


分離のない楽しさが広がっているのだった。


きっと判断するってさ。

相手を縛ることになっちゃうんだろうな。

ちっちゃい存在にしてしまうんだろうな。

そしてそれは自分さえもちっちゃくする。


だって私たちは一つなんだもん。






絵:MF新書表紙イラスト


2022年2月13日日曜日

恐れへのエクスタシー

 


「死にたいする恐れのごとく見えるものは、実は死の魅力である」

奇跡講座テキスト第19章Ⅳ平安への障害C第三の障害ー死の魅力5



車の中で恐れが頂点に達していた。

ダンナは全く安全運転をしているのに、私の心は全身恐れおののいていた。


「私は恐れを選ばない!」と唱えてみたが、ぜんぜん効果なし。

こんなにも恐ろしい恐れが続くなら、私はもう死を選んだ方がいいとまで思った。



コースをやれば内側に隠しておいたものが浮上する。

その時の心のキャパに応じて、徐々に現れるようだ。

それがかなりきつい人もいるだろう。

私にもそのようなことが起きていた。


だがそれもまた自分で受け入れられるものがやってくる。

それは聖霊の愛ゆえ。

その人にとって超えられないものはやってこない。





冒頭の言葉は、私に教えてくれていた。

あの恐れは、私の死への魅了だったのだと。


彼の運転で私は殺されるという信念が隠れていた。

彼の罪によって、私は死ぬと。


コースはこれを逆転させる。


ほんとうは、私が罪を持っていると信じている。

それを持っていることに耐えがたいために、

彼に罪を見て、その被害者になるのだ。


だが心の底では、自分が罪を持っているという罪悪感と、

それを彼になすりつけたという二重の罪悪感が、

より私を罪深く思わせ苦しめていた。


そしてそれに対するあがないは、罰だ。


殺されるという最終手段の罰を受けることによって、

私の罪は許される、と信じているのだ。


だから本当の原因は私自身にある。

思考の逆転。

彼が原因で恐れるのではない。

そう見せかけた私が原因。

自分に引き戻さないと、真実は見えない。



そして死への恐れは、

「私は殺されて罪をあがなえる!!!」

という喜びだったのだ。


私は幼い頃父に殴られて、どこかで喜びを感じていたのを覚えている。

「ああ!私はこれで罪が許される!」と。


自分が消えてしまうほど殴られることで、

この憎悪の対象である肉体を消すことができると、どこかで信じていたのだ。

だからもっと殴ってほしい。もっと私を罪深いと言ってほしいと。


これは修行者が自分に鞭を打ち、罪をあがなおうとするものと似ていないだろうか。

修行厳しく肉体に鞭打つのは、肉体への憎しみからくる。

あれはこの肉体を消したいという、歪んだエクスタシーだ。


だから車の中で私が感じていた恐れは、

死へのエクスタシーだったのだ。。。。!




私は大笑いしてしまった。


なんてアホなことを今までやっていたのだろう。

罪の魅力になんととりつかれていたことだろう。

被害者でいることの魅力にとりつかれていたのだろう!


だいたい、殴られて罪は軽くなったのか?

全くなってない!


恐れを感じていたら、罪は免れる!?


ないない。



恐れというエクスタシーにやられて、

麻薬のようにそれにしがみついていただけだった。



自分や誰かに罪を見ることは、その快楽を味わいたかったのだ。

差異という魅力。特別であるという魅力。みんな同じ快楽。


自分がどんなにそれに魅了されていたことか。。。




自分に罪があるのでも、彼に罪があるのでもない。

罪などもともとなかった。


本当にあるものを見させないために、

罪に執着させようとしていた。


本当の自由にさせないために、

恐れというニンジンをぶら下げて、

それに魅了されていた。


でも心は目の前にあるハエを追い払うように、

「こっ、、この恐れさえなくなれば。。!」

と追い払っていたつもり。

実はしっかりとハエにしがみついていたのだ。


そんな私を笑って赦すのであーる。







絵:MF新書表紙イラスト/エクソシスト急募





2022年2月10日木曜日

私はそれを選ばない


 


雪の気配がする。


布団の中でとろとろとまどろみながら、こんな考えがやってきた。


「ゆず大根漬けたけど、ご近所さんにもらった大根にちょっとすが入ってて、

それほど美味しくない。

これをあの人にあげるわけにはいかない。。。」


と、どーでもいいような悩みを、起きがけの私は悩んでいる。

その苦しさに心がもぞもぞする。


ゆず大根す問題は、恐れを呼び起こした。



最近思う。

恐れは、その恐れさせた問題を解決するために現れてくる感情ではなく、

恐れそのものを赦すために浮上するのではないか。


自我はその恐れを、この世界に意識を向けさせるために使う。

それを問題として捉え解決させるために。


けれども聖霊の視点は、この恐れを使って、

「もうその恐れは必要かい?今が手放す時じゃないのかえ?」

と、それを手放させるためのきっかけとして使う。



私は聖霊の視点を選ぶ。

恐れを選ばない。


恐れを解決するとは、恐れが実在する方向に向かわせる。

恐れるものは確実にそこにあるのだと信じさせる。


けれども恐れを選ばないとは、

恐れが実在するかどうかをきめるのは、

私だということ。


心に浮かぶ恐れの声に従っている限り、

私はいつまでたってもこの世界の被害者だ。


でも選ばない選択は、私はこの世界の被害者にはならないという宣言だ。

どちらを選ぶかという駒は私の手にある。


それは自分は弱い人間だという信念を解体していく。

誰かに虐げられたものではなくなっていく。




この世界は、足すことばかり。

あれをやってこれをやってそれをやってと。


でもやらないという選択、選ばないという選択は、

この世界に関わらないということでもある。


先日書いた、私にはさっぱりわかりませんという考えも、

この世界に深く食い込んでしまって

身動き取れなくなった自分を静かにほどいていく。



私はそれを選ばない。


そうつぶやくごとに、心が自由になっていく。




絵:「笠地蔵」


2022年2月9日水曜日

愛、しってます


 

小さい時から、闇ばかりを見てきた。


父が警官だったこともあり、小学生の時、同和地区を転々と引越した。

閉鎖的な地区に入る転校生。私はそこでいじめを知った。

差別される側から受ける差別。肉体的、精神的ないじめ。

(もともと人は何の違いもないのに)

そして家では父の暴力。


幼い無垢そうな子供達から大人まで、

人の心の闇はなんと深く、なんと残酷なのだろう。

小さな私はそれを体で感じてきた。


でも彼らを憎む以前に、彼らにそうさせたのは自分。

その自分自身の罪深さを呪った。


それはその頃度々私を襲った恐怖の感覚が、

さらにそう思わせたのかもしれない。

幼い私に、なぜか人を殺めた瞬間の記憶があったのだ。


鋭い刃物が人の体に食い込んでいく感覚、その時の大きな後悔。

大きな罪が、私を奈落の底に突き落とす。

ありありとした感覚が蘇り、思わず小さな両手を確認する。

この罪深い存在をどうすればいいのかと心はずっと苦悩していた。




そしてコースを通して、考え方が変わってきた。


実はこの罪悪感が、闇を見続けることになっていたのだ。


人間とは一体なんなのか?という大きな疑問から、

人間がどんなに残酷かを知ることによって、

人間とは何かを知ることができると思ってその罪を徹底的に調べるうちに、

人はその残酷さにだんだん魅了されていく。

罪をもっと見たい!と。


その仕組みは、私たちの中に見たくない自分への罪悪感が投影され、

外に闇を見たがっていたのだ。


そこに答えは見出せない。

なぜならそれこそが、自我が私たちにやらせておきたいことなのだから。


「この世界は残酷だ。ああやっぱり残酷だ。

それ見ろ。こんな出来事も、あんな出来事も、全てそれを証明しているではないか!」と。

そうやって、この世界を残酷なままに維持させて、

いつまでも問題をちらつかせ、その解決法に取り組ませてい続ける。




キリスト教は、イエスの磔をその祭壇に置いた。

ブッダの像は、修行中の姿だ。


いやいや。本当は違う。

イエスはみんなの罪をかぶって磔になった方を見せたいわけではなかった。

復活の方だ。

「死はない!」と教えた方だ。


そして、ブッダは苦しみの中で修行する方ではなく、涅槃だ。

寝っ転がって「あ~。極楽極楽」の方だ。



磔を選んだ人も、ブッダの修行中の像を作った人も、

みんなどこかで苦悩に魅了されている。


そこから離れること。

闇や罪から手を離すこと。


罪や闇ととっくまない。

スーッと後ろに下がるだけだ。




闇は無だということを納得するためには、

有るものを知らなければならない。


「無」というものを知っているということは、

必ず「有」をその前提に知っていることになる。


無が、無を知ることはできない。


有から見るから、それは無だとわかるのだ。


その有こそが、愛だ。

その愛とは、私たちが知っている愛など吹き飛んでしまうほどのとんでもないもの。

想像できない。


だけどそれが確かに有る。

それだけが実在する。


そこに視点を向ける意志を持つのだ。


それを教えてくれたのは、ハレルヤさん

講義の時に言われた。


ハレルヤさん:「神は何と言っていますか?」

私:「え~。。。。えーと。。。それを言うの~?」

ハレルヤさん:「はい。神は何と言っていますか?」

私:「。。愛。。愛してます。。。って言ってるんでしょ!」

ハレルヤさん:「愛してます。。。つまり、愛、しってるんですよ!私たちは」
私:「あ。。。!」

注:ハレルヤさんは講義中時々、いやしょっちゅうダジャレを言う。
時々そのダジャレが高度すぎてわからないw



自分が神の愛に対して、愛されていると思うことに対して、何と抵抗していたことか。


私たちは本当はしっているはずの愛に抵抗している。

神という巨大なものに愛されていることを受け入れることを拒んでいる。


だからいつまでも闇と戦おうとする。

闇が消えるまで。

しかし闇を闇では消せない。


そこにひとすじの光が入った時、闇は一瞬にして消える。


その光を思い出すのは、あなただ。





絵:ひまわり「けんぽ」表紙イラスト