雪の気配がする。
布団の中でとろとろとまどろみながら、こんな考えがやってきた。
「ゆず大根漬けたけど、ご近所さんにもらった大根にちょっとすが入ってて、
それほど美味しくない。
これをあの人にあげるわけにはいかない。。。」
と、どーでもいいような悩みを、起きがけの私は悩んでいる。
その苦しさに心がもぞもぞする。
ゆず大根す問題は、恐れを呼び起こした。
最近思う。
恐れは、その恐れさせた問題を解決するために現れてくる感情ではなく、
恐れそのものを赦すために浮上するのではないか。
自我はその恐れを、この世界に意識を向けさせるために使う。
それを問題として捉え解決させるために。
けれども聖霊の視点は、この恐れを使って、
「もうその恐れは必要かい?今が手放す時じゃないのかえ?」
と、それを手放させるためのきっかけとして使う。
私は聖霊の視点を選ぶ。
恐れを選ばない。
恐れを解決するとは、恐れが実在する方向に向かわせる。
恐れるものは確実にそこにあるのだと信じさせる。
けれども恐れを選ばないとは、
恐れが実在するかどうかをきめるのは、
私だということ。
心に浮かぶ恐れの声に従っている限り、
私はいつまでたってもこの世界の被害者だ。
でも選ばない選択は、私はこの世界の被害者にはならないという宣言だ。
どちらを選ぶかという駒は私の手にある。
それは自分は弱い人間だという信念を解体していく。
誰かに虐げられたものではなくなっていく。
この世界は、足すことばかり。
あれをやってこれをやってそれをやってと。
でもやらないという選択、選ばないという選択は、
この世界に関わらないということでもある。
先日書いた、私にはさっぱりわかりませんという考えも、
この世界に深く食い込んでしまって
身動き取れなくなった自分を静かにほどいていく。
私はそれを選ばない。
そうつぶやくごとに、心が自由になっていく。
絵:「笠地蔵」
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