2022年2月10日木曜日

私はそれを選ばない


 


雪の気配がする。


布団の中でとろとろとまどろみながら、こんな考えがやってきた。


「ゆず大根漬けたけど、ご近所さんにもらった大根にちょっとすが入ってて、

それほど美味しくない。

これをあの人にあげるわけにはいかない。。。」


と、どーでもいいような悩みを、起きがけの私は悩んでいる。

その苦しさに心がもぞもぞする。


ゆず大根す問題は、恐れを呼び起こした。



最近思う。

恐れは、その恐れさせた問題を解決するために現れてくる感情ではなく、

恐れそのものを赦すために浮上するのではないか。


自我はその恐れを、この世界に意識を向けさせるために使う。

それを問題として捉え解決させるために。


けれども聖霊の視点は、この恐れを使って、

「もうその恐れは必要かい?今が手放す時じゃないのかえ?」

と、それを手放させるためのきっかけとして使う。



私は聖霊の視点を選ぶ。

恐れを選ばない。


恐れを解決するとは、恐れが実在する方向に向かわせる。

恐れるものは確実にそこにあるのだと信じさせる。


けれども恐れを選ばないとは、

恐れが実在するかどうかをきめるのは、

私だということ。


心に浮かぶ恐れの声に従っている限り、

私はいつまでたってもこの世界の被害者だ。


でも選ばない選択は、私はこの世界の被害者にはならないという宣言だ。

どちらを選ぶかという駒は私の手にある。


それは自分は弱い人間だという信念を解体していく。

誰かに虐げられたものではなくなっていく。




この世界は、足すことばかり。

あれをやってこれをやってそれをやってと。


でもやらないという選択、選ばないという選択は、

この世界に関わらないということでもある。


先日書いた、私にはさっぱりわかりませんという考えも、

この世界に深く食い込んでしまって

身動き取れなくなった自分を静かにほどいていく。



私はそれを選ばない。


そうつぶやくごとに、心が自由になっていく。




絵:「笠地蔵」


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