2017年12月31日日曜日

夢から覚める夢


夢を見た。

巨大なイノシシを散歩させている少年の夢。

その少年は、私にイノシシを預けて、どっか遊びに行ってしまった。
革ひもをもつと、ぶんとひっぱられる。さんざん振り回されて、つい手をはなしてしまった。いきなりどっかに走っていってしまう。

「しまったあーーー!」と焦ったがもう遅い。
ダメ元で名前を呼んでみると、ふいっともどってきた。

体長150センチ以上あるイノシシが、私に向かって突進してくる。
「うっひゃあ!」
だけど目の前でぴたっと止まって、カワイイ目でこっちを見る。
なでなですると、顔をなめようとする。もっと触ってと、寄りかかってくる。
しまいに横になって、腹を出す始末。
「イノシシの腹なでてるよー。。。」
とおもいながら、腹をなでなで。



目をさまして、ひとりつっこむ。
「ありえないだろ!」


夢ってさあ。朝起きたら、「ありえないだろー」って、思うようなことが、ふつーに展開する。んで、そこにいる私も、ふつーに「それはそーゆーもんだ」として、びびりながらも対応している。けっして、「これはどっかへんだ。。。。」とはおもわない。


そこから目をさました私。
はて。これほんと?
これもまた、目をさましたという夢を見ているのではないか?

これが現実だという証明はどこ?
どーやって証明する?
ほっぺつねる?つねったら痛いに決まってる。
で?それが証明?
ならねーし。

だって、あのイノシシの夢の中の最中も、引っ張られたら手が痛かったし、まったくもってこれが現実だと思って、疑わなかったのだもの。

夢を見ていた私は、今も夢を見ているのではないか?



その夢を見ている「私」はだれ?


2017年12月30日土曜日

「ここにいていいよ」といわれるために


悪戦苦闘していたアメリカの仕事を終え、ほっとする。

出来上がってみれば、大した仕事じゃない。
でもやっている最中は、ひたすら苦しい。暗中模索の中、出口を探す。
あるときふと何かが動き出す。トンネルの先にちいさな出口をみつける。
その後は、あっというまに出口にたどり着く。
今までの苦悩はなんだったんだ?と、あっけにとられるほどだ。

窓を開け、庭に出る。
裸足ではなく、くつ下のまま地面に足をつける。

寒空の中、ぼーっとする。
ぼーっとするというよりは、ほっとする。解放感というのか。
人はそれを求めて生きる。

安堵感。
それは、「ここにいていいよ」と言われている気がすること。

私たちはいつも何かにせき立てられるように生きている。
でも一瞬だけ、ぼーっとしていい時間がある。それはこうやって「ノルマ」をこなしたあと。

しかしそれも、ものの2、3分で消える。
次にやらなければいけないことが浮かび、またせき立てられていくのだ。

これは単に「やることがある」という理由だけではない。私の中に「このままではいけない」という何か足りない感覚があり、その不足感を埋めようとしている。そして次の仕事に取りかかり、また出口を探して苦悩する。やっと見つけ出し、たどり着き、ホッとする2、3分間。
たった2、3分間のためだけに、ずーっと苦悩するのだ。

私たちは、誰に「ここにいていいよ」と言われたいのだろうか。
一体、誰に。

そのことをさぐっていくと、自分以外の他人にいきあたる。
それは、時と場合によってコロコロと変わる。
親、パートナー、上司、子供、友だち、ときには飼っているペットにだって。
そして、神。




小さいとき、いい子でいて、親にほめられた。
問いの答えが正しく答えて、先生にほめられた。
道に落ちているゴミを拾って、ご近所さんにほめられた。

そのとき、心が嬉しかった。
ほっとした。
あ、私はここでいていいんだ。。。とおもった。
そして。。。。。

ここでいていいと思えるには、
「人にほめられることをすることだ」、とインプットをした。

一見いいことのように思える。しかしそこに一種の怖れが生まれた。

それは逆に言えば、ただ何もしないでいることはだめだ。
つねになにかしていないと、人にほめられない。
ほめられないと言うことは、
「ここにいてはいけない人」という強烈なインプットだ。


それは生まれて最初の頃身につけた条件付け。人の行動の基本にまでなって、深い深い所に根付き、簡単には見えてこない。

だけど、ただぼーっとしていると、だんだんお腰がむずむずすると言うか、心が次の何かを探しているのに気がつかないだろうか。
じっとしてはいられない何かを感じないだろうか。

電車に乗ると、ほとんどの人がスマホを見ている。
電車に乗っているあいだにも、何かすこしでも勉強を、
何かすこしでも情報を、
何かすこしでも楽しいことを、
手に入れようとする。

私たちはつねに「なにかしていないといけない」という衝動にかられている。

いいことがあると、「それは君がいい行いをしたからだよ」と言われる。
何気ない会話にも、それが現れている。



ほめられるために、
ここにいていよと言われるために、
そしておてんとう様に、
「よきかな」といわれるために、動き回っている。


それは自身の人生を、外に預けてしまっている。




絵:二宮和也の似顔絵/映画GANTZのニノ。


2017年12月20日水曜日

白いススキ


菊芋を掘り起こす手が荒っぽい自分に気がついた。
心が小刻みに揺れている。

それはサルがダイコンを食い散らかしていったのを見たからか。
それとも、さっきまで小さな葛藤を抱えていたことか。

作業をやめて、あたたかい缶コーヒーを買ってくる。
草の上に長靴を脱いで裸足で座る。
目の前の山の黒いシルエットをバックに、白いススキが冬の光をあびて光る。

心をじっと見つめる。
自分の感情を見るようになって、心がどんなふうに変化をするのかを見て来た。
そのため、内側からあふれてくる感情に、ずいぶん正直になっている。
その感情にただ気づく。なにもしないでただ見続ける。
ただそれだけなのに、それが何かしらの力が湧いてくるのを感じていた。



人は感情を、いい感情と、悪い感情にわける。
いい感情は受け取るが、悪い感情は受け取らない。
そうやって、えこひいきをしてきた。
私もそのうちの一人だ。

だが人生は、必ずしもいいことばかり起こらない。
だから悪いことが起こった時は、なんとかしてその悪い出来事や、悪い感情を回避したり、見ないようにしたり、逃げたり、ごまかしたりする。

でもその感情はなぜか居続ける。
消えたように見えたとしても、またあらわれてくるのだ。
どうしようもなく、受け取られない限りは、それはひょんなことでやってくる。



「悪い感情は、いけないことなのか?」
悪い感情、つまり苦しい感情は、受け取ってはいけないことなのか?

無意識に、この重苦しい感情をなんとか消すために、向かい合っている自分に気がついた。
それはまさにその感情に抵抗しているってことじゃないか。


「苦しくっても、いいじゃないか。
苦しいことの、どこがいけない?」
そうひとり言を言っている自分に、にやりとした。


目の前の白いススキがあいずちをうつように、ゆらゆらとゆれた。


絵:『ススキと秋の山』

2017年12月14日木曜日

Yes to life!


この動画を見て、はっとした。

すべてのことに「Yes」と言おうという。

自分の中に現れてくるもの。言葉、感情、感覚、そして自身の人生に対しての、
そのすべてに「いいよ」と言おうと、うながしてくる。



わたしは自分が自分に対して、どれだけ「ダメだ」と言い続けたか。

自身の作品への評価、生活態度への評価、身体への評価、考えへの評価、自分のクセへの評価、起こって来る感情への評価、過去への評価、未来への評価、、評価、優劣、判断。。
これもダメだ、それもダメだ、あれもダメだ、すべてダメだ。


ある日自分が『ダメ出しの王』だということを知った。

知ったからといって、「じゃあ、今日から出さなくなります」とはならない。
むしろ、ありとあらゆるシーンで、ダメ出しが行列をなしていることに、吐き気がしたぐらいだ。

「こりゃあ。。。。ある種、変態だな。。。」

どこでどう覚えたのか、「ダメだし」をすることによって、ダメな自分がよくなるという観念を持った。新種の宗教みたいなもんだ。『ダメだし教』

この宗教、最初に「あなたはダメ人間です」という、ありがたいお札をもらう。
そのお札を額に貼付けて、ダメだしチェックの念仏を唱える。
「これはだめだ。あれもだめだ。それもだめだ。ああ~ぜんぶだめだ~~」
と、唱える。
そーやって、かれこれ50数年念仏を唱えてきた。
実にありがたいお経だった。そのおかげでここまで生きてこれた。

が、それもここんところ効力をなくしはじめてきた。
ここにきて、それが自分に多大なる限界を作っていたことに気がつきはじめた。
浮かんでくる言葉、感情、感覚、すべてに対してダメを宣告し、自らの行動を小さくして来たのだ。

そして、冒頭の動画。

なんてことだ。
まったくま逆のことをやっていたではないか。。。

そしてそっと言ってみる。
「い、、、いえす。。。」
「い、、、いい、よ。。」

それからわたしは自分の中から出て来るありとあらゆる言葉、感情、感覚に、
「いいよ。」といってみた。

たとえ、それがえげつない言葉であっても、
「うん。それでいいよ」と。
仕事で失敗しても、
「いいよ」
ハラが立っても
「いいよ」

そっと心の中で言ってみた。

なぜだか、何かに大きく受容されているような感覚になりはじめた。
ホッとするような感じがやって来る。
それはまるで、どんなにイタズラしても、
「いいよ」と、微笑んでくれる何かがすぐそばにあるような、そんな安心感だ。




SNSの「いいね!」は、人からもらうもの。
じつはいくら外から「いいね!」をもらっても、
自分自身が、自分を受け入れてない限り、「いいね!」は、すーっと消えていく。
だからいつも「いいね!」が欲しくなる。



でも「いいよ」は自分で自分に言う。
「そう思っているんだね、それでいいよ」
「そう感じているんだね。それもいいよ」

きっとハラが立つにはハラが立つの理由がある。それを自分で認める。
きっとかなしいのは、かなしい理由がある。それを自分で受けとめる。

自分の中に、あったかいものがあふれてくるのを感じていた。




2017年12月13日水曜日

傷ついたその時、、、


だれかに何かを言われて傷つく。

心は、とたんに動き出す。

あらゆる言葉が、あたまの中をめぐり出す。
言い訳が始まる。
こっちは悪くないと言いはじめる。
そっちの方が悪いと言いはじめる。

心臓がドキドキする。
カラダが硬直しはじめる。
手が震える。
足も地面についている感じがしない。

あたまの中は爆走する。

言葉に出して言おうか、それともこのまま黙っていようか。
心とカラダは、攻撃と防衛を行ったり来たりする。

過去に似たことを思いだし、未来にまた起こるであろうことを想定する。

またこんなことを起こしてはならない。
どうにかして阻止しなければいけない。

今度は策を練りはじめる。
攻撃と防衛と、傾向と対策が、ものすごいいきおいでかけめぐる。

感情が頂点にたっするほど、不快が押し寄せてくる。

駄目だ。。。もうこれ以上、耐えられない。。。



そう思うその時、

ただその中にいよう。

爆走しているあたまの中の声を、ただ聴いていよう。
心臓がバクバクするのに、ただ気がついていよう。
カラダが硬直しているのを、ただ気がついていよう。
手が震えるのを、ただ観ていよう。
感情が不快を訴えているのを、
ただ「そう感じているんだね。。。」と、聴いていよう。

何も、何一つ、起こってくる現象を否定せず、
ただ、そこにいよう。
ただ、それとともにいよう。

そのとき、あなたは
その中にはいない。

くるしさのなかに、ただあるとき、
私たちの想像を超える何かに触れている。

そのとき何かが起こっている。


2017年12月10日日曜日

「わたしの」をとってみる


見えてみるもの、聞こえてくるもの、感触、匂い、味わい、
みんな、外にあるもの。
だから自分じゃない。

でもあたまの中で聞こえてくるもの、
こころの中で感じるいろんな感情、
かなしさ、うれしさ、いかり、いらいら、しっと、
そして考え。

それは自分の中から出て来るから、自分が感じた、
自分が考えたっておもってる。
じつはそれも自分じゃない。
だって、それも「観ている」からね。
観ているってことは、自分じゃないのさ。見えてるからね。


外側のものも、内側のものも、
みんなわたしのことじゃない。
じゃあ「わたし」はどこにいる?

どこ、なんて場所はない。
どこにもいないんかも(笑)。

ただ存在する感じだけがある。


わき上がってくる感情を、自分のものだと思うのをやめてみる。
「わたしのかなしみ」というところの、
「わたしの」をとってみよう。

痛みのあるカラダを、自分のものだと思わずに、
「わたしの痛み」といわず、
「わたしの」をとってみよう。

そこには、ただ「かなしみ」があり、「痛み」があるだけだ。

それを否定もせず、ただそれとともにいよう。


すべてのものは、現れてはやがて消えていく。





2017年12月7日木曜日

自我ちゃん自販機



寒い朝、布団の中で目をさます。

「おきよっかな?まだイヤだなあ。。。
起きる?いや。まだ、もーちょっと。。。
起きる?んーーーーと。。
あ、起きよっと!」

と、ガバッ!と起き上がる。
そのとき、ふと思った。

あれ?これ、「起きよっと!」って、思ったから起きたんかな?
ひょっとしたら、カラダが起きようとしたのを自我が気づいて、
「あ、起きよっと!」って、あとづけで言ったんちゃうか?
ってね。

自我は後だしジャンケンっていわれるけど、こゆこと?

最初にカラダの動きがあって、その後で、さも自分がやったかのよーに、
「わしが起きよーと思ったから、カラダが起きたんじゃ~」
と、いけしゃーしゃーというやつ。
どっかにそんなやついたよなあ。

えーーーー。
マジ?

そーいえば、なんで目をさましたんや?
どーやって目をさますんや?
自我が「自分」だとしたら、どーやって、自我が自分で起きるんや?
それまで自我は意識もなかったはず。。。

きっと自我に言わせれば、「わしが目をさましたんや!」と言うだろう。
けど逆だったら?
カラダが目をさまし、自我が動き出すとしたら、自我が自ら動いて目をさましたわけじゃないやんけ。

カラダが目をさまして、自我が自動的に動き出したんじゃね?受動的に。
まるで自販機が100円入れたとたんに動き出すよーに。

今日も自我ちゃんは、自動的におしゃべりしている。



2017年12月2日土曜日

心の中が暴れている


絶望と葛藤の中にいた。

なんでわたしがこんなことをしなけりゃいけないんだ!?

三十数年間の自分のキャリアがもたらすプライドが、現実と戦い合っている。

ふざけんなよ!

と、その場で投げ捨てることもできるかもしれない。

それをしないのは、勇気がないから?空気読まないといけないから?

だがそこでちゃぶ台をひっくり返すのは、その場でやって気持ちがいいだけのことをやろうとする幼い意識だ。

力づくは、その状況を覆す力がない。
物理的なものをこちらから変えようとしても、その場しのぎなだけで、また同じような状況がやってくる。

この私の中の何かが変わらないと、外の現象は変わらない。



心の中の自我は訴えまくっていた。
それをもう一人の私が聴いている。

もうやめてくれ。
たくさんだ。
イヤだ!こんな状況は耐えられない!
死んだ方がましだ!


「君は今、あばれているのだね。
いいよ。あばれても。」

そう、もう一人の私は言った。

心の中は荒れ狂った。
言いたい放題言いまくった。
ここで書けないようなことも言いまくった。

心はすさまじい嵐の中にいるのに、私の動きはいつもと変わらない動きをしていた。



不思議なことに、カラダは疲れなかった。
それは心の中の思いを、そのまま受けとめていたからだろうか。

人は心の中であふれてくる残酷な思いを、思ってはいけないと封じ込める。
悪いことを考えたら、悪い事が起こるというような、信念があるからだろう。

どっちにしろ、自分のことしか考えてない(笑)。
他人のために封じ込めているわけではないのだ。

そういうもろもろの信念がある故に、人は自分の中からわき上がってくる感情を無意識におさえこむ。
出ようとするものをおさえこむのだから、それなりに力を使う。
いや。かなり力を使っている。

もぐらたたきで、もぐら(感情)がひょっこり顔を出してくるのを、ぽんぽん叩いて封じ込めるが、そのうちいちいち叩くのが面倒になって、その全部を手でずっと押え続けているようなもんか?


私は私の中にある感情を正直にみはじめてから、いろんなことが起こっている。

生まれてからいろんな観念とともに生きて来た。それに気づきはじめると、玉ねぎの皮を剥くように、その観念がはがれはじめる。
と同時に、あらゆる感情に気づきはじめる。それは苦痛でもある。

こんなおもいまでもっていたのか!という、見たくない自分も見る事になる。
そして、自分とはこういう存在と思っていたものまでが、はがれ落ちはじめるからだ。

なじんだ性格、なじんだクセ、なじんだ感情、なじんだ考え。そんなものが崩れはじめると、元に戻ろうとする作用が働くらしい。それをホメオスタシスというらしい。

そういう苦痛の経過を受け取ってもらえる存在がいるのがありがたい。


どこに向かっているのか。
どこにも向かってないのか。
ただ思いだすだけなのか。

なにもわからない。
ただ、このまま進むのをうながされているのはわかる。










2017年11月30日木曜日

夜、裸足で庭に出る


寝る前に、窓を開けて裸足で縁側に座る。

冷たい大地と足の裏がかかわり合って、次第に暖かくなってくる。
夜空を見上げる。雲の切れ間からお椀型の月がのぞく。
目がしだいに慣れて来て、目の前の漆黒の闇がかすかな樹々の姿を映し出す。

私は深呼吸する。そっと目を閉じる。感覚の中に入る。
今どんな感じ?

ほおに当たるかすかな風が冷たい。
足の裏で感じる大地との感覚が、ちりちりする。
と、同時に、手の中もちりちりとしはじめる。
石の上に座ったお尻から背中にかけて、ジーンと冷たい。
でも膝かけの中の足はあったかい。

感情は?
わからない。
不安? いんや。
怒りは? ない。
さびしさは? ないなあ。
かなしみは? ちっとも。

では、しあわせ? う。。。わからん。
じゃあ、不幸せなの? それはない。
じゃあ、今の感情は?
わかんない。。。

何も感じないの?
なにも。。。
ただ、、、しずかなだあ。。。

その後ふとんに入っても、その感覚のままでいる。
この感情はなんだろう。
何も感情がないってことは、幸せなのだろうか。それとも不幸せなのだろうか。
そのどちらでもないのだろうか。

この感情は、何も名付けられない感情は、いったいなんだろうか。

しばらくは布団の中でその感覚のままいた。
そしてゆっくりと無意識に落ちて行った。




絵:「虎の尾」/和紙、水彩、オイルパステル


2017年11月29日水曜日

手応えない感じw


ここんところ、あまり更新できない。

なんかね。
微妙な変化がおこっているんだけど、それを言葉にすると、ウソくさくなっちゃって。
でもあえて言葉にしてみると、

そうか。なんでも、これでいいんだな。
ってかんじかな?

めっちゃ、手応えないってゆうか。。。(笑)



自分の中に次々とわき起こってくる、感情や言葉。

それが自分の中から出てきたものだから、自分が考えたと思いこんで、それに乗っかって来た人生。

そののち、それに振り回されている自分に「ん?」って気がついて、それを今度は観察すると言うことをし始めた。

そうすると、あるパターンがあることに気がつく。
いつも同じ感情や言葉がわき起こっていて、それに心が動揺し、それをなんとかしとうと焦って行動するというパターンに。

それに気がつきはじめると、それを感じる自分と向かい合うことになった。

心はいつもの感じで突っ走ろうとする。
しかし観察する意識が、その突っ走りを100%にしない。どこかでブレーキをかけはじめる。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいるかんじ。

キーキーと音をたてて、その場でバクソウする。
いや、時には、そのまま突っ走る。

そういう行ったり来たりが起こりはじめ、混乱する。動揺する。
そしてまた動揺する自分に気がついている自分、それら全部をひっくるめて、駄目だしする自分。

不快の中でもうろうとなる。
そういう時期をしばらく過ごす。

だが、じょじょになにかが変わりはじめた。
じょじょに。かすかに。ゆっくりと。

そして今は、そういう自分に、これでいいんかもしれない。。。とおもいはじめている。

生まれて来て、いっぱいいっぱい身につけて来た観念。
その観念をひとつひとつはがして行く作業は地味だ。
いや、はがしていくのではないなあ。
はがれていく、というほうがあってる。

ラフがうまいこと描けない。どうしよう。時間がない。
焦る自分。いつものように駄目だしする自分。

だが。
前の自分とはちょっと違う。
自我は、ただウソの言葉を発するだけなのだ。
事象は、勝手に起きている。
ことは勝手に進んで行く。

ことが進む過程で、あーでもない、こーでもないと言い続けるのが自我の言葉。
その言葉に乗っかって、「そうだ!時間がないのだ!」と、
そのまま鵜呑みにしておおさわぎをするのもいいし、
「あ、いつもの言葉ね」と、
気にしないで、ほっておくのもいい。
どちらでもいい。
そう思えてくる。
だって、ことは勝手に起こるだけなんだもの。

「自分」が何かしているわけじゃないんだもの。

ね?
なーんも手応えないでしょ?(笑)



2017年11月25日土曜日

ある朝



朝起きた瞬間、感覚の中に、わずかにひゅっと冷たい風が吹いた。

「あ。。。。」

ほんのわずかな瞬間だったが、自分がずっと持ち続けていた緊張、それが起こる瞬間をとらえたのだ。

この感じ。。。ちいさいときからあった。。。

それはこの社会に生まれて来て、一人で生きていかねばならない、一人で頑張らねばならない、という孤独感と、身震いするような緊張感。

どういうわけか、気がついた。

気がついたとき、もうそこにはいないことに気づく。
緊張感を外から見たからだろう。
その中にいると、気づくことはないのだから。



あの緊張感は、ぎゅっと固められるような、突き放されるような、寒い所に放り出されるような感覚。孤独な幼いつくしちゃんは、その吹きすさぶ嵐の中を、ひとり立ち上がって歩いて来たのだ。

非二元的に言うと、これこそが分離の意識なのだろうか。
それまで一体だった母親の胎内からでて、一個の独立した存在としてこの世で動き始めたその孤独感と緊張感。

それから間もなくして、この社会の形を知り、その残酷さと暖かさの両極を観る。
分離した意識は、残酷さの方に重点が置かれた。
この残酷さをどう乗り越えるのか。
この嵐の中でどう生きていこうか。
そう、必死で考えてきたのだ。

そう。まじめに。深刻に。この世をとらえてきたのだ。


だが、その深刻さが、だんだんゆるんできた。
この世は、そんな深刻な場所じゃないんじゃないか。。。そうおもいはじめている。

そんな矢先の、朝のあの感覚だった。




2017年11月22日水曜日

あたまの中の音を聴く



川の音を聴く。
あたまの中の声を聴く。

川の音は聞き流す。
でも頭の中の声は、聞き流せなくて、その声に乗っかる。

なんで?
それは「言葉」だから。
でも言葉も「音」なのにね。

「か、わ」という二つの違う音なのに、
人はその音を聴いて、川をイメージする。
時には靴をイメージするかもしれないが。

どっちも聞こえる。
けどあたまの中の音は、意味をもつ。
川の音には意味がない。
だから意味がある方に気がとられる。

外から「ばかやろう!」と、音が聞こえたら、
そくざにそこに耳を傾ける。

外から「ザーザー!」って、聞こえても、
ん?ておもうけど、
「雨か」といって、それを聞き続けることはしない。

ひとは「ことば」に気を取られる。
頭で鳴っているだけの音に、意味をもたせる。
そこに世界を広げる。

目の前にはパソコンの画面が見ええているだけなのに、
明日のことを思い煩い、
今どこかにいるだれかさんのことをきらっている。

あたまの中で、ただ鳴っているだけなのに。
あたまの中で、浮かんで来ただけなのに。
それが真実のように思えて、その中に入り込む。

川の音は聴かない。
頭の声は聴く。

そうやって、頭の中の声と戯れ続けている私たちがいる。




2017年11月8日水曜日

自我のトリセツ


あったかいお風呂につかる。

カラダを感じる。心臓がばくばくしていてるのを感じる。皮膚がぴりぴりとしているのを感じる。体全体に圧迫を感じる。と同時にちょっぴりの浮遊感。

皮膚とお湯との接触部分をかんじてみる。何かわからないけど、何かが何かに触れている感じはする。。。と、おもっていたら、
「あれ?熱は?あったかいはずなんだけど。。。。」
そこに熱はなかった。
あったかい、さむい、は、観念かのかもしれないとおもった。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とゆーではないか。

んで、感覚の中にいると、感覚って微妙なもんなんやなあ~とおもう。そのわずかななにかに、「熱い」という言葉を付けたとたん、そこに温度が生じる。「寒い」もそうだ。「寒い寒い」って、からだを震わせたら、もっと寒くなる。

私たちはこの微妙な感覚にアレコレ名前をつけた。その名前にいいとか悪いとか判断も付けた。そうやって、たくさんの言葉が私たちに生まれた。

あたまの中で動いているものは、言葉だ。
お風呂につかりながら、今日はああだったと思いだし、にっくきあいつの事を思いだし、明日どうしてやろうと策を練る。
はたまたこれから私はどうなるんだろう。。。と未来を心配する。

今、私はあったかいお風呂につかっているのに、心はここにいない。怒りや不安や嫉妬や焦りや悲しみなどの、不幸の中にいる。
今、そこに不幸があるのか?ない。なのに、心だけが不幸だ。

それが思考のしわざ。
私たちは考えの中に没頭する。
不幸を味わう。


その思考の仕組みを懇切丁寧に解き明かしてくれているブログがある。

自我、つまり思考の塊は、私たちにいろんな影響を与える。人生をドラマチックにするのは自我のおかげだ。

その自我は私たちの一部で、けして悪いものではないが、その取り扱い方をあまり自覚した事がないのではないだろうか。
そもそも学校でそんなものの扱い方を習った覚えはないし、ましてや親に教わった事もない。

思考は自分の中から出て来る事なので、自分が考えたと思うし、その思考は自分の味方だと思っているので、その扱い方などと言うことは考えた事もないのかもしれない。

だけどこれだけ精神的な問題が浮上して来ている今、私たちは自分の中でおこっていることが、いったいなんなのか、調べてみる必要があるように思う。

心の時代と言われてずいぶんたつが、今のところ、その共感だけにスポットが当てられているだけで、その自我がどんな動きをして、どんなふうに人に作用するのかをしらない。

そういうことをわかりやすい言葉で、やさしく教えてくれている。


絵:「バスタブとゴースト」ペーパーバック表紙イラスト