2012年3月31日土曜日

金曜最終便の世界

金曜日の最終電車の中にいた。家で仕事をしていると、そんな時間に電車にのることはめったにない。

私が座っている目の前に、サラリーマン風の兄ちゃんが立っていた。右肩に重そうな大きな鞄をかけ、ゆらゆらゆれている。その揺れは時に小刻みに、時に大胆に、私のひざにあたる、足を踏む。その大きな鞄はどんどん私の領域に入り込んできて、油断すると顔に当たりそうになる。おそるおそるみあげると、30代くらいの怖そうな顔の兄ちゃんだった。ふてくされて仕事に不平不満たらたらの寝顔がそこにあった。

そこまで眠いなら、席を譲って寝させてあげたい気もする。しかしあの顔が、私の声で目をさまして、「なんだなんだ」って睨みつけたらどうしよう。「オレは寝てなんかいないんだ」と逆切れされたらどうしよう。。。そう思うとなかなかいえない。
しかし彼の揺れる身体は、ほとんど自分をささえきれないほどになっていた。片手で鼻くそをへぞり金属のポールをもつかとおもえばまた手を離し、その手があらぬ方向に向けて宙を舞う。おどってるようにもみえてくる。
なんだかおかしくなった。

つんつん。
私はおもわず兄ちゃんのおなかを二回ついていた。
兄ちゃんは目を開けた。大きな目だった。
「眠そうね。どうぞここに座って」
と言いながら立った。
にいちゃんは、とつぜんのことにぽかんとしながら、
「あっ、すいません。。。」
とペコペコお辞儀をしながら座った。
感じのいいにいちゃんだった。
彼は座るやいなや3秒以内に爆睡状態に入っていった。

手からつり革が外れない様に自分の手首にぐるぐる巻き付ける人、二つのつり革をもち、器用に腰をぐるぐる回転させる人、がっくりうなだれても絶対つり革を離さない人、これ以上かがみ込めない程頭を下げて眠る人。。。

その中に怪しい動きをするおじちゃんがいた。斜め前に立っていた初老の人。自分の前の席が開いても決して座ろうとしない。酒のせいか、周りの人よりひときわ大胆に踊るおじちゃんであったが、一瞬その動きが止まった。何事かとみると、こっちの方を向いている。その目が何かを捉えたようだ。左手がこっちにむかってのびていた。その先に他の人の膝の上に乗っている黒い鞄があった。彼はその上になにかをみつけたらしい。そーっと差し出される手。ゆっくりなにかをつかもうとしている。鞄の上には何もない。おじちゃんは一瞬手を止めてそれをとるのをためらっていた。だが意を決してそれをつかんだ!
私はそのおじちゃんのそのあとの様子を確かめた。だが、おじちゃんは何もなかったかのように、またゆれはじめた。

金曜日の最終電車は、そういう人であふれていた。
久しぶりに見るその光景に、人はべつに不思議と感じないのだろう。だけど、これはおかしい。こんなに疲れ果てるまで仕事をしたり、こんなに泥酔するまで飲んでしまわなければいけない生活は、ニンゲンにとって必要な事なんだろうか。これが絶対的な価値観なんだろうか。

日本人はホントに働き過ぎだあなあ。。。
そんな事を思わずにいられない時間だった。
あの爆睡兄ちゃん。きっとまともに家には帰れなかっただろうなあ。

2012年3月26日月曜日

花粉症とトンネルビジョン


スギ花粉パフパフ舞い踊る今日この頃、みなさまにおかれましては、ますます花粉症のことと、おくやみもうしあげます。

よく晴れた昨日、目の前の杉林から、ぱっふ〜ん、ぱふぱふぱっふ〜ん。。。と次から次へと花粉が舞い踊っておりました。

石けんなし生活で、重度の花粉症がずいぶん軽くなったやまんばであったが、それでもまだこの季節になると目のかゆみ、喉のかゆみ、鼻水じゅるじゅるはやってくる。夜中に喉のかゆみで無意識に喉をかきむしり、何度も目が覚める。目のかゆさは薬局で買ってきた目の洗浄液を水で薄めて目を洗う。
これは治ったと言えない。

基本、人間の身体に薬はいらないんではないか?と考えるやまんばなので、洗浄液を水だけにする。水だけで目を洗ってみる。一瞬すっとするが、そのあとのかゆみが激しい。

こんどは、喉のかゆさをどうにかしなければいけない。だが、喉は水で洗ってもしょうがない。イソジンのうがい薬を使うのがいいが、それだって、一時のかゆさの和らぎであって、「なおった」わけではない。

夜中、喉のかゆみで起きた。口を開けて寝ていたために、喉がカラカラになっている。喉を潤すにはよだれがいると気がつく。
「あ、うめぼしだ」
冷蔵庫から梅干しを出してくる。見ただけでよだれが出る。それを食べてみる。よだれと梅干しが合体して(これ書いている時でもよだれが出る)、まあ、なんとかいいかんじ。だけど、どーも何かに頼ることが気に入らない。人間、そのまんまで生きていけるんではないか?という仮説により、梅干し食べずに、梅干しを思い出すことにする。するとその度によだれが喉の中に溢れ、喉のかゆみを消していった。
そのうち、梅干しをわざわざ思い出さなくても、喉がかゆくなると、自然と唾液が口の中に溢れるようになって、かゆみが消えるようになった。
なんだ、人の身体ってうまいことできてるじゃん。

では目のかゆみはどーするのか。水で洗ってもきついので、何にもしないことにした。

どうも人間は「起ったこと」に「反応する」性質を持っているらしい。それは動物的反応とも言えるかもしれないが、それより人間の世界の中で作られた「条件付け」による反応なのではないかとフんでいる。だって、その昔「花粉症」なる病いはなかったはずだ。いやいやソウデはない。戦後セーフが民衆を駆り立てた杉苗植え政策のせいでものすごい杉が増えたからだとも言うし、いろんな添加物を食べているせいでアレルギー体質になった身体とも言う。ひえが原因だとも言うし、肉食のせいだとも言う。

その原因や結果はどっちでもいーのだ。ようするに、やって来た症状に反応する、という性質が、「これではいけないのだ!」というリアクションを生む、ということなのだ。(ややこしい?)それがあれやこれやの薬を作ったというわけだ。その結果、いろんなアトピーも生み出した。何かをしなければいけないと思い込むことによって、身体の英知のバランスまで崩させているということなんではないか?

んで、そのリアクションをやめてみる。
目のかゆみがやってくる。ほう。やってきたかい、かゆみさん。どれ、どんなふうにかゆくなるんだい?
(わらわらとかゆみがやってくる)
おお、そうきたかい。それから?
(わらわらしたかゆみがもっとつよくなる。ここでそのかゆみにのってはいけない)
おおーっ、きたねえ。
すると、そのかゆみがぐわーっと熱をおびてくるのだ。目の中全体が熱い熱を帯びる。それがピーク点になって、そこからいきなり熱もかゆみも収まって、かゆみが消えてしまうという現象を目の当たりにしたのだ。

きっと目の粘膜は、何かしらに反応をしている。しかし身体の自然治癒エネルギーがそれを治していくのではないか。あの目の中におこる熱い熱は、何かとてつもない英知が含まれているように思う。ちょうど風邪を引いたとき、風邪のウイルスを殺すまでの熱の温度が身体に溢れるように。

人間の身体はひょっとしたら、あらゆる条件に、あらよっと乗り越えて、臨機応変に生きていくことが出来るスーパーマンなんじゃないか?そのスーパーマンをただのちっこい気の弱い生き物に変えてしまったのは、トンネルビジョンを一大事のようにメインテーマにしちまったからなんじゃないか?トンネルビジョンは、狩りをする瞬間と、恋愛する一瞬だけに使えばいいのだ。


絵:「本当のモテ期は40歳から」MF新書 おじさんに朗報です!これ、マジらしい。

2012年3月21日水曜日

無駄なテイコーはやめろ!ってか?

否定する。抵抗する。嫌う。
その対象になるものは、それをすればするほど育っていくようだ。

自分の顔のシミがきらい。そこをなんとかしたい。そーすると、その事が気になって気になってどんどん大きくなる。実際大きくなるのではなくて、心の中にそのシミに対する思いが大きくなるのだ。だからその存在がますますイヤになる。なんとか取り除きたい。ああ〜〜っ、このシミさえなくなれば、わたしはマイナス5才肌になるのに!

ところがその人のスタイルはとっても良かったりする。でもそれを気にする事はない。なぜなら、その人にとって、スタイルはどーでもいーことなのだ。


ウチの母は、足が気になって気になってしかたがない。ああ、この足さえ早く歩けるようになったなら!と考えれば考えるほど、事の問題は大きくなり、彼女の人生の最重要課題となり、四六時中それに集中する。

さて、先日彼女の健康診断があった。
「お医者さんがねえ。あたしの内臓はどっこも悪くないってよ。特に腎臓なんか、すごくいい!普通この年になったら必ずどこかがいたんでいるはずなのに、ナ〜んにもなってない。健康そのものだってえ〜。」
という。
はいはいそーでした。彼女の身体の中身はすごいのだ。内臓の働きはもちろん、骨にいたっては、骨密度40歳代。何一つ悪いところがない。筋肉もいたって普通。
なのに歩けない。先生は首を傾げる。どっこも悪くないよ。なんで歩けないの?


どーかんがえても、彼女の思考になにかがあるようにおもえてならないのだ。
歩くのが遅いのだ!という思考に。これは自分の歩き方を否定し、抵抗し、その葛藤がよりその事を大きく見せているんではないか。そのトピックは彼女の心の中のほとんどを締めている。それは、巨大化した問題意識のためだ。
だがそれとは対照的に、内臓に関しては全く問題がない。

ここでやまんば勝手に妄想論。
これは、彼女が「あたし別に内臓に感心ないもん」と思っているからなんではないか?

大自然は美しいバランスに満ちている。全ての動きが、日々刻々と大きなうねりを持って変化する。その営みは完璧だ。人間の身体もこの大自然と同じものなんではないだろうか。全てが完璧でバランスに満ちている地球の身体。
それを無秩序にしているのは、単に人間の思考なんじゃないか?何度も聞かされる彼女のその極端な現象からおもいはじめた。

彼女は内臓や骨には感心がない。だって、誰にも
「あなた内臓遅いわね」
と言われていないんだから。

否定するところがない。彼女の内臓に関しては、自分の中に葛藤がないのだ。だから大自然である内臓は、美しいバランスをとってひたひたと働き続けているんじゃないだろうか。つまり思考がその内臓に向けられていないのだ。これって。。。


「アタシの内臓は弱いのよ〜」
と思っている人がいるとしよう。常におなかが下らないように気をつけている人がいたとしよう。その人の心もまた、「これ食べたら、おなかこわれるかしら?じゃ、あれたべたらどうなるかしら?」と思い続けているとどうなるだろうか。
または、太る事を気にしている人は「あれ食べたら、またふとっちゃう!」といい、どれ食べるかいつも気にしているとどうなるだろうか。
やっぱりその事だけが大きく心の中で存在を放っているんじゃなかろうか。

否定が起る。その否定するものに抵抗する。それが常に気になっちゃう。気になっちゃうものはでかくなる。でかくなると、ますます抵抗する。
すると完璧に動いているものがバランスを崩す。それは思考が大きく影響をしているとしたら。

これ、何にでも言えるような気がする。
気に入らないヤツがいる。気に入らないからどっかに行って欲しい。どっかに行って欲しいと思えば思うほど、そいつはますますこっちに寄ってくる。お化けが恐い。こわいと思えば思うほど、ますますこわくなる。花粉症になりたくない。なりたくないと思えば思うほど、症状がでかくなる。トンネルビジョンはここでも炸裂する!

全ては葛藤から来ているんではないだろうか。
葛藤は、今あるそのままの状態ではなく、「こうあって欲しい」という願望を含んでいる。ではその願望はどうして来るかと言うと、否定があるからだ。

否定はあらゆる混乱を作り上げていく。葛藤が心にある限り、大自然の流れである身体の働きも、また人間関係も、乱れていくのではないだろうか。
すべては心が作り上げている。その心が混乱を助長しているとしたら。

私たちは本来、あるがままでいいんではないだろうか。ワイドアングルビジョンのように。
そろそろ否定をやめてみるってえのどうだ?
無駄なテイコーは止めろ!ってか?

2012年3月20日火曜日

否定の快楽



「これがいけないんだ!」と思う気持ちは、「自分」という存在をはっきりと自覚させてくれると思わないかい?
ここにどうも人間の快楽がひそんでいるようだ。

こっ。。これは一種の変態じゃねえか。。。
オレって駄目な奴と思うのも、一見「よく反省するいいやつだ」と、ソンケーされそーが、そのうしろに自分をいじめてうれしがっている別の顔があるのだ。
それって、S?それとも、M?(いや、SとMは結局同じものなのかもしれない)

「いやいや、そーではないのだ。オレは自分をいじめているだけまだマシなのだ」と言うかもしれない。しかしその皮を一枚ピロッとめくると、
「ああっ、いまオレはオレを実感してるんだあ~」
と、自分というものを強く味わわせてくれるアイテムなのだ。(うほっ。そんな快楽があったんかい)


この世に生まれてきて、はじめて「わたし」というものを意識したのはいつだろう。
目の前に動いている存在がいて、それがこっちを向いている。そしてこっちにむかって、何度も三つの音をくりかえしている。
「ケイコ、ケイコちゃん」
「つよし、つーよーしっ」

どうもこっちにいる存在とあっちにいる存在があるらしい。そしてこっちの存在はケイコという音で呼ばれているらしい。とおもいはじめる。だから「ケイコ〜」と呼ばれると、繰り返し聞いた音だから条件反射のように振り返る。そうやって、なるほど、この存在はケイコという音らしいとわかる。

だがある日「ケイコ!なにしてるの!だめじゃないの!」と言われた瞬間、それまでぼーっとしていた存在が、今までになかった反応をする。ぎょっとするのだ。全身に鳥肌が立って、強いエネルギーを感じるのだ。

そうなのだ。
それが自分というものを強く意識した瞬間なのだ。そして自分と他人、自分と別の存在、というふうに、突き放された感覚になる。ここから分離が始まる。


否定は分離を引き起こす。同時に、違いを感じる快楽ともなる。それはある意味でトンネルビジョンの始まりなのではないか。
政治批判も、他人批判も、自分批判も、自分という存在を強く意識をする。反対運動が盛り上がるのは、今それに反対している自分を強く意識できるからだ。賛成運動が盛り上がらないのはそのためだ(そんな運動あったっけ?)

そしてそれをだめ押しするかのように、お姉ちゃんを見習いなさい、ナイチンゲールのようになりなさい、と誰かのようになれと教え込まれる。私たちはつねに自分を否定する事によって自分を意識し、外をまねろと言われるのだ。そしてお姉ちゃんのまねをすると、「あら、ケイコ。えらいわねえ」と頭をなでられるのだ。

自分でないものになるために努力をするとほめられる、という歓びを与えられるのだ。

なんてえこったい。


絵:「セクシイ仏教」MF新書表紙 出た!人気シリーズ「セクシイシリーズ」!まさか仏教まで出て来るとは。おそるべし。MF新書!
「仏さま、煩悩がなくなりません。。。」

2012年3月17日土曜日

自分を否定するところから始まる努力

「あたしはこれではいけないんだ」
というのが、努力の始まり。
だけど、それが場合によっちゃ悲劇を呼ぶ。いや、喜劇かもしれんが。

「じゃあ、あたしはこれでいいんだ!とおもえばいいんじゃないの?」
というかもしれない。だけど、問題はそこ。これじゃいけないんだったら、あっち。というふうに、あっちかこっちと、人はすぐ反対の事を思いつく。これじゃ意味がない。また同じところをグルグルまわるだけになる。

そうではなくて、そんなふうに人の心はクルクルする。いつもあっちこっちとうろうろするだけなのだ、それはしょせん同じコインの裏と表なのだと知ることなのだ。

やまんばだけじゃない。この世の人々は多かれ少なかれ自分を否定している。それはほとんどが、
「おまえはこれだからだめなんだ」とか
「ほら、やっぱり三日坊主じゃないか」とか
「ヤーイ、このブス!」とか
「お姉ちゃんを見習いなさい!」とか
「お父さんとおかあさんがいっつもけんかするのは、あんたのせいよ!」
とか言われて来たからのようだ。

ちょっと大きくなって来たら、
「諸君!(古い)A君のように、みんなもなりなさい!」
といわれ、社会に出ると、
「キミ、ちょっとは成績あげてくれんかなあ。ウチとしてもこのままキミを置いておくわけにはいかんのだよ。」
と上司にいわれる。

すると「ああ、おれはだめなんだ」となる。
そこには成績を上げていないという事実があるだけ。だから上司は成績を上げてくれと言っているだけなのだ。なのにそういわれると、まるで「お前はダメな人間だ」と、自分を全否定された気分になってしまうようなのだ。
ここ。ここがみそ。

ここでワイドアングルビジョンになっていると、「上司はその部分だけを指摘している」事を淡々と理解できる。つまり、そこには「感情」が伴っていないのだ。

ところがトンネルビジョンになっていると、
「ああ、結局おれって、なにをやってもだめなんだ。。。。」
と、感情が揺さぶられ、昔失敗した事をつらつら思い出し自己嫌悪する。もちょっとたつと、今度は自己憐憫になって自分をかわいがる。(おーい。仕事の話はどこへ行った?)

それをやっている自分を、今、まさにそれをやっている自分を「みる」ことなのだ。
みることは、肯定も否定もない。ただみるのだ。

ポジティブ志向、プラス志向っていうのがあるけど、自分にいくら「アタシって美人!」って暗示をかけても無理。その無理してそう思い込もうとするところのうしろに、「ほんとは違うんだけど。。」という怖れがひそんでいるからだ。

それがいけないならこうする、という発想が有効なら、ここまでハウツー本は世の中に氾濫していない。簡単にプラス指向や自分を肯定する事が出来るんなら、ここまで自分に振り回されないはずだ。だが現実は?おもいっきり自分に振り回されてる。

それは自分を否定するところから始まっているからだ。

2012年3月16日金曜日

トンネルビジョンは思考の中にもひそむ


母は、(こないだのつづき)つまり、トンネルビジョンをやっているんじゃないだろうか。先日ふれたインディアンの視点の話になんか通じている。それは単に物質を見るということだけじゃなくて、心の中の思考の世界もまたおなじことなんじゃないだろうか。

これがいけないんだ。これさえなくなれば、私はしあわせでいられる。
だからこれをなくす努力をすればいいんだ。

だがこの世はそれだけが独立してあるわけじゃない。あらゆる事が共鳴しあってかかわり合って存在している。その事だけを抽出してコトが済むという考えは、狭い視野なのではないか。そしてそれこそがトンネルビジョンじゃないのか。

頭が痛い。この頭の痛さをなんとかして取ろう。そうだ、アスピリンを飲めばいいんだ。
そうやって私たちはその場しのぎの対処法をとる。だけどそれは頭の痛さを感じなくさせただけで、どうして頭が痛いのか、なぜ頭が痛くなるのかという事の始まりをみようとしない。痛さだけ取ればいーのだ。からだの中がどんな状況になっているかは後回しにされる。
次第に一個では効かなくなり、だんだん量が増えて、大量の薬が必要になる。そこから逃れられなくなり、薬に依存するようになる。。。。そのうち身体の様子がおかしくなり。。。。
そもそも頭が痛かった原因はどこへ行った???


私たちは努力をする事が好きだ。試験に受かるために努力をする。それはそれで大事な事だ。だけどその努力はオトナになってもあらゆる事に向けられている。別に試験があるわけでもないのに、お肌をきれいに保つ努力をする。マイナス5才肌になるために努力をする。近所の人に悪口言われないように努力をする。もしもの時のためにお金を貯める努力をする。
これは『他人の目高校』というお受験のために努力をしているんだったりして?

努力するとは、その背後に「そうでない自分がいる」というものをはらんでいる。こうありたいのに、そうでない自分を嫌っている。
マイナス5才肌の努力は、あるがままの自分を否定し、抵抗し、単に今そこにある自分自身をみようとしない。
それはこうあるべきだという条件づけをもらってしまったからだ。
「お肌はマイナス5才肌がいいのよ」という条件づけ。

これって、ものすごく抽象的な言葉じゃない?漠然としてて意味もない言葉。
なのにその言葉によって、「今の自分は恥ずかしいんだわ」と思い込んでしまう。
これは母がもらった言葉の効果に似ている。「あなた歩くの遅いわね」

「マイナス5才肌」「歩くのが遅い」
どれも具体的なものがない。なのにその言葉に引きずられて、「あたしはこれではいけないんだ」とおもってしまうのだ。

(世の中プラス思考ごのみだから、このさい「プラス5才肌」ってのどや?)


絵:MF新書「心が折れない部下の育て方」表紙イラスト
  『現代型うつ病』の部下をもつ上司のための本です。マンガ入りでわかりやすく。

2012年3月12日月曜日

努力の呪縛

やまんばは、思考があらゆる事に影響を及ぼしているのではないかとおもったのは、母のことからだ。

母は今身体が動かない。家の中で窓際から台所にいくまでも、ふすまにしがみついたり、柱にしがみついたり、椅子にすがりついたりしながら、つたい歩きをしなければいけない。
彼女は私が小さい時から「私は歩けない」といってきた。とはいえ、歩けないのではなく、ゆっくり歩く人だった。ではいつ頃から「ゆっくり歩く人」になったのか。それは、彼女が社会に出て働き出してから、同じ部署の人に、
「あなた、歩くの遅いわねえ」
といわれたときからだった。

つまり、彼女が「歩くのが遅くなった」のは、人から「歩くのが遅い」といわれ、その時から「私は歩くのが遅い人間」というレッテルを自分にはったときからだ。

もしこのとき
「あなた優雅に歩くわねえ」
と言われていたなら、事態は変わっていただろう。「ああ、私は優雅」といって、歩く事にさほどの意識をもたらさなかったのではないか。

ゆっくり歩く事は「いけないこと」ではない。捉え方によっちゃ「優雅」なのだ。だが同じ部署の人に言われた言葉は、「いけないことなのだ」とおもわせてしまった。
言葉は破壊的だ。その言葉が一生彼女の頭についてまわる事になった。
だから、彼女は「私は歩きが遅いから、早く歩かなければいけない」と思い込んだのだ。

「朝、布団の中で目をさますやろ?そしたら、『さあ、ちゃんと歩けるかね』って、自分の足をさするがよ」
彼女が電話の向こうで話す。もう何十年になるんだろうか。彼女が常に足を動かす事を意識し続けているのは。この足が、この歩きがと、ある時は足を怒りながら、ある時は叱咤激励しながら、そしてある時は「ありがとうねえ」となだめながらつきあってきたのだ。

その結果はどうだ?
果たして彼女は早く歩けるようになっただろうか。
彼女は今77才。つたい歩きをしなければいけない「年齢」なのだろうか。いや、ここ高尾山には、お年寄りが多く山に登りにくる。彼女より年上で、高尾山の頂上どころか、もっと遠くまで歩いていく。

「努力する人」の心理は、その後ろに「努力しなければひどい事になる」という恐れをはらんでいる。恐れは人を硬直させる。「あんな風にならない」ために、必死で努力する。足を叩き、足をもみ、足をなで、足を練習させ、足に話しかける。彼女の何十年の「努力」は報われたのか。

むしろその「努力」が彼女の身体をより硬直させ、重たくし、ますます歩けないように持っていったように見えるのは、私の勘違いなのであろうか。その「努力」なくしては、今頃とんでもない状態に入っていたんだろうか。

やまんばには、どうしてもそうはおもえないのだ。

2012年3月7日水曜日

ワイドアングルビジョン



ワイドアングルビジョンって名前つけちゃってるけど、べつにインディアンが自分たちでそう呼んでいたわけじゃない。それを見た白人が『彼らはそんな目で物事を見ている』と気がついたのだそうだ。

20世紀初頭に撮られたエドワードカーティスのインディアンの写真集をみてもそうだ。彼らの視点はどこにも定まっていない。

「あの子も昔はワイドアングルビジョンだったんだけどねえ。今はもうトンネルビジョンになっちゃった」
と、その友だちの彼氏はいう。
近所になかなか目の鋭い男の子がいる。その子は前はインディアンのようなワイドアングルビジョンの目だったという。ところが最近はすべてにピントを合わせるようになってきたそうだ。

「そりゃあそうだ。だって、やれよそみするな、この黒板見ろ、その教科書見ろって、つねにピントを合わせることを先生が教えているんだもの」
なるほどー。

インディアンにとってワイドアングルビジョンは、生きるために絶対必要なことだった。焦点をあわせないとは、(意識的にあわせないのではなく、結果的にそうなっている状態)、全神経に意識が注がれている状態のようだ。遥か遠くにいる動物がうんちしているのもわかるし、危険が迫っていることもキャッチする。身体全部が五感以上のセンサーになり、後ろのものまで気がついている。
あれ?うしろのもの?なんかサムライの話にも通じてるなあ。。。

しかしその反対のトンネルビジョン(一点をみること)になると、何も見えなくなってくる。(見えているのに見えないとはこれいかに?)だからトンネルビジョンはできるだけやらないようにするのだと言う。ちなみにそうなるのは、狩猟のときと恋愛の時だけだそうだ。

しかしなんだなあ。
わしら現代人は、インディアンにいわせると、ほとんどトンネルビジョンじゃないか。おまけにワンセグやスマホや、えーとなんだっけ?なんだかわからんが、とにかく、ちっこいもんに集中するようになっちまった。これ、トンネルどころか、ピンホールビジョンじゃねえか!

そーいうちっこいもんに集中することが多くなると、ほれ、やまんばの一人勝手に妄想論が炸裂する。焦点が合うと思考が始まるのだ。

今、武士道みたいなもんがはやっているが、それこそ日本人版ワイドアングルビジョンやってたんじゃないかえ?それが宮本武蔵のいう「観の目」だったんじゃないだろうか。

いや、単に焦点合わせなきゃいいんだろって話ではなくて、観の目とは、思考が止まり、すべてのものに反応している状態、そこには自分も他人も山も動物も何も境目がなく、全体がひとつになって、すべてが感応しあっている状態のことをいうんではなかったんだろうか。それはすなわちすべてが「わかる」状態。。。

反対に「見の目」は、いつもその目に見えることをだけを考え、それは自分中心的な視点でしかなく、結果的に狭い自分のものの見方しか出来なくなるんではないんだろうか。それは破壊的でかぎりがあるから、インディアンはあえてそれをするなと言っていたんではなかったろうか。
そして宮本武蔵も
「ほれ、その目、その目を弱くしとけ」
と言ってたんではなかったんだろーか。

わしらも小さいとき、誰に教わることなく使っていたんだろうな。
それが大人になるに連れて、何かに集中することを教わって、見ることばかりにやっきになって、ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけないと、目先のことに右往左往し、いつのまにか、大事な観の目を忘れていったんじゃなかろうか。


絵:うっとおしい顔やろ?私の腐れ縁の友だちの顔です(笑)

2012年3月6日火曜日

思考は焦点を合わせると動き始める


「観の目強く、見の目弱く」という言葉がある。宮本武蔵だったっけ?
目の前にあるものを見ることでは浅くしか物事を捉えられないが、観の目でみると、物事の本質を知ることができる、というものらしい。

とかく人は物質的なものにすぐとらわれる。目の前にいる人の話を聞きながら、
「あ、この人、鼻毛でてる。。」とか。(そこ?)

観の目とは、心の目ともいわれるけど、さて、どうやったらその心の目で見ることが出来るんだろか。観光の観だから、旅行気分で見ればいーんだろか。(そこ?)

やまんばは考えた。
気がつくとやまんばは、いつも目の前にあるものにピントをあわせている。

ほげーっと、意味もなくコーヒーカップを見ている。するとコーヒーカップから、連想ゲームが始まる。
「コーヒーねえ。。。あ、コーヒー豆なくなってきたなあ。。。ふじだなさんにいかないといけないなあ。。(ふじだなさんとは近所のコーヒー焙煎店)ふじだなさんといえば、Aさんと久しく会ってないなあ。。。ああ、そーいや、彼に悪いことしちゃったんだよなあ。。。あたしって、なんて気が回らないんだろ。。。あんとき、あーやっておいたら、彼も傷つかずにすんだのに。。。ああ、、あたしって、ホーンとにバカ。。。。だいたい、あたしったら、全然人に気を使わないんだよね。。。いや、これでも気を使っているつもりなのよ。気を使っているつもりなんだけど、やっぱりねえ。。。根がアホだから、ここっていう時に。だめなのよー。。」

と、一人妄想がひたひたとおこなわれている。
つまり思考というものは、何かにピントを合わせると、自動的に思考が始まるんじゃないか?と思ったわけだ。んで、ためしに、どこにもピントを合わせないようにしてみる。。。。
すると、、、
思考が動かないのだ。
面白くなって、川っぺりの道を歩きながらやってみた。(良い子はマネしないようにね)すると、全体が見渡せるようになる。足下に石があってそれをよけるように歩いたり、いつもは見えなかった木に、機械できれいにきったみたいに丸い穴があいていることなど、ピントを合わせて歩いていたときより、いろんなことに気がつくのだ。

それに自分の手や、足や、動作の動きや鳥の鳴き声や、川のせせらぎがいつもよりはっきり聞こえて来る。そして思考が動いていなかったのだ。

なんで?
ひょっとしたら、これが「今を生きる」ことなのか?刹那を生きるとは、一瞬一瞬を「生きる」ことだ。それがほんの少し垣間見えたような気がした。

近所にすむインディアンに詳しい友だちが言っていたなあ。なんだっけ?なんか似たようなこといってたなあ。。。。電話して聞く。
「ああ、それ、ワイドアングルビジョン。」

2012年3月2日金曜日

これまずいの?うまいの?

ついに買っちまった。パンこねこね機。
色々ある機械の中、まよってまよって、ニーダーってヤツを買う。
白いボールの中で、くるくるまわるパン生地。ジトーッと眺めていると目が回る。それがおもしろくていつまでも覗き込んでいる。

なーんにもする事がない。小麦粉やらの材料を投げ入れるだけだ。
あの生地と格闘したドッタンばったんやっていた頃が懐かしい。
ああ、あれは遠い昔のものがたり。。。しばしおもひでにふける。。

色よく焼き上がった山食パンをかじる。

。。。まずい。。。

え?まずいわけないじゃん。

も一回かじる。

味がしない。。。

ええええええ〜〜〜〜〜っ、なけなしの金をはたいてかったのよん。まずくってどーーーするのーーーーっ!

「これ、かんぺき」という配合の山食パンの材料を、いつものように入れた。だけど、手でこねこねしていた時とまるで味が違って、ダンナに言わせると「よそ行きの味」だそう。
これは。。。。まるで、、、パン屋さんの、、、味だ。。。。
がーん。

するってえとなにか。なんでこんなに味が違うかと言うと、よーするになにがちがうかというと、おそろしーことに、、、、言いたかないが、、、、、やまんばの、、、、手垢が。。?。。。。入って。。。いたのだろうか。。。。わたしゃ、自分の手垢をうまいとおもっていたんだろうか。。。。

今までやまんばのパン食った人、すいませんでしたーーーーっ!
これでもちゃんと手を洗ってやっていたんですっ。。。

それともいわゆる「気」が入っていたのだろうか。いやいや、それはまるですぴりちゅあるさんじゃないか。
でもそーすると、こねこね機に「気」でも送るとうまくなるんだろうか。。。(どーやって?)

キッチンに鎮座ましましているパンこねこね機さんを横目で見ながら、
「はて、こやつとどー付き合おうか」
と、シアンクレール(キャー、懐かしい京都のカフェ)なやまんばであった。


追記:
イースト菌をぐっと減らして、一晩かけてじっくり発酵させてみた。今出来上がったアンパンは、グッドな味がした。
やっぱ付き合い方かもしれんなあ。。。