2010年10月31日日曜日

やさしさの押し売り




いじのわるいやまんばは、さいきんおもうのだ。
このペットボトル一個買うと、どこそこの貧民国に住む人々に物資が与えられるとか、このケーキひとつ買うと、恵まれない子供たちに愛が供給されるとか、車一個買うと、もれなく砂漠化した大地に木が一本植林される、なんて言う商品のCM。
なんだかねえ。やまんばは、そーゆーコマーシャルを見るときもちがわるくなるのだ。
「まあ、このペットボトルをあたしが買えば、貧しい人々が喜ぶのね!ああ、さっそく買ってあげましょ。私って、ホントにやさしいわあ」
となるのかねえ。

ちまたではなんとな~く、やさしくしなければイケナイ傾向がただよっている。人にやさしく、弱いものにやさしく、地球にやさしく、ついでにアメリカにやさしく思いやり予算。

災害にあったどこそこの国のことが心配です。お知り合いになった農家の方の地方の天候が心配です。ああ、心配心配、そんな心を寄せる私ってやさしい。。。
その一方で、子供の先生に腹を立てて許せない。ついでにダンナも許せない。

遠くの人を心配してやさしい気持ちになり、近くの人間に牙を剥く。やさしい心は距離が必要なのか。自分の身に関係ないものには愛をたんまり捧げられる。だが自分の身に危険が及ぶと攻撃する。

コマーシャルは、人の良心に訴えて来る。これを出来るあなたは「やさしい人」。と引き込んで来る。人間の良心をくすぐるのだ。地球温暖化の話もそうだ。人間が出すCO2が原因だから、あなた、なんとかしなさいと。桁違いに排出される工場は優遇されて、一般市民にC02を出すなという。市民は「地球のためだから」と思い込まされて、電気を消す、節約する、息を止める。無茶だ〜。

「やさしく。。。やさしく。。。」と洗脳されると、無意識にやさしくしなければと思う。そうすると表にはっきりあらわれたやさしさの行為がしたくなる。冒頭のコマーシャルの商品を買いたくなる。エコキャンペーンで省エネの冷蔵庫も買いたくなる。(洗脳、成功)

「地球にやさしくすること」はエコキャンペーンに乗ることだから、冷蔵庫を買う。本音は、冷蔵庫は新しい方がいいし、今買えばお得だから。
でも頭では「いいことしている」と納得しようとしている。だから子供にも「地球にやさしくしているのよ」という。するとまにウケた子供が、「きのう、ママは冷蔵庫を買って、地球にやさしいことしたんだよ」と、学校で発表する。先生は「それはいいことをした」とみんなでほめる。その子は、そう思い込んだまま大人になる。こわくね?

本当に自然にやさしくと思うなら、そんなもん買わないがほうがいい。冷蔵庫一個作るために排出されるCO2はどれだけ莫大か。だがC02を出さないことが地球にホントにやさしいことなのか?

そういうへんちくりんな「やさしさのカタチ」が今の世の中ひろがっている。
今買えばお得だから買うという、単に欲のある行為を「地球にやさしい行為をしている」と置き換えてしまっているのだ。「私って欲深いわよね〜。ははは〜」と認めちゃばいいのに。
そしてなお悪いことに、子供にまでその行為を「いいことをしている」と教えている。
それは遠くの人には愛を与えられるが、近くの人とは憎しみあう行為とあまり変わらない精神構造ではないか?憎しみ会う心がある分、他に愛を注いでバランスをとっているのか?それはほんとのやさしさなのか?

道で手かざしをして愛をくれる人がいる。本人は本気で愛をくれているのだろう。けれどもそれを素直に受け取ることができないのは、そこに何か別の意識を感じるからではないだろうか。

やさしさは表に「どうだ!これがやさしさなのだ!」と現すものではなく、そこはかとなく、相手に気付かぬように行うものだ。それはほんわかとあったかく、意識にも登らさぬ行為なのだ。あ〜そんなやさしい人間になりたいもんだなあ。やまんばはまだやさしさの押し売りばあさんなのだ。


絵:「M−1戦国史」表紙イラスト

2010年10月27日水曜日

どっちでもいーのだ!



「原始人も焼き畑やっていたのだよ。きみのやっていることは、原始人以下だ」
妖怪はコーヒーを飲みながら言った。
原始人が焼き畑をやっていたかどうかは知らない。しかし草木灰の肥料さえも入れないで野菜を作ることは、原始人以下だと言っている。きついお言葉。だがお顔が緩やかなので、ちっとも怒られている気がしないのは、妖怪ゆえか。そんな妖怪が、やまんばは大好きなのだ。

「ぼくはね、十数年前から本を読んで勉強したんだ。畑をやるにはまず土作りだ。」
妖怪は最初うんと完熟した、非常に質のいい牛の糞を300キロ畑に投入された。それからたえず追加の牛糞や鶏糞やナントカ石灰や腐葉土やおからや、とにかくいろんなものを入れて土作りに励まれたようだ。お知り合いに農大の方がいて、彼に土の成分を調べてもらい、絶えず土チェックはおこたらない。畑にリトマス試験紙も用意してある。土の成分表もあると言う。

「すると、ナントカの成分が過剰だってわかるんだ。だからそれを減らして調節する」
すばらしい。これぞ文明を生きるお方だ。どうりでいつも大きな野菜が豊富なのだ。
「しかも無農薬だよ」
妖怪は身を乗り出した。ここまで完璧な野菜作りはないだろ?と、お顔が言っていた。


やまんばは、妖怪にいただいたジャガイモが、腐って牛糞のにおいがしていたのを思い出していた。やはり野菜は土の中のモノをすべて吸い上げるんだなあ。。。
スーパーで買った野菜がクスリの味がしたのも、土の中のものを吸い上げる性質を持っているからなのだと確信した。

ブロッコリーの苗に虫がつく話が出た。
「葉っぱはみんなレースだよ」
「え?レースって?」
「百匹は下らないね、3、4個の株に。それをとるのが大変なんだよ」
「ウチのブロッコリーには虫そんなにいないよ。見つけてもせいぜい3、4株に1匹。捕まえてフェンスの外にポイッ」
「そんなはずはない。虫もつかない野菜なんて。きみ、どんな野菜なんだ。。。」
「そう!虫もつかないいい女!」
と、ウケ狙おうとしたのだが、そこんとこは無視されて、ブロッコリーやキャベツ系の株に虫がつかないことをケーベツされた。


虫がつかないのには理由がある。山の草に虫が大量に発生して葉っぱがレース状になることはない。土の中に過剰なものが入ると、自然はそれを取り除こうと躍起になるのではないだろうか。やまんばの畑は自然の状態に近い土をしているようだ。だから虫もそこまで来ない。

ここに二つの選択がある。野菜を大きくするために牛糞や石灰を入れるかわりに、虫も大量にふえその始末に負われる。もしくは何も入れないで自然が調節してくれるにまかせ、その摂理に合わせた大きさの野菜にして、虫も食わない野菜にするか。。。


だが、ホントはどっちでもいいんだ。なんだかめんどーくさくなってきた。
農薬を使って野菜を作ろうと、有機農法で野菜を作ろうと、自然農で野菜を作ろうと!

正直いうと、だんだん自分でいやんなって来たのだ。
白状しちゃうと、自然農やっていることが正しいと思っている自分がいると、他のやり方をしている人々をどこかケーベツしたり、排除したりしてしまう心があるのだ。そんな自分がいやんなっちゃうのだ。「あたしのほうが正しい」と思った瞬間、閉じた心をもつ。勝手に自分で他人と線引きをしている。それで優越感を持つ。
これってやらしくない?
そりゃ、農薬は自然にやさしくないかもしれない。けどそれがあるからみんなスーパーで買えるのよ。
エコな人たちが「地球にやさしくしている自分」をかわいがっている姿を見ててイヤな気分になるのも、根底に同じものが流れているからではないか。どっちにしたって、悦にいっちゃっている訳さ。やまんばは、そんな気分でたゆたよっている自分に気がついた。

妖怪は妖怪がいいとおもうことをやり、やまんばはやまんばで好きだなあとおもうことをやる。それでいいんだとおもう。地球さんのことは知ったこっちゃない。どっちみち、人間が好き勝手やっても、地球さんのくしゃみひとつで、全部ぶっとんじゃうんだもん。

逆に地球さんの物質的な面のことばかりを考えて、人間どおしがいがみ合ったり批判しあったりケーベツしあったりしていることの方が、はるかに害がある。
地球さんは、ホントはそっちの方を心配しているんじゃないかなあ。


絵:「お金持ちのお金はなぜなくならないの?」表紙イラスト/メディアファクトリーから今日発売でえ〜す!

2010年10月25日月曜日

ブームってなに?




ニッポンに帰って来て、はじめて聞いた言葉が「デトックス」。
なんじゃそりゃ?
毒抜きなのだそうな。帰って来た2004年の頃は、デトックスブーム。ニッポンのセラピー取材のお仕事をさせてもらった時も、デトックス体験をさせてもらった。足を特殊な溶液につけ、何かの電流を流す。すると見る見るうちに足の入った液体がまっ茶色になる。リトマス試験紙みたいな色見本があって、私の液体の色をあわせてみる。

「これはすごい毒が出ましたねえ〜」と言われる。私にはそーとー毒がたまっていたらしい。
「でもだいぶ毒が出たから、大丈夫ですよ」
あれから5年経つ。デトックスにいっていない。これはそーとー毒が体内にたまっているにちがいない。

って、ほんとだろうか。
テレビで、つねに食べ物と健康に気を使いデトックスをいつもしている奥さんと、付き合いで酒とタバコ漬けのダンナの身体の毒素を調べていた。結果は奥さんの毒の方が多かった。毒抜きばかりをしている自分の方が、身体に悪いコトしているダンナよりも多いことに、奥さんはショックを受ける。番組はそこで何の解釈もなかった。ただ笑いを取っただけだった。

これは何か大事なことを現している。そもそも毒抜きというものは必要なものなのだろうか。からだの中に排除しなければいけないものがあれば、からだは勝手に排泄物として出すのではないのか?無理矢理汗をかいたり、マッサージで油を搾ったり、溶液に足をつけて毒素を抜く必要があるのだろうか。あれから5年たつが、毒抜きをしなければいけないという切迫感は、私にはない。

これもまた、人を恐怖に陥れる戦略のひとつではないか?健康ブームには必ず恐怖がセットになっている。「これをしないと、えらいことになりますよ」「あなたそれでいいんですかあ〜?」「ほ〜ら、今すぐ!お電話を!」

健康番組は、ひどい症状の人をまず紹介。番組のゲストたちは、
「わあ〜、ひど〜い」という、一貫したリアクションをみせる。視聴者もいっしょに「わあ〜、ひど〜い」同じようなリアクション。
番組の司会者が「もうこうなったら、たいへんです!」
ゲストは「うわ〜、私もそうなったらどーしましょー!」という心配リアクション。すると司会者はすかざすこういう。
「ところがここにとっておきの、いいものがあるんです!」
「え〜っ」とゲストたち。
視聴者も「え〜〜〜っ!何か解決法があるのね!どれどれ?」(すでに番組の一員)
「これを使えば、一気に何もかもが解決!さあ、あなたも今から!」

そー言って、翌日スーパーで売り切れた納豆、バナナ、黒豆、きのこ、ヨーグルト、餃子、チャーシュー、チャーハン数知れず(そんなのあったかいな)。
遥か昔にあった健康サンダルや健康グッズや健康食品はいまどこに?どんだけそれにお金をつぎ込んだ?さて、今、さぞかし健康になったことだろう。。。
え?昔はよかったのよ、今はほら、もうトシだから。。。(結局健康になってない?)

そこには意図的に仕組まれた何かがある。解決方法は最初からあるのだ。何かを売り出したいのだ。納豆でも化粧水でもなんでも。それを売るためにまず問題提議をする。メタボになります、シミになりますと。
テレビを見ると阿呆になるから見るなと言われたのが、私が子供の頃。それを言った本人が今は「テレビがいうことだから間違いない」と信じ切っている。完全に阿呆になっている(笑)。
あれがいいこれがいいと視聴者を振り回し、日本中を世界中をフンソウさせる。解決法で、ガッチリもうける仕組み。番組のスポンサーは、製薬会社、保険会社、化粧品会社、金融関係、食品会社。何か意図を感じない?

しかし、もっと大きく仕組まれたことは、庶民をいつも心配させておくことだ。恐怖をつねにもたせ続けることなのだ。それが一番いい問題提議。常に心配だから常に情報が欲しい。だから常にテレビに釘付けにさせることができる。するとタイミングよく、解決法が用意されているのだ。

現代人は必要以上に心を振り回されている。いらないものまで買い込まされている。いつも心はおろおろと、ああでもないこうでもないと揺れ動く。

私たちは、心がどのように反応して動いているのかを学んだことがない。学校で教わっていない、親も知らない。ただいつも目の前に現れて来る現象にだけ解決法を見出す。あらわれているからそれにだけ振り回されている。しかしその現れているものが、意図的に作られているとしたら、私たちは一体意味のあることで、振り回されているのだろうか。私たちが、これはいいもの、これはいけないもの、と判断しているものは、果たしてどこから来たのか。ただ、そう思い込まされているだけなのではないか。自分で決めたことのように思うことが、実は誰かの例であったり、アイディアであったりしないだろうか。

ばい菌がつくから、虫歯になるから、ウイルスがつくから、と恐怖をあおり、石けんやシャンプーや、歯磨きを買わせる。そして出来上がった新たな病気でもうける。そんなシステムがこの世にあるとしたら、どーする?

さてその結果は、何もしなくてもいいことが私の身体は教えてくれた。それは単に石けんだけの世界でとどまらないのではないだろうか。あらゆるプラス思考(あれもしなくてはいけない、これもしなくてはいけないという思考)が、あらゆる問題をひき起こしているのだとしたら、現代人はなんておばかな生き方をしているのだろうか。

物質面からの摂取と、心配して恐怖するという心の両面が、ふくざつに入り乱れて、今の日本人の心と身体を蝕んでいるんではないだろうか。このままいったら、きっとわたしたちは、極まってしまう。これはもう、政治家を変えるとか、システムを変えるとかで変わる問題ではない。心の中に完全に入り込んだ、作られた価値観の毒素に気がつくことしかないとおもうのだ。

それって、心のデトックス?


絵:coopけんぽ11月号表紙「キクの妖精」

2010年10月21日木曜日

ノンアルコールで酔っぱらう





「これ、いただいたから飲んでみてよ」
「やだ。ビール嫌いだもん」
「だいじょーぶ。これはノンアルコールのビールなのよ。飲んだってヘーキだってば」

ダンナは酒が飲めない。飲めないというよりは、飲みたくないらしい。若い頃はジンをよく飲んだと豪語するがウソかもしれない。だってビール一口飲んだだけで酔っぱらって、すぐ寝ちまうのだ。本人いわく、「あの、酔った状態のもわ~とした頭がクリアでない感覚が許せない」のだそう。のんべにとっちゃ、あの「もわ~」とした感覚が忘れられなくて常習しちゃうのに。

でも知り合いからあえて「ダンナに」とプレゼントされちゃったのだ。飲まさないわけにはいかない。ホント言うと、「これ、ビールだから」とダマシて飲ませて、ノンアルコールで酔っちゃうかどーか、確かめたかったのだ。しかし、ビールと分って飲むダンナではない。そんなウソはどっちみち通用しない。実験できなくておもしろくねえなあ~と思いながら、「ノンアルコールのビールだよ」と渡すことにした。食事前、何回か「飲んでみてよ~」とトライして、やっと「じゃあ、飲んでやるよ」といった。

一口飲んで、いや~な顔をする。「ビールの味がする」と。あたりまえじゃ。
それからそのあと一口も飲まなかった。なのに、食事をしながらこういう。
「おれ、顔赤くないか?なんか、目のまわりが熱い」
ダンナの顔をみてびっくり。完全に酔っぱらっている。目が充血して、顔はもちろん、耳まで赤い。

「ノンアルコールって。。入ってるじゃないかー」
缶ビールを見る。
「だって、0.00%って書いてあるよお?」
「ホントは0.009%かもしれないじゃないか!」
その下の数字は切り捨てられていると言いたいらしい。あのねえ。いくらその下が9でも、その量たるや微量すぎてハラの足しにもならんわい(意味不明)。

これはどーゆーことか。かぎりなくゼロに近いアルコールにも、こやつの身体は敏感に反応するというのか?じゃあ、今車に乗ると、飲酒運転で捕まっちゃうんだろうか。アルコールが検出されちゃったりするんだろーか。もしそーなら、恐るべし!自分でアルコールを作りだす男!と三面記事に載っちゃう。

まさにこれこそが、頭が身体を作っていくメカニズムの典型なのではないか?病いは気から、というのが「病気」という言葉を作ったように、頭で反応したものが、身体に表れて来る。。。いや、まてよ。頭は「ノンアルコールだ」と思っている。。。
そーか。舌が覚えているのだ!

ノンアルコールのビールを一口飲む。口の中にビールの味が広がる。そうすると以前、町内会で飲んべえのオヤジどもにムリヤリビールをたらふく飲まされて、べろんべろんになったことを思い出す。その時の感覚がふたたびよみがえって、かあ~っと顔が熱くなるのだ。そしてその熱さに今度は心が反応する。
「おれって、酔っぱらっちゃってる。。。。。」
そーして身体まで完全に酔っぱらいの状態に入るのだ。これはほとんどパブロフの犬じゃねえか?

「これビールだから」と、ダマして飲ますより、もっとおもしろい結果が出ちゃった〜、うほほ〜い。

ということは、逆に、私らが「わ~い、ビールだ~」と飲んでいるうちに酔っぱらうのは、飲んだら酔う、と信じているからかもしれない。

恐るべし!人の心と身体の直結度は、ジョーシキをつくがえす!


絵:オリジナル

2010年10月16日土曜日

虫天国





わたしゃ、畑で虫は殺さない。だって、たまに鎌で間違ってミミズをばっさりやっちゃった時の、あのつらさがいやなんだもん。まっぷたつになったミミズちゃんが二つになってのたうち回るあの姿は直視できない。だからできるだけ殺さない。でも「蚊」だけはゆるしてちょ。まわりをうろうろしているとおもわずバチン!とやっちまう。。。

なぜかしらんが、ウチの家の中で蚊以外の虫を殺さず、いちいちつかまえては家の外に出しているうちに、家の中に虫が入って来なくなった。同じ並びの家々では、ムカデもでるというではないか。と、いうことは虫さんが「あ、ここは、やまんばのうちなのね。で、僕んちはこのうちの外なのね」と、いいように解釈してくれて、棲み分けが行われているからかもしれん。(そーなんかやー?)

んだもんだから、畑でも誤ってと蚊以外は殺さず、フェンスの外に出す。または無視するのだ。そーすると、畑は虫だらけ。クモ、ミミズ、コオロギ、バッタ、カマキリ、カメムシ、てんとう虫、アブラムシ、毛虫、ヨトウムシ、アリ、その他いろんな訳の分からない虫、幼虫の天国。空中にはひらひらとチョウチョとトンボとミツバチが飛び交う。
野良仕事の合間にお茶を飲んでいるとき、そんな畑の光景がたのもしくうれしくなる。なんだかここは生命がいっぱいだあ~と、思わず叫んでしまうのだ。

隣近所の畑は違う。しーんと押し黙った土の上に、さくさくと野菜だけが育つ。うちみたいに、トマトの隣にキュウリがあったり、ナスの隣にニンジンがあったり、わけの分らん野菜のミックスの畝、なんて節操のないことはしない。キュウリはキュウリだけ!ニンジンはニンジンだけ!と、禁欲的な畑さんたちなのだ。


おとつい、道を歩いていると近所の農業兄ちゃんが、地下足袋はいてちゃりんこ大股で漕ぎながらやってきて、
「おうおう、今年の草はすごかったなあ~。近所のじじいなんぞ、みんな目を三角にして草ぬいてるぜい」と、いきがった。(いきがっているのか?)
そこでさっそく最近知った農薬の名前を披露してみる。
「みんなオルトラン撒いてるの?」
一瞬顔が曇った。しばらく沈黙があった。これはなにを意味するのか。オルトラン撒いていることを知られてしまったのか!とおもったのか、はたまた、「オ、オルトランってなんや?」とおもったのか。農業兄ちゃんはいつも私に農業のアレコレ知っていることをイキガって教えてくれるタイプだから、知らないことを知られては困るのか。。。?
しばらくの間ののち、
「ラウンドアップなら撒いてるぜ」といった。
ラウンドアップは除草剤じゃ。話がなんとなくずれている。し。。知らない横文字だったのか。。。?

さて、ラウンドアップなる名を聞いてしまった私は、さっそくネットで確認する。
でた。草を根こそぎ枯らしてくれる強烈な除草剤だった。私の母親であるスギナなど、土の下深く潜っている根っこまで速やかに、文字通り根こそぎ枯らしてくれる優れものなのだ。説明の中に「自然にやさしい除草剤」と書いてあった。おもしろい事を言うじゃないか。植物を根こそぎ枯らすのが自然にやさしいのであろうか。それをいうなら、「虫にやさしい殺虫剤」もありえる。ついでにいっちゃえば「人にやさしい原爆」というキャッチコピーもありえるのだろうか。

ということは、オルトランはまいとらんとしても(シャレのつもり)、ラウンドアップはここら辺では撒いているということか。ホームページでは環境にやさしいと畳み掛けるように言う。いかにも怪しい。調べりゃ、危なっかしいことだらけじゃないか。そういう液体が、この地に撒かれて川に流れ、やがて海に行き着くんだな。そーいや、近所で大豆と麦を交互に植えている畑がある。その畑の持ち主にはめったに会わない。草取りをしている様子も見かけないのに、この夏の強烈な草の威力にもかかわらず、その畑からは、一切草が生えていない。ああ、なんだかふくざつよねえ。。。
聞く所によると、そのラウンドアップとセットになっているのが、遺伝子組み換え作物。GM作物というやつだ。日本には特に菜種油のもとの、ナタネが入って来ているそうだ。キャノーラ油だ。そのGM作物が日本に種子の形で輸入されている間に、こぼれ種が芽を出し、花を咲かせ、いろんな雑草と交配を始めているらしい。アブラナ科の植物は交配しやすい。ウチの畑で採れた種もやっぱり交配しちゃっていた。アブラナ科の植物は1年草なのに、そのGMナタネは、日本で多年草に変わってしまい、樹のように大きくなったナタネも出てきたのだそうだ。
たぶんこれから日本の植生も大きく変わっていくのだろう。この勢いは誰にも止められないのかもしれない。

農業兄ちゃんにまたあった。あいかわらず草取りをしている。
兄ちゃんに、も一回オルトランの話をふる。
「んで、オルトランは撒いてるの?」
「いんや。だって、虫が食って死ぬようなもの、食いたかねえだろ」
ちゃんと知っていた。
兄ちゃんは、ワケギについたアブラムシをぬるま湯につけたぞうきんで一本一本拭いているのだそうだ(!)ワケギは彼の収入源だ。かるく畝10本分は、拭くんだそうだ。なんともご苦労様なことだ。
「繁殖期に拭き取りゃあよお、もう虫はつかねえんだ」
こういう人がまだいるから、日本はまだまだ底力があるんだろうな。


絵:オリジナル「高尾天狗の孫」

2010年10月14日木曜日

虫除けと言う名の虫殺し




「芽がでないのよ~」
近所で畑をやっているおばちゃんがなげく。秋からまき始めた野菜の芽がでないのだと言う。よくみたら、出るにはでているが、双葉が虫に完全に食われてしまっている。出ても出ても食い尽くされるようだ。大根の葉っぱも食い荒らされて頼りなげだ。連日の雨で土の跳ね返りで土だらけになり、より悲劇的に見える。



先日、そのおばちゃんが彼女の畑でこう言った。
「やっぱり虫除けしなきゃね」
手には白いプラスティックのボトル。
「あたしはこのにおいがいやなのよ~」
畑の畝に大根の新芽。その横に白い顆粒状のものが撒いてある。
私は「ああ、そのにおいに刺激されて虫が逃げるんですね」
と、いった。

家に帰って晩ご飯を食べながら、ふと虫除けってなに?と思った。アホな私は何時間もたって気がついた。虫除けって、農薬?
オ。。。、オ、なんとかっていってたよなあ。
ネットで農薬の種類と検索してみる。すぐに出た。オルトラン。なんだあ、農薬っていってよね、おばちゃん。

ネットによると、オルトランは、浸透移行性の優れた殺虫剤。その養分を野菜に吸わせ、それを食べた虫が死ぬと書いてある。へ?それって虫除け、じゃなくて、虫殺しじゃねえか。しかもそれを撒いた何日間かは、野菜自体を食べてはいけないとも書いてある。食べちゃいけないってえのは、つまり何かしら人体に影響があるということだ。なんだかおっかないものをつかっているんだなあ。
わたしゃ、農薬は、散布して葉についた何かを虫がなめて死んじゃうのか、もしくはその土の上に撒かれたものを虫が食べて死んじゃうのかと思っていた。だから洗えばすむものかと。そうではないらしい。野菜そのものに吸収させてそれを食べた虫が死ぬ。えらいこっちゃ。そんなもん食っているのかおばちゃんは。

そのオルトランは人畜無害でかれこれ30年近くも使われているんだそうだ。しかし注意書きには手で直接触るなとか、散布する時はマスクしろだの、撒くのは年に何回だの、撒いたあとしばらくは収穫するなだの、なんやかやと注意しろとたたみかける。人畜無害なんだから何も心配するこたあねえんじゃないのか。人畜無害なんでしょ?
もっと読むと、中毒を起こすとも書いてある。あれ、無害じゃなかったっけ。

虫除けと称して虫を殺し、無害と称して中毒に気をつけろという。なんだか建前と本音がありそうだなあ。
でも「虫除けするのよ」って言った方が「農薬撒いているのよ」と言うより、使っている側もどこかで安心する。ようするに自分の心を納得させているんだな。「オルトランは無害よ」というのも、一種の呪文のようなもんかもしれん。「大丈夫、大丈夫」といっているようなもんだ。そういいながら心の中で「気をつけなくちゃ」と思っている。安全とは使い方次第なのだ。この使い方次第(さじ加減)ってのが、人によるわけで。。。。


近頃はネオニコチノイドという「減農薬」と称されるものがでてきているらしい。そいつは、無臭で透明で存在が確認できない。しかも散布するとキロ範囲で広がるらしい。それは昆虫の神経をおかし、狂い死にさせると言う。その威力は持続するらしい。最近のミツバチがいなくなる現象もこれが原因ではないかと危ぶむ説もある。散布された菜の花にみつをとりに来たミツバチが脳を冒され、自分の方向を見失い、太陽の光に向かってひたすら飛ぶと言う。そして燃え尽きる。まるで「蜂のムサシ」が太陽に試合を挑んで負けたあの唄そっくりではないか。

最近は何でもモノはいいようなんだな〜。言い方次第で勝手にイメージできる。エコっていえば、車でも洗濯機でも買い替える。その車や洗濯機作るのにどんだけ石油使っているか。エコって言えば、誰でもやさしい人な気分になれる。「減農薬」っていえば、農薬少ないんだ〜って、得した気分になれる。「虫除け」っていえば、虫さんがどっかに行ってくれるって気分になれる。

しかしその「虫除け」さえ効かない虫が出てきたようなのだ。
「黒っぽくってみたこともないような虫」が、おばちゃんの畑で次々に新芽を食べているそうなのだ。これは虫の逆襲?そしてちまたでは除草剤も効かないスーパー雑草もでて来ているらしい。

これは自然の摂理が動いているだけなのかもしれない。逆襲ではなく、何かを教えてくれているような気がする。目先の見栄や利潤のために自然のバランスを崩しておいて、それに順応する存在がでて来ると大騒ぎする。その前に自分がなにやったか思い出すのが一番の早道なんじゃないだろうか。でてきた気に入らない存在をまた殺そうとするのは、身体に出た病の症状を消すのと何ら変わりがない。その病がでたのは身体が何かを教えてくれているからなんじゃないだろうか。

自然はいつも美しいこの地球のバランスを保とうと、人知れずひたひたとその任務を押し進めているのではないだろうか。


絵:ボージョレーヌーボーのボトルラベルデザイン案

2010年10月12日火曜日

自然発酵種の完成




えらい長いことかかりました。ついに自然発酵種の完成かあ~~~?

畑でとれた小麦をコーヒーミルでキコキコひき、それに水をくわえただけで発酵させるというパンの発酵種です。一番最初は大失敗。パン種を元に小麦粉をくわえ、フライパンで焼いてはみたものの、とても食える代物ではなかった。口の中で、すっぱいの、にがいの、えぐいのの3拍子が踊りまくり、のどを通らず吐き出した。人の身体は正直です。動物的に反応するようです。
げんなりするのもつかの間。また再度挑戦。試行錯誤の末、ついにパンらしきもの完成!
3ヶ月かかった。われながら、しぶとい。

どうも発酵するためには、空気中のいろんなモノたちとの共同作業があるようなのだ。
私しゃ怠慢なもんで、ぬか漬けなどない(何度も失敗してくさらしているから)。しかし発酵食品や空気中の微生物たちが、パンの発酵もうながしてくれるようなのだ。
発酵と言えば、ダンナの大好物の納豆がある。んで、そのパンの種の上に、納豆を置いてみた。近づけるとなんか感染(?)しそーな気がしたのだ。
ほんでもって、今度は声かけ。
おしだまった種に口を寄せて
「おっきく膨らめよ~!」と、大声をかける。
はたまた種の入った容器のふたを開けて、ふたでパカパカしながら
「発酵菌よ~入れ~」
と空気中に漂っているであろう何かしらの発酵するもとを入れてみたり。
ついでに種に「発酵踊り」も披露する。。。

あの手この手を使って発酵を促したのだ。(そ、そんなもんででうながされるのか。。?)
すると冷蔵庫の中で小麦粉はぷすぷすとおならをし始めたのだ。(発酵してるってこと!)気を良くした私は、小麦粉というエサを気長にやりつづけた。だがそれでもまだ「ふくらむ」というところまではいかない。

ある時、小麦こねてみようか。と思い立ち、パンをこねるようにこねてみた。するとそれがきっかけになったようで、納豆の下でゆっくりと膨らみはじめた。1週間くらいで2倍になった。まだまだ膨らみそうな気配。そのままエサをやらずに、飢餓感を感じるまでほっておく。そしてエサ投入。なんだかオッケーなきぶんに。
いっちょ作ってみるか。

だが、これがパン生地になるわけではない。これを元に、一部をとって強力粉とちょっとのお塩とちょっとのお砂糖と水でこねこねする。これが林弘子さん流にいえば、「中種」になる。まだまだこれではパン生地ではない。
それを元に、本格的なパン生地を作るのだ。なんと手間のかかることよ。

おそるおそる作ったリーンな生地は、なんとも味わい深いフランスパンになった。うおー!ついにできたどー!というのもつかの間、二度目の中種作りに失敗。む、むずかしすぎる。。。ううう。。。。

失敗は成功の元。失敗を繰り返しながら、なにかを学んでいる予感がする。今日もカンパーニュの生地であんぱんとアップルパンを作る。もちろん固い生地。しかしイースト菌にはない、甘さとこくがある。なにより発酵菌のにおいがしない。やはり小麦粉から作った発酵菌だからだろうか。

最近、微生物づいている。石けんなし生活を続ける中に、身体にすむ微生物を感じ、畑で土の中で働く微生物たちを感じ、そしてまたパンの中に微生物たちの働きを感じている。目には見えない無数の存在たちが私たちの生活をとりまいている。その恩恵を受けながら、私たちは生かされているんじゃないだろうか。

あああああ〜、ありがとう、微生物たちよ!


絵:食品会社のロゴマーク

2010年10月9日土曜日

欠点の快感




町中にキンモクセイのにおいがあふれている。わたしゃ、キンモクセイフェチ。このにおいが、くわ~たまらんのじゃ。鼻をおっぴろげて勢いよくずーずー空気を吸いこむ。ほとんど過呼吸になって、うしろにぶったおれそーだ。
しかし今年のキンモクセイは、ちと濃厚な気がするが、気のせいだろうか。自分ちの庭にキンモクセイがある近所の友だちも「においすぎてムカムカする」といっていた。確かに息するたびにこのにおいが入って来るときついかも。


今日の日めくりカレンダーに「他人の欠点より、長所を見よう」と書いてあった。
長所を見る方が人間関係しあわせにちがいない。しかしこれにはちと意志力がいる。なぜか知らんが、人は他人の欠点は眼につきやすい。なんで?

人は人の欠点を見る事になれているんじゃないだろうか。自分も含めて。テレビつけたって、悪いことした人のニュースばっかり。だれがどーしたの、こーしたのと人の揚げ足ばっかりとって話題にする。
「こんないいことする人がいました」とニュースになるのはめったにない。

つまり無意識に人は他人の欠点を見るくせがついているもよう。学校から帰ると、お母さんが、近所の人の悪口を言っている。晩酌をするお父さんがテレビに出ている政治家にむかって、「こんな奴はダメだ」といったりする。学校では朝礼で校長先生が「昨日ダレソレが補導された」という。
その批判的な眼は自分にも注がれる。おかあさんに、「ちゃんとしなさい!」といわれるし、おやじに「おまえ、そんなことで将来どうする気だ?」と脅されるし、先生には「こんな成績でどーする!」と小突かれる。
え~ん、世の中人の欠点みることだらけだあ~!

と、そんなこんなで、他人の欠点は見えやすいのだ。
もっと突っ込むと、そこには意地悪な気持ちも入っている。
「あの人、あんなことするのよ。や~ねえ~」
という瞬間、自分は高みに位置づけられる。高みにたつことで、自分を実感できる。ふんふん。私ってあいつより上。。。
そしてまた、自分の欠点も見えやすいのだ。
「あ~っ!またおバカなことしちゃった!ど~しよ~!」
この場合、やったことをみるわけではなく、やって動揺している自分を感じている。

ここでこの二つの行為はいいとか悪いとかという判断はしないで聞いておくれ。この二つの他人と自分の欠点をみるという行為は、なんというか「自分を実感できる」行為なのだ。自分がここにいる。確実にここに存在していると思える行為なのだ。

反対に、「あの人いい人よねえ」とか「ああ、わたしってえらいなあ」と思う瞬間には、あまり生身の実感がない。はい。イメージしてみてくらさい。
悪口を言っている時間って、けっこう長くない?
逆に肯定している時間はあっさりとほのぼのと、そしてさらっと一瞬の出来事じゃない?
じと~っと、「あたしって、えらいなあ~~~~~~~~~~~~~。ああ、あたしって、えらいなあ~~~~~~~~~~~~~~~~」
と、延々と長くはつづかないでしょ?え?つづく?そりゃ、ナルシストだな。

でも人の悪口は延々と長くもたせることが出来る。「あのやろ、このやろ、おぼえてろよ、そういやむかしこうだった、ああだった、もぞもぞもぞ。。。。。。。。。」と心の中でマイブームできるのだ。悪口はついでに人にも話せる。「あの子って、こんなことしたのよ~」「え~~~~~っ、それってひどくない?」「そーなのよ、そうそう」「だいたいあの子ったらねえ~。。。。。。」と、人と楽しむことも出来ちゃう。人の欠点というのはおもしろおかしく遊べるのだ。政治家も、タレントも、ダンナも。

そして自分の欠点も延々と悩み続けることが出来る。あたしってダメだわ~。と。特に私のように自己嫌悪病の人間はそれにいそしむことが出来る。「ゲ、編集長にあんなこと言っちゃった。やべ~、もう仕事来ないかも。。」「お天気なのにふとん干してない。カビ来るかも。。。」「高知にしばらく帰ってない、どーしよー」などと、勝手に自分遊びが出来ちゃうのだ。

人は自分の中で何かを考えている時間が好きなのだ。それは人によって全く違う。自己嫌悪するのが好きな人、人の悪口言うのが好きな人、そして心配することが好きな人。。。無意識に考えている内容はたいていネガティブなことじゃないだろうか。そしてそれは何よりも自分を実感できる行為なんじゃないか。自分という存在、名前のある一個の、他人とは独立した存在。その心の内は誰にも侵されない自分だけの世界。。。。自分自分自分私私私。。。

ところが、他を肯定する考えはあまり自分を実感できない。「○○さんて、いい人よね~」と独り言言っている瞬間、そこには自分という実感が希薄だ。試してみて欲しい。何かを肯定している瞬間、自分を感じられるだろうか。山がきれいだと思う瞬間、ここにいる自分が希薄に感じないだろうか。○○さん、いいなあ~と思う瞬間、自分が希薄にならないだろうか。なんというか、とろけていくような、自分と他人が境界線がなくなるような穏やかな曖昧な感覚にならないだろうか。

つまり、欠点をみればみるほど、他人と自分に大きな境界線が出来、自分の欠点をみればみるほど自分というものが肥大化していき、自分というものの存在をがつんと感じることが出来る。反対に長所を見れば、他人も自分も曖昧になって来る。そこにはおおらかなあったかさがあるだけである。だが自分というものを実感できにくいのだ。

だから人は無意識に他人や自分の欠点をみようとするのだ。それは自分がここにいる!という感覚をもち続けていたいからかもしれないのだ。
そう、じつはそれによって自分を実感するという「快感」を味わってしまったからなのかも。。。。


絵:雑誌表紙

2010年10月7日木曜日

雑草のような大根


 
大根が自生するとはしらなんだ。
今年の春、源の助大根の種がいっぱい出来た。5月頃のことだ。大根のさやの形はちょうど東京の汐留辺りにある有名な「うんこビル」を思い出してもらうといい。金色ではなく緑色だが、あれをちょっと長くした形にそっくりだ。そのさやの中に、3個から5個の大根の種が入っている。やまんばは、冗談でそのさやごと、花咲か爺さんみたく、畑中に「種まきばあさん」をやった。

それからうんともすんとも芽は出なかった。
ところが10月に入って、今日気がついた。あっちゃこっちゃにまるで雑草のように大根の葉っぱがはえてきているではないか。中にはすでに20センチにまでのびている、本気で大根になる気の奴もいる。しかもなぜかみんな畝道。畝の上は私が草とったり土をかき回したりするから落ち着いて根が張れないらしい。畝道なら、土をかき回されることもない。がっちりと踏みしめられた固い土の上から、にょっきりとりっぱな大根の葉っぱが出ている。気がつかずに何度踏んでしまったことか。ごめんちゃい。

「大根を作る時は、うんと畝を耕して柔らかくするんだよ」
近所の畑のおじさんに何度もおしえてもらった。大根は柔らかい畝にしか生えないと思っていた。なのにこの大根たちはなんだ?しかも近所の畑の大根の葉っぱよりも大きく育っているし。そして元大根があった畝にも出始めた。
耕さないって、こんなにおもろいことがやってくるんだな。

自然は、わしら人間の知らないところでひとひたと自分たちの生を生きているんだな。ちょうどいい時期にちょうどいいタイミングでひょっこりうごき出す。そこには人間の知恵では思い浮かばないことがいっぱいあるのだ。ただ人間はそれをみて、喜んでさえいれば、そしてそれをありがたくちょうだいするだけでいいのかもしれない。

絵:食品会社のためのシンボルマーク案

2010年10月5日火曜日

阿寒湖の虹




重大な任務により、北海道は阿寒湖のほとりにいってきましたです。なにぶん、隠密なので、その目的にかんしては、しみつ(秘密)であります。ですが、生まれて初めておりたった北海道の地、空気、緑、風、雨、光、そして虹までも味わわせていただきました。しかしそれにもまして、言葉で言い表せないほどの人の温かさとおおらかさを満喫。もう腹一杯でございます。阿寒の皆様、ほんとうにごちそうさまでした。


女満別空港に降り立ったのが、3時前。友人のお母さんの車をお借りして、網走に入り、オホーツク海に向かう。わたしゃ、高知県の海しか知らない。あったかい太平洋の波しか知らない。ぜひ北の海をみてみたいと思ったのであった。途中、サンゴ草という真っ赤な草を見に行く。ここら辺にしか生えない貴重な草。湖畔の湿地帯に群生していた。しかし今年の暑さで思うように赤くなっていないもよう。その湖を回るように、車で海に向かう。湖のわきを抜けた瞬間、ごお~、どど~ん、という地の底から溢れてくる音とともに目の前に海が広がった。すごい。車を道路のわきに止めて、海を体感する。これぞ地球のエネルギー。よせてはかえす地球の呼吸。溢れる潮のにおい。地を揺るがす波。水平線の向こうからやってくる異国の潮。ここに流氷が流れ着くのかあ。

基本的に私は海には興味がない。湘南の海も、フロリダの海も興味がない。
「海がみたいの。ドライブしましょ」なんてそこらのおねーちゃんがいうようなセリフははかない。そんなもんはわたしにとっちゃ、海じゃない。しかし今回は
「海がみたいぜよ。ドライブするぜよ」
生まれて初めてはいたセリフだった(注:こんな高知弁はないちや)。
高知の海とはまるでちがう。おそろしー強さとさびしさときびしさと、なんだかわけのわからない感情がおしよせてくる。頭で理解しきれない感覚をただ立ち尽くして全身で味わっていた。

阿寒湖のほとりに降り立ったのは、夜。アイヌコタンは、しっとりとぬれておりました。初めて見る「アイヌの村」という名の街。入り口には巨大な木彫りのミミズクが、羽を広げて訪れるよそ者を見定めるような、威嚇するような、それでいておおらかに、見下ろすようなカタチで私を迎え入れてくれました。おとぎの国に入り込んだような不思議な感覚。ディズニーワールドを100分の一にギュ~っと凝縮したような、ちょっとめまいがしそーな現実の世界ではないような感覚になる。

入り口にミミズクが鎮座ましましている。これはまさに鳥居だ。その鳥居をくぐると、奥に向かってぐっと急激な坂道になっている。坂道の両脇にはお土産物や食堂がずらっと並んでいる。そして一番奥には建物が。その建物で、アイヌの伝統古式舞踊が粛々ととりおこなわれるのだ。
これはまさにひとつの神社の形ではないか!神社フェチだった私は、一人勝手に妄想してくらくらした。ミミズクの鳥居をくぐって参道の両脇に出店。その一番奥は社。その社でお神楽が舞い踊り、神に捧げられるのだ。
いや、アイヌ人を倭人に見立てているんじゃない。そもそも神社の形そのものが何かの真理をついた姿なのかもしれない。それを倭人が神社という形にし、アイヌ人はそれをコタンと呼ぶ。
コタンは他の阿寒湖町の道とは少し方向が違う。変だなと思いながら地図を見ると、コタンはちゃんと東西に向いていた。

そのコタンの一角で、アイヌ人と倭人がひそひそとしみつの会議を開いた。(しみつだから状況ははしょるのである)
ホテルに戻ると、夜中の3時を回っていた。やまんばはだれひとりいない湯船にぽちゃんとひたる。なんとゆうすべらかな温泉なのだ。身も心もとろけそーになりながら、そのままそこに寝るわけにもいかず、意志力で部屋にもどり、ふとんにもぐりこんだ。
翌朝、窓を開けると目の前に虹が広がっていた。阿寒湖を渡る虹の橋。ありえない。絵に描いたようだ。いや、まちがってもこんな絵は、恥ずかしくて描けない。そんな風景をもらった。

その日は一日中だあだあぶりの雨と、横殴り(?)の風。台風かあ〜?阿寒湖はマッチロ。なんにもみえない。しかし霧に浮かぶ美しい島を見つける。しばし美しさにひたる。
その夜もしみつの会議が粛々と無事とりおこなわれる。ああなんという美しいコタンの人々よ。こんな濃厚な時間をもらってしまっていいのだろうか。「いやいや、ほんとうにすみません〜」恐縮しながらもしっかりと、すべてを味わわせていただくどん欲なやまんばであった。

出発の朝はドン晴れ。
そーとー日頃の行いが悪いと見える。コタンの人々に見送られ、後ろ髪を引かれながら、コタンを去る。釧路空港から見えたのは、雌阿寒岳だったのだろうか。手を振ってくれているように見えたのは気のせいか。
みんなの顔がその山にかさなった。


絵:この絵を見て、アイヌの歌い手床絵美さんが「摩周湖みたい」と言ってくれた。摩周湖は阿寒湖の近くにある。

2010年10月1日金曜日

今日から原画展で〜す




今日10月1日から31日まで、高尾のふもと「ふじだな珈琲」で展覧会を開催しま〜す。
最近シリーズ展開させてもらっているメディアファクトリー新書の表紙のお仕事です。本と原画を同時に展示します。お気に召した方は、ぜひ本もご購入ください。

新書といえば、じみ〜な色合いに、文字だけ!というお固いイメージなんですが、メディアファクトリーさんはちょっとばかし違いました。大胆にも「イラストでいきましょう!」と。
編集長と額をくっつけあわせて「あ〜でもない、こ〜でもない」とアイディアを練り上げ、制作しました。
私が制作したものと、じっさい本として出来上がったものが、微妙に違います。そこがまた原画展の面白いところ。その辺りを楽しんでもらえたらうれしいです。

まだお山の木々は秋めいていませんが、空気はすっかり秋です。コーヒー飲みながら、高尾山の空気感と虫の声を楽しんでいって下さい。おっと、ついでに私の絵もお忘れなきよう。

おまちしていま〜す。