2019年7月23日火曜日

あるシーンを思いだす



コースは実践だ。
日々、自分の中にある罪の意識に気がつき、それを表に出し、ゆるす。



きのうバイト先で、一緒に商品を作っているAさんに、上から注意がなされた。彼女担当の商品が、八時までにすべて並んでいなかったのだ。
二度お客さんにうながされ、あわてて作るようすを見ていた上司が、部下を使い、直接彼女に言わず、遠回しに私に言って来た。

理由はわかっていた。最初にすべての商品を小出しにせず、ひとつひとつの商品を一気に作って出していたからだ。その方が終るのが早い。しかしそのため限られた時間内に出来てない商品が増える。

そのことを彼女に伝えたら、猛烈に怒り出した。
「言いたいことがあるなら、直接私に言いなさいよ!直接言わないやつって、だいっきらい!」
とがめられたと思った彼女は、その内容よりも、上司の行為に対して攻撃をする。
直接言えないことに対して怒っているのだから、直接上司に訴えればいいのに、それもしない。
「直接言えば?」とも言えなかった。言えばますます怒りが爆発するのは目に見えていた。

過去に陰口を叩かれて、辛い思いをしていたことがあるのだろう。その記憶が彼女に舞い戻っているのを見た。
怒りの中に埋没している彼女をとなりでびんびんに感じながら、自分の中に怖れが膨らむのを感じていた。

「言わなければ良かったのか?」
私のせいで上司との関係を悪化させてしまった。。。
上司から言われたとは言わず、私の言葉として、
「商品すこしずつ出してね」と言えばよかったのか?

いつもの癖が出始めた。
私がまちがっていたのだ。私が悪かったのだ。
私があの時、上司が言ったと言わなければ、こんな事にならなかったのに。。。と。

上司の言いぶんに、何の問題もない。当然そのことに触れてくるだろう。
いつかは言われることが今日出ただけだ。
それがどうして今日なのか?
これは私のレッスンだ。
いったいなにを見せようとしているのか。

そのうち「あたしはここに執着はないからね」
と、すぐ辞めることだって出来ると、暗に振ってくる。
追い討ちをかけるように、彼女に今辞められたら、私が仕事出ずっぱりになるという怖れも起こりはじめる。

私のせいで人が険悪になる、、、。私のせいで、、、。
居心地の悪い、不快な感覚の中で、何も言えないまま忙しく仕事をこなす。
こんなときは、無理に空気を変えようとする必要はない。ただそのままにしておこう。。。
彼女は悪くない、上司も悪くない。。。。

いったい何を私に気づかせようとしているのだ?

ふとあることが思い浮かんだ。
「私たちがいつもケンカするのは、つくし、あんたのせいだからね!」
小学生の時、両親のケンカのあと母が私に言った言葉だ。
あの時、私が原因でいつもケンカをすると知らされた時、ショックだった。

あの時から、私は自分のせいで悪い事が起こると思い続けていたのだ。
悪いことが起こればすべて私のせいだと、この50年間思い続けていた。
この癖はずっと治らないと思っていた。どうやっても。。。

あのシーンがよみがえった。
ああ、今のこのできごとはそれを解体するために起こっている。。。!


母がそう私に言ったのは、彼女の罪の意識がそういわせただけなのだ。苦しさのあまり、誰かにその原因をおわせたかっただけなのだ。彼女は何も悪くない。そしてその原因を作ったかに見える私も悪くない。誰のせいでもない。

商品を作りながら、私はあのシーンを思いだし、それをゆるした。
母をゆるし、自分をゆるし、そして、Aさんをゆるし、部下をゆるし、上司をゆるした。
この一連のものを、私はコースにのっとって聖霊に捧げる。そして聖霊に取り消してもらった。

ゆるすとは、コースがゆいいつの手段として使う独自の方法。

ゆるす。ふしぎな響きだ。

ゆるすは、緩めるという響きに似ている。
固く硬直したものをゆるめ、やわらかくし、解体させていくのだ。
それは肯定、受け入れることに似ている。

分離は敵と味方にわけ、硬直させるが、ゆるしは受け入れる。
あなたと私というものが、対立するものではなく、互いにゆるみ合って融合する。
そうなるイメージが私は好きだ。


ゆるしの訓練は、結果はすぐには起きない。
それは時間とともに忘れた頃気がつくもの。
すべては私たち自我が知るすべはない。

いつのまにか、明るい彼女が戻って来た。
冗談を言い合いながら「おつかれさま~!」と別れた。



2019年7月18日木曜日

ほっこりしたいだけやん その2




どうもそうじゃないかも。。。
っておもいはじめた。

だって、さんざんやってきた。
あいつを変えて、これを変えて、あれも変えて、それも変えて。。。!!!
だけどまったくらちがあかなかった。。。。

そしてその視点は、逆方向に向かいはじめた。

変えようとするから、らちがあかなかったんじゃないか?

あるときから、変えることをやめた。
「。。。。。。。。ほっておこう」

心は騒ぐ。
変えないでどーする!このままでいいのか!?ほっといたら、地獄行きだぞ!

それさえもほっぽっとく。
何の判断もせず、何の解釈もくわえず、
何の正しいも悪いも、何のジャッジもせず。。。

裁いたところで、自分が苦しいだけ。
それは過去さんざんやってきたから証明済み。(いくらでも例はあげられるぞおーっ!)
もうその手にゃ乗らん。

ほっぽっといて、ただながめている。忘れている。
すると、事は勝手に進む。
勝手に動く。
勝手に問題解決されていく。
勝手にいい人になっていく。
勝手に穏やかになっていくじゃないか。。。

なんだこれ?

問題を見つけて、それを解決させるのが、幸せじゃなかったのか?

けれども問題を見つけても、それを問題として見ず、かかわらないことで、勝手に解決されていくのをみはじめた。
それは気が抜けるほどに。

そうしてやっと、何も変える必要なんかなかったんだ。
というところに落ち着いた。

な~んだ。
そんなことのために、どれだけ回り道してきたんだ、私?

けどこれは本を読んだ知識では得られないものだ。
体感として知る。それこそがほんとの知恵になっていくんだろな。




心の中を歩く。
それは正直言って、かなりきつい旅になる。自分の闇と徹底的に向き合わなければいけなくなる。見たくないものをみることをしいられる。心の中はお花畑じゃない。

けどもう一瞬だけの幸せでは物足りなくなったら、どうしようもなくそっちに向かわざるを得なくなった。

その途中途中に、驚きと平安とよろこびを与えられる。それは恩寵のように。
なぜ欠乏感があるのか。
それが消えることがどういうことかが、じょじょに見え始めた。

そしてまた旅を続けるようにとうながされる。
一人で旅をしているのではないのをかんじる。心の旅に向かう時、必ずお供がいる。
そうでなければ向かえない旅なのだもの。



何かをして、幸せになるのではなく、

何をもしなくても、幸せはすぐここにあったのだ。


2019年7月16日火曜日

ほっこりしたいだけやん



幸せとは、何かをすることで、得られるものだと思ってきた。

好きなものを買うことや食べることや、楽しいことをして得られる幸せ。
そして仕事などの、がんばったあとのご褒美として得られる幸せ。

だがそれはつかのま。
あっというまに終る。
その空虚感に無意識が気がついて、その穴を埋めるために、また次の「楽しいこと」をさがす。

小さい時から、そして大人になってからも同じことを繰り返していた。
まさか楽しいことを探すことは、自分の欠乏感から来るとは思っていなかった。

子どもの時はただうれしいからやっていた。
しかし大人になるとカシコク(狡猾に)なる。
正当化(言い訳)が始まる。

これは将来のため。自分のキャリアのため。健康のため。。。
そうやってうまく隠していくうちに、その幸せと言う目的を忘れ、正しさを求めはじめる。
これは正義のため。社会のため。人間としての生き方のため。
正しいことをやると幸せになれるのだ!と。

正しさなんて時代とともに変わる。家とともに変わる。お国によって変わる。ジェンダーによって変わる。
そんな曖昧な測りなのに、どっちが正しいとおおさわぎ。
善と悪ではなく、善と善との戦いだ~!

国同士の正しさの言い争いから、会社の中の言い争いから、友だち同士の言い争いから、ダンナとの正しさの言い争いから、今度は自分の心の中の言い争い(ほんとはこれが一番のおおもとだけど)。


ほんとは幸せになりたいだけやん。
ほっこりしたいだけやん。
ああ~~、なあんだ。。。って、安堵したいだけやん。
ただ心が安心したいだけやん。

じつは幸せは外から得られるものは、一時しのぎ。
そしてそれは苦痛とうらはら。
いくらおいしいものを食べても、食べ続けるのは苦痛。
温泉に入り続けるのはフヤケて苦痛。

なのになぜそれを求めるのか。
心がいつも「なにかがたりない。。。」とおもっているから。
そこを埋めよう埋めようとして、何かをやらざるを得ない衝動がつねに動いている。

楽しいことを達成した瞬間、その「何かが足りない」は消える。
だからホッとするのだ。
そのホッとすることを「ああしあわせ~~」と呼んでいる。

欠乏感の動きが一瞬止まる。
それが幸せ感だとおもっているだけなのだ。

普段私たちは、欠乏なおもいだらけの中にいる。このままではだめだ、このままいったら、どつぼにはまる。なんとかしてここから脱出しなければ!
というほとんど無意識の衝動が起こり続けている。

何かをしようとすることは、なにかを変えようとしている。
今この状態がイヤだ。と言い続けている。

ダンナのその言葉がイヤだ。
あの人のあの態度がイヤだ。
この職場がイヤだ。
この仕事がイヤだ。
この社会がイヤだ。
この国がイヤだ。
この世界がイヤだ。

私たちは気に入らないことを変えることで、幸せが得られるとおもっている。
気に入らないことを、楽しいことをして忘れることで、それが幸せに置き換えられると思っている。


ほんとにそうなのか?



2019年7月14日日曜日

雨の匂いをかぐ



ブログを更新しなくなってしばらくたつ。

ども。やまんばです。

日々の心の発見はあります。
しかし心のきびを描こうとすると、ぐたいてきなもろもろが出てきて、
色々差しさわりがある。

あれに触れるのはまずい、けどそこに触れないと、この部分が表現できない。。。
などなど、あちこっちの制限をかかえながら、言葉を選びながらブログに起こしていくのがめんどっちくなったのであります。


言葉ってとてもおおざっぱです。
悲しいって言葉は、ものすごくざっくりすぎる。
もちろん、楽しいも、腹立つも、おなじぐらいざっくり。
例えるなら、繊細な日本料理を厚手のゴム手袋をはめて調理しているようなもんです。

心はとてつもなく有機的で、激しく、からだの感覚や感情をともないながら、絶えず流動しています。

まったく言葉に表せない自分への否定の衝動、どんなにもがいても、ありとあらゆる手を尽くしても消せないことへの葛藤。
そうかとおもえば、何をするでもないのに、ほのかに漂う至福感。

心はとても豊かです。

それと同時に、いかに私たちが心を見ていなかったかを知ります。
そしてその心自体が、この世の不幸の始まりだったことを。



今、世間は選挙で盛り上がっています。
こうすればいい、ああすればいい、こうあるべきだ、ああするべきだ。。。
そうなれば幸せになれるのだと、声を大にして言います。

けれど、たとえシステムが最高になったとしても、きっと私たちはどこからか、また問題を見つけ出してきて、こうするべきだ、ああするべきだと、声を大にして言うことでしょう。


心ってそういうもん。
いつでもどこからでも問題をつくり出してきて、それさえ解決できれば幸せになれるって、言い続けるマシーンみたいなもんなんだ。

紫色の厚手のゴム手袋をはめて(言葉を使って)、
問題を探し続けるマシーン(探求の衝動)。

そんなおかしなイメージがわいたら、
そこから意識的に離れてみるのも手だ。



ほんとうは何も変えようとしなくて良かった。
ただただ心にふりまわされていただけなのだ。


今そんなところにいます。


雨にぬれる緑の匂いがここちよい高尾のふもとから。