
やまんばは暮れの大掃除がだいっきらい。
なんできらいなのか。ヨゴレを見るのがいやなのだ。じゃなぜいやなのか。それはそのヨゴレを見ると、自分の罪悪感が盛り上がって来るからだ。
「わ~、汚いねえ~。。。ここまで汚くするって、それってどーなの?そこまでほっといたあんたっていかほど?」
と、言われている気がするのだ。じわ~っと罪悪感に苛まれる。そして次の瞬間、自己嫌悪に移行する。
その罪悪感と自己嫌悪のダブルパンチを食らいたくないために、見ないフリする。しかし「暮れの大掃除はよい年を迎えられる」という伝統(掟?)による強迫観念の中で引き裂かれる。かくして無理矢理、いを決してぞうきんを持つ。しかしぞうきんを持つまでの行為にいたるまでに、そーとーのエネルギーを使っている。
みんなそんなにエネルギーを使っているわけではないのか?わたしだけなのか。
その根底に、いいこと、悪いこと、という2元論が横たわっているのに気がつく。ヨゴレは単なるヨゴレである。しかしそのヨゴレという言葉の後ろに「いけないこと」という形容詞がつく。自分は怠慢にもそのヨゴレが出るまで放っておいたのだ、という判断が下されている。掃除をするとは、そのいけないことをしてしまった私の、そのいけないことを白日の下にさらされるのである。
よそから見たら、「あんた、これ、単なるヨゴレじゃないの」となるのかもしれない。しかししつけの厳しいウチに育った自分は、なんでもかんでもいいこと、わるいこと、という判断やレッテルを知らない間に貼付けていたのだ。
単なるヨゴレとしか思わない人は、お掃除するとき親に怒られなかったのだろう。
「あんた!なにしゆうぞね。こんなに汚うして!さっさと洗いや!」
「おんしゃあ、なにしよらやー!」
とは言われなかったに違いない。
今、横に怒る人はいない。しかしインプットしてしまった罪悪感が私を勝手に責める。ヨゴレを見る。罪悪感が走る。自己嫌悪になる。その苦しさから逃れるために、言い訳を考えだす。
「し、仕事が忙しかったから」
「あ、あとでやろうと思ってたのよ」
「き、今日はちょっとからだがだるくって。。。」
心は正当化に忙しい。
つまりこうゆうことではないのか。
1:何かを見る。
2:ネガティブなことに結びつけてしまう。
3:それに対して罪の意識を感じる。
4:そんなことをする自分がイヤになる。
5:だが依然としてそれは消えない。
6:苦しくなってくる。
7:なんとかしてそこから逃げようとする。
8:そうなってしまった理由をさがしだし、自分を正当化しようとする。
そうやって、人は絶えず罪悪感と言い訳の中で翻弄されているのかもしれない。
ということは、ヨゴレを見て、勝手に自己嫌悪におちいっているだけなのだと気がつく。すると、ヨゴレを見ても何も感情的におもわなくなる。
「あ〜。こんなところに綿ぼこりがある〜。とっちゃえ!」
と、おもしろがれる。前のように、取れないヨゴレにイライラしたりしない。からだは勝手に軽くうごき、テキトーなところで終わらしてしまえる自分がいたのだ。
なんだ。そんなことだったのか。
絵:「ハーバードビジネスレビュー」Michaerl E.Porter