2021年8月31日火曜日

選択ができる

 


恐れは、それを選んでいる自分がいる。


そして恐れがやってきた時、それを選ばないという選択ができる。



明け方近く、不意に母のことを思いわずらい始めた。

施設で母はどうしているだろう。辛い思いをしているのではないか。母を施設に送った自分を呪う。しかし難病を抱えた母をこの家に迎えることもできない。どっちにも行けない苦しさ。罪の意識。この罪悪感はどうやっても取れないのだろうか。。。。


私の思考は今自我とともにいる。

苦悩は自我の思考がそこにあることを教えてくれている。自我の視点では解決できない。

こういう時は聖霊の視点で見せてくれるようお願いするしかない。


聖霊さん、あなたの見方でこれを見せてください。

あなたとともに見たい。

あなたの視点でこれはどう見えるのですか?

あたなの心眼(ビジョン)を私にください。。。


何度も何度も頼んだが、苦しみは一向に消えることはなかった。


寝ることもままならず、そのまま布団を上げて起きた。

カーテンを開けている時ふと思った。

そうだ。私は恐れている。恐れの中にいる。


恐れは、選ばないことができる。。。

それはここのところ何度か体験してきたことだった。


怒りも、悲しみも、イライラも、元は恐れている心からくる。

それらの感情が浮かぶと、その原因である、「そう感じさせる現象」を変えようとする。

簡単に変わるものがあればいいが、ほとんどは簡単にはいかない。


しかし本当の原因は、外にあるものではなく、私たちの心の中にある。



じっと静かにして、私はこの恐れを選ばないと言った。

私は、この恐れを選ばない。

私は、この恐れを選ばない。


心の中に目に見えない光がだんだん入ってくる。

心がどんどん軽くなってくる。

真っ白になった私の心には、あの恐れが消えていた。

聖霊の視点とはこういうことなのだろうか。


母のことをどうしようかと延々と考えていたことが、

まるで最初から何も問題はなかったかのようになっていた。





心の中に、自我が発信する放送局がある。

その放送局は絶えず恐れの曲を流してくる。


罪を感じさせるパンク、怒りを感じさせるヘビメタ、悲しみを誘う演歌、惨めな気持ちになるサンバ、恨み節、嫉妬ジャズ、自己憐憫オペラ、最後はベートーベンで頂点に達する。ジャジャジャジャーン!


私たちはその恐れを助長させる曲にまんまと乗ってしまう。そして自分の大問題を思い出してしまったかのように慌てふためき、どうにかしてこの恐れを取り除かねば!と行動に出る。


だが本当はそれは単に自我が流していた曲を聴いただけだ。

内側から聞こえるから自分の声だと思うし、内側から聞こえるから自分の味方だと信じてきた。


でもそれは自分の声ではなかった。

むしろ自分を罪の意識に苛まれる方向、破壊する方向に向かわせる声。



自分の声ではないのなら、選択ができる。


聖霊という愛の思いを選ぶのか。

自我という恐れの思いを選ぶのか。


今そこに恐れがあるのなら、

それを選ばないという選択ができる。




絵:「夜明け前」






2021年8月24日火曜日

安堵が湧き上がってくる


 

「はいっ!ではお仕事開始!」


と、パッと仕事モードに切り替わるはず、と長いこと思ってた。


ところがなかなか切り替わらない。

ふんむむむ~~~~と七転八倒している間に、

「ああ、私って才能ないんだわ」と落ち込む。

それでも納期が迫ってきて、

「えいやっ!」と無理やりやって終わらす。。。


そんなことを長年やってきて

「ああ。やっぱり私って能力ないんだわ。。。」

と自己嫌悪に陥ること60年!(もうええわ、そのフレーズ)


そもそもその考え自体(パッと切り替わるはず)が、間違っていたことに気がついた。





私は依頼仕事はパソコンで制作し、自分の作品は和紙を使って制作している。


例えば依頼仕事の内容が、イギリスの田舎町1920年代のミステリーの表紙だとする。

それまで日本の風景を和紙を切って貼る制作をしていた私が、

いきなり1920年代のイギリスの田舎町のイメージをし始めるのだ。


よく考えたら、パッと切り替わるわけないではないか。

それをパッと切り替わらない私は無能だとか言ってること自体がおこがましいのじゃ。



ってなことがわかって以来、じっくり時間をかけて取り組むようになった。


じと~~~っと、その世界に入っていく。

イギリス、田舎町、1920年代、人々の服装、街の雰囲気、

そこに現れてくるミステリーな匂い、、、云々。

その間、何もしていない。

はたから見たら、ボケーっと外を見ているだけだ。


とりあえずスケッチブックは机の上に出す。

だけど一本も線を引かない日もある。ただじーっとその中に浸る。

イメージがわかないときは、ググる。

散々その時代を見る。浸る。


今までは何も描けないことに無性に罪悪感を感じていたが、心の訓練のおかげで、そう自我が思わせてくる言葉に影響されないようになってきている。



和紙で制作に切り替える時もそうだ。

じーっとその世界に浸る。

緑の中に心を入れていく。その世界観の中で息をする。

ゆっくりと始める。止まる。始める。止まる。

ある時流れるように動き出す。

そうかと思うと、ふつっと、この先に進めない何かを感じ、途切れる時が来る。

そのときはやめ時。



依頼仕事、こっちは納期がある。

それでもふつっと途切れるときや一本も線が引けない時も、そのまま受け入れる。

それはどっちにしろ納品に間に合うことを経験上知っているからだ。


おかしな話だ。

全く自分の仕事に自信がないくせに、必ず終わらせられることはどこかで知っているのだから。




この頃、運命論を信じ始めている。


運命論を信じ始めると、恐ろしいことに自分の手柄が消えていくのだが(笑)。


どっちみち運命が決まっているなら、

その間に七転八倒して、そこに行き着くのがいいか、

平安でのんびりやって、そこに行き着くのがいいか。


是が非でもクライアントにオッケーを貰うために悪戦苦闘して、

あの手この手を考え尽くしてやるのか。

どっちみちオッケーが出るか出ないか決まっているなら、

抵抗せず、思いついたままにやるのがいいか。


心の疲労は前者の方が圧倒的。

だけどそれは何のためにやっている?誰のために?


苦労は買ってでもしろとか、

犠牲の上にやることの美徳とか、

楽にやったらバチが当たるとか。。


これらの声にずっとやられてきた私。

そのおかげでここまでこれたとか、うんぬんかんぬんはいくらでも言える。



でもこれまで通りの考えのままに進みたいとは思わなくなった。

必死で心労使っても、平安な心で進んでも、

結果は同じなら、私は後者を選びたい。


それに後者は、あるがままの自分を受け入れている。

前者は、あるがままを否定して、抵抗しながら行動をしている。



今の中にゆっくり浸る。


安堵が、湧き上がってくる。




絵:「夢をささやく」/和紙


2021年8月20日金曜日

赤いピルと青いピル

 


怖い。。。

体が一瞬ちぢこまって震えた。



。。。。この恐れ。

選ばないことができるのではないか?


ふとそう思った時、恐れがサーッと引いていった。


え。。。。?


恐れって、選ばないこともできるんだ。。

この体験は、私に大きなヒントを与えてくれた。




恐れは自我の世界への誘い。

「こっちこっち~。こっちですよ~」

と、警備員さんに誘導される瞬間だ。


今までは、へいへいと導かれるままにそっちに向かっていき、不幸のズンドコに入っていった。

そして荒れ狂い、苦悩し、蟻地獄に陥り、ズタボロになって生還する。

とゆーのが今までのあたし。


その恐れを誘導する声が自我の声だと分かり始め、

「そっちを選ばない!」とやり始めた。




自我は私ではない。

なぜならその声を聞いている側だからだ。

聞いているということは、自分の外にあるもの。

今蝉の声が聞こえるけれど、聞こえるからといって私ではない。

外に聞こえようが、内側に聞こえようが、聞こえるってことは対象物。自分ではない。


見るものも、匂うものも、触覚も、味覚も同じ。五感で感じるものは私ではない。

感情も思考もそう。




自我は裁く。

他人だろうが自分だろうが、誰でもいい。とにかく裁きまくる。

裁いて何を得るかというと、この世界を維持させるため。


裁くとは攻撃。攻撃は私たちが肉体だと信じている証し。肉体は死ぬ。肉体を信じている限り、恐れはつきまとう。その恐れを充満させて、この世界にどっぷり浸ってもらい、この世界を作り続けてもらうために。



私たちは人間電池。


映画マトリックスに出てくるような、あんな大仰な装置なんかいらない。

人間の恐れさえ作り出せればいい。それでこの仮想世界が維持できる。

でも私たちはエージェント(自我)のいいなりにはならない。奴隷じゃない。


青いピルは、恐れを選ぶこと。いつも通りの奴隷の世界に戻ること。

赤いピルは、真実を見ること。つまり愛を選ぶこと。


あの映画では真実と言われるのは、得体の知れない怪物に追い回されて、なんだか最悪の世界だったが、それはほれ、映画。色々面白おかしく作るわけだ。


真実はとてつもない光と喜びに包まれている。(映画にすると面白くないでしょ?笑)




あの時私は赤いピルを選んだ。


恐れはどうしようもなく、まとわりついてくるものではなく、選び直すことができるもの。


自我の声も、「それは私じゃない」と言って、ほったらかしにもできるということ。

まともに受け入れて、その声の誘導に惑わされないことができる。



自我の声は時間を存在させる。過去と未来にばかり心を持って行かせる。


自我を選ばない時、私はそこにいる。

今この時にいる。時間が消える瞬間。



外を裁く時、自分をも確実に裁いている。

外に向けた攻撃は、内にも同時に起こす。

自分自身に攻撃を仕掛けている。

その苦痛はさらなる裁きを生む。

こうやって延々と恐れの中で誰かを裁き続ける。

それがこのエージェントの世界。




私たちはつねにどちらかを選択している。


その選択によって、

今、見えている世界は、喜びに変わる。






絵:「日本霊異記」/新書表紙イラスト
この世には恐ろしい世界が潜んでいる。。。という洗脳の走り。



2021年8月16日月曜日

自我はささやく「これダメじゃん」


 

「これ、ダメじゃん」

「え?ダメ?じゃ、こっちは?」

「それもダメ」

「え~~。じゃあどうすればいいのよ~~~っ!」

「。。。。」



「あれ、言ったほうがいい。」

「あ。やっぱり?そうだよね。言った方がいいよね」

と納得して言う。

「あれは言わない方がよかった」

「え!言った方がいいって言ったじゃん!」

「そんなこと言ってない。君が勝手にそう思っただけだ」

「え~~~やっぱり~~~?あ~~~言わなきゃよかった~~~」



これ、私の心の中の会話。

これをずっと60年近くやってきた。


心の中の声だから、私の味方だと思ってきた。

でもよくよく振り返ってみると、この言葉は私を混乱させているだけだ。


これはダメだとか、こっちの方がいいとか、意見を言いながら、最終的な答えは出さない。

じつは答えなど、知らないのだ。




自我はこの世界のことはなんでも知っている風を装う。

だから思わず聴いてしまう。

「どう?いけてる?ダメ?」


大抵ダメ出しが入る。

じゃあどうすればいいのか?と聞くと、適当なことを言う。

その根拠を聞くと、これまた適当なことを言う。

そのうちわけわかんなくなると、君がいけないのだとのたまう。


そうやって自分の中で自分に聞く、自分の中の声と話すと言う習慣をずっと続けてきた。




でもこれが苦しみの根源なんじゃないかと気づき、私はこの声を疑い始めた。


淡々と観察していると、ほとんどの内容が否定。


私の容姿についての問題点、能力についての問題点、行動についての問題点、考え方についての問題点、もちろん感情についての問題点。

視点は外にも向かう。他人の問題点、社会の問題点、問題点、問題点、問題点、問題点。。。。


問題があればそれを放っていくわけにはいかない。

それを解決するべく、解決法を一緒に考える。

これがいいかしら、それはダメよね。でもあの手ならなんとかなる。。。。


声は意見を言うだけ。やるのは私。


ところがその声はやった先から文句を言いはじめる。

それはやっちゃいけないことだったのよ、うんぬんかんぬん。。。


これ、否定しかしてないじゃん!

この声が、私を長い間苦しめてきたのだ。





ちょうどその頃、私はもう一つの「声」の存在を知り始めた。

その声は今までの声とは違う、静かで音にもならない。

ただ一瞬のひらめきを与える。


そのひらめきにハッとする。

「そうだ!そうだった。今までなんで気がつかなかったんだろう!?」

心がぱあっと開くような感覚。

何かが解き放たれていくような自由な感じ。



だから余計に、今まで大騒ぎしてやり取りをしてきた声との違いがわかる。

大声で私を否定をしてくる声と、

静かに私を肯定し、さらに心を広げてくれる無言の声。



その声はこの世界の中での具体的な行動についてなど話さない。

なぜならこの世界を見てはいないからだ。

行動ではなく、ものの見方の方向転換をうながしてくる。


「そっちの考え方ではないよ。こっちの方。こう考えたらどうだろう。。」


うるさい声はいつも胸がザワザワとし、締め付けられるような感じがするのに、

それとは真反対の考えになぜか胸踊る。



それは本当は私はそっちに属しているからなのではないだろうか。

前者のうるさい声には教えられてきたが、

後者は元々の私がいたところ。


だから教わる必要はなく、思い出すところ。

すでに知っているもの。



今日も朝からトイレの問題が起こった。

それまで穏やかだった心は一気に反転する。

私はどれだけ目に見える形象にとらわれているのかを思い知らされる。


そこにまとわりついてくるありとあらゆる観念。。。

腐っていく床、電話、修理、過去の嫌な思い出、、、、。

自我はささやく「これダメじゃん」

噴き出す感情。



心の訓練は続く。。。




絵:「カブトムシとクワガタの最新科学」/新書表紙イラスト
縄張りをかけて戦う自我の戦い?



2021年8月12日木曜日

言葉をとっぱらうその後のその後

 


言葉がいろんな障壁を作って私たちを煩わすことを感じ取ってきたこの頃。


昨日の夜、言葉の渦の中で苦しくて目が覚めた。


最近、うちの町内会で年表を作る話が持ち上がった。

私は八王子郷土資料館などを回り、ここのところ、この地区の歴史に触れていた。


夢の中でうなされていたのは、その歴史年表。

頭の中に膨大な量の言葉が渦巻いて苦しくなった。


うわー。。。。この言葉の山をなんとか取り除かないと寝られない。。。。


ところが取り除こうとすればするほど、粘着力は激しくなり、ビッタリくっついて離れない。

その大きな荷物が容赦なく私に襲いかかる。


七転八倒している時、ふと思い出した。


そうだ。これ、私の言葉じゃない。

これは自我の言葉だ。自我の言葉は私の言葉ではない。。。


そう気がついた時、サーっと言葉の山が消えた。

さっきまでの息苦しさが跡形もなく消えていた。




言葉は、私の中から聞こえてくるので、「自分が出した/作った言葉だ」と信じている。

だからこそ、自分のものだから自分で消さなければと思っている。

しかしもしそれが自分が出した/作った言葉ではなかったとしたら?


その言葉の出所に気がついたなら、

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ってな話だな、これ。




自我の言葉は私の言葉ではないと気がつくということは、

自我を外から見ることができるということ。

それは私たちは自我そのものではないということだ。


その自我から離れた時、心が穏やかになる。静かで平安に戻る。

それが私たちの正体なのではないだろうか。





言葉はあらゆるところにある。

目の前のものにパソコンという言葉があり、左を見れば、山という言葉がある。


でも山もパソコンもその言葉がそれそのものではなく、仮につけられたもの。

それなのに私たちは「山」というと、ああ、アレだなとそれぞれが思い描く。

それぞれのイメージで納得した気になってる。


こういう風に、自分自身にも言葉というレッテルを貼ってる。

名前はもちろん、出身地、家族構成、生い立ち、やってきたこと、考えてきたこと、誕生日。

誕生日には12個に分かれた星座を当てはめ、

それぞれの性格を「うん。これは私の性格だ」などと納得をする。


さっきの山の話と同じ。

自分に仮につけられた言葉で、自分ってそういうもんだと信じている。



先日の素敵なおじさまから言葉をとっぱらったように、自分に貼った言葉も全部とっぱらってみた。

心の中で話す声さえも。


一瞬自分が消えた。


仮の言葉で覆われたものを消し、心の声を消したら、自分が消えたのであった(笑)。


自分が消えたのに、ここに何かがある。

この安堵感。

これこそが私たちの正体。


エックハルトトールが言ってた。

「概念的自己は重荷でしかありません」


まさにそれに頷ける出来事だった。





絵:「武将に学ぶ第二の人生」新書表紙イラスト

武将なんてさあ、思いっきり自我の塊だったんだろうね。
その中で、その無常観に気づいた人々は自我を滅却させていったんだろうなあ。