恐れは、それを選んでいる自分がいる。
そして恐れがやってきた時、それを選ばないという選択ができる。
明け方近く、不意に母のことを思いわずらい始めた。
施設で母はどうしているだろう。辛い思いをしているのではないか。母を施設に送った自分を呪う。しかし難病を抱えた母をこの家に迎えることもできない。どっちにも行けない苦しさ。罪の意識。この罪悪感はどうやっても取れないのだろうか。。。。
私の思考は今自我とともにいる。
苦悩は自我の思考がそこにあることを教えてくれている。自我の視点では解決できない。
こういう時は聖霊の視点で見せてくれるようお願いするしかない。
聖霊さん、あなたの見方でこれを見せてください。
あなたとともに見たい。
あなたの視点でこれはどう見えるのですか?
あたなの心眼(ビジョン)を私にください。。。
何度も何度も頼んだが、苦しみは一向に消えることはなかった。
寝ることもままならず、そのまま布団を上げて起きた。
カーテンを開けている時ふと思った。
そうだ。私は恐れている。恐れの中にいる。
恐れは、選ばないことができる。。。
それはここのところ何度か体験してきたことだった。
怒りも、悲しみも、イライラも、元は恐れている心からくる。
それらの感情が浮かぶと、その原因である、「そう感じさせる現象」を変えようとする。
簡単に変わるものがあればいいが、ほとんどは簡単にはいかない。
しかし本当の原因は、外にあるものではなく、私たちの心の中にある。
じっと静かにして、私はこの恐れを選ばないと言った。
私は、この恐れを選ばない。
私は、この恐れを選ばない。
心の中に目に見えない光がだんだん入ってくる。
心がどんどん軽くなってくる。
真っ白になった私の心には、あの恐れが消えていた。
聖霊の視点とはこういうことなのだろうか。
母のことをどうしようかと延々と考えていたことが、
まるで最初から何も問題はなかったかのようになっていた。
心の中に、自我が発信する放送局がある。
その放送局は絶えず恐れの曲を流してくる。
罪を感じさせるパンク、怒りを感じさせるヘビメタ、悲しみを誘う演歌、惨めな気持ちになるサンバ、恨み節、嫉妬ジャズ、自己憐憫オペラ、最後はベートーベンで頂点に達する。ジャジャジャジャーン!
私たちはその恐れを助長させる曲にまんまと乗ってしまう。そして自分の大問題を思い出してしまったかのように慌てふためき、どうにかしてこの恐れを取り除かねば!と行動に出る。
だが本当はそれは単に自我が流していた曲を聴いただけだ。
内側から聞こえるから自分の声だと思うし、内側から聞こえるから自分の味方だと信じてきた。
でもそれは自分の声ではなかった。
むしろ自分を罪の意識に苛まれる方向、破壊する方向に向かわせる声。
自分の声ではないのなら、選択ができる。
聖霊という愛の思いを選ぶのか。
自我という恐れの思いを選ぶのか。
今そこに恐れがあるのなら、
それを選ばないという選択ができる。
絵:「夜明け前」
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