怖い。。。
体が一瞬ちぢこまって震えた。
。。。。この恐れ。
選ばないことができるのではないか?
ふとそう思った時、恐れがサーッと引いていった。
え。。。。?
恐れって、選ばないこともできるんだ。。
この体験は、私に大きなヒントを与えてくれた。
恐れは自我の世界への誘い。
「こっちこっち~。こっちですよ~」
と、警備員さんに誘導される瞬間だ。
今までは、へいへいと導かれるままにそっちに向かっていき、不幸のズンドコに入っていった。
そして荒れ狂い、苦悩し、蟻地獄に陥り、ズタボロになって生還する。
とゆーのが今までのあたし。
その恐れを誘導する声が自我の声だと分かり始め、
「そっちを選ばない!」とやり始めた。
自我は私ではない。
なぜならその声を聞いている側だからだ。
聞いているということは、自分の外にあるもの。
今蝉の声が聞こえるけれど、聞こえるからといって私ではない。
外に聞こえようが、内側に聞こえようが、聞こえるってことは対象物。自分ではない。
見るものも、匂うものも、触覚も、味覚も同じ。五感で感じるものは私ではない。
感情も思考もそう。
自我は裁く。
他人だろうが自分だろうが、誰でもいい。とにかく裁きまくる。
裁いて何を得るかというと、この世界を維持させるため。
裁くとは攻撃。攻撃は私たちが肉体だと信じている証し。肉体は死ぬ。肉体を信じている限り、恐れはつきまとう。その恐れを充満させて、この世界にどっぷり浸ってもらい、この世界を作り続けてもらうために。
私たちは人間電池。
映画マトリックスに出てくるような、あんな大仰な装置なんかいらない。
人間の恐れさえ作り出せればいい。それでこの仮想世界が維持できる。
でも私たちはエージェント(自我)のいいなりにはならない。奴隷じゃない。
青いピルは、恐れを選ぶこと。いつも通りの奴隷の世界に戻ること。
赤いピルは、真実を見ること。つまり愛を選ぶこと。
あの映画では真実と言われるのは、得体の知れない怪物に追い回されて、なんだか最悪の世界だったが、それはほれ、映画。色々面白おかしく作るわけだ。
真実はとてつもない光と喜びに包まれている。(映画にすると面白くないでしょ?笑)
あの時私は赤いピルを選んだ。
恐れはどうしようもなく、まとわりついてくるものではなく、選び直すことができるもの。
自我の声も、「それは私じゃない」と言って、ほったらかしにもできるということ。
まともに受け入れて、その声の誘導に惑わされないことができる。
自我の声は時間を存在させる。過去と未来にばかり心を持って行かせる。
自我を選ばない時、私はそこにいる。
今この時にいる。時間が消える瞬間。
外を裁く時、自分をも確実に裁いている。
外に向けた攻撃は、内にも同時に起こす。
自分自身に攻撃を仕掛けている。
その苦痛はさらなる裁きを生む。
こうやって延々と恐れの中で誰かを裁き続ける。
それがこのエージェントの世界。
私たちはつねにどちらかを選択している。
その選択によって、
今、見えている世界は、喜びに変わる。
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