2015年3月31日火曜日

朽ちていく木の美しさ



梅の木が倒れて、その上をツル科の植物や草がおおいつくす。
そっと木肌に触れてみる。枯れた梅の木は、スポンジのように柔らかかった。

梅の木は死んで自らを新たな生命たちに明け渡している。何種類もの植物におおわれたその姿は美しい。緑色だけじゃなく、赤や黄色、薄紫。あらゆる色をまとって。

畑をやっていると植物があっという間に土に帰る姿を見る。それを見ると、植物は土でできているとおもう。ということは、それを食べる私たちも土でできている?豚だって、牛だって鳥だって、みんな植物を食べるじゃないか。やっぱりわたしたちは土でできている?無機質から有機質になり、その有機質は無機質に帰る。
じゃあなんでそこに生命が?

見えている世界の背後に、とんでもないものが存在している。それがわからないのは、ニンゲンだけなんじゃないか?それが見えないのも、ニンゲンだけなんじゃないか?
動物も草も虫もみんな知っている
「それ、あたりまえじゃ~ん」ってことが、
この地球上のニンゲン種だけが
「それって、なに?」
っていってるだけなんかも。


やまんばはそんな植物たちを絵にする。
枯れて落ちた枝を拾って絵にする。
ケヤキに絡み付いたツルの美しさを絵にする。
食べ残しの干し柿を絵にする。

5月の展覧会に出します。






2015年3月28日土曜日

満開の梅の木の下に座る優雅な人



裏高尾の一部の山が伐採されている。市のスギ花粉対策の一環だとのこと。スギはもちろん、ケヤキもすべて。間伐じゃなくて皆伐。大きなケヤキの木も気前よく切って、山の斜面に倒れている。

その伐採されたケヤキを近所の人がもらい受けて、薪ストーブの薪にするらしい。とにかくでかい。運ばれてきた時は、ここは材木屋か!?というぐらいすごい量だった。ご主人が専門家の人と毎週末チェーンソーで輪切りにして、それを斧で割る作業をずっとしている。

今日もいた。なかなか片付かないケヤキの山をながめて呆然としている。やまんばが挨拶しても気がつかない。
帰ろうとすると、
「あっ、ああ、ごめん、ごめん。気がつかなかった」
「いいんです。たいへんですもんね」

すぐ横に植わっている淡いピンクの梅の木が満開だった。
「梅、きれいですねえ」
「いや、きのうもね。作業で疲れ果てて梅の木の下に座ってたら、『優雅ですねえ~』っていうんだよ。こっちはそれどころじゃない。もうへとへとだよ」

確かにこの梅の木の下に座っている姿は優雅に見える。皮肉なものだ。座っている本人には、梅がきれいかなんて、ちっとも見えない。だけど第三者から見るその風景は、
「薪ストーブの薪割りをして、満開の梅の木の下でくつろぐ優雅な人」
にしか見えない。


このことばはやまんばをぎくりとさせた。

私たちは自分がいかに豊かな場所にいるのか気がつかない。
イヤなこと、疲れること、不快なことにすぐ目が行く。そうしてそれを振り払うことばかりに目を向ける。だけど人生はそんなつらいことばかりではない。
そもそも薪ストーブを造れる家があるし、材木を山ほど置ける庭があるし、美しい四季折々の季節の樹々が咲くし、山から材木をもらって来れる立場にあるし、専門家の方に手伝ってもらえる人徳がある。
外から見ることができれば、これほど豊かなことはない。
そしてそういうときほど違う視点で見れば、その辛い作業も違って味わうことができるんではないか。

やまんばにも色々辛いことがある。辛いことにばかりに目を向ければ、辛いものが大きくのしかかって来る。
しかしこの一件は私にヒントをくれた。
すでにもっているものに目を向ければ、足りないものなど、なんてことない「事実」だったのだ。ほんの少しの「問題」でしかなかった。

今もっているものは、途方もなく大きいものだ。その視点から見れば、すべてはうまく進んでいる。

それはさっき、薪を割るご主人の言葉を聞き、それにぎくりとする、ということまでも。



2015年3月25日水曜日

やまんば村ものがたり



「どこいくんでい」
「峠の途中の茶屋」
「コーヒーのみに行くんかい」
「うん」
「けっ、コーヒーなんか、うまかねえわい!」

これがやまんばの村のじじいとのいつもの会話。じじいはこれといった用もないので、家の前の道をあっちいったりこっちいったりしているだけ。村は一本道しかないから、必ずやまんばと出会う。


茶屋では、いつも同じメンバーが揃う。
いつも同じメンバーが、いつも同じ話で盛り上がる。

こなきじじいは、元気過ぎて休みの日も家でゴロゴロしてらんない。いつも新しいおもちゃを買ってきては、それをみんなにみせて話題に事欠かない。

するとぬらりひょんが、それについてテレビで聞きかじった豆知識を、その専門家のように話す。

そのやり取りを聞いていた茶屋のご主人が会話に加わる。
このふたりは子どもの時から互いに対抗心を燃やしている。ぬらりひょんが、ああいえば、必ずその反対のことを言う。するとぬらりひょんも負けじと言い返す。自分の意見に反対するヤツに同意するわけがない。すれちがったまま、時間が過ぎていく。

二杯目のコーヒーを飲み終えた頃、こなきじじいは、パチンコにいく。
ぬらりひょんは、砂かけばばあのお山にさんぽにいく。
やまんばは、畑に行く。

やまんば村の主人公たちは、いつも同じことをして遊ぶ。



2015年3月19日木曜日

春がやってきた






つい先日、畑のそばでうぐいすが鳴きはじめた。裏高尾に春がやってきた。
今梅が満開。あたりにいい匂いを漂わせている。今年は冬が長かったせいなのか、雨の感じがいいのか、梅もウグイスも同時にやってきた感じがある。

畑は何もかもサルの軍団に食い尽くされて、今頃でるはずのアブラナ科の菜の花がない。やまんばは、苦くてサルが手をつけてないルッコラの花芽をいただく。ゆがくと苦味もなくあっさりとおいしい。

先日買って畑に入れておいたレタスの苗は、先日の霜でみんな一晩でヤラレちまった。ちょっと早過ぎた。
とおもったら、日が出ると、顔がいたいくらい暑い。風が吹くとめちゃ寒い。
えらい極端な春だ。

それでも季節はジコジコと変化している。刻一刻と止まる事のない世界がこの三次元なんだろうなあ。


絵:「炎」

この絵のスケッチをしたとき、最初紙で切ろうと思って制作していた。でも途中から「これはデジタルの方がいいな。。」と思い返してコンピューターで作った。
作品によって、紙か、デジタルか、決めるのもおもしろい。デジタルはデジタルの良さ、アナログはアナログの良さがある。どっちも出そろったこの時代だから、どちらの良さも判るんじゃなかろうか。いい時代だ。

2015年3月14日土曜日

久しぶりに切り絵制作





ひさしぶりに紙を切っている。
ニューヨークで制作していた頃までは、ずっと色がついた紙ファンシーペーパーを切って貼ってしてイラストを作ってきた。だけど時代の流れとともに、デジタルが主流になり、私もデジタルの仕事が多くなった。日本に帰ってきてからは、紙の仕事はいっさいやめていた。

去年11月に大阪で個展を開かせてもらって、
「あ、久しぶりに東京で個展をやろう!」
と思った。それで5月に原宿で個展を開く事になった。

そしたら、なんだかきゅうに紙が切りたくなって、今展覧会のために紙を切って制作している。

むかしニューヨークのアートディレクターにいわれたことがある。
「人物のまつげの一本一本まで紙で切っている。つくし、あなたはクレイジーだ。」
前のような神業的な切り方はもうできない。老眼だし。
だけど今ぎこちない切り方をする自分がおもしろい。

そして自分に規律を作り、ストイックにファンシーペーパー一本でやってきたやり方を変えた。塗ったり、描いたり、ちぎったり、そして和紙を使ったり、色々挑戦している。いわゆる「よごし」を取り入れて、絵を作っている。絵に深みが出て来るのがおもしろい。
コンピューターを使い初めの頃、デジタルのなんとも手応えのない抽象的な制作に戸惑った。ああ、私は触覚の人間だったって気がついたんだ。あれから15年ぐらいたって、再び紙に戻ると、あらためて紙の可能性をかんじる。これはデジタルを経験したからこその感じ方じゃないかな。

そして何を描くでもなく、描く事の自由さを味わっているなあ。
仕事では、「○○を描いてください」という依頼のもとに、つねに「何か」を描かなければいけなかった。もう30年もそんなやり方をやっていると、制作する時は「何を描こうか」と考えてしまう。でもそれが自分にプレッシャーを与えて、なかなかやる気を出させなかったなあって気がついた。
だから、「何を描くか」ではなく、「何が出て来るか?」にまかせたんだ。


若さゆえの大胆さやいきおいは、54才の大胆さやいきおいに変わっている。

5月8日から13日まで、原宿の「ペーターズギャラリー」で個展やります。
近くなったら、案内を出しま〜す。


2015年3月10日火曜日

自我さんの「問題意識」



自我は不快を見つけてくる。

けさふとんから出るのをためらっている自分に気がつく。
「さむい。でるのヤダ」
心の中で色んな言い訳をする。まだ時間がある。もうちょっとふとんであったまっていたら、気温も上がってくるかも。。。などなど。
しかし10分やそこらで気温が上がるわけもない。

そう、この色々浮かんであーでもないこーでもないと延々とくっちゃべっているのが自我さん。こいつに四六時中ふりまわされる。
コタツのコンセントを入れる。「あ、電気代がかかる。。」とつぶやき、コタツを引きずって移動させると、「あ、そのうちガタが来る。。。」とつぶやき、鼻がむずむずすると、「あ、花粉症が。。。」とつぶやき、お湯を沸かすと「あ、ガス代がかかる。。。」とつぶやく。

こーして、一日中ぶつぶつ言う。
その内容たるや、不安にさせたり、不快にさせる言葉だらけだ。
不快の次は「それが問題なのだ」と畳み掛けてくる。次は「それをどのようにか解決せねばならない」と言いはじめる。その言葉を間に受けて、「ヤバい」「まずい」「しまった!」「どうしよう」「なんとかせねば」とそれに乗っかって、行動を起こす。

他人の言葉は疑うが、自分の中から聞こえた言葉は疑わない。それは自分のものだと思っているからだ。つまり行動のモチベーションのほとんどが、不安や不快がベースになっているわけさ。

自我さんのお仕事は、そーゆー不快なものを探して来るところにある。なんでかというと、快適なものは、あまり時間がかからない。「あ~気持ちいい」で終わる。それじゃ、自分の出番が少ない。
しかーし!不快なものは、持続力がある。

これは不快である。→問題である→解決方法を見つけなければならないのであーる!
だがこの自我さんがみつけてきた解決法なんて、そこらでかき集めてきたちょろい小手先でしかないから、その矛盾が、また別の問題をも持ち上げてきてしまう。そのうちカラダもおかしくなる。するとまたそれを不快として、問題提議をする。
こーして、えんえんと問題に取り組ませる事ができるのだ。自分をえんえんと頼りにしてもらえるってわけさ。
このっ、自我のあたまのよさ!

やまんばはそんな手にゃ乗らん。
「あ、そ」で聞き流す。後ろでぶつぶつ言ってるのを聞きながら、受け取りながら、乗らない。不快が全身に押し寄せるが、はねのけようとしたり、ふりはらったりしない。そのままにする。するとほどなくして静かになる。

花粉症もそうだ。
症状を感じてビクつき、どうにか対処しようと躍起になればなるほど、ますますどつぼにはまる。
だけど、感じたものをおおげさにとらえず、そのままにしておくと、山は過ぎ去っていく。

先日も目のかゆみが尋常でなくなって、受け入れようと躍起になっていたが、ますますひどくなるばかりだった。そこで集中するのをあきらめて、ネットサーフィンしはじめた。
するとどっかの政治家が、熟年どおしで、しかも不倫で、路チューしているとゆーではないか。
「おおっ、すげー!」
とかナントカもりあがっているうちに、かゆみがどっかに消えていた。

どーもその程度の問題意識のよーだ(笑)。



2015年3月8日日曜日

名前を呼ばれて「我にかえる」(笑)




人が自分を意識するのは、名前じゃないか?
こんな単純であたりまえなことに気がつかなかった。

「つくし!」と母に言われるたびに、ドキッとした。「つくしちゃん」と優しく言われるときであっても。

私はそのへんな名前のせいで、びくついているのだと思った。

だけどきっとみんな自分の名前を呼ばれるたびに、ドキッとするんではないか。
学校で、病院で、銀行で「すずきのりこさん(たとえばのなまえ)」と呼び出されるたびに、「はいっ!」と、カラダが硬直するんではなかろうか。それはずっと小さい時からよばれ続けてきた、ほかのだれでもない、あなただけの名前だからだ。

その名前で呼ばれるたびに、カラダがほんの少し硬直する。それはまさに、「自分」をカラダで実感する瞬間。「ここにいる!」と感じ、他のニンゲンと別々になる瞬間だ。


自然農法の福岡正信さんは、名前をつける事によって、すべてが分かれてしまったといった。自然界を「これは草です」「これはオオイヌノフグリです」「これはおしべです」「これは酸素です」と、いちいち名前をつけて呼んでしまったために、自然そのものが判らなくなったといった。

私も小さい頃、道ばたで這いつくばって、そこにいる色んな生き物たちをながめて過ごした。そのとき心は、私と虫、とか、私と花とか、私と土とか、わけへだても何もなかった。ただそれらと一体になって、ただ存在した。

だが後ろで「つくしちゃん!」とよばれた瞬間、「ハッ!」と我にかえって、人間界にもどっていった。

我にかえるとは、いいかえれば自我を思い出したことであり、人間ルールに戻っていく瞬間であり、「つくしちゃん」という役柄を演じる事を思い出すことだったのだ。

我にかえるって言葉、なんとな~く「いいこと」のよーにおもってたけど、自我に埋没する瞬間ってことだから、まあ、めんどくさいところに戻るという意味でもあるんだろーな(笑)。


2015年3月6日金曜日

この世は3次元パソコン?



思考は物質化する。
やまんばの大好きなテーマだけれど、なんとなくあいまいなものがあった。

きのう畑からの帰り、うっそうとした森の中を抜けるとき、
「ここでイノシシとであったらどうしよう。。。」
とふと不安になった。

思考が物質化するなら、そく目の前にイノシシが出てこなくてはいけない。しかしイノシシは出現しなかった。
神様はよくしてくれたもので、人間のアホな発想に、おいそれとは物質化してくれないもんなのだな、などとなんとなくしっくりこないものの、感謝しつつ森を抜けた。

引き寄せの法則では、「○○があるようにイメージする」とかあるらしいけど、何度も繰り返して考えなくてはならないらしい。それは物質化するのに時間がかかるのかもしれない。イノシシの例と同じなのか。


けさふっとおもったんだ。
きっとやまんばが「ここにイノシシ」と思った瞬間、それはすでにいるんじゃないだろうか。ただそれがやまんばには見えないだけだ。
その元になる素材というか、原型というか、なにかそこに生まれる準備のようなものが生まれつつあって、やまんばの意識がそれに集中すればするほど、まわりの空気の中に原型を作り始める。もっと集中すれば、それはやがてやまんばの目がとらえることのできる3次元の世界に現れてくる、というしくみだったりして。


ほら、パソコン上でうごくカーソルは、画面上を実際行き来しているわけじゃなくて、細かい点々が点滅して、移動しているように見えるだけじゃん。それとおなじように、画面上に「イノシシ」と意識すれば、一瞬イノシシの原型が「準備オッケー」とスタンバるのかもしれない。(ほんまかいな)


やまんばの「この身体」という意識は、かれこれ54年間に及ぶ。この意識が、やまんばのからだを出現、および維持させているのかもしれない。
ほんとは指のとなりの空気も、指の物質も、おなじ原子があつまっているだけなのだもの。カーソルのよーに点滅を繰り返して、「やまんばのからだ」があるようにみえているだけなのかもよ。

この世は巨大な立体的な3次元パソコンなのかもよ。ま、3次元の目で見ているから、3次元までしか見えないだけなんかもしれんが。
ほんとは3兆次元までもあるんかもしれんが。(えーかげんにしなさい)


2015年3月3日火曜日

才能は人の目を気にして消えていく



あるとても才能のある知り合いが、依頼仕事を受けて作品を作った。
しかしクライアントの意向がはっきりせずコロコロと意見が変わり、出来上がった作品は彼女らしさのないものになった。

クライアントは、彼女の大胆な発想の作品にひかれて依頼したはずだ。だが実際自分がお金を出すとなると、へんなものを作られては困る。なのであっちこっちのサンプルを出して来ては彼女に見せる。
いつのまにか、どうして彼女に頼んだのかが見えなくなっていた。

これは非常に難しいことだ。
イラストレーターなどは、必ず依頼されて作る。自分のもち味と相手側の要求をうまくブレンドさせて、プラス相手側の思う以上のものを提出しなければいけない。やまんばもいつも彼女のような葛藤を抱きつつ作って来た。


みんなそれぞれに才能を持っている。自分がまだ知らない隠れた才能は山のようにある。けれどもその才能は、人の目や評価を通している間に、消えていってしまう。一瞬の瞬きは、本人が「お金をもらっているから、まちがいがあっちゃいけない」とか「お金を払っているのだから、まちがってもらっちゃこまる」というお金を通すことによって、ゆがんでくる。もしこの世にお金というルールがなかったら、もっとそれぞれが豊かに信頼をもって依頼し、依頼され、その才能は存分に発揮されるのではないだろうか。


「人の目」を気にすることによって、私たちは自分自身を小さくさせている。それはわたしも日々身につまされる。好き勝手にやっているようにみえるだろうけど、じつは気の小さいやまんばなのだ。

その気の小ささのせいで、みんな自分に思いっきり制限をかけている。
冒頭の彼女もまた評価や人目を気にして苦しんでいる。

でも作品を作る人間は、どこか大胆でふてぶてしい部分を持っていないといけない。だっていつの世もそれまでの価値観を変えて来たのは、そういう前例主義を壊して来たものたちなのだもの。彼女の作品はその常識をすでに打ち破っている。

自分自身への制限は、心の声を聞き流す術を覚えることで解け始める。