人が自分を意識するのは、名前じゃないか?
こんな単純であたりまえなことに気がつかなかった。
「つくし!」と母に言われるたびに、ドキッとした。「つくしちゃん」と優しく言われるときであっても。
私はそのへんな名前のせいで、びくついているのだと思った。
だけどきっとみんな自分の名前を呼ばれるたびに、ドキッとするんではないか。
学校で、病院で、銀行で「すずきのりこさん(たとえばのなまえ)」と呼び出されるたびに、「はいっ!」と、カラダが硬直するんではなかろうか。それはずっと小さい時からよばれ続けてきた、ほかのだれでもない、あなただけの名前だからだ。
その名前で呼ばれるたびに、カラダがほんの少し硬直する。それはまさに、「自分」をカラダで実感する瞬間。「ここにいる!」と感じ、他のニンゲンと別々になる瞬間だ。
自然農法の福岡正信さんは、名前をつける事によって、すべてが分かれてしまったといった。自然界を「これは草です」「これはオオイヌノフグリです」「これはおしべです」「これは酸素です」と、いちいち名前をつけて呼んでしまったために、自然そのものが判らなくなったといった。
私も小さい頃、道ばたで這いつくばって、そこにいる色んな生き物たちをながめて過ごした。そのとき心は、私と虫、とか、私と花とか、私と土とか、わけへだても何もなかった。ただそれらと一体になって、ただ存在した。
だが後ろで「つくしちゃん!」とよばれた瞬間、「ハッ!」と我にかえって、人間界にもどっていった。
我にかえるとは、いいかえれば自我を思い出したことであり、人間ルールに戻っていく瞬間であり、「つくしちゃん」という役柄を演じる事を思い出すことだったのだ。
我にかえるって言葉、なんとな~く「いいこと」のよーにおもってたけど、自我に埋没する瞬間ってことだから、まあ、めんどくさいところに戻るという意味でもあるんだろーな(笑)。
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