2025年3月25日火曜日

満ちている透明な何か

「ゆらぎ」和紙、水彩

 

このところ忙しくてわらわらしている。

日常の中に没入すると苦しくなってくるので、

全体性を意識するようにしている。



昨日友達が遊びに来てくれていろいろ話をしていた。

「本当の私」はどこにいるんだろう?

って話になって、


私は空中を指さす。

「これなんじゃね?」


その指先にあるものは何もない空間。

空気という物質でもない何か。


その場みたいなものこそが「本当の私」なんじゃないかと。


見えるこの体の中にも、

人の体の中にも、目の前のグラスの中にも、机の中にも、

森の木の中にも浸透している何か。


まったく透明でしれっとそこにないかのように振舞っているが、

そもそもそれがない限り、この世界は現れてこない。


これを非二元的にいうと、「空(くう)」とかいうんかな。

空はスクリーンに例えられる。

白いスクリーンに映写機で映像を映すとスクリーン上に映像が映る。

その映像を私たちはこの世界と呼ぶ。

しかしそもそもその白いスクリーンがない限り、その映像は映らない。

だから本当の私たちは白いスクリーンだ。

これが非二元的に正しい解釈なのかどうかはわからん。(こらあ~っ)




今ここに偏在している、満ちている透明な何かが本当の私で、

そこに現れた人影やガラスや森の中に、

何を思ったのか、そこに入っちゃったのが、

今の個人の私なんではないかと思うのだ。


別に「つくし」という人影の中に入っても、

ソファの中に入ってもどっちでもいいのだ。

でもどうせなら動いて移動できる特定の一つの人影に入った。


その「つくし」というあらかじめ設定されている性質や性格の人影に

「本当の私」が入って、その本性をすっかりこんと忘れているだけなんじゃないか?


この目の前に見えているものは存在してなくて、

全く見えていないもの、それこそがリアルに存在しているものなのだ。


そう思った時、全ては全部ひっくり返っていると感じた。逆さまの世界。

あると思っているものがなくて、ないように見えているものがある。


まったくしれっと、ずっとそこにあった。

微動だにしない、不動の、不変の、とてつもないもの。


それを神と言ったり、空と言ったり、本質と言ったり、

大いなるものと言ったり、サムシンググレートと言ったり、、、、。

きっとあらゆる言葉で表現されているんだろう。


言葉の違いで論争するのは、

それを言った人が何を指しているかわからないから、

言葉に頼ってそうなっちゃうんかも。




ウグイスが鳴き出した。

そしてカジカの声がさっき聞こえた。


雨がしばらく降らず、川にずっと水がなかったけれど、

カジカはどこかで生きていた。


透明な「本当の私」の中で起こる出来事にくつろぐ。










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2025年3月17日月曜日

変な発見

 

「古の人」和紙、洋紙、チベット紙

変な発見をする。


あ、いやだな。。。

と、何かに対して反応すると、

目がかゆくなってかきはじめる自分に気がついた。

でも心が穏やかな時、かゆくないのだ。


花粉症歴40年の私は、

どんどん花粉症の症状が減ってきた。

毎年1月後半ぐらいからではじめるのに、

今年は3月初旬までは全く症状が出ていなかった。


お!このままいけるか!?と思いきや、

「花粉が爆飛びます」という天気予報を見つけるにつけ、

だんだん「その気」になってきた。

しかし忘れているときは全然楽だ。


そしてかゆくなる時と、

ならない時の心の状態の違いに気付きはじめる。


今、この文章を書いているときは、

花粉症のことを書いているので、なんかかゆい(笑)。

しかし苦しいほどではない。


ものすごくかゆくなる時、

大抵何かしらの問題を感じている時だ。


あ、あの用事をやらなきゃ。。。

あーめんどくさい。。。

「ゴシゴシ。。。あっ!かいちゃった!」みたいな。




心が全体性にある時、とても穏やかでいる。


それはこの世界のよしなしごとに気を取られていない時。

大きなお空や、お山や、お空の雲や、そよ風や、そこにある空気に心がある時、

ほわ~んとして、暖かで穏やか。

そんな時、体のことなんか忘れている。


だけど一瞬でもこの世のことに心が戻って、

「あれやんなきゃ」とか、「ああ、あのことをどうしたらいいんだろう~?」

って思い悩む時、なぜか心は体に引き戻される。

かゆい。くしゃみ。鼻水ズルズル。


「お前はカラダだぞ!そうだ!ここにあるカラダがお前だ!」と、

しっかりと「自分=カラダ」と体の症状を感じてお節介にも証明してくれる。


カラダという固形化されたものの中にぎゅーっと引っ張り込まれるわけだ。


体を忘れている時と、

体と一体化している感覚の違いをはっきり体験させられると、

自分はカラダじゃないんだとなんとなくわかってくる。


そして自分=カラダという信念が、いかに苦しいものだったかも知る。

こんな状態の中でずっと私はいたんだ。。。

よく今まで耐えられたよなあと、感心さえする(笑)。



罪悪感があるうちは、この世でどうにかしなきゃという思いに囚われ続ける。

でも少しずつ罪悪感が減っていくにしたがって、

こんな思いになってくる。


この世はどうにもできない。もうお手上げ。


あっ。。。わっかりませーん。


もう私にはどうにもできませーん。


神様にお任せします~。



これ、ほとんどバカなのだ。


だからバカボンのパパは偉大なのだ。








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2025年3月10日月曜日

わくっとすること

母の遺影があった一角。右の長い絵は橋本憲治氏の作品

 

お正月が終わって、母の遺影と位牌を片付けた。


美しい母の写真を毎日外に見ているのが、

なんだか不自然に思えてきたのだ。


母はもう私の中にいる

なのにどうして彼女を外に見ているのだろうと。


片付けた棚には彼女のお気に入りの私の作品を置いた。

置いたというか偶然そこに置かれて、

あとで「ああ、そうだったこれは彼女のお気に入りだった」と気がついたまで。


出来事はどうも必然で起こる。

だから起こるままに受け取ることにする。


あの絵を気に入ってくれている人がいて、

「お金が入ったら買いたい!」と言ってくれている。

その時はそれを受け取る。


起こることを起こるままにさせていく。

最近はそんな感じ。


今までは何かの考えがやってきても、

「いや、それは非常識だろう」とか

出来事が起こっても

「いやいや。そんなことがあってはいけない。どうにかやめさせなきゃ」

とか言って、起こってくる事を判断し、解釈し、批判し、

それに取り組む事をやり続けてきた。


これは抵抗、拒絶なのだった。


そうする事で、苦悩が生まれる。

そしてこの世界を重く実体のあるものとして作り上げ始める。


架空の常識に無意識に縛り付けられ、身動きが取れなくなっていた。





ふいに浮かんだアイディアが、

わくっとさせるものであれば、

架空の常識にとらわれるのをやめて、やってみる。


母の遺影もそうだった。

そのアイディアが湧いた時、

開放感があったのだ。

わくっとした。


そうやって自分の中のわくっをとらえる。

そしてその思うままにやってみる。

きっとそういうのも訓練だ。

自由になるための。




わくっとした時の開放感の後、

きっと架空の常識の思いが出てくる。


いやいや。いい歳してそんなことはできないだろうとか、

いやいや。そんなことしたら罰当たりだとか、

自我のささやきが出てくる。

事実、遺影を片付けた事を書いていいのだろうかという自我のささやきが聞こえる(笑)。



でも私は一番最初の感覚を信じることにする。


自我はいつも後出しジャンケン。文句タレ。脅し屋。




最初のわくっ!


それがすべてを教えてくれている。

こっちの方向に行けよと。







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2025年3月8日土曜日

好きに生きる

「木のダンス」和紙、洋紙

 

去年の暮れから通い始めた陶芸教室。

去年の春頃から始めたダンス教室。

どっちも難しい。どっちも腰やられる。だけどおもしろい。


上手いか下手かはだいぶ端っこに置いておいて、

おもしろいと思うことだけやろう。

路頭に迷ったら、誰かに助けてもらおう。

と、都合よく考えるようになった。


誰にも怒られはしない。

怒るのは誰や?エンマ様か?


死んだ後「お前、好きなことばっかりやってきたな。地獄行きだ!」

と、地獄に突き落とされるんだろうか。


しかし。

「俺、死んだら地獄に落とされた」

と言いに来た人は、今のところおらん。


そういう、小さい時から聞く昔話(うわさ話)を恐れて、

苦しくて努力がいることを選んできた。

苦しんでこそ美徳、みたいな。




人はどうも無意識に自分をいじめているのではないだろーか。


楽しい思いをすると、

「あ、今楽しんでしまった。。あとで何かしらの嫌なことが起こるに違いない」

「嫌なことがやってきた!ほーら、みろ!やっぱりだ!

だから言わんこっちゃない!

楽しんだりしたら、喜んだりしたらいけないんだ!」

と、光から影の方へコソコソと逃げ隠れる。。。

みたいなドラマを繰り返しているんだとしたら。


1、楽しんではいけない。

2、楽しんだらバチが当たるはずだ。

3、楽しんだ後は嫌なことが起こる。

4、だから楽しんではいけない。。。。


というループ。


これ単に信じていることを証明しているだけだったりして。

ほーら見ろ!私が言った通りじゃないか!と。


いやいや。信じていることをそのまま見ているだけじゃね?

渡る世間は鬼ばかりと思えば、

鬼ばっかり目についちゃうかもしれないじゃん。





なんでこうなるの?

どうして私の人生はいつもこうなの?


まずその被害者然とした思いを疑ってみる。

そうなるには理由がある。

自分が信じているものを疑うのだ。


ひょっとしたら、自分が自分をいじめているだけなのかもしんない。

自分は愛されるにふさわしくない!と信じて疑わないだけなのかもしんない。

惨めになっているのは、自分が惨めにさせているだけなのかもしんない。


そして何を隠そう、それを作り出しているのは自分なのかもしんないと。


愛されていいのだ。

自分を愛していいのだ。

楽しんでいいのだ。

楽していいのだ。

喜んでいいのだ。


バチは誰も与えない。

本当は自分が自分に与えていることに気がつくことなのだ。









追記:先月の展覧会の作品が、オンラインショップにて販売されています。

ご興味のある方は覗いてやってください。


和紙で制作した作品のオンラインショップができました

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