2020年7月30日木曜日

小さな出来事



「お昼ご飯は、、、あんまりいらないや。」


ダンナのこの一言に私は震え上がりました。

「いらないならいらないって、はっきり言ってよね!」

突き放すように反応する私。その日のお昼ご飯は用意しませんでした。


私はこの言葉が怖いのです。

普通は、それのどこが?と思われると思います。

私という個別の意識は、「私は拒絶された」と認識したのです。


人の反応は、その人が過去味わってきた経験から自動的に起こってきます。私の中にあるまだ癒されていないものが浮上し、それを光の下に差し出すためにそんな出来事が起こりました。


自分に対して起こる出来事は、すべて自分への気づきと、方向転換を誘ってきます。

「これはどう思う?

今までどう感じてきた?

それを今方向転換する気はある?」と。


自分がどういうことに、どう反応しているのかをはっきりと見ることは、正直言ってとてもきついものです。それでもそれを真正面から見ることによって、それが消えていくことを経験上知っています。今日はこれがきたのだなと、覚悟を決めます。




拒絶されること。私はこれが怖いのです。

過去のいじめられた経験と、家での厳しいしつけの記憶が浮上してくるからです。

私は自分のアイデンティティを汚いもの、劣っているもの、そして何気なく行為することさえも否定され殴られる存在。およそここにいてはいけない存在として自分への観念を作ってきました。


そういうわけで、自分がする行為、例えば食事を作ることにさえ恐れるのです。美味しくなかったらどうしよう、拒絶されたらどうしようと。当然、絵の制作にもその影響は大きくありました。


食事を作ることは、自分自身を裁判にかけることであり、有罪か無罪かが判定されます。拒絶されることは、有罪判決を受け取ることであり、それはまた自分の存在をも拒絶されているのだと、心底信じている私がいました。一緒に住んでいる人はたまったものではありません。自分の体の調子を正直に言っただけなのに、これほどの反応をされるとは。




「これを今方向転換する気はある?」

今までの考え方のままでいれば、今まで通りの反応しかできない。それとは真反対の考えを採用する気はあるか?と自分に問うのです。



私たちの思考は、ほとんど自我の思考体系の中にいます。

自我とは分離的な考え。自分と他人、善悪、二分された前提でものを捉えて考えます。


一方、自我とは違う思考の仕方があります。それがコースでいう、聖霊の思考体系。

自我は人間を互いに分離する方向に向かわせますが、聖霊のそれは、ひとつに向かわせます。互いが違うものとして分けていくのではなく、互いが同じものだということを思い出していくのです。

私がダンナに拒絶されたと思っているということは、自分と他人というはっきりとした分離があります。

その分離は、分離的な考えでは一つにはなれません。分離はどこまで行っても、分離のままです。


方向転換するとは、その自我の思考体系から、聖霊の思考体系へと転換させていくことなのです。

聖霊というと、天使が出てきそうだし宗教臭いですが、自分の本来の源の考え、と言い換えてもいいかもしれません。


この思考体系は、およそ私が考えつくものではありません。考えようとして思いつくものは、過去のもの。過去の考えをなぞることは自我の思考そのものであります。ということは、自分では考えられないものなのです。


問題に対する答えとは、自分で考えるというのが普通です。過去起こったことと照らし合わせて解釈し、分析するのです。どこまでいっても過去をお手本とします。だからそこで導き出された答えは妥協だったり、どこかすっきりとした感じがしません。

けれども聖霊の思考が不意に入ってきた時、そこには安堵と喜びがあります。考えもつかなかったことが不意に訪れます。「ああ、そうだったのか」と安堵するのです。そんな経験はみんないくらでもあると思います。インスピレーションのように沸き起こります。





さて、自我でものを見るのをやめて、聖霊とともにこの状況を見てみようと宣言します。

聖霊の思考に委ねるのです。

そして荒れ狂う心の中に入ります。


彼に拒絶されているわけじゃない。

私を嫌っているわけじゃない。

ただ食べたくないだけだ。

食べたくないのに無理矢理食べるのはつらい。

彼の立場になろう。

彼は私だ。私は彼と一緒だ。

彼の姿は私の影だ。

私は私が怖がっているものを見ている。。。

そうだ。見たがっている。


見て、「この世界は地獄だ」と思いたがっているのが自我だ。

見て、「この世界は実在していない」と気づかせてくれるのは聖霊だ。

あれは影だ。私の影だ。彼ではない。。。。


そう頭の中で言い聞かせました。小さな気づきはあるけれど、まだ苦しさは消えません。

ふと目の前にある、先日送られてきた絵本が目につきました。

まだ読んでいなかったお話を読みました。

お店をたたむご主人が、常連さんのお孫さんに、店の看板メニューのレシピを伝授していく心温まるお話。

読んだ後私は泣いていました。


そうだった。私は逆を見ていたんだ。

みんなは私の料理を美味しいと言ってくれる。

それが嬉しかったんだ。

昨日遊びに来てくれた友人も美味しいって食べてくれた。

私はそこを見ていなかった。

拒絶されたってことだけに心が向いていた。


それが自我だった。

自我はマイナスな要因だけに心を向けさせる。

拒絶さえなくせれば、私は幸せになれると。

だが拒絶が消えることがあるだろうか。

拒絶は見れば見るほど、それは大きく見えてくる。

見て、それを消すことなどできないのだ。

拒絶が消えることなどないのだ。

これが自我が仕掛けてくる無限ループ。

問題は見れば見るほど膨れ上がってくる。


私が見るべきところは、みんなが喜んでくれるところだ。

みんな私の料理を美味しいと言ってくれる。

私の作品を素晴らしいと言ってくれる。

どうしてまずい部分を、どうして下手くそな部分だけを見ていたのだろう。

それさえ消えれば完璧になれると思っていた。

それを見つめている限り、それが消えることはないのに。


私はみんなが幸せに思ってくれているところに注目していればいいんだ。

幸せは幸せを呼んでくる。

そこを大事に思えばいいのだった。



聖霊の思考は、いつも思いもよらなかったところに導いてくれています。

自我から見ている視点を、反対の方から見せてくれました。

目の前にある絵本を通して。

私は泣きながら、こころに思いつくみんなに感謝していました。





絵:森の気配



2020年7月23日木曜日

恐れを選ばない




私はある場所に向かうと、必ず恐れがやってきます。


過去に何度か嫌な思いをしたところ。それでもどうしても行かなければならないので、自分の心を見ながらそこに向かいます。




ほとんど無意識ですが、人は自分に罪を感じています。

何の罪かはわからないが、何となく、どことなく心が落ち着かない。

探れば「ああ、このことかな?いやひょっとしたらこのことかな?」と、思い当たる節はいくつかある。


罪があるということは、罰を与えなければ、その罪は消えないと信じています。世間的に罰せられなくとも、お天道様は見ている。いつか私はそのお天道様に罰せられるのだと。


嫌なことがあった時、人は「ああ!これか!」と、心のどこかが納得するのです。


私の罪が問われて、罰が与えられた。これで私の罪は帳消しにされるのだ。

どの罪かはわからないが、とにかくこの嫌なことを受け入れることで、私の罪は一つ消えたのだと。


しかししばらくするとまた嫌なことがやってきます。今度はどの罪に。。?

そうやって、何度も嫌な出来事が起こるたびに、罪が帳消しになっていく、、と考えるのかもしれません。

昔の人は言います。「苦労は買ってでもしろ」と。表向きの意味は違いますが、その奥には、別の意味が隠されているのかもしれません。


そしてその一番の刑罰の頂点は、

死ではないでしょうか。


私たちは死ぬことによって、この罪は償われる。

そう信じていてもおかしくはありません。


自殺もまた、自分が自分に与えた刑罰であり、そしてその罰を受け入れることによって、楽になると考えるからなのかもしれません。





電車の中で、自分の中にある恐れを見ながら、私は自分に罰を待ち望んでいることに気がつきました。怖いこと、嫌なことが起こることで、私の罪は帳消しにされると信じているのではないか。。


恐れは不意にやってきます。私はその恐れに乗っかっていました。

「そうだそうだ。早く罪を償って、楽になるのだ。。。」と。


これこそが自我が私に仕掛けてくる罠でした。

私には罪があり、その刑罰を受けねばならないと。


しかしこの世界は幻想ならば、どこに罪があるのでしょうか。

この世界が幻想ならば、どこに罪を犯した私がいるのでしょうか。


私には罪はありません。

だからその罰を受ける必要もないのです。


恐れは、罪を罪として見、そこに罰を与えるためにやってきます。

でもどこに罪があるのでしょうか。あの嫌なことはこの罪を帳消しにするために起こっているに違いないと、思い込んでいるだけなのではないでしょうか。勝手な解釈をして、自分を納得させようとしているだけです。「こんな嫌なことがあるのは、私のせいに違いない」と。


その時、私は恐れは選ぶことができるのだと知りました。

恐れは心の中で不意にやってきて、私を恐れさせますが、それを受け入れる必要はないのです。

恐れを選ぶこともできれば、選ばないこともできるのです。


私は恐れを選ぶことをやめました。

じっとして、静かにその思いを眺めていました。

よく見ればそこに恐れるものは何もなく、私はただ電車の中で揺られているだけだったのです。






恐れは、この世界がある。実在する。と思わせてきます。

自我は恐れを使っていつまでも私をこの世界にとどめさせようとします。


しかし私が本当にいるところは、この目の前に展開している世界ではなく、不変である神の中です。

自我も恐れも、神を畏れるがあまり私が生み出した幻想だったのです。


ということは、私がそれに影響されたいと思えばされるし、影響を与えないと心の底から思えれば、影響を受けない。


私の心は、恐れを選ばず、神を選ぶ。

私の仕事は、今も神の中で安堵している自己を思い出すことでした。



電車の中で、かすかに「にっ」と笑います。

私の中でアラレちゃんが現れました。


中央線の中で揺れに合わせて踊る私の姿が見えましたでしょうか。








2020年7月18日土曜日

「にっ」と笑う




私の頭の中に聞こえるあらゆる声をずっとみていると、自我がいかに私を脅してきているか、いかに都合のいいように言い換えて、矛盾を見せないようにしているかを知ります。

そういう自我の巧みな技に
「なるほど。こういうふうに自我にそそのかされて、私はこの世界をその視点から見ているのか。
なるほど。こういうふうに置き換えて、しらっと自分を被害者としてみて、嘆いているのか。」
などとわかってくるのです。

自我が仕組んでくるトリックに「すごい!」と感心して、
それを嬉々としてハレルヤさんに報告。
「それはニューエイジ 。そこで止まっていてはいけない」
「え?」
彼はあっさりと私の自我の分析発表を退けました。

ケン・ワプニック氏の講義にもそれははっきりと書いてありました。
自我を分析すれば確かに面白いが、それはどこかに到達しつつあるという幻想を抱かせつつも、私をどこへも到達させないように仕組まれていると。
コースは、頭脳に焦点を定めたものではない。知的に高度なレベルで書かれているので、理解するには頭が働かなくてはいけないが、それを超えていく心へと導かれていることに気づかなければいけない。
自我をいじくっている自分に気がついた。これをやっていてもどこにもいけない。

自我というものは実在していないのですが、それを真正面から見て、明るみに出さないことには、ずっとそれを温存することになります。明るみに出すだけでも心に抵抗があり、訓練を要しますが、厄介にも気をつけなければいけないのは、その自我狩りにいつの間にか夢中になってしまうこと。
ミイラ取りがミイラになる。それさえも自我の巧みな罠でした。

それを気づかせてくれたハレルヤさんに感謝しています。
コースは自学自習を前提としているけれど、いつの間にか自分で好きなところだけをチョイスして好きなように解釈するという自分流のやり方になってしまう恐れがあります。
彼には前にも私が徹底的に罪悪感を探っていって袋小路に陥った時、新たな視点を与えてくれました。



私たちは沈黙を恐れます。
沈黙の中に神の想念が入り込んでくることを恐れている。
だからそこへ自分の考えを入れ込んで、神の想念を聞かないことにするのです。
「私が考えて、私がしているんだから、あんた(神)は黙ってて!」と。

神の想念とはなんだろう?自我まみれの、自分流の考えの中でいる私たちにとっては何もわからない。
それは私たちの本質、自己、源、愛。

黙して大騒ぎする自我の声を通り越し、胸の奥にある静けさに到達します。
そこには音のしない平安が。じっと耳をすませると、ジーンとした何か振動のようなものがあります。

そこで私は「にっ」と笑います。
ドクタースランプのアラレちゃんのあの笑顔。
トトロに出てくる猫バスが笑うあの顔。(なんで全部アニメなのだ?)
とたんに喜びが噴き出してくる。待ってましたとばかりに嬉しくなってきます。

何のきっかけもない。ケーキもない。素敵なものが目の前にあるわけでもない。
何の条件も満たさないのに、喜びはやってくる。

喜びは、元々そこにあったのでした。

私たちの本質は喜び。その喜びを私は、苦しみや悲しみや絶望に置き換えていたのでした。
目の前で展開するかのように見えるものにいちいち判断をし、それを見て一喜一憂していたのでした。


雨が続く日々。

未来の憂いも過去の後悔もなく、

ただ雨の音を聞き、
雨に踊る小さな葉っぱたちを眺め、

心は喜びの雨に浸ります。



2020年7月7日火曜日

お化け屋敷に漏れる光



なんかね。
もう全部、自分がそう思い込もうとしてたんじゃないか?と思い始めてます。

「これは怒りです」
「これは不安です」
「これは悲しみです」

という風に、最初に自我が、そう決めて、
それを受け止めた心が「そうか。これが悲しみか」
と真に受けて、そう信じ込んで、それを採用してきた。
そんな気がしてきています。

この世界のことは、自分で解決しなきゃいけないと思ってきました。
そやけど、どこまでいっても絶対的な解決法などないとだんだんわかってきます。

元々は、「これが不安だ」「これが問題だ」
と心のどこかで聞こえた言葉に反応してただけでした。
「そうだそうだ。これが問題だ!」
そして
「なんとかして解決しなきゃ!」
と、行動を起こす画策を練る。

そうやって、この世界に巻き込まれていった自分がいました。




この世界は幻想だって、いくら口で言ってても、いざ「問題」を見つけられたら、
「解決」に向かって突き進む。
これ自体が、この世界は幻想ではなく、実在するものだと、完全に信じているっていう証拠になります。完全に自我の策略に乗っています(笑)。

そういう自分に気がつくことから始まります。
そしてそんな自分をゆるしていくことです。

出発点は心。原因は心。
外はその結果。
結果が目に見えているだけなのでした。

見たことに対する反応は、そのままでいいんでしょうか。それは絶対的でしょうか。
そもそもそれは怒りでしょうか。それに対する反応は、別の反応があるかもしれません。





私たちはことあるごとに、悲しもうとしたり、怖がろうとしたりします。
それがこの世界だからです。
この世界の醍醐味は、恐れを味わうことなのです。お化け屋敷

自分で作ったお化け屋敷を、自分で怖がり続けているのです。
自分で作ったことを忘れて、延々とそのお化け屋敷の中で、ほんのちょっとの飴のために、日々鞭打って、死ぬまで生きている。

私たちは生まれもしなければ、死にもしない、完全なる自己らしいのです。
私はそれを覚えてはいません。
だけどこの世界の大いなる矛盾には気がついています。子供だましのお化け屋敷に。




真っ暗な闇の中に、時々一瞬チラッと外の光が漏れます。
ほんの小さな穴から漏れる光でさえも、このお化け屋敷のチープなガラクタを、
興ざめするような仕掛けを垣間見せてくれるのです。

その掘っ建て小屋は巨大な光の中にある目に見えないほど極小の、
小さな点のようなもの。
その中で必死になって恐怖や問題をなんとかして解決しようと躍起になっている自分が見えます。

その時、私はそのお化け屋敷の中にはいません。
その姿を一体どこから見ているのでしょうか。

その時の自分はとても静かです。暖かい心でその姿を見守っています。



そのお化け屋敷の夢を見ている私が目を覚ますことを、
じっと待ってくれているのでしょう。








2020年7月2日木曜日

過去と未来




久しぶりにお天気です。

ベランダで洗濯物を干していて、クスッとしました。
これから用事があるわけでもないのに、私はあせって干していたのです。

「いつも母に急かされていたからな~~。早く!早く!って。。」
と、あせる自分の理由を母に求めました。

その後ふと、電車の中でスマホを見ている人々のことを思い出しました。

これから会議があるために資料を読んでいる人かもしれませんし、大事なニュースを読んでいるのかもしれません。それぞれに理由はあります。

そしてまた心はここにいることに苦痛を感じているから、それから逃れるために意識をそらしていることもあるのです。

意識は今ここにいることを嫌います。

私もまた、今ここで洗濯していることを無意識に嫌っていたのです。
だからあせって早くこの場を終わらせようとしていたのです。

電車の中の人々は、自身が今そこで電車に乗っていることを苦痛に感じているのかもしれません。その苦痛を軽減させるために、音楽を聴いたり、何かを見ることに夢中になって気をそらしているのかもしれません。


心は未来へ未来へ、次のことへ次のことへと向かいます。
その次のことをしている時もまた、その次のことに思いを巡らせています。
そして過去のことを思い出し、苦しんだりイライラしたり、
その苦しませてくる相手をどうやって対処しようかと、また未来の想定をしています。
その時、心は今にいません。

自我は、私たちを時間の世界に持っていきます。過去と未来へ。
今という時間は、過去から未来へと続く一瞬の通過点ぐらいにしか価値を置いていません。
だから今を退けようと、あの手この手で私たちの意識を過去と未来に釘付けにするのです。
なぜ今を嫌うのでしょうか。それが真実だということを気づかせないように。


けれども本当は今しかありません。いつでも今です。永遠の今です。
過去は頭の中の記憶に過ぎません。
未来も頭の中の空想に過ぎません。

恐れは過去からやってきます。
過去に見聞きした恐ろしい事件、恐ろしい話、恐ろしい経験。
そしてそれを元に未来を予測します。
こうならないように、ああなってはいけない、と。

そうやって頭の中を過去と未来を行ったり来たりさせ続けさせるのです。
その魅力にすっかり取り憑かれた私たち。

過去や未来に意識が行くと、心は縮んだ感じになり、
凝縮したひとつの肉体を持った私が、
たった一人でこの世界を必死で生き抜かねばならない戦士となってきます。


でも私は今、ベランダでシャツを干しています。
シワを伸ばして、パンパンと叩いて、ハンガーにていねいにかけるのです。
久しぶりのお日様が心地いいのです。
目の前の山で小鳥たちが歌っているのです。
川でカジカも鳴いています。

今にくつろぐと、今が浮かび上がってきます。今が満ちていきます。
明日になっても今です。三年後も今です。

今にいる私は、縮み上がった体ではなく、ただそこにあるものです。

リズミカルな電車の音と揺れを心地よく味わっている何かです。