2020年4月3日金曜日

夢を見ているもの





入学式の当日、ドキドキしなかった?

何もかもが新しく未知。知らないことばかり。
知らない先生、知らないクラスメイト、知らない教室、、、。

その時の心の置き場のなさ、不安な気持ち、ここがどこかわからないという心細さ。

そういう感覚が、朝起きた時、時々ある。
知ってはいるが、どこかよそ事。

それに気づいた時、「はっ!いかんいかん!ここに戻らなければ!」
と、ブルブルっと体を震わせて、この世界に戻る。
そうしていつもの感覚に戻り、今日何をやるのかを思い出す。


今朝もその感覚で起きた。
心細さから、いつもの感覚に戻ろうとした時、
「あれ?この感じ、小さい時なかった?」って思い出した。

全てが希薄で、ここに住んでいる感じがしなくて、ただ目の前に起こっていくことをそのままに眺めてる。。。。


これが「夢をみているもの」の視点だったんじゃないだろうか。
それがある時「ぼーっとするな!」という言葉とともに、
「夢を見ているもの」の位置から、「夢の主人公」になりきる。

私は自分が肉体に入った瞬間を感じたことがあるけど、それは恐れがきっかけだった。

この世界で生きるには、この肉体にちゃんと入ってないといけない。そうでなければこの世界を渡り歩いていけない!と思い、入りたい入りたいと思い続けた。そしてある日、ピタッと入った。それは私が「夢の中の主人公」になった瞬間であったのだ。

「この感じのままいてみよう。。。」
そう思って起きた。
しかし徐々にその感覚は消えていき、いつもの「ここにいる」感覚になった。




胸の奥にある喜びを発見してから、意図的にそれを意識するようになっている。
不快感を感じた時、気がつけば頭の中は言葉でいっぱい。そんな時こそ、胸の奥に焦点を合わせる。

その中は大きな空間が広がっている。
何もないそこには、何もない。
だけど何かがあった。
それが喜びだった。

それを教えてくれたのは、ハレルヤさんという謎の人物だった。
何年か前にチラッチラッとSNSでお見かけしていたが、そのうち見かけなくなった。そしてつい最近彼を「発見」した。去年からまた活動を始めたという。

彼が教えてくれる世界は、とてもじゃないが言葉で言い表せない。抽象の、そのまた抽象の世界を、私に畳み掛けるように教えてくる。
今まで具象の世界にのみ焦点を当ててきた絵描きの私。「抽象絵画など具象だ。抽象ではない」と言い放つ彼。具象こそがこの世界の特徴だったのだ。

彼は一見誰もが知っている言葉を使うが、使い方が全く違う。その意味不明な言葉の海に沈んでいきながら、徐々に海の底から浮上してくる何かを私は次第に捉え始めていた。

一般的に知識とは、言葉で書かれたものをそのまま読むだけでわかる。
しかし彼のそれは、体験しなければわからない。それが本当の「理解する」ということだった。

朝の「ここにいない体験」は、私に昔の心の状態を思い出させてくれてる。
そして胸の奥にある喜びは、
「そうだ。昔ずっと持っていたものだ!」と確信させてくる。


私たちはいつの間にか、目の前に見えるものを通して喜びを感じるようになっていった。だから人は幸せになろうとするとき、常に何かをしようとしたり、見ようとしたりする。しかしそれが消えればまた不幸せがやってくる。だから人はいつも何かをしようとしたり、場合によっては消そうとしたりする。これさえなくなれば私は幸せになれるはずだと。
これは先日の私のブログにも書いた。


しかし思い出したその喜びは、何も必要としない。
何も見ても見なくても、何をしてもしなくても、ただそこにあった。
幼い私はその喜びをいつも胸に抱えていた。その喜びとともにいた。

彼の言葉は私を罪悪感の檻から出させてくれた。
「開いてるよ、そのドア」
「へ?開いてるの?」
「見てごらんよ、開いてるじゃない」

よく見たら、檻さえなかった。
私がそこに檻があると信じ込んでいただけだったのだ。

裏高尾の満開の山桜が最後の美しさを見せようと、その花びらを舞い踊らせていた。

心が膨らんでいく。





絵:山桜/和紙




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