2016年1月17日日曜日

非二元の言葉のあやうさ



起こることが起こっている。
コントロールなど出来ない。
私はいない。
全体の表現でしかない。

非二元の言葉は、むずかしい。あまりに強烈なので、一気にその言葉に引きずられる。古くからある思想だったが、それはあえて奥義にされてきたようだ。

だがその言葉が一般的に知られるようになって来た。私もその言葉を聞いた時は「これだ!」とおもった。ついにここにきたか、と興奮を隠しきれなかった。しかしそれを知れば知るほど、それはおそろしいものだということに気がつきはじめる。

私たちは、「いい国作ろう鎌倉幕府=1192年(今は年代は違うらしいがw)」のように、その言葉さえ覚えておけばいいような記憶大事主義的な習慣があるから、非二元の言葉も、それを唱えていさえすれば、それを理解した気になってしまう傾向がある。

だがその中身を知るという事は、とてつもないことなのだ。その言葉は、今ここでしゃべっている言葉を使っている思考を越えた所にある。到底頭で考えつかない領域をあえて言葉に落としたものだ。

思考、つまり自我は非常にこうかつなので、その言葉は自我の領域でいかようにも「利用」してしまえるのだ。
つまりどんなことでも非二元の言葉で回避できるような気になるのだ。

自分が何か失敗しても、起こることが起こっているのだ。私はいない。それは全体の表現でしかない。と使える。
人に迷惑をかけてもその言葉は言い分けに出来る。

もちろんまわりはぽかんとするだろう。しかし本人はそれで満足できる。だって私はいないのだから。

その言葉がここまで「利用」されて来るには、現在の背景があるのではないだろうか。ありとあらゆる苦しさの中でもがき苦しみ、どうやってもうまく行かず、にっちもさっちもいかなかった時に、救いのように出会う言葉。私はいない。起こることが起こっているだけ。。。

私も含めて、スピ系の人々が一気にここになだれ込んで来るのは、くるしさからの突破口としての救いの言葉でもあったのだ。

しかしやがてそれも思考では「利用」出来ないことに気がつくだろう。

非二元の言葉は、本気で自分の中に入っていき、自分の思考と対面していくプロセスをへて、その思考のばかばかしさ、限界を知った先にあるものなのだろう。



2016年1月10日日曜日

心って見えないのよね〜、の巻




最近、人と内面のはなしをすることが増えた。
これがなかなかむずかしい。
何しろ外にちっとも見えないから、日頃どういう事を考えているのかわからない。

でもこれが物質的に見えている世界のはなしならわけもない。
「あ~ら、今日はいいお召し物を着てらっしゃるわねえ~。それ、どこでお買い求めになられたの?」
「あら~。ありがとー。これ、イトーヨーカドーで半額セールで買ったの!」
「まあ~っ!半額で!?とてもそんなふうに見えないわ~」
などと、いとも簡単にトーキングができるのであーる。

ところが、内面のはなしになると、
「あ~ら。今日はいいお考えを着てらっしゃるわね~え。それ、どこでお買い求めになられたの?」
「まあ。ありがとう。これはね。そこのイトーヨーカドーで半額セールで。。」
とはならない。(なるかー、ぼけ!)

服の好みは、眼に見えるからわかりやすい。
なるほどこの人は、山ガール系の服がお好きなんだなと見ると、山に関するはなしを持ち出したりできる。決してシャネルの服のはなしなどしてはいけないことがわかる。(シャネルの服ってどんなんかしらんけど)

だけど心の中の話になると、日頃どんなふうに者を考えているのかなーんてちっとも見えない。山の話がいーのか、シャネルの話がいーのか、じぇんじぇん取付けないのだ。

とっかかりも、きっかけも、どこをどー話していーやらわからないまま、心の中では
「なら話さなきゃ、いーじゃねーか!」
と、ひとりつっこみをしつつ、しどろもどろでバタバタとドタドタと話すやまんば。

すると予想に反して、相手は勝手に何かに気がついていたり、感じていたりしてくれていた。

先日もそんなことがあったな。
内面の話が好きな人だと知りながら、どこかぎくしゃくして、うまく話せなかった。だけど回を重ねるごとに、だんだん相手の「服」の好みが見えて来て話がらくに出来るようになり、とても楽しくなって来た。それは信頼によって、より膨らんでいくように見えた。

ある時、その人の美しさがちらっとかいま見えたとき、ドキッとする。
そうやって、だんだんその人を知っていくんだな~って、おもった。


絵:オリジナル切り絵「かえで」